世界探偵小説全集 第1期 

国書刊行会

◆四六変型・上製ジャケット装
◆月報つき
◆装丁=坂川栄治(坂川事務所)


1 薔薇荘にて
  A・E・W・メイスン

2 第二の銃声
  アントニイ・バークリー

3 Xに対する逮捕状
  フィリップ・マクドナルド

4 一角獣殺人事件
  カーター・ディクスン

5 愛は血を流して横たわる
   エドマンド・クリスピン

6 英国風の殺人 
   シリル・ヘアー
 見えない凶器 
  ジョン・ロード 
8 ロープとリングの事件 
  レオ・ブルース

9 天井の足跡 
  クレイトン・ロースン 

10 眠りをむさぼりすぎた男 
   クレイグ・ライス

第2期第3期第4期

◇舞台裏

※本体価格(税別)表示

探偵小説ファンの見果てぬ夢

山口雅也 

 
 子供の頃から、たびたび見る夢がある。

 その夢の中で、わたしは見知らぬ古本屋の薄暗い店内にいる。不意に書棚の一角が目に留まる。わたしは思わず息を飲む。そこにはハードカヴァーの豪華な探偵小説がずらりと並び、しかも、本の背にある題名は、どれも、いままでお目にかかったことがないものばかりではないか! ついに鉱脈にぶち当たった。ああ、ここは宝の山だ。パブロフの犬のように反応したわたしは、堪らずに書棚に手を伸ばす。

 ――そこで、目が醒める。そして、見果てぬ夢の幸福感が味気ない現実に徐々に蔽い尽くされていくのを、半睡状態の中で手をこまねいて見ているしかなかった……いつだって、そんなふうだった。

 しかし、今度の夢は醒めなかった。

 国書刊行会の世界探偵小説全集のラインナップを目にした時、わたしは、ひょっとして醒めない夢というものもあるのではないか、という奇妙な想いにとらわれていた。そこには、名のみ知られた未訳の名作、不完全な形で紹介されたまま埋もれてしまった幻の作品の題名がずらりと並んでいるではないか。まぎれもない、探偵小説ファンの見果てぬ夢が、そこにあったのだ。

 この全集には、ミステリの黄金時代と言われている1920〜30年代を中心にした幻の作品が集められている。とびきり不可思議な謎、巧みな筋立て【プロット】、名探偵の華麗な推理……ミステリとは探偵小説のことであり、探偵小説が最も探偵小説らしかった時代の作品が、ここに甦ったのである。

 ミステリが、ハイブリッド化、多様化の一途を辿る現代。しかし、そんな時代だからこそ、もう一度、ミステリの醍醐味とはなんだったのか、探偵小説らしい探偵小説とはどんなものだったのかということを見詰め直す必要があるだろう。本全集はその必要を十分満たしてくれる。――これは夢ではないのだ。
 


1.薔薇荘にて
 At the Villa Rose (1910)

A・E・W・メイスン 
富塚由美訳 解説=塚田よしと

1995年5月刊 2400円 [amazon] 

フランス、サヴォア県の保養地エクス・レ・バンで、宝石の収集家として知られる〈薔薇荘〉の女主人が惨殺された。室内は荒らされ、同居人の若い女性が姿を消していた。状況は一見明白に見えた。しかし、少女の恋人の求めに応じて立ち上がったパリ警視庁の名探偵アノーの活躍によって、事件は意外な展開を見せ始める。少女の秘められた過去、降霊会の実験、消えた自動車と足跡の謎。事件の夜、一体何が〈薔薇荘〉で起こったのか。素晴らしいプロットと人物造型の妙、古き良き時代のロマンの香り漂うメイスンの古典的名作。

A・E・W・メイスン(1865-1948)
イギリスの作家。演劇界から小説家に転身し、歴史小説、冒険小説、探偵小説など、幅広いジャンルで活躍。冒険小説の代表作 『四枚の羽根 (サハラに舞う羽根)』 (創元推理文庫)は絶大な人気を博し、何度も映画化されている。アノーを主人公とした 『薔薇荘にて』、『矢の家』 (創元推理文庫)は、長篇ミステリ黄金時代の幕開けを告げた傑作。

