国書刊行会 ◇舞台裏 ※本体価格(税別)表示 ![]() |
探偵小説ファンの見果てぬ夢 子供の頃から、たびたび見る夢がある。 その夢の中で、わたしは見知らぬ古本屋の薄暗い店内にいる。不意に書棚の一角が目に留まる。わたしは思わず息を飲む。そこにはハードカヴァーの豪華な探偵小説がずらりと並び、しかも、本の背にある題名は、どれも、いままでお目にかかったことがないものばかりではないか! ついに鉱脈にぶち当たった。ああ、ここは宝の山だ。パブロフの犬のように反応したわたしは、堪らずに書棚に手を伸ばす。 ――そこで、目が醒める。そして、見果てぬ夢の幸福感が味気ない現実に徐々に蔽い尽くされていくのを、半睡状態の中で手をこまねいて見ているしかなかった……いつだって、そんなふうだった。 しかし、今度の夢は醒めなかった。 国書刊行会の世界探偵小説全集のラインナップを目にした時、わたしは、ひょっとして醒めない夢というものもあるのではないか、という奇妙な想いにとらわれていた。そこには、名のみ知られた未訳の名作、不完全な形で紹介されたまま埋もれてしまった幻の作品の題名がずらりと並んでいるではないか。まぎれもない、探偵小説ファンの見果てぬ夢が、そこにあったのだ。 この全集には、ミステリの黄金時代と言われている1920〜30年代を中心にした幻の作品が集められている。とびきり不可思議な謎、巧みな筋立て【プロット】、名探偵の華麗な推理……ミステリとは探偵小説のことであり、探偵小説が最も探偵小説らしかった時代の作品が、ここに甦ったのである。 ミステリが、ハイブリッド化、多様化の一途を辿る現代。しかし、そんな時代だからこそ、もう一度、ミステリの醍醐味とはなんだったのか、探偵小説らしい探偵小説とはどんなものだったのかということを見詰め直す必要があるだろう。本全集はその必要を十分満たしてくれる。――これは夢ではないのだ。 |
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A・E・W・メイスン 1995年5月刊 2400円 [amazon] フランス、サヴォア県の保養地エクス・レ・バンで、宝石の収集家として知られる〈薔薇荘〉の女主人が惨殺された。室内は荒らされ、同居人の若い女性が姿を消していた。状況は一見明白に見えた。しかし、少女の恋人の求めに応じて立ち上がったパリ警視庁の名探偵アノーの活躍によって、事件は意外な展開を見せ始める。少女の秘められた過去、降霊会の実験、消えた自動車と足跡の謎。事件の夜、一体何が〈薔薇荘〉で起こったのか。素晴らしいプロットと人物造型の妙、古き良き時代のロマンの香り漂うメイスンの古典的名作。
名探偵アノー初登場の作品。古典を集めたこの全集のラインナップの中でも、この作品は1910年刊と、一時代古い。第1次大戦前の本である。事件は全体の2/3くらいのところで解決し、残りの1/3は事件が起きる前にさかのぼって、実際に起こったことが、あらためて順を追って物語られる。コナン・ドイルの長篇『緋色の研究』『恐怖の谷』と同じような二部構成である。ガボリオをはじめとする19世紀の大衆小説に倣った行き方で、現代ミステリを読みなれた眼には古めかしく映るかもしれない。しかし、後半の物語もけっして退屈ではない。『四枚の羽根』で人気を博した物語作家メイスンの優れた手腕によって、事件の真のドラマが素晴らしい臨場感とともに再現されていく。「モダン」ではないが魅力的な作品である。ちなみに異才アントニイ・バークリーは『第二の銃声』の有名な序文で、この作品の構成に探偵小説の新たな方向性を見出しており、その後、犯罪を内側から描いた傑作を生みだしていく。
アントニイ・バークリー 1994年11月刊 2330円 [amazon]
バークリーは素晴らしく頭のいい作家で、『最後の一撃』 のなかで若き日のエラリイが、侮りがたい同業者の作品として (刊行されたばかりの) 『毒入りチョコレート事件』 を読んでいるのも、あながち社交辞令ではないはずだ。ただ、クイーンとは違って、バークリーのミステリには笑いがある。探偵小説が 「死」 を笑えという精神によるものならば、バークリーはその 「探偵小説」 もまた笑われるべきだと考えていたふしがある。イーヴリン・ウォーやオルダス・ハックスリーの小説を横に置くと、その雅な喜劇性がはっきりするように思うのだが。 →ロジャー・シェリンガム紹介→バークリー作品リスト 『このミステリーがすごい!'96』第5位
