更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2007年5月31日(木)
アニメギガ

先日NHKで放映された、アニメギガを観た。
ゲストは今 敏監督。インタビュアーの渡邊隆史氏との間で、面白いやりとりがあった。

−最近(FLASHアニメのように)一人でもアニメが作れるが、興味ないのか?
「一人で作るなら、マンガでいい。しかし、マンガは自分だけで考えるから自ずと限界があり、予定調和的になってしまう。アニメはあくまで集団作業で、自分では思いもつかないアイデアが出てくるのが良い。(引用者注:発言は大意。以下同じ)」
−でも、大勢で作ると妥協しなければならないところが出てくるのでは?
「別に、妥協が悪いこととは思っていない。皆の考えを折衷していって優れたものができれば、それでいいと思う。」

画面の隅々まで作り込み、全てをコントロールしているかのごとき作風からは想像もつかない発言。わからんものだ。

もうちょっと突っ込んでほしいところはあったが(マンガ家時代を紹介するなら大友克洋なり藤原カムイの影響を聞くとか、「パプリカ」のパレードシーンに触れるなら作画した三原三千夫氏の仕事を語るとか)、「アニメ的リアル」と「写実主義」の違いを聞き出すなど、なかなかの番組だった。なお、監督の次回作も既に始動しているらしい。

2007年5月27日(日)
紙芝居

高橋葉介の新刊「夜姫さま」を読んでいたら、後書きに面白いことが書いてあった。ちょっと長いが、全文引用する。

「私は日本の漫画は基が「紙芝居」だと思っています。(絵本ではなくて紙芝居としたのは、文学性をそれ程重視せず、ハッタリと演劇性に重きを置いた庶民の文化、大衆文化であるからです。)『決め』のポーズや『見せ場』が描かれた一枚絵を観客に見せながら、絵と絵の’間’つまり、絵として描かれていない部分を講釈するのが、’紙芝居屋のおっさん’の重要な演出部分なのですが、漫画はこれを実際に絵にして繋ぐわけです。つまり『説明部分の絵』→『見せ場の絵』→『説明部分の絵』→『見せ場の絵』これが連続するのが、日本の漫画や、アニメなのでありまして、欧米の漫画やアニメーションとの根本的な相違ではないかと思うのです。つまり、ディズニー・アニメの『動く』→『動く』→『動く』→『動く』→とにかく動きっぱなしで動く動画よりも、『動く』→『’決めのポーズもしくは’見せ場’の静止画』→『動く』→『’決めのポーズもしくは’見せ場’の静止画』の連続の方が日本人の生理には合っているのではないかと思うのです。」

動かさないアニメ表現が発達したのは、大元は動画枚数の節約のためだったわけだが、それが受け入れられたのは、日本人の快楽原則に合っていたからではないか、という視点には納得できる(少なくとも、鳥獣戯画が漫画の原点と言われるよりは)。かつてアニメが軽蔑的に電気紙芝居と呼ばれたのは、意外と正鵠を射ていたわけだ。
ついでに、最近の唐沢俊一先生が紙芝居の保存・復刻に熱心なのも、一脈通ずる気がする。

なお、「夜姫さま」は版画のようなタッチを取り入れた作品で、デビュー30年の超ベテランが、今なお技法の改善を怠らないのには、頭が下がる。

2007年5月22日(火)
サードシーズン開幕

というわけで、浜松からはるばる、オトナの財力と公務員のヒマさ加減にものを言わせて行って参りました。しかし、浜松の駅前って、夜7時を過ぎたらがっくりとバスの本数が減るのは誤算であった。

2007年5月21日(月)
ボックスアート展

静岡県立美術館で開催されていた「ボックスアート プラモデルパッケージ原画と戦後の日本文化」を観てきた。草薙駅に着いたら、ちょうどバスが出たところで、たいした距離でもないので歩くことにしたら、美術館は結構な山の上で、えらい目にあった。

