更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。


2006年9月30日(土)
うっかりまたシャマランを観てしまった

「シックス・センス」「アンブレイカブル」「サイン」と騙され続け、もう絶対に観てやらんと思っていたのだが、WOWOWで「ヴィレッジ」を放映したので、つい観てしまった。だって前世紀のアメリカの農村と、村を取り巻く森に棲む「何者か」との契約譚なんて、遠野物語みたいで面白そうなんだもの。どうせ裏切られるのはわかっているけれど、シチュエーションだけはいつも魅力的なんですよね、この人の映画。

以下ネタバレ。ご存じだと思うがシャマラン映画はネタが命なので、これから観たいと思っている方は読まない方が。
まあ金払って観なくてよかった。一言で言って、何ともいびつな映画だ。
傷ついた人々が作った、小さな小さなユートピア。
ユートピアを守るための、ある秘密。
いびつだというのは、その自閉したユートピアのありようが一つ。もう一つは、ユートピアの中にもこの映画で描かれた綻びがあるわけだが、その綻びが盲目と知恵遅れの2人によってもたらされることだ。この2人は、それぞれ障害がある故にイノセンスな存在として描かれているのだが、それって、ほんとに正しい思想か?
ユートピアの中で衝突する2つのイノセンス。モチーフとしては面白いが、なんか根本的な居心地の悪さを感じる。うまく言えないので、とりあえずここまで。

ちょっと野暮なことを言えば、ある程度の文明と人口を持つ社会が、完全な自給自足で交易もなしにやっていけるとは、とうてい思えない。病気、野獣、気候。現代文明を捨てれば幸福だという思想もまた、脳天気にすぎる。とは言え、アーミッシュの村は現代アメリカに実在するわけで、絶対あり得ない話とも言い切れないのが怖い。

なお、9100ESのおかげで、森の中のサラウンド感は圧倒的。突然デカい音で驚かす、相変わらずの下品な演出も堪能させてもらった。


「太陽」のレビューを読み返してみたら、結構いいことを書いてるような気がしたので、本文に転載

2006年9月27日(水)
環境保護運動の欺瞞

昨日が鯨の話だったので、そのついで。

「動物保護運動の虚像」(梅崎義人)を読んだ。
タイトルの通り、鯨やアザラシやアフリカ象やアオウミガメといった生物の「保護」にあたり、一部の先進国(と言うか、基本的にアメリカ)と過激な環境保護団体が、いかに科学的データを無視し、国際条約をねじ曲げて禁漁を強要してきたか、という話。著者は、捕鯨禁止までの各国の動きを丹念に追っており、迫力がある。

「現実には、クジラもアフリカ象も増えている。カナダのアザラシは200万頭以上の資源量があり、カナダ政府は年間2万頭の捕獲枠を定めていた。だが、毛皮が売れなくなり、アザラシ猟が衰退すると、その資源は過剰になった。その結果、主要なエサであるタラ資源は減少し、現在タラは禁漁になっている。」
もっと皮肉なことに、「保護」したはずの生物が逆に減少している例もある。
「ハーレムを作るオットセイの生態を考慮し、性成熟年齢に達する前の3歳から4歳のオスを間引くのがアリュート人によるオットセイ猟の基本だった。猟の中止でオスが増え、ハーレム作りを巡ってオス同士の生死を賭けた闘争が頻発するようになった。オットセイ社会は混乱して、ハーレムの形成が激減。その当然の結果として出生率の低下を招いた。」

有力な環境保護団体の幹部の発言。
「われわれは鯨の次のキャンペーン用動物を探していた。キャンペーンの対象になるのは、身近な動物で親しみが持て、しかもカリスマ性がなくてはならない。」
寄付金を資本に活動する環境保護団体は、巨大化した組織を維持するために、次々に保護すべき動物を「発見」しなければならないのである。
著者は、怒りを込めて告発する。
「環境団体はキャンペーンの対象にした動物の保護のために資金を投じたことは、過去に一度もない。調査捕鯨への参加を呼びかけても応じない。クジラ、象、海亀などの資源を独自で調査したこともなかった。」

