更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。


2007年3月31日(土)
引っ越し準備中

コレをばらして、1人で荷造りするのはさすがにしんどい。
とりわけ、9100ESの殺人的な重さが応えます。かてて加えて、トールボーイスピーカーの梱包って難しいんだよなあ・・・。転勤族がこういう趣味を持つのが間違いではあるが。しかし、新居は8畳間があるので、さらにパワーアップ!
ふと、18で一人暮らしを初めて以来の引っ越し回数を数えてみたら、短期のも合わせると16年間で14回だった。一つところに住んだのは、一番長くて3年半。流浪の民。

そういうわけで、しばらく更新はお休み。新居の回線工事に2週間かかるそうだ。

2007年3月29日(木)
三人の女

WOWOWでロバート・アルトマンの’77年作品「三人の女」を観る。
WOWOWの予定表の紹介欄には、「女同士の嫉妬や虚栄をテーマにしたダークな味わいの人間ドラマ。職場の憧れの先輩と同居生活を送っていた内気なヒロイン。だが、自殺未遂をきっかけに人柄が変貌し・・・。」と書いてあるが、実際に観てみると完全なホラー映画。
何しろ、「憧れの先輩」が「シャイニング」(’80)のシェリー・デュバル、「内気なヒロイン」が「キャリー」(’76)のシシー・スペイセクである。2人並んで立ってるだけで怖い。 私は、アルトマン映画を初めて観たのが復活を果たした「ザ・プレイヤー」(’92)なので、こういう映画を撮っているのが意外だった。

男をあさり、射撃場に通い、カッコよく生きているつもりで、端から見ると痛々しいデュバル。ネジが2,3本外れていて、ひたすらデュバルの真似をするスペイセク。彼女は、服装や髪型をデュバルに似せて、あたかも双子の片割れのようになっていく。ある時、デュバルが妻子持ちの男を部屋に引き込んだことにショックを受け、スペイセクは発作的に自殺を図る。自責に駆られ、献身的にスペイセクの世話を焼くデュバルだが、意識が戻ったスペイセクはすっかり人格が変わっていた。このときから2人の力関係は逆転する・・・。
デュバルがわざわざ田舎から呼び出して病床を見舞った両親を、スペイセクは知らない人だと言う。この両親がまた、得体の知れない母親に寝てばかりいる父親という奇っ怪なキャラクターで、おまけに泊めてもらったデュバルの家で夫婦生活に励むわで、本当にアカの他人に見えるのがミソ。
ではいったい、これまで一緒に暮らしていた「内気なヒロイン」は、何者なのか?
派手な流血などなくても、こんなところに地面が揺らぐような恐怖がにじむ。

ふと思ったのだが、バーベット・シュローダーの「ルームメイト」(’92)は、この映画に影響を受けているのではないだろうか。「ルームメイト」の原作である、ジョン・ラッツの「同居人求む」は、ルームメイトが主人公の姿形ばかりか恋人も身分も仕事も奪って、完全に成り変わろうとする話だった。ところが映画版の「ルームメイト」は、幼い頃に死んだ双子の片割れを取り戻そうとして主人公そっくりになる、という全然別の話になっているのである。この改変がどこから来ているのか不思議だったのだが、こうしてみると「三人の女」にそっくりだ。実際、「三人の女」には(ストーリーには全然絡んでこないのに)双子が重要なモチーフとして登場するのである。

それはそうと、この映画は女性への恐怖に満ちている。「三人の女」というモチーフ自体が、「マクベス」の三人の魔女を連想させる。「イーストウィックの魔女たち」(’87)って映画もあったっけな。そういえば近作の「Dr.Tと女たち」(’00)も、女にもてすぎて困っているリチャード・ギアが女のいない土地へ逃げ出すという話だった。アメリカ映画にはミソジニー(女性嫌悪)という伝統があるというが、その観点からアルトマン映画を見直すと、結構面白そうな気がする。