ボックスアートを並べているだけとたかをくくって観に行ったのだが、戦前・戦中のイラスト文化までさかのぼって説き起こしていて、見応えのある展示会だった。
入場するといきなり、昭和7年少年倶楽部の付録の、ペーパークラフト空中戦艦(全幅70cm!)と、同じく戦艦三笠に圧倒される。
展示内容は、戦場を描いた絵はがき、紙芝居から戦争画まで及ぶ。初めて知ったのだが、紙芝居の歴史は意外と浅く、現在知られた形が成立したのは昭和5年頃なのだそうだ。驚いたのが、戦時中の国民学校で教材として作られていた、敵機識別訓練用の模型。国民学校の小国民たちは、授業の一部として、憎っくきB−29の模型を造っていたのである。関係者にとってはあまり思い出したくない過去、だと思うのだが、「これらが日本独特の造形文化の土台を築いたという見方は、あながち的外れではない」と、あくまで冷静に文脈を押さえていく展示姿勢に好感を持った。
戦後の一時期、ミリタリーものを禁止された模型業者が糊口をしのぐために作っていた筆箱やら鉛筆立ても展示されていて、涙を誘う。

そこまでの歴史を押さえておいて、ようやくボックスアート展示になる。
意外に思ったのが、ボックスアートというものがほとんど水彩で描かれていること。ごく一部にグワッシュがあるだけで、油彩は全然ない。ちょっと信じがたいが、高荷義之のあの濃厚な絵も水彩なのだ。たぶん、乾燥が速くて工程管理しやすいとか剥落しないといった理由だろうと思うが。

個人的に、アオシマのアトランジャーとアクロバンチが、タミヤのミリタリーミニチュアシリーズやガンダムと並んで堂々と展示してあるのがツボ。アクロバンチはパチモンじゃないんだけど、微妙さ加減ではいい勝負。本放送当時、毎回毎回世界各地の遺跡をぶっ壊すんでPTAが騒いだんですよ、覚えてますか?

この日の午後の部、翌日の部もイベントが目白押しだったんですが、その話はまた今度。

2007年5月16日(水)
週間ベースボール

今週号の週間ベースボールに、なんと、ひぐちアサのインタビューが掲載されていた。
もちろん、「おおきく振りかぶって」のヒットを受けてのことである。連載開始が’03年。前作の「ヤサシイワタシ」からの飛躍に、驚いた覚えがある。
このインタビューによると、ひぐちはもともと熱狂的な高校野球好きで、1年がかりで編集部を説得して実現させた企画だったのだそうである。驚いたのが、西浦高校にはモデルがあるということ(ファンの間では有名な話かもしれないが、私は初めて聞いた)。ひぐちが高3のとき、地元埼玉の全く無名のノーシード高が県大会を制し、甲子園でベスト4まで進んでしまったのである。当時、埼玉勢としては最高の成績だったとか。
インタビュー中では高校名は書いていないのだが、調べてみたらありました。

’88年の第70回大会。→ウィキペディアの記事

甲子園では、選手の平均身長も平均打率も出場校中最低でありながら、佐賀商業、常総学院、宇都宮学園、宇部商業といった音に聞こえた強豪を次々と撃破。常総学院は前年の準優勝校である。惜しくも準決勝で広島商業(この大会の優勝校)に敗れたが、一大旋風を巻き起こした。
それにしても、週間ベースボールのアンテナの感度には、時々感心する。



・・・え、朝岡実嶺の出身校なの!?

2007年5月15日(火)
「殺人の追憶」に追加

「殺人の追憶」を見直していたら一つ思いついたことがあったので、追加した。

2007年5月14日(月)
グレンラガン6話

バンクで浮かせた分の戦力を、アクションに投入したのかと思ったのだが、なにやら大人の都合でああいう構成になったらしい。とは言えアクション部分の出来は、いかにも今石監督作品らしくフルパワー。



中割りなしのオール原画だと思うんだけど、もはや人体の限界を無視しまくったデフォルメっぷり。

そうかと思うとこんな演出も。「細かい効果音に耳をすませてみよう」シリーズ第三弾。



このカットで、カミナの下半身に目が行ってしまったヨーコの「思わず生ツバゴックン」の音が入ってます。

2007年5月9日(水)
5月7日の日記について

「バベル」の日本語字幕について、「手話は仕方がないにしても、明らかな日本語にまで日本語字幕をつける必要はないんじゃないか」と書いたら、これは「難聴の障害者からの要望と運動の結果によるもの」という ご指摘を頂いた。
http://web-shake.jp/01/babel/

