マイ韓流 『殺人の追憶』と『オールド・ボーイ』

最近、韓国映画が熱い。と言っても、私の観るものだから当然ヨン様やチャン・ドンゴンなんかではない。韓国の役者と言えば、ソン・ガンホとチェ・ミンシクに決まっている。私にとっての韓流とは、純愛なんかではなく、
娘の仇のアキレス腱を切断して溺死させたり、連続殺人の容疑者をその辺から適当に捕まえてきて、逆さ吊りのうえ竹刀でシバいて自白強要したり、トンカチ一本でヤクザの事務所に殴り込んだり、ハサミで自分の○を○○ったりする映画である。さすが、キムチと○○を主食にしている民族は違う。うっかり「竹島返して」なんて言ったら、瞬殺されそうである。

・・・つい興奮してしまったが、手元のメモによると、私が初めて観た韓国映画は『永遠なる帝国』(’95)である。19世紀初頭の朝鮮王朝を舞台に、一冊の本を巡る殺人事件を扱った歴史ミステリで、いかにも私好みの作品っぽい。『薔薇の名前』('86 仏・伊・西独)みたいなのを期待していたのだが、残念ながら印象が薄い。「前半は面白いが、後半息切れ」とメモに書いてある。
その後長らく、韓国映画を観る機会はなかった。『シュリ』('99)のヒットなどはあったが、私はこれってトンデモ映画だと思う。
韓国映画の実力に一気に開眼したのは、『殺人の追憶』('03)である。80年代の韓国の片田舎で、実際に発生した連続殺人事件を題材に、犯人を追う刑事達の苦闘を描く。主演のソン・ガンホは、己の眼力が頼りの昔気質の田舎刑事を演ずる。彼の相棒になるのが、ソウルから応援に来たエリート刑事(キム・サンギョン)。彼の口癖は、「書類は嘘をつかない」だ。タイプの全く違う2人が、最初は反目しながら、やがてお互いの力を認め合っていくという、バディ・ムービーの王道をゆく展開である。

印象的なのは、80年代の韓国はれっきとした戦時下にあった、ということだ。夜間は灯火管制がされ、学校では日常的に空襲に対する避難訓練がある。一方、急速な経済発展が、伝統的な社会に急激な変容を強いる。どこまでも続く稲穂の波と、それを睥睨する奇怪なフォルムの工場群が、その軋みを象徴するビジュアルとなっている。
題材は重苦しいが、ユーモアも忘れていない。殺人現場に犯人の毛髪が見られないことから、「犯人は毛がないのではないか」と言い出したガンホが銭湯を見張ってみたり、ガンホの舎弟の刑事が、容疑者を拷問するのに軍靴(除隊するときもらってきたのだ)に毛糸のカバーをつけたり(蹴った跡が残らないようにか、殺してしまわないためか?)。
捜査の結果、犯人は雨の日に、決まってある曲をラジオでリクエストしていることが判明する。有力容疑者を見張っていたサンギョンは、激務の疲れから、ふと居眠りして容疑者を見失ってしまう。そのとき降り始める雨。そしてラジオから流れる「あの曲」。このあまりにも「映画的」な興奮!
そしてまたしても発生した被害者は、サンギョンの顔見知りの女子高生だった。その遺体には、サンギョンが貼ってやった絆創膏が。冷静沈着だったサンギョンは怒りを爆発させ、容疑者に拳銃を向ける。そこに到着する、DNA鑑定の報告書。韓国内に装置がないので、アメリカに検査に出していたのだ。だが、その結果は・・・。信じていた「書類」に裏切られる男。結局、事件は今もって未解決のままだ。

エピローグは、15年経った現在。ガンホは退職して自分の会社を興し、そこそこ成功している。営業の途中で偶然事件の現場を通りかかったガンホは、遺体が放置されていた溝をのぞいてみる。その様子を見ていた少女が、ついこの間も、同じように溝をのぞいていた男がいた、とガンホに語る。「15年前自分がしたことを確かめに来たのだ」と言っていた、と。どんな顔だった、と問うガンホに少女は答える。
「普通の顔だったよ。どこにでもある、普通の顔」
それはもしかしたら、私の顔であり、あなたの顔であるかもしれない。誰もの心の奥底にある、どす黒いもの。
準備稿では、ラストカットに、ソウルの雑踏に消えていく真犯人の後ろ姿を想定していたという。やりすぎだろうという判断でカットしたそうだが、確かに意味性はよりはっきりしたはずだ。
かわりにラストを飾ったのは、ガンホのアップ。裕福な暮らしで好々爺然としていたガンホの顔が、一瞬にして眼光鋭い刑事の顔に戻っている。必見のシーンだ。
監督はポン・ジュノ。覚えておくべし。