私も以前から、動物保護運動のいかがわしさは感じていた。極端な例だが、天然痘ウイルスを考えてみよう。天然痘は、ワクチンの普及によりほぼ撲滅され、現在は米ロの研究機関に保存された株があるだけだ。
さて、天然痘ウイルスは今まさに、人間のエゴにより絶滅の危機に瀕している。動物愛護団体が天然痘ウイルスの保護を訴えたという話は、寡聞にして聞いたことがない。ウイルスは生物ではないというのはこの際、本質的な問題ではない。

これは別の本で読んだ、長年捕鯨に携わってきた研究者の談話。
「資源として利用できない生物は、誰も本気で保護しようとはしない。」
深い言葉だと思う。

ただ、標題書にはひとつ欠点がある。動物保護運動の源流をローマクラブの「ゼロ成長主義」に求め、「彼ら」の動機を、有色民族国家の発展を阻害し、アングロ・サクソン国家の世界支配を継続させることだ、という主張に貫かれていることだ。
これは、ユダヤ資本の世界支配と50歩100歩の陰謀論である。この幼稚な世界把握のために、本書自体が安っぽくなってしまっているのは残念だ。
日本とアメリカが連携して、中国の覇権主義に対抗している世界の現状を見れば、なおさらである。

2006年9月26日(火)
鯨神

標題は「くじらがみ」と読みます。’62年の日本映画。例によって阿佐ヶ谷にて。
原作は宇能鴻一郎!鯨のような巨根の主人公が日本列島を股にかけて女体探求して、わたしじゅんとしちゃうんです、みたいな映画ではもちろんなくて、明治初期の九州の捕鯨を生業とする漁村を舞台に、鯨神と呼ばれる巨大な鯨に父と兄を殺された漁師の復讐を描く映画である。言ってみれば、日本版「白鯨」。ただ、メルヴィルの描く白鯨モビー・ディックが矮小な人間を嘲笑う絶対悪だったのに比べると、かなり趣が異なる。

(以下ネタバレ)
映画としての見所は、特撮を駆使した捕鯨のシーンなわけだが、さすがに古さは隠せない。むしろ注目は、鯨神を仕留めたものの、自身も重傷を負った主人公の行動である。彼は死期を悟り、浜で解体された後に残った鯨神の頭部の隣に、自分を横たえて欲しいと頼む。
この鯨の頭というのが、本当に実物大のハリボテで、見物のひとつ。
主人公は鯨神に語りかけながら、自分の人生を思い返す。そこにやってくるのが、不貞を告白する女房に、鯨神を倒した褒美に、財産も娘もやるという名主に、好きでもないのにしきたりだから結婚するというその娘。

虚栄と欺瞞を見せつけられた主人公は、自ら鯨神になりたいと願う・・・。本来はそういう展開だと思うのだが、捕鯨シーンのスペクタクルを主に据えてしまったために、焦点がぼけてしまっている。最期には神父が懺悔を聞きに来るというシーンが絶対に必要だとも思う。
どのみち、中盤寝てたので自信がないけど。
阿佐ヶ谷通いは、来週の「宇宙人東京に現わる」で一段落。

以下は蛇足。
この鯨は、セミクジラという設定である。漢字で背美鯨と書く、というのは今回初めて知った。
こういうの。曲がった口が特徴。私は、鯨というとマッコウクジラを連想するのだが、これって捕鯨が身近でなくなってから刷り込まれたものではないかな。
ついでだが、私は鯨を食ったことがない。小学校の給食に出たはずだ、と言われるのだが、少なくとも覚えがない。よく非国民呼ばわりされます。

2006年9月25日(月)
太陽

アレクサンドル・ソクーロフ監督の「太陽」を観てきた。
その内面の計り知れなさ、という点において、現代史に実在した人物としては最大の難役であろう昭和天皇を、イッセー尾形がまさしく一世一代の名演で演じる。イッセー尾形を起用した理由は不明だが、私の想像では、「一人芝居の第一人者」であることが決め手だったのではないか、と思う。