名探偵アノー初登場の作品。古典を集めたこの全集のラインナップの中でも、この作品は1910年刊と、一時代古い。第1次大戦前の本である。事件は全体の2/3くらいのところで解決し、残りの1/3は事件が起きる前にさかのぼって、実際に起こったことが、あらためて順を追って物語られる。コナン・ドイルの長篇『緋色の研究』『恐怖の谷』と同じような二部構成である。ガボリオをはじめとする19世紀の大衆小説に倣った行き方で、現代ミステリを読みなれた眼には古めかしく映るかもしれない。しかし、後半の物語もけっして退屈ではない。『四枚の羽根』で人気を博した物語作家メイスンの優れた手腕によって、事件の真のドラマが素晴らしい臨場感とともに再現されていく。「モダン」ではないが魅力的な作品である。ちなみに異才アントニイ・バークリーは『第二の銃声』の有名な序文で、この作品の構成に探偵小説の新たな方向性を見出しており、その後、犯罪を内側から描いた傑作を生みだしていく。

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2.第二の銃声
 The Second Shot (1930)

アントニイ・バークリー
西崎憲訳 解説=真田啓介

1994年11月刊 2330円 [amazon]
文庫化(創元推理文庫 2011)

探偵作家ジョン・ヒルヤードの邸で、作家たちを集めて行なわれた殺人劇の最中、被害者役の男が本物の死体となって発見された。殺されたのは名うてのプレイボーイ、パーティには彼の死を願う人物が揃っていた。事件の状況から窮地に立たされたピンカートン氏は、その嫌疑を晴らすため、友人ロジャー・シェリンガムに助けを求めた。現場付近で聞こえた二発の銃声をめぐって錯綜する証言、二転三転する論証の末にシェリンガムがたどりついた驚くべき真相とは? ミステリの可能性を追求しつづけたバークリーの、黄金時代探偵小説を代表する名作。「人間性の謎」に重きをおいた新しいミステリの方向性を提唱した序文でも有名。

アントニイ・バークリー (1893-1971)
イギリスの探偵作家。ユーモア作家として 「パンチ」 誌などで活躍した後、“?”名義で 『レイトン・コートの謎』(国書刊行会近刊)を発表。以後、バークリー名義で 『ウィッチフォード毒殺事件』 『ロジャー・シェリンガムとヴェインの謎』 『絹靴下殺人事件』(以上、晶文社近刊)、 『毒入りチョコレート事件』 『ピカデリーの殺人』 『試行錯誤』 (以上、創元推理文庫)、『地下室の殺人ジャンピング・ジェニイ』 (本全集) 他の独創性あふれる探偵小説、フランシス・アイルズ名義で 『殺意』 (創元推理文庫)、『被告の女性に関しては』 (晶文社) 等の事件関係者の心理に重きをおいた作品を発表。黄金時代ミステリの頂点を極めるとともに、以後のミステリの流れにも大きな影響を与えた。

バークリーは素晴らしく頭のいい作家で、『最後の一撃』 のなかで若き日のエラリイが、侮りがたい同業者の作品として (刊行されたばかりの) 『毒入りチョコレート事件』 を読んでいるのも、あながち社交辞令ではないはずだ。ただ、クイーンとは違って、バークリーのミステリには笑いがある。探偵小説が 「死」 を笑えという精神によるものならば、バークリーはその 「探偵小説」 もまた笑われるべきだと考えていたふしがある。イーヴリン・ウォーやオルダス・ハックスリーの小説を横に置くと、その雅な喜劇性がはっきりするように思うのだが。

→ロジャー・シェリンガム紹介
→バークリー作品リスト

『このミステリーがすごい!'96』第5位
『同'98』で実施された過去10年のベストでも第10位にランクイン。
『このミステリーがすごい!』 1988-2008ベスト・オブ・ベスト 第5位

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3.Xに対する逮捕状
 Warrant for X (1938) 

