更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2006年7月31日(月)
原作ものの映像化

「たけくまメモ」を読んでたら、「スク水」という言葉に反応してある時間からアクセスが急増した、とあった。そうか、スク水か!


ネット巡回してつらつら見るに、「創聖のアクエリオン」の
うつのみや理作画の回の賛否両論て、さぞかしすごかったらしい。私は当時はパソコンさえ持っていなかったから論争の存在も知らなかったが、「アクエリオン」の問題の回は「おお、うつのみや節炸裂!」と笑って観ていたので、まあ賛成派なのだろう。うつのみや氏といえば「エウレカセブン」の第2期OPも手がけていたが、「何もロボットの腕までぶらぶらさせなくてもいいのに」と思ったものだ。私とて、学生時代に「八犬伝 新章」の「例の回」を初めて観たときは、「なんじゃこりゃあ」と感じたクチだから、反対派の気持ちも解らないではない。不明にもアニメスタイルを読むまで、真価に気づかなかった。

まあ所詮は他人事だし、今さら何を言えるでもないのだが、ひとつ気になったことがある。「アニメーターによる作画の幅を許さない」狭量さの原因を、「原作からの逸脱を許さない」ファン(及び原作者)の心理に求め、なおかつその例証として「涼宮ハルヒの憂鬱」を挙げる意見があったことだ(正確にはそのアニメ化に際しての原作者インタビュー)。

私は、これには同意できない。以前に書いたとおり、「ハルヒ」は、本編に巧妙に番外編を織り込むことで、「ハルヒの成長」を描き、「アニメ版 涼宮ハルヒの憂鬱 全14話」という新しい形を提示して見せた。実際に「原作からの逸脱を許さない」圧力があったかどうかは知らないが、アニメ版のスタッフはそれをかいくぐり、表現者としての筋を通したのである。

もっと視点を広げてみれば、かつてのロボットアニメは「おもちゃとして売れるロボットを出せ」というスポンサーからの要請を逆手に取り、「ロボットさえ出せばあとは何をしてもいい」とあえて曲解することで、表現の幅を広げて見せた。ごく初期のエロアニメも同じだった。クリエーターが何らの制約もなく作品を作ると、ろくなものができないのは近年の御大とか、晩年の黒澤明を見ればすぐ解る。

話を原作ものに戻すと、原作との差異というのは、小説の映画化では必ずついて回る「古くて新しい話題」である。映画は、原作者と原作ファンの厳しい目にさらされ、イメージと違えば映画としての出来に関係なく酷評される。
代表がスティーブン・キングだ。キングのホラー小説の映画化は必ず失敗する、というのは有名な話である(「スタンド・バイ・ミー」「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」はホラーではないので例外)。キングの場合、より救われないのは、原作者に映画を観る目がないことである。
例外的に傑作といわれるキューブリック監督の「シャイニング」、デ・パルマ監督の「キャリー」いずれも、キング自身が酷評しているのだ。キングは勢い余って自分で監督までしているが、できあがったのは「地獄のデビルトラック」という、タイトルからしてB級感あふれる駄作だった。「シャイニング」のTV版というのも自分で監督しているが、お世辞にも褒められた出来ではないようだ。

要するに、小説には小説の、映画には映画の評価軸というものがあり、それは言葉を操るものと映像を操るものの、決して相容れない部分なのである。

2006年7月30日(日)
和製ホラー、というか怪談映画

「王と鳥」を観に行く。余裕を持って家を出たのだが、山手線の事故で手間取り、30分前についたら、初日の初回とあって立ち見間違いなしの長蛇の列。この分じゃしばらくは上映していそうだし、すっぱり諦めてラピュタ阿佐ヶ谷の「盛夏納涼和製ホラームービーコレクション」に計画変更。「王と鳥」とのギャップがありすぎ?私もそう思う。

本日のプログラムは、「怪猫呪いの沼」('68)と、「吸血髑髏船」('68)。
「怪猫呪いの沼」は、鍋島の猫騒動を下敷きにした怪談映画。里見浩太郎とか、若き日の菅原文太兄いが出ていて驚いた。東映だから考えてみれば当然か。
モノクロだし40年も前の映画だし、怖いと言うこともないが、造形のチープさを笑いに観る映画では決してない。
「吸血髑髏船」は、海賊に皆殺しにされた貨物船の船員が、吸血ミイラとなってよみがえり復讐する、というあまり深く考えてはいけない映画。西村晃やら岡田真澄やら小池朝雄やら、有名どころがぞろぞろ。主演の松岡きっこの長い睫毛と思い詰めた表情が印象深い。
両方ともDVDが出ているのが驚き。
この特集は8月いっぱい続くが、岸田森の吸血鬼で有名な東宝の吸血シリーズが予定されている。これは観ないと。
WOWWOWでは「吸血鬼ゴケミドロ」(’68)を予定しているし、ナニか、今年はこういう年か?

そういえば、ずっと以前にこの映画館で「緯度0大作戦」('69)を観た。作中登場する有翼獣グリフォンやら巨大ネズミやらが本当にぬいぐるみにしか見えないトホホな出来で、ジョセフ・コットンも岡田真澄も、こんな映画に出ていたことはきれいに忘れているんだろうな、と思ったが、先日発売されたDVDのオーディオ・コメンタリーによると、岡田真澄は本当に忘れているらしく、作品の内容と全くかみ合っていない珍妙なコメンタリーになっているそうである。

岡本太郎は近鉄バファローズのエンブレムどころか太陽の塔をデザインしたこともきれいさっぱり忘れていたと言うが、本当だろうか。

2006年7月29日(土)
もう一つ「時かけ」関連

時間旅行を扱った映画の異色作として、「ドニー・ダーコ」('98 米)を思い出した。
舞台は1988年、マサチューセッツ州の小さな町。社会生活への不適応から両親を悩ませる高校生、ドニー・ダーコの前に、ある晩、巨大なウサギが現れ、あと28日と6時間42分12秒で世界が終わると告げる。その日から、ドニーの周辺で奇妙な出来事が起こり始める。

あらすじを読んでも何がなんだか解らないと思うし、実際観ても解らない人は多いだろう。私も、結構な数の映画を観てきたつもりだが、類似する作品が一本たりと思い当たらない。もっとも、「主人公だけに見える巨大なウサギ」というモチーフは、「ハーヴェイ」('50 米)が元ネタではないか、とガース柳下先生が指摘しているが。
感触としては、デビッド・リンチの作品群、「ロスト・ハイウェイ」('97 米)とか「マルホランド・ドライブ」('01 米)に近いかもしれない。

ネタバレになるので詳しくは書かないが、「大切な人を救うために、命を賭して時間旅行に挑む少年の物語」と考えると、すんなりと理解できる映画である。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はもういいや、という人におすすめ。