フィリップ・マクドナルド 1994年12月刊 2600円[amazon] 品切 シェルドン・ギャレットはふと立ち寄った喫茶店で、二人連れの女の奇妙な会話の切れ端を耳にした。どこかで、何か恐ろしい犯罪が計画されているらしい。この雲をつかむような話を持ち込まれたゲスリン大佐は、わずかな手がかりをもとに推理と探索を積み重ね、知られざる犯罪者を一歩一歩追いつめていく。しかし、ゲスリンの懸命の努力を嘲笑うかのように、関係者は次々に姿を消し、あるいは殺され、やがてゲスリン自身にも魔の手が迫った。はたして彼は事件を未然に防ぐことが出来るのか。サスペンスに富んだ発端、中盤の論理的な展開と緊迫のクライマックス。エラリイ・クイーンら多くの評者が推奨した、幻の本格派マクドナルドの代表作。名探偵ゲスリン大佐のプロフィールを併録。
マクドナルドは映画界でも成功を収めているが、細かいシーンの積み重ねがサスペンスを盛り上げていくこの作品には、彼の映画的な感覚がよく出ているように思う。不特定多数の容疑者の中から、次第に犯人をしぼりこんでいく構成は、マクドナルドの得意としたところ。都筑道夫氏は、こうしたマクドナルドの行き方を、本格ミステリに犯人側のトリックは必ずしも必要ではない、解決にいたる論理の展開の興味があればいい、というモダン・ディテクティヴ・ストーリーの方向性にからめて論じている (『黄色い部屋はいかに改装されたか?』 晶文社)。
カーター・ディクスン 1995年11月刊 2250円 [amazon] 品切 「ライオンと一角獣が王位を狙って戦った――」 パリで休暇を楽しんでいた元英国情報部のケン・ブレイクは、謎の言葉と美女イヴリンにつられて、謎めいた冒険行に出発することになった。嵐の中、古城にたどり着いた一行を待っていたのは、正体不明の怪盗フラマンドの大胆不敵な犯行予告。それに対してフラマンドの逮捕を宣言した謎の男は、衆人環視のなか、悲鳴を上げながら階段を転げ落ちた。死体の額には、鋭い角のような物で突かれた痕があった。伝説の怪獣、一角獣の仕業なのか。フランスの古城を舞台に、稀代の怪盗、パリ警視庁の覆面探偵、ご存じH・Mが三つどもえの知恵比べを繰り広げる。
ケンが冒険行に巻き込まれるジョン・バカン風の冒頭から、舞台はそのまま謎の古城へ。読者をいきなり物語の核心にひっぱりこむカーのテクニックはいつもながら素晴らしい。とりわけファンタスティックな味の濃い作品だが、探偵小説的な趣向の面でも、全作品中、上位にくいこむ出来だと思う。
エドマンド・クリスピン 1995年4月刊 2330円 [amazon] 品切 美しい女子生徒の失踪、化学実験室の薬品盗難事件と、終業式を前にあいつぐ不祥事に、校長は頭を悩ませていた。しかし、終業式前夜、この学園の小さなミステリは、突如として教員の二重殺人事件へと発展した。来賓として居合わせたオックスフォード大学の名探偵ジャーヴァス・フェン教授は協力を請われ、さっそく現場へ急行、酸鼻な犯行に目を見張った。さらに翌日、郊外のあばら屋で第三の死体が発見され、事件はますます混迷の度を深めていく……。連続殺人、失踪、シェイクスピアの未発表原稿の謎と、息もつがせぬ展開の底に流れる不気味なユーモア、錯綜する推理と巧みなサスペンス。黄金時代直系の本格派クリスピンの代表作。
クリスピンの登場人物はいつも生き生きとしているが、この作品では、とりわけ学園のちょっとおませな少年少女たちの活躍が微笑ましい。それから 「発作的に人を噛む癖のある」 おいぼれ犬メリソートを忘れてはならない。深夜の森で、最後の力をふりしぼって、殺人者に敢然と立ち向かう場面は感動的だ。 →クリスピン作品リスト 「このミステリーがすごい'96」第16位
シリル・ヘアー 1995年1月刊 2200円 [amazon] 「ウォーベック邸に神のご加護を!」 クリスマスを言祝ぎ、シャンパンを飲み干した青年は、次の瞬間その場に倒れ伏した……。雪に降り込められたカントリーハウス、一族を集めたクリスマス・パーティの夜、事件は起こった。病の床につく老貴族、ファシストの青年、左翼系の大蔵大臣、政治家の妻、伯爵令嬢、忠実な執事と野心家の娘──邸内には事件前から不穏な空気が漂っていた。地域を襲った大雪のため、周囲から孤立した状況で、古文書の調査で館に滞在していた歴史学者ボトウィンク博士は、この古典的英国風殺人事件に如何なる解決を見出すか。「クリスティーの最上作を思わせる傑作」 と評された、英国ミステリの正統をつぐシリル・ヘアーの代表作。