断片的な記録や公的発言からすると、昭和天皇は、歴史の節目ごとにもっとも正確な情勢判断を下していながら、その意志が政策に反映されたのは、ポツダム宣言受諾の「聖断」だけだった。現人神として一国家の運命を担いながら、その破滅を食い止められない歯がゆさ。それはギリシャ神話の予言者カサンドラのごとく、まるで一人芝居のようなものだったろう。それも、相手役どころか観客さえいない一人芝居である。イッセー尾形にとって、その恐怖と絶望は身に迫るものであったろうことは、想像に難くない。
(誤解の多いところなので書いておくが、明治憲法下の天皇は立憲君主であり、責任政府の決定を覆す権限はなかった。また、天皇の意志が反映されなかったのは、無視されたのでも曲解されたのでもなく、単に国内外の情勢がそれを許さなかっただけである。)

よくリサーチされた映画である。昭和天皇が御前会議で明治天皇の御製を紹介するのは、日米開戦を決定した御前会議で実際にあったエピソード。開戦の遠因を排日移民法に求めるのは、「昭和天皇独白録」の記述。「人間宣言」の録音技師が自決した、というエピソードは、史実かどうか私は知らないが、三島由紀夫の最期を連想させる。

この映画を特徴づけるのは、音と光である。
本作は、全編ノイズに満ちている。飛行機の爆音、鳥の声、虫の声、時計の音。それはまるで、神にとっては人の声も鳥の声も、全て等価なものであるかのようだ。
また、タイトルが「太陽」でありながら、太陽と青空は決して映らない。
舞台は地下防空壕の会議室であり、夜の廃墟であり、ロウソクに照らされたGHQ司令官室であり、常に闇に閉ざされている。写真撮影や研究室の明るいシーンでさえ、光源はどこにあるのか解らず、頼りない光があるだけだ。
人間宣言を経て、ラストシーンに初めて、薄闇の中の太陽が映る。人であれ神であれ、天皇はこの国の上に柔らかな光を送り続けている。

2006年9月24日(日)
A&Vフェスタ2006

昨年に続いて、パシフィコ横浜まで行ってきた。
ソニーのSXRDプロジェクタの普及型、VW50のお披露目あり。デモ映像が、チャカチャカした編集の予告編ばかりだったので、じっくり観るというわけにいかなかったが、VW100に比べてもほとんど見劣りしなさそうだ。パナソニックも、これは従来の透過型液晶ながら、フルHD対応モデルAE1000を投入予定。サンヨーはまだ720pモデルだが、Z5を発表。
注目はパナソニックだろう。液晶パネルが従来のものだけに、価格も実売50万を切りそうだ。筐体はまだ試作機らしく、えらくゴツかった。
対照的に、DLP陣営の元気のなさが気にかかる。三菱もシャープもマランツも、DLPメーカーは新作発表どころか参加自体していない。液晶特有の黒浮きや応答遅れといった欠点は、もうほとんど問題にならないレベルまで来ている。低価格化が望めないDLPが、これからどう生き延びるつもりなのだろうか。

2006年9月21日(木)
映画とミステリ

映画好きとミステリ好きは、重なるところが多い。年末になると、その年のベストテンを選ぼうとするあたりもよく似ている。
映画もミステリも、その魅力を理解し愛するために、並はずれた知性を必要とするからだろう。だが、ひとつ決定的に違うところがある。

論理的整合性の追求である。映画は、時に理屈よりも視覚的納得力(「説得力」ではなく)を優先する。それこそが映画本来の魅力だからだ。一方、本格ミステリは論理性が命である(らしい。よく知らんけど)。