ものは試しで、「ちょこっとSister」を観てみる。3分で、私には必要ない作品だと判明。以前から気になっているのが、声優さんの「息の演技」だ。「何かに気がついて息をのむ」という表現として、ほんとに息の音を入れる、という奴。これ、もうやらなくても今の観客は理解できると思うのだが。この演技をやらないだけで、3割増(当社比)でスマートな演出に見えるから、ぜひ試して欲しいものだ。
なお、EDの作画は面白かった。「NEKOMIMI MODE」じゃん、というのは、きっと言わないお約束なのだろう。

2006年7月27日(木)
大リーグのイカサマ野球

「時かけ」の記事に、先日の日記で触れた星野之宣、とり・みきの短編との関連を追加

佐山和夫氏の「大リーグが危ない」という本を読んだ。
著者は野球史の研究家であり、「なぜ野球は人を夢中にさせるのか」などの著書がある。これは野球のルーツをたどる本であり、「もともと野球の原形は女性のスポーツだった」とか、「ボールを投げる側が攻撃側だった」とか驚異の史実が述べられ、実に面白い本である。

近年の日本人選手の活躍で、大リーグもすっかり身近になった。しかし、標題に掲げた本は、マスコミが無邪気に大リーグを賞賛する様子を憂えて、大リーグの暗部を告発した本である。

最近ようやく問題視されるようになったステロイド疑惑ばかりではない。曰く、「サイン盗みは当たり前」、「ボールもバットも細工して使う」、「賭けゲームで八百長が横行」。

サインをのぞき見るために「テレビカメラに模した望遠鏡を設置する」、盗んだ球種を打者に伝えるために、「屋外広告の文字の棒を動かす」「外野スタンドの人形の目を動かす」。
1900年にはこんなすごい例があった。雨の日の試合で、3塁コーチがわざわざ水たまりの中に立っているのを不審に思った3塁手が、審判に要求して調べたところ、コーチの脚の下の地中から、何とモールス信号の信号機が出てきた。コードがバックスクリーンにつながっており、そこに潜んだサインを盗む係が、モールス信号で3塁コーチに伝える。3塁コーチは脚に伝わる振動で球種を知り、打者に伝えるというカラクリであった。

これは別の本で読んだ話だが、元西武の伊原春樹コーチは’92年の日本シリーズで、ヤクルト相手にトリックプレーを試みたことがある。ランナー2塁で、投手が牽制球を放る。捕球しようとした2塁手が「あっ」と声を上げてジャンプする。悪送球だと判断したランナーが3塁へ向かうと、実は牽制は偽投で、球は投手から3塁へ送られアウト、という寸法だ。2塁手のジャンプと声は、もちろん事前に練習した芝居である。実戦でも使ったが、ランナーの古田は、社会人時代に散々これに引っかかっていたので、乗ってこなかったという。

しかしこんなトリックプレーも、アメリカ野球にかかるともっと悪質だ。1塁へ投手が牽制球を投げる。1塁手が声を上げてジャンプする。帰塁したランナーが見ると、ベンチ脇のブルペンにいた控え選手たちがあわててボールをよけており、ファウルグラウンドをボールが転々としている。当然悪送球だと判断して、ランナーは2塁へ向かうが・・・。
実は、1塁手ばかりかブルペンの控え選手たちも事前に申し合わせており、悪送球に見えたボールは、タイミングを合わせて練習球を転がしているのだ。
これはもう、限りなく黒に近いグレーである。

私は、スポーツマンシップなんてキレイ事をこれっぽっちも信じていないが、それでもゲームはフェアでなければいけないとは思う。「勝利のために全力を尽くす」ことと、「勝利のためなら何をしてもいい」ということとは、天と地の開きがある。人一倍野球を愛している著者がこんな本を書かねばならなかった心情を思うと、こちらも胸が痛む。


WOWWOWの新作「イノセント・ヴィーナス」を観る。2分間のナレーションで世界設定を全部説明してくださる安っぽさに辟易。何から何まで紋切り型の描写に耐えられず、10分でやめた。

以前にも書いたが、不親切なまでにストイックな「シムーン」が実に志高く見える。しかし、15話まで群像劇的に進行してきたが、そろそろ落としどころというものを考えておかないとまずいのと違うか。
結局のところ、「アーエルとネヴィリルが性別を決定するか否か」がクライマックスにならざるを得ないと思うが。「科学と宗教の相克」みたいなテーマにまで色気を出して、大丈夫かな。
ときに、監督の西村純二って「風人物語」を手がけた人なのですな。「シムーン」のような美少女乱舞の作品を作っても全然媚びたところがないのは、ああいうキャラ萌えの対極にあるような作品を作っていたことと関係あるのかも、と思ったり。

2006年7月26日(水)
たまにはニュースネタ

ネタバレ全開で、「時をかける少女 上昇と転落のダイナミズム」をアップ。

ニュースネタはすぐにリンクが切れてしまうので、なるべく避けてきたのだが、これはちょっと面白かったので。
人面トマト

人面と言うより、「デッドリー・スポーン」('83 米)だ。→こんなん
小学生の頃、ポスターを見て以来のトラウマ。今回調べたら続編ができてる!「エイリアン」のヒットを当て込んだC級映画だが、今なら間違いなくビデオスルーだろう。
しかしこの人面トマトの記事中、一番心の琴線に触れるのが「通常の3倍」というフレーズだというのが、我ながら何とも。

ついでにもう一つ。
ハリポタの訳者が36億円の申告漏れ

「ハリポタ」人気のいかがわしさにぴったりのニュースである。
「ドラ○ンボール作者のT先生は名古屋在住で、飛行機で東京の編集部に原稿を届けていたが、不便なので他県に引っ越そうかと考えた。あわてた名古屋市は、(何しろ市民税がすごいので)直ちにT先生の家から空港まで直通道路を引いた」唐沢商会「ガラダマ天国」に載ってた話。真偽不明。

2006年7月25日(火)
筒井康隆ブーム?

昨日書き忘れたことなど。
「時かけ」を観に行ったら、今 敏の新作「パプリカ」の予告編をやっていた。噂は聞いていたが、実際の映像を観るのはこれが初めて。「妄想代理人」を経て、「PERFECT BLUE」をさらにパワーアップしたような印象だ。またも妄想と現実の関係を問う話。処女作には作家の全てがあるとは、よく言ったものだ。
「PERFECT BLUE」「千年女優」のいずれも、虚実の入り乱れた万華鏡のような映画だが、ラストはきっちりと現実に着地する。これは構成力の高さを物語るものだが、同時にある限界を感じさせもしていた。「千年女優」なんか、私は勝手に星野之宣「月夢」みたいな終わり方をするに違いない、と思いこんでいたくらいだ。しかし、「妄想代理人」ではついにその壁を突破し、妄想側に振り切れてくれた。一回り大きくなった今 敏監督がどんな映像を見せてくれるか、今から楽しみだ。
ロビーでチラシを見て初めて知ったのだけれど、今年「日本以外全部沈没」も映画化してるんですね。東宝に対抗して松竹あたりが映画化しているのなら、邦画界もまだ捨てたものではないと思ったのだが、当然そんなわけはなくて、河崎実監督作品であった。
これも筒井康隆原作。今年は筒井の年か?