フィリップ・マクドナルド
好野理恵訳 解説=加瀬義雄

1994年12月刊 2600円[amazon] 品切

シェルドン・ギャレットはふと立ち寄った喫茶店で、二人連れの女の奇妙な会話の切れ端を耳にした。どこかで、何か恐ろしい犯罪が計画されているらしい。この雲をつかむような話を持ち込まれたゲスリン大佐は、わずかな手がかりをもとに推理と探索を積み重ね、知られざる犯罪者を一歩一歩追いつめていく。しかし、ゲスリンの懸命の努力を嘲笑うかのように、関係者は次々に姿を消し、あるいは殺され、やがてゲスリン自身にも魔の手が迫った。はたして彼は事件を未然に防ぐことが出来るのか。サスペンスに富んだ発端、中盤の論理的な展開と緊迫のクライマックス。エラリイ・クイーンら多くの評者が推奨した、幻の本格派マクドナルドの代表作。名探偵ゲスリン大佐のプロフィールを併録。

フィリップ・マクドナルド (1900-1981)
イギリスの作家、脚本家。趣向を凝らした構成や、論理性とフェアプレイを重んじたパズラー、サスペンスに優れた作風で、人気を集める。その他の邦訳に 『鑢』 『エイドリアン・メッセンジャーのリスト』 (以上、創元推理文庫)、『迷路』 (ハヤカワ・ミステリ)、『ライノクス殺人事件』 (六興出版部、絶版)などがある。スリラー的要素の強い『狂った殺人』(未訳)は、ジョン・ディクスン・カーの長篇ベスト10にも選ばれた。のちにハリウッドに渡り、映画界で活躍。『レベッカ』 の脚本や、SF映画の古典 『禁じられた惑星』 のノヴェライゼーションなどがある。ちなみに、祖父ジョージ・マクドナルドは、『ファンタステス』 (国書刊行会)で有名なファンタジー作家。

マクドナルドは映画界でも成功を収めているが、細かいシーンの積み重ねがサスペンスを盛り上げていくこの作品には、彼の映画的な感覚がよく出ているように思う。不特定多数の容疑者の中から、次第に犯人をしぼりこんでいく構成は、マクドナルドの得意としたところ。都筑道夫氏は、こうしたマクドナルドの行き方を、本格ミステリに犯人側のトリックは必ずしも必要ではない、解決にいたる論理の展開の興味があればいい、というモダン・ディテクティヴ・ストーリーの方向性にからめて論じている (『黄色い部屋はいかに改装されたか?』 晶文社)。

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4.一角獣殺人事件
 The Unicorn Murders (1935) 

カーター・ディクスン
田中潤司訳 解説=森英俊

1995年11月刊 2250円 [amazon] 品切
文庫化(創元推理文庫 2009)

「ライオンと一角獣が王位を狙って戦った――」 パリで休暇を楽しんでいた元英国情報部のケン・ブレイクは、謎の言葉と美女イヴリンにつられて、謎めいた冒険行に出発することになった。嵐の中、古城にたどり着いた一行を待っていたのは、正体不明の怪盗フラマンドの大胆不敵な犯行予告。それに対してフラマンドの逮捕を宣言した謎の男は、衆人環視のなか、悲鳴を上げながら階段を転げ落ちた。死体の額には、鋭い角のような物で突かれた痕があった。伝説の怪獣、一角獣の仕業なのか。フランスの古城を舞台に、稀代の怪盗、パリ警視庁の覆面探偵、ご存じH・Mが三つどもえの知恵比べを繰り広げる。

カーター・ディクスン (1906-1977)
本名ジョン・ディクスン・カー。アメリカ生まれの探偵作家。1930年 『夜歩く』 (創元推理文庫)でデビュー。以後、2つの名義をもちいて、密室殺人、人間消失、足跡のない殺人など、不可能興味満点の本格ミステリを次々に発表。生涯、謎とロマンを追い求めた偉大なるミステリ作家。代表作に 『三つの棺』 『火刑法廷』 『ユダの窓』 (以上、ハヤカワ・ミステリ文庫)、『魔女の隠れ家』『緑のカプセルの謎』(以上、創元推理文庫)、『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』(国書刊行会)など。本全集では中期の傑作『死が二人をわかつまで』 (カー名義、11巻)、『九人と死で十人だ』(26巻)を収録。

ケンが冒険行に巻き込まれるジョン・バカン風の冒頭から、舞台はそのまま謎の古城へ。読者をいきなり物語の核心にひっぱりこむカーのテクニックはいつもながら素晴らしい。とりわけファンタスティックな味の濃い作品だが、探偵小説的な趣向の面でも、全作品中、上位にくいこむ出来だと思う。

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5.愛は血を流して横たわる
  Love Lies Bleeding (1948)