この両者の違いがよくわかるのが、「ユージュアル・サスペクツ」('95)である。私は、この作品をオールタイム・ベストに入れるくらい好きなのだが、ミステリ者の間ではあまり評判が芳しくないらしい。「語り口がアンフェア」というのである。
この映画は徹頭徹尾「語り」にこだわった映画である。主人公の述懐という形の「語り」で進行する物語は、やがて恐るべき「騙り」を生む。

この映画の魅力はただ一つ、全ての真相が明らかになるその瞬間にある。カットバックする画面のリズム、四方から響く声。これこそが映画的快感である。
「犯人が途中で分かった」「どんでん返しがありきたり」などといった評は、まるで本質からかけ離れている、と思う。映画を観る楽しみは、謎解きにあるのではないのだ。

2006年9月20日(水)
「ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学」を読む

「ぼくらは少年演出家」の平川さんが紹介していたので、気になっていた本である。面白い!なぜこんな面白い本をこれまで読んでいなかったのだろう。

ヒッチコックの「裏窓」をテキストに、「よくできたサスペンス映画」であるこの作品が、「実は作中で殺人事件が起きた客観的証拠が一度も提示されていない」ことを指摘し、ヒッチコック映画においては「外面と内実の乖離」が重要なテーマであると論じる。
さらにこのことを映画史全体に敷衍して、誕生したばかりの映画は、まず画面に映されているのが我々と地続きの現実であることを観客に了解させるようになった。そのための重要な手法が主役への感情移入であり、またそれを支えたのが「切り返し」というカット割りのテクニックである。
そして映画が成熟するにつれて、「映っているものは現実ではないかもしれない」という可能性をも提示するようになった。その歴史の過渡期から成立時に位置するのが、ヒッチコックの作品群である−といった趣旨。
だいぶ前からトリュフォーの「ヒッチコック映画術」を読んでいるのだが、なかなか進まず−いや、寝る前に本を読むより、この日記つけるようになっちゃったからなんですが、第一大きすぎて通勤電車で読むわけにいかないんだよね。
「裏窓〜」の方を先に読了してしまって、トリュフォーによるヒッチコック本人のインタビューも、構えて読んでしまいそうである。

ところで、この本を読んで強く想起したのが、藤津亮太氏による「千年女優」論・「立花源也という『観客』」(「アニメ評論家宣言」所収)である。
「裏窓〜」からの引用
「映画のスクリーンと集合住宅の窓とが互いによく似た形をしており、それゆえスクリーンと窓はよく似た働きをするだろうということです。(中略)スクリーンも窓も、それを覗き込むものに視覚的情報を与えます。」
「立花〜」からの引用
「千代子の家に向かうトンネルが、画面の中にもう一つフレームを作り、まるで立花がそのフレームの中に入りそうに見えるカットがある。この瞬間から立花は、千代子という映画を鑑賞する唯一の観客になったのだ。」

ヒッチコック自身が「外面と内実の乖離」という主題に自覚的だったのかどうか、本書は明らかにしていないが、今 敏監督は明確に映画=視覚情報の虚構性に気づいている。ヒッチコックから50年を経て、映像はここまで来た。

ちなみに、藤津氏の論文の初出は03年、「裏窓〜」の一部発表が05年。何らかの影響があったのでは、と想像すると楽しい。

2006年9月19日(火)
映画という体験

BS対応のHDDレコーダーを使うようになってからというもの、めっきり映画館に行くことが少なくなった。少なくとも、売れ線のハリウッド映画を全くと言っていいほど観なくなってしまった。
ところが、録画して観たはずの映画のタイトルを眺めてみると、まるで内容を覚えていない作品がかなりある。一頃、NHK BS2でやっていたマイナーな西部劇を好んで観ていたのだが、覚えているのは「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗」('66)と「無法の拳銃」('59)くらい。
一方、劇場に観に行った映画というのは、どんなにつまらなかろうが、途中でダウンしてしまおうが、内容自体は覚えている。まあ、トータルで12分しか起きていられなかった「ヴェルクマイスター・ハーモニー」('00 ハンガリー・独・仏)みたいな映画もあるが。
思うに、「映画館へ出かけ」、「金を払い」、「大きな画面に大音響で」、「見知らぬ他人と一緒に」映画を観るというのは、単に映し出された映像を観るというに留まらない、強烈な体験なのだ。いずれ映画もネット配信が主流になるのだろうが、そこに映し出されるのは映像コンテンツのひとつではあっても、私の好きだった「映画」ではおそらくないだろう。「映画」と「映像」を隔てるのはなんなのか、うまく言葉では言えないのだが、「イベント性」というのが重要な要素に違いない。