2006年7月24日(月)
続編の話の続編

ベランダの洗濯機の下に、鳩が巣を作ってしまった。トリは嫌いじゃないが、何しろフン害がシャレにならんので、ほうきを突っ込んでお引き取りいただく。幸い、まだ卵はふ化していなかったが、いらざる殺生をしてしまった。追い出された鳩のご夫婦が、向かいのアパートの屋根から、途方に暮れた顔でこっちを見ているのがやりきれない。

そんなことの合間に、ようやく「時をかける少女」を観てくる。7時の回を4時頃に受付したのだが(5時の回が既にいい番号だったので)、速くも整理番号9番だった。日曜日の最後の回だというのに、場内満員。期待以上のいい映画でした。

もう少し考えがまとまってから書こうと思うのだが、とりあえずキーワードになりそうなのが、「桃」「水切り」「夜景」「上昇と下降」ってところ。
連想したのが、星野之宣の連作「妖女伝説」の一編「ボルジア家の毒薬」と、とり・みきのSF短編「カットバック」であった。

それにしても角川、パンフレットにスタッフの名前くらい全員載せてくれ。和田高明と長谷川眞也くらいしかわからなかった。

ここから標題の件。
「BLACK LAGOON」がひっそりと終了したと思ったら、もう2ndシーズン放映決定だそうである。と言うより、当初からこういう計画だったらしい。「ヘンゼルとグレーテル」編もこっちでやるそうなのだが、原作がもうないんじゃないか?
どうにも心配なのがキャスティングである。ヘンゼル役は南央美、グレーテル役は金田朋子だそうだ。この双子の場合、どっちがどっちでもあまり意味がないが。
それより、可愛い顔に可愛い声で残酷なことを・・・ていうパターンって、成功した試しがないと思うのだ。例えが悪すぎるかもしれないが「スプリガン」とか「人魚の傷」とか。

「殺意の香り」('83 米)という映画がある。「クレイマー、クレイマー」で有名なロバート・ベントンが手がけたサスペンス映画の小品だ。作中で、ヒロインが見る悪夢の描写がある。深夜の家の中で、見知らぬ少女に出会う、というシチュエーションだ。廊下に出ると、少女も無言でついてくる。それだけのシーンなのだが、これが恐いのだ。
かの有名な「シャイニング」('80 英)にしても、一番気色悪いのは双子の少女の幽霊が廊下に立っているシーンだ。

以前に、「ヒーローと正義」のことを書いた。悪とは、境界を越えてやって来る異物である、とそこで定義している。子供というのは大人から見た異物である。異物は異物であるから恐いのであり、言葉をしゃべり、コミュニケーション可能であれば(あるいはそう見えれば)恐怖は半減するだろう。物言わぬ人形が恐ろしいのも、これと同じ原理だ。
なんだか「イノセンス」の人形論みたいになってきたので、この辺で。

2006年7月23日(日)
文化のギャップというもの

久しぶりに「ショーシャンクの空に」を観たら、また2つ3つ発見があったので、本文に追加

ヤフーのニュースで、「海猿」がニューヨークで爆笑されるというのがあった。

『鑑賞中、あきらかに日本人と反応が違っていたのは、主役の伊藤が携帯電話を使ってプロポーズする感傷的なシーンでは日本中が大号泣だったが、ニューヨーカーの目には「こんな状況下で携帯を4、5分も使いプロポーズまでする」彼を見て、爆笑していたことだ。』

なぜ、これで『ハリウッドでも一定の評価を得、リメイクの話題も出てきている』という結論にいたるのか、まるで謎だ。
私は「男たちの大和」を観て大笑いした人間なので、たぶん「海猿」でもニューヨーカーと同じ反応だと思う。

ところで、「携帯電話」云々で、ひとつ思い出したことがある。BSアニメ夜話の「エースをねらえ!」の回で、岡田斗司夫氏が、「アメリカ映画では、電話でケンカした後、面と向かって抱き合って仲直りするが、日本のドラマでは逆に、直接ケンカした後電話で仲直りする。この技法を発明したのは、出崎統監督ではないか」という指摘をしていたのである。
大切なことを電話で伝える、電話「だから」伝えられる、というメンタリティが日本独自のものであることが、この「海猿」のエピソードでも実証されたように思う。

昨日、「ゼーガペイン」16話絵コンテの西澤晋氏のことを書いたが、ご自身のホームページ内の「アニメ製作現場のお話」のページで、アニメの絵のパースについてこういうことを書かれていた。「カメラは被写体から距離を取らなければいけない」ということに目からウロコ。
やはり、アニメを含めて映画を楽しむには、レンズの知識が不可欠なのだな。

2006年7月22日(土)
続編アレルギー

だいぶ前の話だが、「舞−HiME」の最終回を観たときのこと。

この作品は、サンライズ初の萌えアニメと見せかけて、実は燃えるアニメだった、という仕掛けも効果的で、ほぼ完璧な出来だった。これで最終回がなければ、本当に優れた作品だったのに。
死んだはずのキャラが全員復活し、笑えないギャグでごまかすという怒る気力もわかないやり口は、どっかで見た覚えがある。

そうだ、「宇宙戦艦ヤマト 完結編」だ!第1作のラストで感動の死を迎えた沖田艦長を、実は脳死していなかったという論理で復活させた伝説の作品である。脳死という概念を理解していたのかも怪しいもんだ。

何でこんなことを思い出したのかというと、「『ハルヒ』の続編要望って、山ほど来ているんだろうな」と思ったからである。

私は、完結した作品の続編というものに、非常に懐疑的である。あまり世代論的な話はしたくないのだが、’72年生まれの私の世代は、ヤマトの続編とともに育ってきたようなものである。(テレビ本放送が’74年、完結編公開が’83年)
私が記憶しているのは、最初の再放送だと思う。ガキらしく当初ははまったわけだが、続編のためなら、死んだキャラを平気で復活させるわ、前のエピソードはなかったことにするわで、続編ができるたびにシラケていったのをよく覚えている。

’82年のマクロスの狂騒を経て、’85年のZガンダムの登場で、「ガンダムよ、お前もか!」という気分になった私は、一度アニメを離れた。これが「14歳の罠」という奴か、という感じだが、「初めてアニメで育った世代が作った」マクロス、「オンリーワンだったはずのガンダム」の続編という現象に、ガキはガキなりにアニメの変質を敏感に感じ取っていたのかもしれない。