エドマンド・クリスピン
滝口達也訳 解説=小林晋

1995年4月刊 2330円 [amazon] 品切
文庫化(創元推理文庫 2010)

美しい女子生徒の失踪、化学実験室の薬品盗難事件と、終業式を前にあいつぐ不祥事に、校長は頭を悩ませていた。しかし、終業式前夜、この学園の小さなミステリは、突如として教員の二重殺人事件へと発展した。来賓として居合わせたオックスフォード大学の名探偵ジャーヴァス・フェン教授は協力を請われ、さっそく現場へ急行、酸鼻な犯行に目を見張った。さらに翌日、郊外のあばら屋で第三の死体が発見され、事件はますます混迷の度を深めていく……。連続殺人、失踪、シェイクスピアの未発表原稿の謎と、息もつがせぬ展開の底に流れる不気味なユーモア、錯綜する推理と巧みなサスペンス。黄金時代直系の本格派クリスピンの代表作。

エドマンド・クリスピン (1921-1978)
イギリスの作家、作曲家。フェ
ン教授シリーズの邦訳に 『金蠅』 『消えた玩具屋』 『お楽しみの埋葬』(以上、早川書房)、『白鳥の歌』 『大聖堂は大騒ぎ』 (国書刊行会)『永久の別れのために』(原書房)がある。かつて 「ハイブラウな文学的ミステリ」 として不当に敬遠されてきた観のあるクリスピンだが、実は、不可思議な謎と魅力的な名探偵、誰でも楽しめる喜劇性に満ちた、J・D・カー直系、サービス満点のミステリ作家であることが、ようやく日本の読者にも明らかになってきたようだ。毎回、フェン教授が繰り広げるお約束のスラップスティックも楽しい。


クリスピンの登場人物はいつも生き生きとしているが、この作品では、とりわけ学園のちょっとおませな少年少女たちの活躍が微笑ましい。それから 「発作的に人を噛む癖のある」 おいぼれ犬メリソートを忘れてはならない。深夜の森で、最後の力をふりしぼって、殺人者に敢然と立ち向かう場面は感動的だ。

→クリスピン作品リスト

「このミステリーがすごい'96」第16位

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6.英国風の殺人
 An English Murder (1951)

シリル・ヘアー
佐藤弓生訳 解説=小林晋

1995年1月刊 2200円 [amazon]

「ウォーベック邸に神のご加護を!」 クリスマスを言祝ぎ、シャンパンを飲み干した青年は、次の瞬間その場に倒れ伏した……。雪に降り込められたカントリーハウス、一族を集めたクリスマス・パーティの夜、事件は起こった。病の床につく老貴族、ファシストの青年、左翼系の大蔵大臣、政治家の妻、伯爵令嬢、忠実な執事と野心家の娘──邸内には事件前から不穏な空気が漂っていた。地域を襲った大雪のため、周囲から孤立した状況で、古文書の調査で館に滞在していた歴史学者ボトウィンク博士は、この古典的英国風殺人事件に如何なる解決を見出すか。「クリスティーの最上作を思わせる傑作」 と評された、英国ミステリの正統をつぐシリル・ヘアーの代表作。

シリル・ヘアー (1900-1958)
イギリスの作家、法律家。判事としての公務の傍ら、9冊のいずれも高水準の長篇探偵小説を発表。法曹界での経験をいかした題材、機知に富んだユーモアと鋭い人間観察に特徴がある。邦訳に、40年代英国ミステリを代表する名作『法の悲劇』 (ハヤカワ・ミステリ文庫) をはじめ、『自殺じゃない!』 (本全集32)、『ただひと突きの……』 『風が吹く時』 (以上、ハヤカワ・ミステリ)
『いつ死んだのか』 (論創社) がある。


大雪のため周囲から隔絶された館。クリスマス・パーティの夜に起きた殺人。まるで絵に描いたような 「英国風の殺人」 だが、探偵役のボトウィンク博士は、大戦中はドイツで強制収容所も経験している外国人の歴史学者。英国の慣習に疎い余所者として扱われながら、このあまりにも 「英国風の殺人」 を解き明かすのは、異邦人の彼であった。英国ミステリの伝統を受け継ぎながら、たしかにこれは50年代の作品である。