話変わって、久しぶりにハルヒ12話「ライブ アライブ」を観た。初見では気づかなかったのだが、ウェイトレス姿の鶴屋さんが歩くシーンで、ポケットの小銭がじゃらじゃらいう音が、ちゃんと聴こえるのだ。アンプを新調したので、埋もれていた音が聴こえるようになったらしいが、TVの2チャンネル音源にここまで丁寧な音響設計をしているのが嬉しかった。いかにもこの作品らしい。

2006年9月18日(月)
「LOFT」を観てきた

最近歳のせいかすっかり恐がりになってしまって、ホラーはご無沙汰だったのだが、行ってきた。テアトル新宿だが、ロビーで待っていると、モーニングショーでまだ「時かけ」をやっている。真琴のラストの大泣きって、外まで聞こえるのですね。

「LOFT」についてはかなり予備知識を仕入れて観たのだが、なんだか不思議な味のある映画だ。「CURE」のような生理的気色悪さ、居心地の悪さでもなく、「回路」のような黙示録的壮大さでもない。ジャンル自体がミステリでもありサスペンスでもあり、あえてJホラーの文法から少しづつずらして、簡単に言うと、なるべく怖くないように撮っているようにさえ思える。
豊川悦司が最高。哀しげな瞳で立っているだけで、理由もなく不安感をあおる。終盤、満を持して動き出したミイラに対して、「動けるんなら最初から動け。自分の問題は自分で解決しろ」と襟首つかんで説教かます。

パンフから、技術的な話をいくつか。
妙なジャンプカットが多用されると思ったら、「ハイビジョンカメラと家庭用のDVカメラをほぼ同じアングルから同時に回し、ランダムにつないでいる」のだそうで。
「こう撮ればこの物語の中で何が起こっても許されるんじゃないかと。人が何回死んで何回生きても、この撮り方してるからいいでしょと(笑)」
「『ホワット・ライズ・ビニース』は結構参考にしました。」やっぱり。「グエムル」の中の人も、ちゃんとこう言わなきゃダメよ。

中谷美紀のインタビュー。黒沢清について、
「他の監督の方々と違うところは・・・距離感ですね。俳優と監督、監督とスタッフ、スタッフと俳優、観客と作品、カメラと俳優、またはカメラ位置だったり・・・。全てに距離が保たれていて、それが全て等間隔のような気がします。」
「熱狂の仕方にムダがありません。撮影も、ほぼ10時ごろに終わって普通に、サラリーマンのように朝集合して帰っていく。映画をつくっている泥臭さが一切なくて、そこが不思議でした。黒沢監督の持っているご自身の品の良さが、現場にも通じていましたね。」
「『人は理由がなくても行動する』とおっしゃっていただいて、その言葉で全てがクリアになりました。」
クローズアップを滅多に使わず、引いた画面の中で淡々と進行する物語の、冷え冷えとした肌触り。もっとえげつなく作ろうと思えば簡単なのに、常に抑制する上品さ。
それに気がついて、自分の言葉で語れる中谷にも感心した。

2006年9月14日(木)
最近印象に残った言葉

「一国の歴史の中においては、我々のように苦労を担当する世代もあるわけです。だから、僕はこれでいいんだ、と思っています。仲間にも、これでいいんだよ、と呼びかけたいです。」