2007年3月29日(木)
敗北の風景

終戦の予言の話の続き。
九州から神戸の西日本、さらには岩手に、「もうじき戦争は終わる。」という予言の噂が流れた、という話を昨日書いたが、これらの噂の火元は一つなのだろうか。どこかで発生した噂が、だんだんに伝播して、その過程で予言の主も変化していったと考えるのが自然だが、それにしては地域的に遠すぎるような気もする。九州と神戸だって、同じ西日本とひとまとめにするのは通信・交通の発達した現在でも苦しい。
いろいろな地域で、個別に発生したのだろうか。
そうすると、なぜ「8月に終わる」と言っているのかが気になる。常識的に考えると、終戦後にそういえばそんな噂があった、と思いだして、現実の終戦に当てはめて8月ということにしてしまった、つまり記憶を修正してしまったのだろう。

だが、もしも、「8月に戦争が終わる」という噂が各地で別々に生まれたとしたらどうだろう。
こんなことを想像してしまった。
私はもちろん終戦時の記憶など持ち合わせないのだが、それでも、「あの日」の光景を、自分の体験のように想像できる。

照りつける太陽。抜けるように青い空と入道雲。黒々と地面に落ちる影。風のないよどんだ空気。蝉の声。
空襲警報も何もなく、急に静かになった街並み。虚脱感。

敗戦の風景は、真夏の午後でしかありえない。
毎年のように繰り返されるマスコミの終戦特番によるだけで、これほどの強烈なイメージがわくものだろうか。
「夏草や兵どもが夢のあと」という句があるが、「敗北の風景は夏であるべき」という了解と言うか美意識が、我々の民族性だか文化だかにまず存在し、それに合わせて現実の終戦があったんじゃないだろうか。

「コードギアス」を観て、そんなことを考えた。



・・・などと言いつつ、念のためちょっと調べてみたら

『昭和18年(1943年)には、岩国市のある下駄屋に件が生まれ、「来年4、5月ごろには戦争が終わる」と予言したと言う。 』

あらら、4、5月頃だって。「くだんが、8月に戦争が終わると予言した」という話は私の記憶違いだったか?今度原典に当たってみるか。

2007年3月27日(火)
終戦の予言

某業界雑誌を読んでいたら、ある会社の社長さんが回想録(日経新聞に連載してるような奴)を寄稿していて、その中に面白い記述があった。

「1944年(昭和19)年10月、岩手県に学童縁故疎開されていた河島氏は、翌春、驚くべきことを耳にされます。
『近所の小母さんが声を落として教えてくれた。“戦争は八月に終わる。塩竈様のお告げがあったから。あそこの神社の扉が八寸開いたから。”
この謂れは、いまだに解けない。
しかし、私の幼い心に「戦争が八月に終わるかもしれない」という思いを染み込ませた。
そして、八月十五日の放送を聞いたあと、名づけがたい空洞が私の胸の裡に広がった。』と。
読んで驚きました。
61年前に妹が聞いて来たことと全く同じです。妹が言っていた「みんな、そう言っている。」は、やはり本当でした。」

孫引きだらけでわかりにくいが、要するに、昭和19年の段階で、翌年に戦争が終わるというお告げがあった、という噂が流れていたということである。
興味深いのは、当時九州から神戸にかけての西日本でも、同じような噂が流れていることだ。九州から神戸での噂は、とり・みきの「事件の地平線」に紹介されている。ただ、この中では、「くだん」の予言として出てくるのである。
こんなサイト読んでくださる方はご存じかと思うが一応説明しておくと、「くだん」というのは牛の体に人の頭を持つ妖怪で、漢字では「件」と書く。「くだん」は牛から産まれるが、産まれてすぐに一つ予言をし、その後死んでしまう。その予言は必ず当たるという。

てっきりこの噂は、「くだん」とセットになったものと思っていたのだが、前述のとおり岩手では塩竈神社のお告げ、ということになっている。つまり、当時全国的に「もうすぐ戦争は終わる」という噂が流れており、その土地ごとにもっともふさわしい神様だの妖怪だのに言寄せて言い伝えられた、ということらしい。
この項、少し続く。