アニメに回帰してきたきっかけが「王立宇宙軍」だというのが、さらに象徴的だ。今にして思えば、「ファンと作り手の祝祭」としてのマクロス、「ガンダム世界の正史」という概念を生んだZガンダムの歴史的意義、というものが理解できる。

とはいうものの、安易な続編に対する生理的嫌悪は、もう第二の本能になってしまっているというお話。結論なし。

以下、完璧に余談。
今の邦画界でもっとも続編が期待されるのは「リング」シリーズであろう。「らせん」「ループ」という正編を無視して「リング2」を作ってしまうあたり、さすが角川、見上げた商魂だ。いっそこのまま毎年恒例のシリーズにしたらどうだろう。サブタイトルももう決まっている。
「貞子は生きていた」
「新しい貞子」
「貞子NYへ」
「貞子の命日」
「貞子X」
「貞子VS伽椰子」
いかがですか。え、もう2ちゃんねるに出てる?失礼しました。

「ゼーガペイン」16話。BSで観ているので、少し遅い。
永遠に終わらない夏休み。ただ同じ時間を繰り返すだけの生。ループの外にいる主人公が、それを「無間地獄」と感じる感性−作り手のものでもある感性が、とても健全だ。
リセットの瞬間を、さっきまでそこにいた人がただいなくなるだけ、とする淡々と突き放した表現が、逆にショッキング。
絵コンテ:西澤晋 演出:工藤寛顕。 覚えておこう。

2006年7月20日(木)
「ライブ アライブ」について追加

ハルヒネタは打ち止めのつもりだったけど、「涼宮ハルヒの詰合」をレンタルで聴いた。目当ては「恋のミクル伝説」・・・と言えば男らしいのだが、熱狂のライブシーンを飾った「God knows・・・」の方だ。

自慢することではないが、私はハードロックに造詣も愛着もないし、バンドというものに何らのシンパシーも感じたことがない。それでも、本編のライブシーンには興奮で鳥肌が立った。

で、改めて曲だけ聴いてみると、いい曲には違いないが、何か素人くさい印象を受けた。特に前奏のギターリフだ。いや、高度な演奏技術が必要だというのはわかる。それを、臆面もなく前面に押し出してしまうあたりに、何かアマチュアが精一杯背伸びして作った曲、という感じを受けたのである。実際、作中では高校生のバンドが自分で作曲した曲という設定なのだ。放映第1話で、あれだけ下手くそな自主映画を再現してみせたのだから、音楽についてもわざと素人っぽく作るくらい、京アニならやりかねないと思うのだが、どうだろう。

93年に、フジテレビの深夜枠で「音楽の正体」という番組をやっていたのをご記憶だろうか。一般人にはなじみのない音楽理論を、ロックやポピュラーや歌謡曲をテキストにして解説する番組で、私は音楽理論には全くの素人だが、それでも実に分かり易く、面白かった。小中学校あたりでこういう風に理論を教わっていたら、もっと音楽を楽しめたのに、と思ったものだ。単行本も刊行されている。



「God knows・・・」の素人っぽさも、分析してみれば理論的な裏付けがあるのかもなあ、と思ったりする。

ともあれ、熱唱するハルヒの形相(そう表現するにふさわしい力のこもった絵だ)↓


が、この曲の魅力を倍増させていたのはたしかだ。

2006年7月19日(水)
プロ野球前半戦終了

久々に野球の話題。前半戦終了を機に、「2006年プロ野球前半戦の総括」をアップ。

ちょっと忙しくて、まだ「時をかける少女」を観ていない。余計な情報を入れないようにするのに、結構気を遣う。

2006年7月18日(火)
声優と音響監督

最近−単に私が気がついたのが最近というだけなのだが、声優が音響監督をしている作品が目につく。気がついただけでも、「雲のむこう、約束の場所」に三ツ矢雄二、「ひぐらしのなく頃に」に郷田ほづみ、「NHKにようこそ!」に塩屋翼。

もう10年以上昔のこと、文藝春秋誌上に、確か古川登志夫だったと思うが、声優という薄給で過酷な職業の実態を書いていたのを読んだ記憶がある。

音響監督をしている声優が、私が小さい頃に第一線で活躍していた人たちなので、最初は違和感を持ったが、声というものがいずれ衰えていくものである以上、いつか引退するときがくる。そのとき、声のエキスパートとして演技指導する側にまわるという選択肢は、当然あっていい。いつまでも本田保則が頼り、でもあるまい。

ところで三ツ矢雄二は、諸星大二郎の妖怪ハンターシリーズ「生命の木」を映画化するという無謀な企画、「奇談」('05)の音響も手がけている。稗田礼二郎役に阿部寛という意外なキャスティングは面白いが、それ以外は壊滅状態。
私は、映像化するからには原作と異なるプラスアルファが必要だというのが持論なのだが、この映画にかぎっていえば、映画オリジナルの部分がとてつもなく余計だ。この作品をJホラーの方法論で撮っちゃいかんだろう。いかに原作の完成度が高かったか、という証明にしかならなかった作品である。
そこで三ツ矢雄二なのだが、実は、作中登場する「東北のキリスト」善次の声をご本人がアテレコしているのだ。リテイク連発の果てに、「どけ!オレがやる!」というノリだったのではないかと想像され、大変ほほえましい。

そりゃ、マーグ兄貴の声で「おらといっしょにぱらいそさいくだ!」とシャウトされたら、○○○でも○○○○でも成仏してしまうというもんである。(○○にはお好きな名前を入れてください)

「コヨーテラグタイムショー」第3話。なんだかもっさりした展開で、ちょっとつらいかな・・・。
ゴスペル説教の元ネタは、コーエン兄弟の「レディキラーズ」('04)と見た。濃いオヤジどもの顔の3段影が、80年代を彷彿とさせます。

2006年7月17日(月)
NHKにようこそ!