伊藤桂一。戦記作家。「静かなノモンハン」他。文藝春秋9月号より
恨むことも、断罪することもなく。こういう戦後もある。

「ルワンダで私が知ったのは、もっとも邪悪な殺人者でも彼らの家族の平穏を願ってやまない、ということだ。希望があるかぎり、一歩でも前に進もうと思う。苦しみは癒えないが、もう自殺は考えないだろう。この地上には、生きたくとも生きられない人が、満ち満ちているのだから。」

ロメオ・ダレール。元ルワンダPKO部隊の指揮官。8月17日付朝日新聞より
ルワンダでの大虐殺を止められなかった自責から自殺を図るが、命をとりとめる。
ジェノサイドの再現を防ぐため精力的に活動中。

2006年9月13日(水)
「宇宙のステルヴィア」

もう3年も前の作品だが、例によってスカパー!で後追い視聴。
一カ所、しゃれた演出があったので「ステルヴィアのコーヒーカップ」をアップ。
既にいろんなところで指摘されているネタですが、ご容赦を。
あ、この回演出の後信治って、「フタコイオルタナティブ」9話を手がけた人だ。この回も、前半の買い物カートグランプリから、後半の切なさ全開のシャワーまで、およそ弛みというもののないエピソードだった。
しかし、その他に「ダ・カーポ」と「ジンキ・エクステンド」?

ちょっとした思いつき。
「Fate」の、歴史上の英雄が一堂に会して争うというプロットは、山田風太郎「魔界転生」とか豊田有恒「スペースオペラ大戦争」とかに源流を求めてもいいんだろうか。

2006年9月12日(火)
吸血鬼ゴケミドロ('68)

これは阿佐ヶ谷じゃなくて、WOWWOWで観ました。(ネタバレあり)

事故で山中に不時着した旅客機の乗員を、宇宙から来た寄生吸血生物ゴケミドロが襲う!
なんつーか、どこから突っ込んでいいのかわからん映画だが、有名な高英男の額ぱっくり、アメーバずるずるのシーンはとりあえず見もの。
なんで宇宙人が寄生して吸血して侵略なのかは突っ込んではいけないのだろうが、オヤジの吸血鬼がオヤジの犠牲者と絡み合う図が、絵ヅラとして決定的に間違っている。
生存者はパイロット、スッチー、政治家とその秘書と妻、要人暗殺犯、ベトナム戦争で戦死した夫の遺体を引き取りに行くパツキン女、怪しい精神科医に宇宙生物学者(なんだそりゃ)。人物は類型的で、サスペンスは盛り上がらず。取って付けたような反戦メッセージ(わざわざ記録映像をコラージュする)。
珍品という他の価値はない映画−と言いたいところなのだが、驚愕のラストが!
セオリー通りに生き残ったパイロットとスッチーが山を下りてみると(どう見ても事故現場から歩いて10分くらい)、ゴケミドロの襲撃により人類は既に絶滅していたのだ!R・マシスンか藤子不二雄か。
・・・まあ、高速道路の料金所と病院の待合室しか写らないのでさほどスケール大きくないのだが、衝撃的ではある。1時間半我慢した甲斐はあった。

つまらん話だが、平井和正「死霊狩り」のエイリアンの初登場シーン(墜落事故の現場で、首がもげているのに蠢く死体)のイメージは、この映画の冒頭によく似ている。小説の初出は'72年。
それにしても、今観ても全く古びていない「マタンゴ」('63)の奇跡的な完成度の高さに、改めて驚く。「おいしいわ、先生。ほんとよ」

ところで、黒沢清の新作「LOFT」が観たいんだけど、怖いのやだし。どうしよう。

2006年9月11日(月)
BSアニメ夜話「千年女優」

録画したっきりだったのを、ようやく視聴する。

焦点はやはり、最後の一言。
私は、「たとえ追いつくことができなくても、追いかけること自体に意味はある」といった解釈をしていたのだが(中原翔子と同じで少し傷ついた)、そうするとひとつ引っかかることがあった。
アクセントの位置である。