2007年3月26日(月)
もう一回「秒速5センチメートル」

懲りずにあと1回だけ補足を。
過去の新海作品で「秒速5センチメートル」と一番近いのは、「彼女と彼女の猫」であろう。私小説的なところもだが、物語の虚構性に自覚的な点もだ。「彼女と彼女の猫」には、フルバージョンとショートバージョンがある。フルバージョンでは、「彼女」の抱える悩みというのは、男がらみであることがほのめかされるだけだが、ショートバージョンではもっとはっきり描写される。ショートバージョンには、体温計と基礎体温表が大写しになるカットがあるのだ。おそらく露骨すぎるという判断で、フルバージョンからは削除されたものと思われる。
また、「雲のむこう、約束の場所」のパイロット版は、ほとんど本編には使われなかったカットで構成されている。
こうしたことから考えると、新海誠は、極めて冷静に使用すべきカットを取捨選択し、また大胆に(せっかく作ったのに、という感傷を排して)不要なカットを削除できる作家だと言える。

もう一つ、「彼女と彼女の猫」で特徴的なのは、主人公である猫の描写だ。背景や「彼女」は、いわゆる新海タッチの精緻な描線なのに、「猫」はまるでマンガチックなのである。
これは、この作品中で描かれる物語は所詮虚構なんだよ、という冷静さ、あるいは照れの表れではないだろうか。
新海誠には叙情的とか感傷的という形容詞がついて回るが、実は容易に本音を見せない、したたかな演出家ではないかという気がしてならない。

2007年3月25日(日)
近況など

4月から浜松へ転勤することになり、先週は仕事の引き継ぎと家探しで浜松に行っていた。

先日「秒速5センチメートル」について書いたが、少し補足を。
参考になったのが、藤津亮太「アニメ評論家宣言」所収の「二○四六年夏へのモノローグ」である。2003年11月初版発売のこの本への書き下ろし原稿だ。「ほしのこえ」をトリウッドで公開したのが2002年の冬だったから、公開後しばらく経ってからの原稿だろうか。
「1人で作ったことへの驚き」「切ない物語への絶賛の嵐」の中で、この原稿は結構異色である。

「二○四七年のアガルタにいるミカコと二○五六年の地球にいるノボルの心は、確かに時間や距離を超えて重なり合っている。だが、それは時空を超えて互いの「現在」を捉えようとしているわけではない。(中略)二人の心は、”時間や距離を超え”自分の胸の内に大切に抱えている、二○四六年の夏の思い出へと深く還ろうとしているのだ。」
「ここにあるのは、孤独を感じている少年少女のモノローグであって、二人の間を行き交い結ぶダイアローグではない。」
「ノボルとミカコもまた、どこでもない場所で携帯電話を手にしながら、つながっているかどうかもわからない相手に「ここにいるよ」とモノローグをつぶやいているだけではないのだろうか。甘い夏の夕陽にいつまでも心を奪われ、自分がどこにいるのかも見失ったままに。」

私はこの原稿を初めて読んだとき、「二人のやりとりが一方通行でしかない」という論旨にどうも納得いかなかったのだが、「秒速5センチメートル」を観た後では、非常に腑に落ちる。

以下は、「秒速5センチメートル」について書いた後に読んだ文章なのだが、風野春樹先生の「サイコドクターあばれ旅」より2003年5月29日の日記。本来の文脈はブログについて書かれたものだが、関係ありそうに思う。「銀河通信」と「ほしのこえ」の類似には、気づくべきだった。

『たとえばRead Me!や日記才人の一票のような、きわめて間接的で淡々としたコミュニケーション。日々誰に向けているのでもないテキストを淡々と書き、そしてどこかにそれを読んでくれる読み手がいる、ということに心を癒され、直接感想メールが来たりすると、かすかな苛立ちを感じずにはいられないような、そんな「コミュニケーション」。
 それは、アメリカ人からすればコミュニケーションの名にすら値しないようなものなのかもしれないのだけど、「それはどこか宇宙の果ての知らない星からの長距離電話」(谷山浩子「銀河通信」)であり、「誰でもない他者」からの「あなたがここにいること」への承認のメッセージなのだ。だからこそ、誰が読んでいるかはわからないけれど、「もしもし見知らぬ私の友達 私はちゃんと歩いています」(同上)と日記を書くのである。細い、細い糸で結ばれたような儚いコミュニケーション。そもそもウェブ日記にとってもっとも重要だったのは、そうしたコミュニケーションだったように思うのである。
 そしてまた、ウェブログに限らず最近のウェブの世界は光が明るくなりすぎて、沈黙、夜の闇といった、儚いコミュニケーションを受け入れる土壌が急速に失われているような気がする。真夜中ひとりで黙っていないと、銀河通信は届かない。』