○バテレビよ、第1話からいきなり放送時間変更するのはやめてくれ。原作は未読。OPとEDは大変よろしい(特に大槻ケンヂのED)。OPの方も、グラフィックデザイン調でカッコいい。
で、OPとEDの間の部分−本編とも言うが−まあ評価するのは時期尚早とでも言っておきましょうか。
いつの頃からか、作劇に比べてOP・EDだけがやけにセンスがいい、という作品が増えた。ぶっちゃけて言ってしまえば、クリムトを模した「エルフェンリート」のOPとか。ハリウッドでも、MTV出身の監督のカッコいい「だけ」の映像が幅をきかせるようになって久しいが、こんなもん真似しないで欲しい。これぞ映画、という重厚な画面というものを観るには、名カメラマン、コンラッド・L・ホールの遺作「ロード・トウ・パーディション」('02)あたりが最近では一番だった。
話がそれたが、中身の方もまあGONZOだし、観られるレベルではある。ただひとつ、気になった点があった。
作中、ニートと引きこもりをごっちゃにしているらしいことだ。私は原作未読で、原作者についても全然知らない。その上で言うのだが、ニートと引きこもりとフリーターというのは、実際は重なるところもあるんだろうが、本来は別々の概念のはずだ。
自虐を芸にするのは別にかまわない。しかし、ニートやヒッキー君の話を、「こちら側」の人間が同類を描くという視点で扱うなら−そうでなければ、作る意味はないと思うが−、この辺の区別は厳密にしなきゃいけないんじゃないか。でないと、「ニートは自衛隊に放り込んでイラクへ送り込め」なんて言ってる方々と変わらないと思う。

2006年7月16日(日)
細田守の予習

そんなわけで、「時かけ」を観る前に、「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」をレンタルで観た。

なるほど、細田作品の特徴と言われる同じ構図の反復。40分という時間のせいもあるだろうが、テンポの良さ。飛行機雲とミサイルのアナロジー。爆発までのタイムリミットを、電子レンジのタイマーと試験の終了時間に重ねる多義性。けんかと仲直り。応援メールの力。これが映画だ。
ときに、「島根にパソコンなんかあるか!」という台詞、ぜひ「The Frogman Show」の蛙男商会さんに聞かせてあげたいですな。

同じくレンタルで、「怪」の第1話「四谷怪談」を観る。地上波は写りが悪いもので、これが初見。天野喜孝のキャラがそのまんま動いているのは感動的だが、とりたてて作画も演出も突出したところは見あたらず、可もなく不可もなし。小山茉
の演技はさすが。時代劇にラップってのは、どうしても「サムライチャンプルー」の2番煎じ扱いだろう。

2006年7月16日(日)
夏の劇場アニメ概観

「涼宮ハルヒの憂鬱」のちょっとした伏線』をアップ。ハルヒネタはこれで打ち止めの予定。

最初に、ひとつ反省を。
先日エヴァの話を書いたのだが、後でWEBアニメスタイルを読み直したら、ちゃんと言及してあった。

http://style.fm/as/05_column/animesama52.shtml

あれだけ話題になり、語り尽くされた作品のことを今さら書くのは、無謀だったか。なるほど、片足か・・・。ひょっとして、真ん中の・・・いや、失礼。
私はそもそも、トウジが片足を失っているように見えるという描写に、LDの解説を読むまで気がつかなかった。この解説もアニメ様によるものだっけな。絵コンテ集を見ると、EOEにはトウジが車イスで登場するシーンがあったのが、本編ではカットされたらしい。
でもこれって、シンジと初号機に関する描写じゃないし・・・。言い訳がましいから、ここまでにします。

この夏は、劇場アニメ3作品が競合する。なんか、「イノセンス」「ハウルの動く城」「スチームボーイ」が重なった一昨年を彷彿とさせる。「AIR」と「APPLESEED」もこの年か。当たり年というのがあるのだろうか。

この夏は、私は3本とも未見だが、まず「ブレイブ・ストーリー」はスルー。GONZOでファンタジーで千明孝一では、面白いわけがない。つくづく、GONZOというスタジオの商売上手には感心する。「アギト」で大敗した直後(いや、実際の興業収益は知らないが、少なくとも映画としてはなっちゃいない)だというのに、良くこういうプロジェクトをまとめるものだ。アニメバブルがはじけるとしたら、間違いなくこの会社からだろう。

ジブリの「ゲド戦記」。いろんな意味で話題性だけは抜群。「○の○○り」ということわざを、たぶん全員が想起したと思う。私ももちろんそうだったが、「桀紂屋」さん経由で宮崎監督の製作日記を読むようになってから、考えを改めることにした。先走ってうかつな発言をしなくて、ほんとに良かった。どっちみち、「ゲド戦記」と聞いて真っ先に「ガメラ2」と「ダンバイン」を連想した私には、何を言う資格もないと思うので、黙って観に行きます。

大本命「時をかける少女」。企画の経緯は知らないのだが、細田守にこの映画を撮らせよう、と考えた人がいたとしたら、その人は天才である。私にしては珍しく、前売りも買った。
・・・と言いつつ、細田作品って評判だけで、まだ観たことがないのだ。すみません。

2006年7月13日(木)
久しぶりにエヴァについて

少し前、WEBアニメスタイルでエヴァの全話回想をやっていた。その中で、アニメ様こと小黒祐一郎氏が「エヴァにおける男性性への懐疑」ということに触れていた。劇場完結編EOEでも、ミサトが命をかけて送り出したシンジは、やはりエヴァに乗れず、乗っても戦いの描写はない。男性原理とそれによるカタルシスは、おそらく意図的に、徹底的に排除される。

この指摘自体はうなずけるのだが、ひとつ不思議に思うことがある。
それは、なぜか「エヴァという作品には、去勢をイメージする映像が出てこない」ということだ。
精神分析的アプローチというものが有効かどうか、そもそもそんなものが実在するのかどうかは知らないが、去勢のイメージとは、例えば「ファイト・クラブ」('99)のラストシーンで、夜空にそびえ立っていたビルが崩壊していくシーンである。(話題がずれるが、この映画は巷間言われているような暴力礼賛映画ではない)

12使徒レリエルの球形の体を引き裂き、血まみれの初号機が姿を現すシーンが出産を連想させるとは前から指摘されているし、14使徒ゼルエルが初号機のコアを繰り返し攻撃するシーンは、「ストレートに強姦のイメージ」と絵コンテに書いてある。こうした周到さを見ると、去勢のイメージが出てこないのは、逆に意味があることのような気がする。

ピーター・グリーナウェイ監督の長編映画第1作で、「英国式庭園殺人事件」('82)という作品がある。さすがに第1作だけあって、グリーナウェイ作品にしてはトンデモ度の低い、まっとうなミステリ映画としてみられる作品である。
17世紀のイギリス、売れっ子の画家である主人公は、ある貴族の屋敷の風景画を描く仕事を引き受ける。貴族の妻と娘と情事を楽しみつつ仕事を続ける画家だが、その絵のなかに、次第に貴族の死を暗示する事物が現れ始める。実は、彼は貴族の妻と娘が世継ぎを残すための種馬として利用されたのである。最後に、画家は口封じのため、目をつぶされた上で惨殺される。こうして書くとすげえ陰惨な話だが、淡々としてユーモラスな語り口のため、あまり悲惨な感じはない。

で、この映画のパンフの監督インタビューで、「なぜ最後に画家は去勢されなかったのか」という質問がある。監督の答えは、「『種馬としての役目は終わった』と貴族の妻に告げられたとき、画家は男として十分な屈辱を受けているからだ」というものだった。