「だって私、あの人を追いかけてる私が好きなんだもの」

アクセントは「私が」の部分にある。強調するところが間違っているんじゃないかと思っていたのだが、超ベテランの小山茉美が解釈を誤るとは考えにくいし、第一、監督や音響監督の演技指導も入っているはず。
ゲストの村井さだゆきの発言からしても、やはりこれで正しいのだろう。
とすると、やはり女優というのはこういう生き物なのだ、という解釈になるわけだ。

少し長くなるが、藤津亮太「アニメ評論家宣言」より引用(p198〜199)。
『このセリフを聞いて立花役の飯塚昭三は「俺がやっていたのはなんだったんだ」と思ったそうだ。確かに、この立花の最後の驚きの表情は、最後まで千代子のことを理解させてもらえなかった、悲しくも愚かしい「観客」の顔にほかならない。
「女優の映画」として千代子のセリフを聞くと、徹底的に自分の情念に自分の存在を預けている女の姿が見えてくる。それまで語られてきた純な思いが、ややベクトルを変えて深みを持った情念へと転化する一瞬は確かに、その生々しさにドキッとさせられる。
しかし、これを「観客の映画」のセリフとして考えたらどうだろう。「観客」はスクリーンの向こう側へ行こうとはするが、自分たちが決してそちら側に行けないことも知っている。にもかかわらず彼らが飽きずにスクリーンを眺め続けるのは、そうした無限に焦がれ続けている自分が好きだからではないか?
そう考えた時、千代子のセリフは「観客」として自分に焦がれ続けていた立花に、自分もまた一方的に焦がれ続けている「観客」にすぎなかった、と告白しているようには聞こえてはこないだろうか。もしそうだとしたら、この一瞬だけ千代子と立花は同じ「観客」という悲哀と滑稽さを共有したことになる。』

最初にこの文章を読んだ時は、なんだかこじつけくさく思えたのだが、今はすんなりと理解できる。

以下は雑感。
・向こう傷の男の描写があるので、語られたこと全てが虚構とは思えないが、最後の最後にこれは所詮映画なのだ、という突き放しをするのは、語り口が巧妙なだけに「あの作品」より意地が悪い。
・岡田斗司夫氏が、「月面の低重力の描写がないので白ける」という意味の発言をしていた。私はそんなの気にならないなあ、と思っていたのだが、後で思いついた。あれって、東宝特撮の月面のシーンを忠実に再現しているんじゃないか?

2006年9月10日(日)
スカパー!のPPV

今、スカパー!の有料チャンネルで「攻殻機動隊」の新作を放映中である。

「Stand Alone Complex」の大ヒット以来おなじみの商法だが、これって意味あるんだろうか。画質はそれなりだし、音声は2ch。コピーガードがかかって録画不可の上、料金はレンタルより高い。一体どういう客層を想定しているのか、今イチわからない。
私も当初はこれが観たくて、スカパー!チューナーに電話線をつないだのだが、物語が佳境を迎える頃には観なくなってしまった。画質音質が良好な状態でクライマックスを観たかったからだ。
「Solid State Society」も、DVDが出るまで待つことにする。

久々にレンタルで、「ヘルシング」の2話を観る。1話は、なんで今さらアニメ化するのか意味不明な出来だったが、今回は良い。スタッフも乗ってきたようだ。

2006年9月7日(木)
最近のアニメ雑感

今日は無難に。スカパー!視聴が基本なので最近でもなんでもないのだが。

「Blood+」が現在40話。
以前、この作品のトランスジェンダーな感じを指摘したのだが、ディーバがリクの姿を奪うに至って、なおさらその印象が強くなった。単なる雰囲気に留まらず、テーマに関連していくとよいのだが。ラストで小夜が男の子になったりしたら、笑うぞ。OPは、第4期からごく普通の絵に戻ってしまった。第2期、3期のアヴァンギャルドさが好きだったので、ちと残念。