ついでにもう一つ、「町山智宏のアメリカ映画特電」第8回「イカとクジラ」も参考になる。
だいぶ前に、「セカイ系は遅れてきたニューシネマではないか」という思いつきを書いたのだが、あながち間違いじゃなかったかも。

2007年3月18日(日)
秒速5センチメートル

久々の長文で、「秒速5センチメートル」をアップ。例によってネタバレ全開なので、これからご覧になる方はご注意を。

題して、新海誠=山本直樹説。

2007年3月13日(火)
宇宙は豊饒なり

前回「ロケットガール」に苦言を呈したら、さっそくこんなニュースが。

『土星の衛星・エンセラダスに生命存在か…NASA
3月13日11時53分配信 読売新聞


 【ワシントン=増満浩志】米航空宇宙局(NASA)は12日、水の存在が確認されている土星の衛星エンセラダスについて、「内部に放射性物質があり、これが熱を発し続けている」との見解を発表した。

 これにより、地下に熱水が存在する可能性が高まり、NASA研究チームの研究者は「生命に適した場所が存在する証拠をつかんだことになるのではないか」としている。

 エンセラダスの表面は氷点下約200度だが、地球の南極にあたる部分で火山のように水蒸気が噴出しているのが、米探査機カッシーニによるこれまでの観測で昨年確認されている。その後の分析で、水蒸気に窒素ガスが混じっていることが新たに判明。この窒素ガスは、アンモニアが熱分解したものとみられることから、外部の研究者も加わったNASAの研究チームは「地中に高温高圧の場所があり、熱水の中で有機物が豊富に合成されたはずだ」と結論づけた。』

ね、現実の方がエキサイティングでしょ?
これって、星野之宣の「ベムハンター・ソード」に出てきた原子力生命圏て奴だよな。本当にあったんだ。だいぶ以前に、火星にも生命のあった痕跡らしきものが発見されたというニュースがあったが、宇宙は意外に豊かな世界なのかも。木星圏という言葉が俄然現実味を帯びてきましたな。

余談だが、アニメ版「MOONLIGHT MILE」が、意外に(失礼)いい。確か原作1巻の冒頭でいきなり無重力Hシーンから始まって、うんざりしてやめた覚えがある。今どき「さよならジュピター」かい。
アニメ版はそうした下品さ(キッチュとかパワフルとか言うのではない、ただの)がなくなって、いい感じにハードだ。スタジオ雲雀が製作してる、というのがすごくイメージに反していて面白い。

余談その2。石黒正数の「それでも町は廻っている」を衝動買いしたのだが、その中に「木星の地表に探査機が着陸した」というエピソードがある。私の記憶が確かなら、ガス状惑星である木星には、地球で言うような意味での地表はないはずなんだが・・・。もちろん、このマンガはSFでもなんでもないから、こんなツッコミは野暮の極みなのは承知しているが、それでも、こんな知識は常識のうちだと思っていたよ。

2007年3月11日(日)
春の新作

「ロケットガール」
期待してたけど、あまりの軽さとありがち演出の連発に、3話で諦める。
JAXAが協力しているってホントか?今頃後悔しているに違いない。女子高生の宇宙飛行士って設定がまずありえないんだから、それ以外はとことんリアルで埋め尽くさなければ説得力がないだろうに。この作品より、現実の宇宙開発の方が余程ドラマチックでエキサイティングだ。とりあえず「メタルカラーの時代」でも読むべし。

「REIDEEN」
この3DCGロボットの造形を見ていると、今ならモーターヘッドでも完璧に動かせそうだ。それが観ていて気持ちいいかどうかは別問題だが。しかし、CGが使えるからって意味もなくカメラが回り込むのは、もうやめてほしい。カッコ悪い。
それと、碧乃玲のキャラ造形って、役回りもデザインも完全に「ゼーガペイン」のシズノ先輩とかぶってるんですけど。神秘的な女性というと、ストレートロングの黒髪しかないのかね。現実にも絶滅危惧種だし、髪に霊力が宿るとは言いますが。