言われてみれば実にもっともな話で、無神経な物言いをしてしまったことを深く反省しております。

2007年5月8日(火)
グレンラガン

さすがに、ガイナックスが本気出してるだけのことはある。
いい加減、食傷気味のビキニ戦闘美女でもひと味違うのが、3話のここ。



スリングとチチの間に空間がある、という描写は、(少なくとも私は)初めて見た。こんな工夫一つで肉体の重みというものが・・・。

アホな話題だけではなんなので、5話からもう一つ。



クライマックスのカットだが、左下に注目。ちゃんと、主要登場人物を同一カットに納めている。論理的に正しいレイアウトである。しかしこういう場合、遠近法は無視してもいいんじゃないかという気はするが。

5話に関連して、たびたび引用して恐縮だが「サイコドクターあばれ旅」より、つい最近まで実在した人口制限法の実例。にわかに信じがたいが、わずか100年前まで、日本にもこんなことがあったのだ。
文化相対主義というのは、行き過ぎるとインドの花嫁殺しやら、アフリカの陰核切除の風習なんかを容認することにもなりかねないのだが、あまりに異質な価値観に出会ったとき、人間はこのエピソードのカミナのように、「俺にはさっぱり判らねえ」とつぶやいて立ち去るしかないのかもしれない。
4話の騒ぎの直後にこのエピソードが放映されたのは全くの偶然だとは思うが、何だか考えてしまうのである。



・・・え、6話ってもう総集編なの?

2007年5月7日(月)
バベル

菊池凛子のオスカーノミネートで話題の映画を観てきた。
一言で言うと、大変に分かり易い映画である。

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督は、「人々を隔てるものは、国境でも人種でも言語でもなく、心のうちにある」ことを訴えたくてこの映画をつくった、という趣旨の発言をしている。では、この映画は実際にそういう作品だろうか。
映画の舞台は大きくモロッコ、メキシコ、東京の3カ所であるが、それぞれに文化、国境、聾唖の3つの断絶が描かれる。とりわけ象徴的なのが東京パートの菊池凛子である。彼女は聾唖であるために、父親とも耳の聞こえる普通人ともコミュニケーションがうまく取れず、いらだちを募らせていく。彼女の主観映像のときは無音になる、というご丁寧な描写まである。では、仮に彼女の耳が聞こえたら、口がきけたら、彼女の抱える問題は解決されるのだろうか?
そうではあるまい。同じ言葉を語っていても、やはり伝わらないものがある。それが人の世の哀しい真理だろう。
この映画は、断絶を目に見える形で描いたばかりに、逆に本質から遠ざかってしまったように思える。分かり易いというのは、そういう意味である。ビリー・ボブ・ソーントンの「身近な物語こそが力を持つ」という言葉を思い出した。
比較するのもなんだが、たまたま地元で「秒速5センチメートル」を公開していたので、本作に続けて観た。「秒速5センチメートル」では、同じ国で同じ言葉をしゃべり、同じ学校に通い、同じ通学路を並んで歩いていながら、それでも想いは伝わらない。どっちが切実だろうか。

もう一つ、気になる点がある。この映画はブラッド・ピット、役所広司ら名の通った役者が多数出演しているが、もっとも印象深いのはモロッコパートの現地の人々である。実際に現地の素人を起用したのだという。だが、彼らの名は決して記憶されることはない。パンフレットには一応載っているが添え物扱いだし、公式HPには影も形もない。映画のプレミアで表に出るのも日米のキャストばかり。当然、ギャラにも天と地の開きがあるだろう。この映画は、作品の内容ではなくその在りようによって、富の偏在という現実をこの上なく雄弁に語ってしまったのであった。

一応公平を期すために書いておくと、一番の好演を見せたのは意外にもブラッド・ピット。異郷で思い通りにならず八つ当たりするアメリカ人観光客、という役を素のまんま(推測)で演じていて好感が持てる。

陰毛丸出しでオスカーノミネートの分かり易い菊池凛子は、撮影当時25歳の勘定だが、10代の体に見えるようウェイトコントロールしたという。ただでさえ西洋人の目には東洋人女性は若く見えるというから、オスカー選考委員にはたぶん小学生くらいにしか見えていないはずである。ロリ顔に美巨乳という彼女の演技は、まず間違いなくちょっと違う文脈で評価されていると思う。 菊池が、刑事を家に上げる場面があるが、もしかして全裸で誘惑するんじゃないかと思ったら、ホントにそのとおりの展開になって、あまりのストレートさにギャグかと思った。こういうところも分かり易い。もっとも、このシーンの刑事役・二階堂智の受けの演技は見事。どこかで見たと思ったら、「ラストサムライ」だった。