シンジ君のウジウジっぷりが観客の神経を逆なでしたのは、「去勢のシーンが映像として示されない」ために、シンジ君に男性原理的行動を期待してしまう(そして裏切られる)からではないか、と思ったりする。

結論は出ないが、何となく思い出した話でした。

2006年7月12日(水)
人生いろいろ

昨日ファンタスティック映画祭のことを書いていて、ひとつ思い出したことを追加。

カトリオーナ・マッコールという女優がいる。日仏合作の実写版「ベルサイユのばら」('79)でオスカルを演じた人である。いや、宝塚じゃなくて。幸薄そうな美貌の持ち主なのであるが、映画の評判はさんざんであった。続く出演作もなく、お決まりのパターンで半端に脱いだりもして、女優人生を転落しつつあった彼女に手をさしのべた−と言うか、トドメを刺したのが、イタリアン残酷悪趣味ホラーの帝王ルチオ・フルチ監督であった。
「地獄の門」('80)、「ビヨンド」「墓地裏の家」('81)に続けて出演し、キワモノB級女優としての評価を決定づけてしまった。これで何か吹っ切れたのか、「アマゾニアン/柔肌に秘めた魔境伝説」('88)では全裸で食人アマゾネスを演じる始末。
やがて当然のように映画出演はなくなり、忘れ去られていった。
52歳になる現在は、酒とドラッグにおぼれ、一人安アパートで・・・となりそうなもんなのだが、実はこの人、フルチ映画のマドンナとしてごく一部の映画ファンから熱狂的な支持を受け続けており、現在でも世界各地のファンタスティック映画祭からの招待が引きも切らず、それなりに幸せな余生を送っているのだという。

比較するのも何だが、「風と共に去りぬ」で大スターになりながら、ローレンス・オリビエと別れ、結核と躁鬱病に悩まされ、最後はほぼ孤独死したビビアン・リー、トップ女優からモナコ王妃にまでのぼりつめながら、52歳の若さで事故死したグレース・ケリーらを思うと、何が幸せかはわからないものだ。
禍福はあざなえる縄のごとし。

しかし、ルチオ・フルチじゃなくてダリオ・アルジェントなら、ジェニファー・コネリーのようにオスカー女優まで成り上がれたかもしれんのに。先日、「アクターズ・スタジオ・インタビュー」にジェニファー・コネリーが出演していたのだが、「フェノミナ」('84)の主演についてはきれいになかったことにされていた。

なお、今日の記事は、映画秘宝別冊「底抜け超大作」及び
こちらのサイトを参考にさせていただきました。
http://www2.plala.or.jp/MORIYAKEIJI/Cat.htm

2006年7月11日(火)
ファンタスティック映画祭の思い出

イリヤの空、UFOの夏」にちょっとだけ追加。

東京ファンタスティック映画祭が、スポンサーが見つからず、中止になった。来年度以降も再開の見込みは立っていないという。ゆうばりファンタスティック映画祭にいたっては、夕張市そのものが破産宣告を受けてしまった。私はゆうばりファンタには行ったことがないが、映画を見終わったらそのままスキーができ、カラオケボックスに行けばアニソンを熱唱するタランティーノが見られる、アットホームな映画祭で世界的にも有名だっただけに残念である。

東京ファンタは、過去2回ほど行ったことがある。平成9年の2度目は、特によく覚えている。下は、当時のノートに保存してあったチケット。



「王立宇宙軍」と「音響生命体ノイズマン」の2本立てという(一部の人間にとって)豪華なもの。たしか「王立宇宙軍」のサウンドリニューアル版の初披露だった。会場の渋谷パンテオンに2時間くらい前に行ったのだが、既に長蛇の列。入場待ちの客は非常階段に並ばされるのだが、映画館は1階なのに、最後尾を探して6階くらいまで上がったと思う。暑いし暗いしえらい目にあったが、祭りの熱気というもので、今となっては笑い話である。
このとき、「スチームボーイ」と「機動警察パトレイバーWXV」の予告編も初公開された。いずれも本編公開まで、長く待たされた。拾いものだったのが、伝説(になるかもしれなかった)の「G.R.M」の試作映像が上映されたことである。身も蓋もない言い方をすると、「ラストエグザイル」のシルヴァーナみたいなのが砲戦を繰り広げるシーンだった。「イノセンス」に登場する戦艦の砲撃シーンなんか、このイメージから直結しているに違いない。今思うと貴重な体験だった。

「王立宇宙軍」は、私は初公開以来何度となく観ているのだが、ロケットの発射シーンで、氷の破片ひとつひとつに番号を振って作画したという有名なエピソードが、この東京ファンタの時には、「デジタル効果でなく手描きで作画したんですよ、すごいでしょ」というニュアンスで紹介されていたのがおかしかった。

「G.R.M」の件といい、デジタル技術に未来を見ていた、幸福な時代だったのである。

2006年7月10日(月)
「フリクリ」とドラゴンズ

本日は小ネタのみ。
これまた2ちゃんねるなどでは指摘されている話だが、「フリクリ」第3話「マルラバ」の後半、劇の練習をしているナオ太の同級生達の、体操服の胸に書いてある名前は、みな中日ドラゴンズの選手の名前である。アニメスタイルの「フリクリ」イベントで、誰の趣味なのか聞いてみたかったんだけど、聞きそびれてしまった。

しかし、「フクドメ」「タツナミ」は現役だし、「ホシノ」「コマツ」はビッグネームだから解るとして、「タネダ」というのは、いくら何でもシブすぎるんじゃなかろうか。

種田仁(たねだひとし) 35歳 内野手 右投げ右打ち 大阪出身

89年ドラフト6位で中日ドラゴンズ入団。
故障や若手の台頭により出場機会に恵まれなかったが、00年に打率.314 7HR 31打点を記録し、その年のカムバック賞を受賞する。
01年途中、横浜ベイスターズに移籍。
足を大きく開きバットを立てて構える独特のバッティングフォームは「ガニ股打法」と呼ばれ全国的にも有名。横浜ファンはその独特のフォームを真似て「タネダンス」を踊って応援する。ファン感謝デーで「1万人のタネダンス」というイベントが行われたこともある。

ドラゴンズ時代の00年に、代打で11打席連続出塁というこれ以上ないくらい地味な日本記録を樹立。

藤島親方と瓜二つという噂もある。

「フリクリ」「ドラゴンズ」でググると、「ダンジョンズ&ドラゴンズ」とか「ドラゴンズ・ヘブン」とかが引っかかって面白い。ときに、Googleって英単語でも「Googleで検索する」という意味で使うんですってね。