大雪のため周囲から隔絶された館。クリスマス・パーティの夜に起きた殺人。まるで絵に描いたような 「英国風の殺人」 だが、探偵役のボトウィンク博士は、大戦中はドイツで強制収容所も経験している外国人の歴史学者。英国の慣習に疎い余所者として扱われながら、このあまりにも 「英国風の殺人」 を解き明かすのは、異邦人の彼であった。英国ミステリの伝統を受け継ぎながら、たしかにこれは50年代の作品である。 →シリル・ヘアー作品リスト TOP
ジョン・ロード 1996年6月刊 2400円 [amazon] 帰宅早々、予期せぬ伯父の来訪を知らされたソーンバラ医師は、洗面室に入った伯父に声をかけた。しかし、中からは返事がなく、ただならぬ気配に胸騒ぎを感じた医師が、居合わせていた警官と共にドアを破ると、伯父は頭部を打ち割られて倒れていた。室内に凶器らしき物はなく、一つしかない窓は環視の下にあった。犯人は如何にしてこの密室に出入りしたのか。また、如何なる凶器が用いられたのか。犯行手段が解明できないまま、事件は迷宮入りと見えたが……。冷徹に計算された完全犯罪に挑む、科学者探偵プリーストリー博士の名推理。
謎とその解明、他には潔いくらい何もないロードのミステリは、まさに探偵小説そのもの。不足も余剰もない。「必要にして充分なことだけが書かれている探偵小説は、その他の要素だけで成り立つミステリがやたらと多い時代には、とても貴重だと思う」 という大村美根子氏のコメント (〈ミステリマガジン〉1996年2月号) には、まったく同感。 read→知られざる巨匠たち TOP
レオ・ブルース 1995年3月刊 2300円 [amazon] 貴族の子弟を集めた面門パブリック・スクールで行なわれた、校内ボクシング選手権の翌朝、勝者の青年が首吊り死体となって発見された。警察の調査では自殺と見られていた。しかし、この判定に疑問を抱いたビーフ元巡査部長は、相棒タウンゼンドと共に、早速学校へと乗り込んだ。ところが、タウンゼンドの苛立ちをよそに、ビーフは捜査もそっちのけでパブ巡りや生徒相手のダーツの手ほどきに余念がない。調査が行き詰まりを見せたその時、ロンドンのスラム街でまったく同じ首吊り事件が……。ユーモアあふれる作風で人気を呼んだレオ・ブルースが、考え抜かれたプロットとミスディレクションによって演じてみせた驚くべきはなれわざ。
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クレイトン・ロースン 1995年8月刊 2450円 [amazon] 品切
ロースンの長篇は、いろんなものを詰め込みすぎて、少々整理が悪い憾みがある。デビュー作 『帽子から飛び出した死』 なども、その傾向が強いが、この作品でも、次から次に怪事件が勃発し、読者には休む間もない。でも、そこが楽しいのだ。遊園地のアトラクションみたいに繰り出される華やかな趣向の数々。 →名探偵紳士録
クレイグ・ライス 1995年6月刊 2300円 [amazon] 快活な大金持ちのフランクと嫌われ者のジョージ、フォークナー兄弟の 〈驚異の館〉 レイヴンズムーアの週末パーティに招かれたマリリーは、翌朝、ジョージが寝室で喉をかき切られているのを発見した。そもそも、パーティの顔ぶれからして妙だった。敏腕の刑事弁護士、元コーラスガール、万事控えめな英国人夫婦、正体不明の小男、居合わせた人々はみな、ジョージに弱味を握られ、脅迫まがいの扱いを受けていたらしい。その証拠品を取り戻そうとして寝室に忍び込んだ面々は、ジョージを発見しては秘密の露見を恐れて、パーティが終わるまで口をつぐんでいようと決心する。交錯するそれぞれの思惑と、時間がたつにつれ高まるサスペンス。そして一日の終わりに一同を待っていたものは……。40年代アメリカ・ミステリ界最高の人気作家クレイグ・ライスが、マイクル・ヴェニング名義で発表した知られざる傑作。
「毎日いつも1時間、本気で地獄を信じたくなるのだった」 ―― 『素晴らしき犯罪』 (ハヤカワ文庫) の書き出しだが、たしかにこの一節は、中村真一郎氏が「バック・シート」 (『深夜の散歩』ハヤカワ文庫、所収) で指摘するように、「ライスの小説の全モチーフを象徴しているし、おそらく作者の人生観そのものを現わしている」 ような気がする。別名義で書かれたこの作品の暗いトーンと、ジャスタス夫妻の華やかな世界とは、表裏一体というか、地続きのものなのだろう。孤独な人間ばかりが集まったパーティだが、「地獄を信じる」 作者の、彼らを見る目は温かである。 TOP |