その他の雑感その1。
渋谷のクラブのシーンで、激しいライトの明滅があり、ポケモンコードに引っかかるんじゃないか?と思ったら、案の定で体調不良者が続出したとか。
その2。手話は仕方がないにしても、明らかな日本語にまで日本語字幕をつける必要はないんじゃないか。

最後に、「バベル」はバベルの塔の故事からきているが、実はバベルの塔は古代ペルシャの「ジッグラト」という高層建築の神殿が元になっており、その語源はペルシャ語の「バブ・イル(神々の住まう場所)」である。ヘブライ語の「バベル(乱す)」と同じ音なのは偶然の一致で、バベルの塔の物語は、後世のキリスト教徒による悪意に満ちた創作なのだそうで。(「ギャラリーフェイク」22巻所収「メソポタミアを統べる者」より)

2007年5月6日(日)
一年経ちました。

速いもので、本サイトを開設してから1年が経ちました。お引き立て頂いた皆様、ありがとうございます。どうか今後ともよろしく。

さて、GW中は実家にいたので、何本か東京で映画を観てきた。今日から何日かはそのネタで。

まずは「ストリングス 〜愛と絆の旅路〜」。行ってきました六本木ヒルズ。
全編マリオネットによる映画で、その造形と「演技」は前評判の通り圧巻。自分がマリオネットであることを自覚しているマリオネットの世界、という世界観がまず面白い。生まれるときは天から糸が伸びてくるし、自殺するには自分で頭の糸を切断する。当然建物には屋根という概念がなく、門は下から上へ閉まって、糸の移動を妨げる。牢屋は、天井が格子状になっているという凝りよう。
ストレートな英雄冒険譚に、表現技法と巧みにリンクしたストレートなメッセージ。

傑作・・・と言いたいところなのだが、ちょっと引っかかる点がある。(以下ネタバレ)
ラストシーンは主人公の妹の葬式の場面。この世界の葬式は、遺族が遺体の糸を断ち切り、遺体を船に乗せて海に流すのだが、悲しむ主人公を、その恋人が「彼女は真に自由になったのよ」と慰めるのである。ちょっと待て、糸から解き放たれて自由になるというなら、死なないかぎり真の自由は得られないということか?この映画は90分かけて、愛する者とつながっていることこそが幸福と訴えたんじゃなかったのか?自由と幸福はイコールではないのか?
・・・という具合に、最後の最後でひっくり返してしまっているのだ。原語では違うセリフなのかも、とも思ったが(公開版は日本語吹き替え)、何か納得いかないのだった。
ついでに、このシーンで妹のペットだった「飛べない鳥」(もちろんマリオネット)が、糸から解き放たれて飛び去る、という描写がある。こればかりは、CGかストップモーションアニメでないと表現できないと思うのだが、どうだろう。パンフにもこの点の解説はなかった。

だが、こんなのは些細な問題で、実はこの映画には、作品自体の責任ではない致命的な欠陥がある。
本編が終了し、エンドクレジットのあとに、日本語版スタッフのクレジットが流れ、さらにその後に、キャストそれぞれのコメントが写されるのである。
→公式HP参照 http://www.stringsweb.net/p/index.asp
これは明らかに、映画の一部という扱いであろう。
こんな愚にもつかないコメントなんぞ、映画観ればわかるし、解らせるのがおまえらの仕事だろうが。パンフに載っているのは読み飛ばせるし、予告編で見せられるのは我慢しよう。だが、なんで映画本編で、金払ってたかが役者風情に説教されなきゃならんのだ。

私はネット内での発言は十分慎重にしてきたつもりだが、この映画の「上映形態」には怒りを抑えられない。これからご覧になる方に忠告する。私は、エンドクレジットは最後まで見るのが礼儀と思っていたが、この映画については、日本語版スタッフロールが始まったらただちに席を立つべきである。

最後に蛇足。日本語版クレジットの文字はゴシック体なのだが、「庵野秀明」だけが明朝体になっているのには笑った。

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