→シリル・ヘアー作品リスト
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7.見えない凶器
  Invisible Weapons (1938)

ジョン・ロード
駒月雅子訳 解説=加瀬義雄

1996年6月刊 2400円 [amazon]

帰宅早々、予期せぬ伯父の来訪を知らされたソーンバラ医師は、洗面室に入った伯父に声をかけた。しかし、中からは返事がなく、ただならぬ気配に胸騒ぎを感じた医師が、居合わせていた警官と共にドアを破ると、伯父は頭部を打ち割られて倒れていた。室内に凶器らしき物はなく、一つしかない窓は環視の下にあった。犯人は如何にしてこの密室に出入りしたのか。また、如何なる凶器が用いられたのか。犯行手段が解明できないまま、事件は迷宮入りと見えたが……。冷徹に計算された完全犯罪に挑む、科学者探偵プリーストリー博士の名推理。

ジョン・ロード (1884-1964)
イギリスの探偵作家。マイルズ・バートン名義とあわせ、140冊以上の本格ミステリを刊行、幅広い人気を集めた巨匠。数学者探偵プリーストリー博士が活躍するシリーズは、純粋な探偵小説的興味のみで成り立っている。そのトリッキイで、論理性重視の作風は高く評価され、近年、英米でもリバイバル現象を起こしている。厖大な作品数に比して、邦訳は『プレード街の殺人』 (ハヤカワ・ミステリ)、『電話の声』 (東京創元社、絶版)、『ハーレー街の死』
(論創社) など、悲しいほど少ない。


謎とその解明、他には潔いくらい何もないロードのミステリは、まさに探偵小説そのもの。不足も余剰もない。「必要にして充分なことだけが書かれている探偵小説は、その他の要素だけで成り立つミステリがやたらと多い時代には、とても貴重だと思う」 という大村美根子氏のコメント (〈ミステリマガジン〉1996年2月号) には、まったく同感。

read→知られざる巨匠たち
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8.ロープとリングの事件
 Case with Ropes and Rings (1940)

レオ・ブルース
小林晋訳 解説=真田啓介

1995年3月刊 2300円 [amazon]

貴族の子弟を集めた面門パブリック・スクールで行なわれた、校内ボクシング選手権の翌朝、勝者の青年が首吊り死体となって発見された。警察の調査では自殺と見られていた。しかし、この判定に疑問を抱いたビーフ元巡査部長は、相棒タウンゼンドと共に、早速学校へと乗り込んだ。ところが、タウンゼンドの苛立ちをよそに、ビーフは捜査もそっちのけでパブ巡りや生徒相手のダーツの手ほどきに余念がない。調査が行き詰まりを見せたその時、ロンドンのスラム街でまったく同じ首吊り事件が……。ユーモアあふれる作風で人気を呼んだレオ・ブルースが、考え抜かれたプロットとミスディレクションによって演じてみせた驚くべきはなれわざ。

レオ・ブルース (1903-1979)
イギリスの作家、著述家。ボヘミアン的に世界各地を転々とした後、イギリスに戻って文筆生活に入り、探偵小説、旅行記、劇作、自伝など、120冊以上の多彩な著作活動を展開した。ビーフ物の邦訳に
『三人の名探偵のための事件』 『死体のない事件』 『結末のない事件』 (以上、新樹社)、学校教師キャロラス・ディーン物に 『死の扉』 (東京創元社、絶版)、『ジャックを絞首台に!』 (現代教養文庫)、『骨と髪』 (原書房)がある。マニアをも満足させる本格ミステリ・シリーズとして、近年再評価著しい。


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9.天井の足跡
 The Footprints on the Ceiling (1939)

クレイトン・ロースン
北見尚子訳 解説=森英俊

1995年8月刊 2450円 [amazon] 品切

「求む貸家、幽霊屋敷──」 奇怪な広告にロス・ハートは目を瞠った。どうやら背後には友人の奇術師グレイト・マーリニの手が動いているらしい。マーリニに誘われ、降霊会の調査のため、ニューヨーク沖に浮かぶスケルトン島へと向かった二人は、無人のはずの屋敷で女の死体を発見する。現場の天井には空中歩行を思わせる謎の足跡が残されていた……。孤立した状況下で次々に起こる怪事件、おりしも島には、霊媒、心霊学者、元ブローカー、発明家など、いずれも一癖ありそうな人物が揃っていた。幽霊屋敷、降霊会、毒殺、謎の放火、密室の死体、沈没船の宝探しと、めまぐるしい展開の難事件に挑む、奇術師探偵グレイト・マーリニの活躍。