さて、もう一作が『オールド・ボーイ』('03)。
(日本人の大好きな)カンヌでグランプリをとっちまってるので、有名だろう。原作は、嶺岸信明・土屋ガロンの同名マンガ。不覚にも、私はこの映画を観るまで知らなかった。後で読んでみたのだが、謎の監禁という基本プロット以外は、全く別物である。
主人公オ・デスを演じるのはチェ・ミンシク。『シュリ』で特殊部隊の隊長を重厚に演じ、主役を喰ってしまった人である。
オ・デスはある雨の夜、娘の誕生日のプレゼントを携えて帰宅する途中で誘拐され、どこともしれぬ場所に監禁される。その間に妻は殺され、デスはその容疑者にされてしまう。絶望のあまり自殺を企てても、手際よく治療され、死すら許されない。見えざる敵への復讐の一念に燃えて生きながらえるオ・デスだが、15年が経過したとき、突如解放される。原作では監禁されるのは10年なのだが、映画で15年になっているのは殺人の時効に合わせたのだろう。デスは、偶然(のように)知り合った娘ミド(カン・ヘギョン)の協力を得て、復讐行に乗り出す。

重要なキーワードは、「笑うときは世界と一緒、泣くときはおまえ一人」という言葉だ。
妻が殺された後、娘は里親に引き取られて国外で育てられ、消息不明になっている。そのことを知ったとき、ミドに向けたデスの顔は泣き出しそうに歪んでいるが、彼は無理矢理に笑ってみせる。復讐を果たすまで、彼は泣くことを許されない。獄中で鍛え上げた鋼のような肉体と、涙を見せぬ心。悲しければ泣く、というもっとも人間らしいことのできない彼は、怪物になってしまった。
獄中で食べ続けた餃子の味を頼りに、監禁場所を割り出したデスに、敵が接触してくる。それは遠い昔、高校時代にまでさかのぼる復讐の道程だった。
デスの自宅から盗まれた家族のアルバムと、あの雨の夜に持っていた娘の誕生プレゼントが伏線になって、復讐は見事な完結を迎える。

注目すべきは、エピローグだ。デスとミドに後催眠をかけていた催眠術師の元を訪れたデスは、「秘密を知った怪物」と「何も知らないオ・デス」に自らを分離させることで、忌まわしい記憶を消してもらう。その直後のシーンで、雪原に倒れたデスを俯瞰でとらえたショットがある。デスの元から立ち去る足跡が、雪上に残っている。催眠術師のものなのだろうが、「デスから離れた怪物」の足跡にも思える。

ラストシーンで、ミドの腕のなかでデスは泣き始める。先のキーワードを思い出してほしい。彼は、ようやく救われたのである。
監督パク・チャヌクは、本作を含めた復讐3部作として『復讐者に憐れみを』('02)、『親切なクムジャさん』('05)を作っている。続けて観ると(いや、猛烈に疲れるからおすすめしないが)、テーマとパワフルさは一貫しているが、語り口が次第に洗練されていくのがよくわかる。今が旬の作家である。


追記 初見のときのメモを見直したら、結構いいことを書いていたので追加。
『復讐者に憐れみを』は、特大のダイヤの原石、という感じの作品。荒削りだが、パワーと疾走感、全てのエピソードが終局へ向けてピタリとはまっていく構成の妙は、大変な才気を感じさせる。
女も子供も社長も障害者も皆殺し、という容赦のなさと言うか潔さが「背徳的な痛快さ」である。復讐3部作と言うが、次第に贖罪の色が濃くなっていくのが判る。おそらくこれこそが、作家の抱える真のテーマなのだろう。

追記2
『オールド・ボーイ』で書き忘れたことだが、デスの敵ウジンのボディガード・ハン警備室長を演じたのがキム・ビョンオク。小柄で白髪でパッチリお目々で無口で、おまけに異常に強いという強烈なもうけ役を楽しげに演じている。『親切なクムジャさん』にも登場するので注目。

追記3
『殺人の追憶』を観直していたら、一つ思いついたので追加。
この映画は、闇の映画である。近代化に対比される、農村の闇。灯火管制に象徴される、戦時下の闇。軍事独裁政権の闇。拷問が常態化した、歪んだ警察機構の闇。
それらをすべてひっくるめて印象的に扱われるのが、クライマックスの舞台となる、このトンネルである。その闇の奥は事件の真相を秘め、禍々しく横たわる。



近代を代表していたはずの知性派のエリート刑事は、ここで容疑者に対して怒りを爆発させ、拳銃を向ける。このとき彼の心は闇に堕ちようとしている。だからカメラは、闇の奥から彼を捉える。