2006年7月9日(日)
新宿武蔵野館完全制覇

土曜日は、「インサイド・マン」「ゆれる」「ローズ・イン・タイドランド」「Deep Imagination 創造する遺伝子」を観に行く。先の3本は新宿武蔵野館で公開していて、このコヤ自体は何度も行っているが、一日に3館ともに入るのはさすがに初めて。

「インサイド・マン」はスパイク・リー監督の、珍しくあまり政治色のない犯罪もの。「思いがけない展開」という惹句にはもう散々裏切られているので、あまり期待しないで観たら、普通に面白かった。ジョディ・フォスターが後一歩で悪役、というアクの強い弁護士役で出演し、貫禄を見せている。この人の、「羊たちの沈黙」以後のキャリアって、難しい。いっそ今回のように脇に徹した方がいいのかも。しかし、偶然「ナチ・ハンターズ」を読んだ直後にこういう映画を観るんだから、シンクロニシティーって奴か。

「ゆれる」は、久しぶりに観た傑作。本文にアップしました。
西川美和監督の3年ぶりの新作。テーマは深刻だが、河瀬直美みたいにゲージツ家っぽくならず、あくまでエンターテイメントしているのがうれしい。

「ローズ・イン・タイドランド」はテリー・ギリアムの新作。原題はただの「Tideland」なのだが、「アリス・イン・ワンダーランド」とかけている。で、てっきりアリスの翻案だと思ったら、デンパ少女の妄想物語でした。
冷静に思い返すと、ギリアムは「未来世紀ブラジル」以外はろくな映画を撮っていない。「ブラザーズ・グリム」もくだらなかったし、「ドン・キホーテ」が頓挫したのは、地下のセルバンテス以下全ての関係者にとって幸いだった。

「Deep Imagination 創造する遺伝子」はスタジオ4℃の短編集。以前ビデオで観ているけど、一応おつきあい。

2006年7月8日(土)
スタートと折り返し

スタートは、大地丙太郎監督の新作「僕等がいた」。「今、そこにいる僕」ほどじゃないにせよ、大地監督のダークサイドの系譜にある作品に思える。第1話で快調なテンポで登場人物とその関係を紹介しつつ、何故かはまだよくわからないが、全編に不吉な予感が横溢する。
どんなに楽しそうな描写でも、これからドーンと落とす準備に思えてしまう。技術的には、道路を歩く姿を俯瞰で全身とらえるカットに感心。
Artlandの新作と考えると、「蟲師」の次にあたるわけで、間口の広い会社である。

折り返しは、サンライズの「ゼーガペイン」。予告された敗北の記録のなかで戦う異色作。何とヒロインを退場させるという荒技に出た。ロボットが3DCGということで、ついにサンライズの牙城が崩れたか、といささか残念だったのだが、今回はあえて2Dの質感に近づけているように見える。IGが多用する、トゥーンシェイダーだろうか?
関島眞頼と村井さだゆき、ロボットアニメにあまり縁のないメインライターが、どのような展開を見せてくれるか、楽しみ。

2006年7月6日(木)
スタジオ枯山水のこと

本文更新はお休み。

最近、一躍(一部で)時の人の山本寛氏のHP、スタジオ枯山水を見てみた。

・・・なんというか、ギョーカイの人で、こんなに同業者の仕事をボロクソ言ってるの、初めて見た気がする。
まあ筋は通ってるし、気色悪い内輪褒めよりは余程いいんだろうけど、「BLOOD」も「人狼」も好きな身としては、複雑。

しかし、「オトナ帝国の逆襲」について、「20世紀も21世紀も映像として表現のしようがないニオイというものに仮託してしまった」という指摘には、なるほど納得。唐沢俊一先生が、「未来への希望も、家族といういたって伝統的な価値観でしか支えられなかった」という意味の指摘をしていたことを思い出した。
もっとも、ステファニー・クーンツの「家族という神話」によると、現在で言う「家族」という概念が生まれたのはつい最近のことであり、それもTVのホームドラマが与えた影響が非常に大きいのだそうだ。歴史上どこにも実在しなかった概念を、TVが作ってしまったわけで、示唆的なことである。

話を戻すが、宮崎、押井とくれば、当然トミノさんに対する評も読みたいところだ。「妄想ノオト」の削除された分のなかにあったのだろうか?

そういえば、山本氏は必ずしもイマジナリー・ラインを守ろうとはしない主義のようだ。

富野由悠季「映像の原則」を読むと、トミノさんはイマジナリー・ライン厳守派らしい。「困ったときは頭をかく」みたいなアニメ的ありがち演技を厳しく糾弾するのに、映像自体の原則にはうるさいあたりがトミノ的。
ところで、「映像の原則」について調べるのにキネマ旬報社のHPを見たら、キネ旬て「天地無用!」のフィルムブックなんか出してるんですな。懐の深い会社・・・。

2006年7月5日(水)
今週・・・いや、今月の脱力アイテム

本文更新はお休み。

私の映画歴のうち、ベスト10を選べと言われたら必ずランクインするのが、「LAコンフィデンシャル」('97)である。例の豪華客船の映画とカチ合ったために、アカデミー賞レースでは不遇だったが、アレはお子様ランチ、この映画は極上のオトナの映画である。一分の隙もない構成、ダンテ・スピノッティの美しい撮影、知名度は低くとも実力ある役者の火花を散らす競演。主役3人は今さら言うまでもないが、ジェイムズ・クロムウェル、ダニー・デビート、デビット・ストラザーンといった脇を締める俳優達の見事なこと。これが、オトナの映画の条件である。
当然、DVDが発売されたら買ったのだが、これが残念なことに画質が悪いのだ。今からは想像もつかないが、DVDの発売初期には、マスタリングの品質基準がまちまちだったらしく、ソフトによってはLDの方が高画質、という場合が珍しくなかった。
で、その後リマスターバージョンか何か再発売されていないか、と思って調べてみたら、目当てのものはなく、代わりにこんなものを発見してしまった。

・・・・・・・・・・。
「スケパン刑事」
「サワリーマン金太郎」に継ぐ、サードインパクト。
あまり信じたくない話だが、上の2つも実在します。

出典は忘れたが、「サワリーマン金太郎」のプロデューサーはたまたま入浴中にこのタイトルを思いつき、興奮のあまり素っ裸で道路まで飛び出してしまったそうである。アルキメデスの故事を思い出させる話ではないか。(どこが・・・)

標題のとおり脱力しきってしまったので、今宵はこのあたりで終わりとうございます。

2006年7月4日(火)
1/四半期の雑感

「涼宮ハルヒの憂鬱」のシリーズ構成について』をアップ。番外編の選び方にも一定のポリシーがあるようだ、という話。人気絶頂のうちに、計算通り−商売上のという意味ではなく、構成上の意味で−完結した、幸福な作品だと思う。キャラクターは健在だし、原作はまだまだあるんだし、作ろうと思えばいくらでも作れるだろうが、少なくともこのTVシリーズの「続編」はあり得ない。その理由は本文をどうぞ。