クレイトン・ロースン (1906-1971)
アメリカの探偵作家、編集者。“世に不可能事なし” をモットーにする奇術師探偵グレイト・マーリニが活躍する
『帽子から飛び出した死』 (ハヤカワ・ミステリ文庫)、『天井の足跡』、『首のない女』 (東京創元社、絶版)、『棺のない死体』 (創元推理文庫)4長篇は、強烈な不可能興味とミスディレクションの巧みな応用によって、パズラーの一つの頂点を極めた。また、短篇 「天外消失」 は本格短篇のお手本のような傑作。EQMMの編集に長く携わり、クイーン、カーとの交友でも知られる。なお、“グレイト・マーリニ”は、マジシャンとして数々の新トリックを発案したロースンの舞台名でもある。

ロースンの長篇は、いろんなものを詰め込みすぎて、少々整理が悪い憾みがある。デビュー作 『帽子から飛び出した死』 なども、その傾向が強いが、この作品でも、次から次に怪事件が勃発し、読者には休む間もない。でも、そこが楽しいのだ。遊園地のアトラクションみたいに繰り出される華やかな趣向の数々。

名探偵紳士録

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10.眠りをむさぼりすぎた男
 The Man Who Slept All Day (1942)

クレイグ・ライス
森英俊訳 解説=久坂恭

1995年6月刊 2300円 [amazon]

快活な大金持ちのフランクと嫌われ者のジョージ、フォークナー兄弟の 〈驚異の館〉 レイヴンズムーアの週末パーティに招かれたマリリーは、翌朝、ジョージが寝室で喉をかき切られているのを発見した。そもそも、パーティの顔ぶれからして妙だった。敏腕の刑事弁護士、元コーラスガール、万事控えめな英国人夫婦、正体不明の小男、居合わせた人々はみな、ジョージに弱味を握られ、脅迫まがいの扱いを受けていたらしい。その証拠品を取り戻そうとして寝室に忍び込んだ面々は、ジョージを発見しては秘密の露見を恐れて、パーティが終わるまで口をつぐんでいようと決心する。交錯するそれぞれの思惑と、時間がたつにつれ高まるサスペンス。そして一日の終わりに一同を待っていたものは……。40年代アメリカ・ミステリ界最高の人気作家クレイグ・ライスが、マイクル・ヴェニング名義で発表した知られざる傑作。

クレイグ・ライス (1908-1957)
アメリカの作家。
『大はずれ殺人事件』 『大あたり殺人事件』 『素晴らしき犯罪』 (以上、ハヤカワ・ミステリ文庫)他の、酔いどれ弁護士J・J・マローンと、ジェイクとヘレンのジャスタス夫妻の魅力的なトリオが大活躍する、都会的で洒落たセンスのミステリ・シリーズで爆発的人気を獲得。他に『スイートホーム殺人事件』 (ハヤカワ・ミステリ文庫)、『七面鳥殺人事件』 (ハヤカワ・ミステリ)など。マイクル・ヴェニング名義の作品は、華やかな作風とは対照的に様々な曲折を経験したライスの実人生を反映してか、孤独の暗い影が落ちているように思われる。同名義作品の邦訳に 『もうひとりのぼくの殺人』 (原書房)がある。2001年、Jeffrey Marksによる評伝Who Was That Lady が刊行された。

「毎日いつも1時間、本気で地獄を信じたくなるのだった」 ―― 『素晴らしき犯罪』 (ハヤカワ文庫) の書き出しだが、たしかにこの一節は、中村真一郎氏が「バック・シート」 (『深夜の散歩』ハヤカワ文庫、所収) で指摘するように、「ライスの小説の全モチーフを象徴しているし、おそらく作者の人生観そのものを現わしている」 ような気がする。別名義で書かれたこの作品の暗いトーンと、ジャスタス夫妻の華やかな世界とは、表裏一体というか、地続きのものなのだろう。孤独な人間ばかりが集まったパーティだが、「地獄を信じる」 作者の、彼らを見る目は温かである。

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