2007年3月8日(木)
続・秒速5センチメートル

無事に佐渡から帰ってきました。

旅のつれづれに、「秒速5センチメートル」について考えていた。まだまとまっていないのだが、思いついたことをいくつか。ややネタバレあり。

1 ドラマの基本構造を「葛藤→解決」とするなら、この作品には、ドラマがない。特に第3話において顕著。それなのに、映画として抜群に面白く、観客の情動を揺り動かす。

2 「ほしのこえ」以来の共通のモチーフである「届かない思い」が、「ほしのこえ」では「届くまでに極端に時間のかかるメール」、「雲のむこう、約束の場所」では「忘れられてしまう気持ち」として表現されていたが、本作では「渡されない手紙」となる。にもかかわらず、新海映画としては初めてのキスシーンがある。

3 新海作品としては初めて、登場人物の「家族」が描写される。

この辺を手がかりに、もう少し考えます。 

2007年3月4日(日)
秒速5センチメートル

初日の舞台挨拶を聞いてきた。

新海誠監督の他、作画監督・キャラクターデザインの西村貴世、美術の丹治匠、馬島亮子、音楽の天文の各氏の豪華版。・・・なのだが、何しろ普通なら予告編を流している時間を使っているので、1人あたり2言3言のコメントだけだった。そういう意味では期待はずれで、もっと濃い話を聞くには、監督と作画監督だけの挨拶の回に行くべきだったようだ。
とは言え、制作環境の話などは面白かった。
上記のメインスタッフは、監督の自宅兼スタジオに通いで作業し、週休2日ペースだったとか、原画は西村氏のツテで集め、動画は無名の人か学生さんだったとか。
「雲のむこう、約束の場所」で問屋制家内工業レベルになったと思ったら、また家内制手工業に戻ってしまったようで。

肝心の作品は、テーマはこれまでと共通するものを内包し、私小説的になった分、さらにひりひりと痛いものに仕上がった。
第1話「桜花抄」。「雪で電車が遅れ、待ち合わせの時間に間に合わない」というただそれだけのことで、ドラマが生まれる。凡百のクリエーターも観客も、肝に銘ずべし。
よくまとまって見所の多い、第2話「コスモナウト」。
ロケット打ち上げの瞬間に、虫の音がぱたりとやみ無音になる効果が印象的。
天空の高みを目指す志向はこれまでと同じく、光と影の使い方がさらに洗練された。とりわけ、ロケットの白煙が空を2つに裂き、その影によって青空の一方にのみ陰りを与えていくシーンは、鳥肌が立つほど美しい。
激しいカットバックが特徴の第3話「秒速5センチメートル」。何だか、時間軸の操作でミスリードされてるように思うのだが、考えすぎだろうか。ちょっと判断保留。
まとまったら、また書きます。

明日から佐渡ヶ島に出張するので、ちょっと更新お休み。
2007年3月1日(木)
TYPE−MOON

この辺を拝読して、思ったこと。

ノベルゲーム立ち絵の巧拙問題 

竜騎士07の絵はうまいかどうかという話について


私はPCゲームを一切やらないので(別に含むところがあるからではなく、単に時間がなくて手が回らないから)、ゲームの絵そのものについてあれこれ言う立場にはないのだが、TYPE−MOON作品の竹内崇氏の絵がそんなに魅力的なものだとは、やっぱり思えない。
だが、ネット内のイラストサイトを巡回などしてみると、TYPE−MOON作品のイラストは百花繚乱の状態である。本家以上と言っても過言でない作品も、数多い。
逆に「涼宮ハルヒ」は、あれだけのブロックバスターでありながら、本家以上・・・は無理でも、ひと味違った魅力を有するイラストって、少数の例外を除いて見かけない。いや、あくまで私の主観にすぎないが。
思うに、いとうのいぢの絵は、シンプルにして完成度が高すぎるのではあるまいか。(他には駒都えーじあたりが思い当たる)

TYPE−MOON作品のヒットの一因が、この適度なスキの多さにあるような気がする。


閑話休題。
妄想代理人8話(うつのみや作画で有名な回)の、ハンドルネーム「冬蜂」って、村上鬼城の句「冬蜂の死に所なく歩きけり」から来ているんだって、今頃になって気づいたワタクシ。
まさに内容のとおりだ。

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