刑事は思わず発砲するが、容疑者は闇の奥に歩み去り、刑事たちは小さな光の下に取り残される。光はついに真相を照らさないまま、物語は終焉を迎える。





最後にもう一つ、興味深いカットがある。ソン・ガンホ演じる田舎刑事が15年後に事件現場を訪れるエピローグで、死体が発見された側溝を覗いてみるカットである。15年前に視界を塞いでいた死体はもちろんなく、闇の向こうには光があふれている。


だがこの直後、少女のセリフから、闇は決して消えたのではないことが示される。それは我々の心の奥底に潜んで、何かをきっかけにあふれ出すだろう。そのとき我々は、真の戦慄を覚えるのである。


追記4 『オールド・ボーイ』のエレベータ

復讐を遂げたウジンは、エレベータに乗ってオ・デスの前から姿を消す。
そして復讐が終わった今、生き甲斐もなくなったことを知り自らの命を絶つ。

下の写真の、上がエレベータに乗るシーン、下が自殺後に閉まったエレベータである。
エレベータのドアの色の違いに注目。





上は茶色の化粧板、下はスチール地。

実は私はこれまで、エレベータに乗ったウジンは行き先階を示さずに−つまりその階に留まったまま、自殺したのだと思っていた。
しかしこのドアの色の違いからすると、ウジンは1階まで下りて死んだのである。

これは何を意味するのか。
エレベータ内でウジンが回想する、姉の死の真相がヒントである。

ウジンの姉は、ダムに身を投げて墜死した。
エレベータの降下は、この姉の死をなぞっているのである。だから、地上に到着したウジンは、姉の住むあの世へ旅立った。
このことから、ウジンの自殺にもう一つの解釈が可能になる。
彼は復讐に生きるよりも、あの時姉と一緒に死ぬべきだったのではないか?という解釈である。

優れた映画は、これほどすみずみまで味わえる。


『渇き』に見る吸血鬼ものの類型分析

『渇き』が問うているのは、単純に言うと「愛する者が怪物と化したときどうするか?」というものだ。うろ覚えだが、菊地秀行も「愛する者が怪物となって襲ってくる」ことが吸血鬼ものの恐怖の根源であるという意味の発言をしていたはずだ。
これは吸血鬼映画の普遍的なテーマである。だからこそ延々と作り続けられるのだ。
この問いに対する答え、つまり物語の結末は、物語の展開によっていくつかのパターンに分類できる。
試しに表にしてみた。

手段 意思 人間らしさ 結末
怪物化 人間に戻せる 戻る意思がある 無関係な第三者を殺す 人間に戻す
自らも怪物化する
自らの手で殺す
殺さない 人間に戻す
自らも怪物化する
自らの手で殺す
戻る意思がない 無関係な第三者を殺す 人間に戻す
自らも怪物化する
自らの手で殺す
殺さない 人間に戻す
自らも怪物化する
自らの手で殺す
人間に戻せない 無関係な第三者を殺す 自らも怪物化する
自らの手で殺す
殺さない 自らも怪物化する
自らの手で殺す



まず考えられるのは、人間に戻す方法が物理的にあるかどうか。次に、人間に戻る意思の有無。それから無関係な第三者を手にかけたかどうか、である。
そして最後に、主人公の決断が来る。特に人間に戻せないのなら、その結末は2つしかない。
自らの手で始末をつけるか、自らも怪物と化して共に生きるか、だ。
怪物化した愛する者が人を殺すのを黙認する、あるいはすべて放り出して逃走するという展開もあり得るが、これらは「自らも怪物化」に含むことにする。

パク・チャヌク監督の作品のうち、『復讐者に哀れみを』『オールド・ボーイ』『親切なクムジャさん』を「復讐3部作」とひとくくりにすることが多い。しかし『渇き』を観た後改めて振り返ると、ここに共通しているのは「復讐のために怪物となる」というモチーフであり、そこで問われていたのは「怪物となった者はどう生きるか」だったのである。
そう考えると、コメディタッチの『サイボーグでも大丈夫』にも通底するものがある。

なかでも、『オールド・ボーイ』はその完成形の一つだろう。
復讐鬼と化したオ・デスは、人に戻るためには己の罪を自覚し、「あるもの」を失わなければならなかった。
『渇き』は、このテーマをさらに深化させたものである。


さてところで、この中でハッピーエンドになりうるもの−「2人は結ばれ、末永く幸せに暮らしました」という結末が許されるものは、どれだろう。
考えるまでもなくDである。
ほかは、どうやっても「よくできた悲劇」にしかなり得ない。

何が言いたいかというと、
これである。
私はこれを再三批判しているが、要するにこれの問題は、Gのパターンの物語に結末だけDをくっつけてしまっていることなのだ。