「BLACK LAGOON」がひっそりと終了した。「ヘンゼルとグレーテル」編に期待していたのだが、いくら深夜枠でも、さすがに地上波では無理だったか。この作品を観ていて感じたのは、アニメで長ゼリフを言わせるのは難しいなあ、ということである。原作の魅力のひとつである、味のある持って回った言い回しは、マンガならいいが、アニメではよほど工夫しないと冗長になって流れを殺してしまう。残念ながらこのアニメ版も、その失策から逃れられなかった。

ついでに、「いぬかみっ!」について一言。可もなく不可もなしの、ラノベ搾取政策の一環。未見だし野暮とは思うが、「犬神憑き」「犬神筋」というのは、つい最近まで実在した差別因習のはずだ(いや、坂東眞砂子の小説とか宗像教授シリーズでくらいしか知らんけどさ)。それをこんな風にライトな感覚で取り扱っていいんだろうか。「かみちゅ!」でも同じことを感じたことがある。他ならぬ戦艦大和の回である。なんか戦中派のグチみたいになってきたので、この辺で。

2/四半期期待の星、ユーフォーテーブル待望の新作「コヨーテラグタイムショー」を観た。今回は小林利允は不参加らしいのが残念だが、作画・演出とも期待を裏切らないできばえ。人死にが多いのがちょっとアレだけど、綺麗どころもいっぱい。しかしこのご時世に、おっさんが主人公というのがいいじゃありませんか。

2006年7月3日(月)
創作者の心意気

「ハルヒ」が完結。見事な決着だった。
どうせ出遅れてるので、この件はまた日を改めて。

山田風太郎「人間臨終図鑑」をまだ読んでいる。何しろ会社の行き帰りに電車のなかで読んでいるだけなので、なかなか進まない。
だが、今日読んだ大デュマ(1803-1870 「モンテ・クリスト伯」「三銃士」)の最期のエピソードがあまりに面白かったので、そのまんま紹介する。

晩年のデュマは困窮して、息子の小デュマ(「椿姫」)に世話になっていた。

『病状が進んだある日、彼はいった。
「金も名誉も得たころ、ユゴーが、これからは君も後世に残る作品を書け、といったが、おれはその忠告に従わなかったことが残念だ。・・・おれの作品は美味過ぎて、すぐに排泄されて忘れられたのだ」
「そんなことはありませんよ。「三銃士」や「モンテ・クリスト伯」をだれが忘れられるものですか」
と、小デュマはいった。大デュマは疑わしそうにいった。
「お前は本当にあんなものが面白いと思っているのかね」
「そうですとも、あれはもう古典ですよ」
「おれはそうは思わないが、しかしお前がそういうなら、おれも読んでおけばよかった」
小デュマは唖然とした。大デュマは笑いながらいった。

「読むか、書くか。おれは両方やるひまがなかったから、書くほうにまわって、読むのは読者にまかせたんだ」
「わかりました。しかしいまは充分読む時間がありますよ」
と、小デュマはいって、すぐに両腕に父の小説を山ほど運んできた。
大デュマは「モンテ・クリスト伯」を読みはじめたが、やがていった。
「なるほど面白い。たしかに傑作だ。・・・しかし、結末を見とどけるまでおれは生きておれそうにないよ」
一生いたずら好きであった大デュマの最後のいたずらであった。
彼はそのまま眠り込み、二度と眼をさますことはなかった。』

自らの作品さえも振り捨てて、創作者は創作を続ける。心身を削って、命をすり減らして。
では、私のような平凡な鑑賞者はどんな覚悟で臨めばよいのか。

また番組改編期がやってくる。1/四半期は「ハルヒ」の一人勝ち状態。先日ヤマギワに行ったら、エピソード00は再入荷分も完売だそうである。人ごとみたい?
私はとりあえずエアチェック版で結構。祭りの熱狂という奴が苦手でね。

2006年7月2日(日)
週末の過ごし方

週末は、HDDに録りだめたアニメと映画を消化することで暮れていきます。

というわけで、今週末の成果。
大島渚の初期作品「少年」(’69)。当たり屋を生業とする一家の長男を主人公に、その日常と逃避行の顛末を描く小品。
「世界が優しくないのは当たり前だ」ということを知っていて、過酷な現実に立ち向かう子供達のハードボイルドドラマ。塩田明彦の初期2作品、「どこまでもいこう」('99)「害虫」('02)の原型はここらにあるのかも。
「誰も知らない」('04)も、この系譜に連なる作品かな。

「炎のランナー」('81 英)。ヴァンゲリスのテーマ音楽がやたらと有名な本作、今頃になって初めて観た。作中、アメリカ選手団の練習風景があるのだが、まるっきり海兵隊の訓練のノリで、笑ってしまった。イギリス人にとって、ヤンキーってのは筋肉バカの田舎者というイメージなのですな。

これは終映間近に劇場で観た「嫌われ松子の一生」。
テカテカでデーハーなデジタル画面は別に気にならないんだけど、構成が妙だ。(以下ネタバレ)
見ず知らずの松子おばさんが死に、その甥が彼女の人生をたどる「市民ケーン」方式なのだから、生前の彼女を知る人々の回想で構成するしかないはずなのだが、その辺を無視している。観客にだけ解ればいいのではなく、作中人物に解らせなきゃいけないんだから、それはおかしいだろう。教師時代のことなんか、なぜ解るのか?まあ教え子から聞いたと考えられなくもないが、やっぱり納得いかん。監督は映画の約束事など守る必要はないと言っているようだが、やっていいことと悪いことは厳然としてある、と私は思う。
これは好みの問題だが、私は理詰めで作った、構成のかっちりした映画の方が好きだ。最近では「運命じゃない人」とか。頭を使って作っているという気がする。
もう一つ気になったのが、「孤独な人間は愛したり愛されたりしたがっており、そうでないと生き甲斐もなく自堕落な生活をするようになる」という確信は一体どこからくるのだろう、ということ。
世の中、孤高を愛し、かつ常識人で、人生を楽しんでいる人も大勢いると思うんだがね。
ついでに、「緊張すると変な顔に」という設定、途中で忘れてしまっている。

プロダクションIGの新作「シュヴァリエ」第1話の先行放送。以前、IGは意識的に「外部の血」を入れている、ということを書いたが、今度は沖方丁と古橋一浩を招いており、なおさら戦略商品と見える。それにしても、古橋監督は「ジパング」「びんちょうタン」を経てこれかい。
舞台は18世紀フランスだが、IG作品としては「お伽草子」の直系という感じを受ける。リボンの騎士?

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