「Fate/stay night」完結。いつの話かって感じだが。本来あまり好きなタイプの作品ではないし、アニメとしてさほど優れたものとも思えないのだが、私としたことがセイバー可愛さについ最後まで観てしまった。1話では、セイバーが登場しないことに感心した記憶がある。一見さんのハートをいかにキャッチングるかが勝負だというのに、一番人気のセイバーの投入を見送るとは、腰の据わったスタッフだと思ったのである。原作を尊重した結果でもあろうが。
ただ、なんで日本に魔術師の一族がいるのか、日本の地方都市でなんで聖杯戦争をやっているのかは、説明がいると思う。何話か見落としているので、どこかで説明したのか?
続編への色気や甘さのない、ストイックな結末に好感。

「Ergo Proxy」最終話を録画したまま放っていたが、やっと観られた。
これも以前、「王の帰還」ではないかと書いたら、「デビルマン」だった。
帰還した王が見たものは、滅び行く王国ともう一人の王。
とりあえず最初から見返します。

アニマックスで、「伝説巨神イデオン」の放映開始。映画版までフォローするんだろうな。

2006年9月6日(水)
よみがえる空

昨日、高山文彦のことを書いたので、ついでにこの作品について。

アニメ界にはごくまれに、地味だが丁寧に作り込まれた佳作が存在する。例えば「おいら宇宙の探鉱夫」とか。「よみがえる空」も、間違いなくそうした作品のひとつである(こういう作品がごくまれにしか現れない、ということが問題の根本なのだが)。高山文彦の参加するTVシリーズということに期待する一方で、「ガンパレード・マーチ」みたいになるんじゃないかと密かに心配していたのだが、杞憂だった。

某所で、杉山潔プロデューサーのインタビューを読む機会があったのだが、企画開始から実に8年を要した、思い入れの充満した作品だったのだ。

「原作のないオリジナル作品の上、テーマが地味であるとの理由により(OAVの)制作は許可されませんでした。そこで、私は企画をより多くの人に観て貰えるTVアニメに変更し、外堀を埋める作業から始めました。(中略)漫画の連載を先行させ、小説版の発行やタイアップ・プラモデルの発売などの商品化の目処をつけることでようやく制作許可を得るところまで漕ぎ着けたのです。」

「ストーリーにロープウェイが登場するとなるとロープウェイの事業者に取材を申し込んだり、松本空港が登場するとなると実際にロケハンに出かけたり」

「1クール13本の脚本開発に一年もの時間をかけることになりましたが、これは昨今のTVアニメでは異例中の異例です。」

クオリティの高さにも納得がいくというものだ。「海猿」の便乗企画と思っていた自分に、激しく反省。まあ「海猿」のヒットが追い風になったのは確かだろうけど。
登場人物への細かな観察眼がすばらしい。キャラ的に言うと、ヒール役の本郷3佐が一番のもうけ役。憎々しい態度が、次第にプロ中のプロとしての尊敬を集めていく。それが、愛娘の前では激甘パパなのもリアル。感心したのが、疲れて帰ってきた本郷3佐に、娘が「パパに本を読んであげる」と駄々をこねるシーン。「読んでもらう」じゃなく「読んであげる」であることに、驚いた。確かに、現実にありそうなシーンなのに、少なくとも私は映像作品の中でこういう描写を観たのは初めてだ。

ところで、実は「ガンパレード・マーチ」も結構好きだ。ゲームファンには悪評紛々らしいが、ラブコメとしていい出来だったと思う。敵中に2人で取り残されるお約束のエピソードや、演劇に並行して戦闘シーンをカットバックさせるシーンなど、高山脚本は図抜けていた。

2006年9月5日(火)
やっぱり問題になってた

私でも気がつくんだから当然だが、「グエムル」界隈がかまびすしい。

映画「グエムル」、ネチズンの間で日本アニメひょう窃疑惑拡散


先日も触れたが、画面を比べてみればみるほど、デザインが似ている。作中での演技も、そっくり。

上の記事には、こんな反論がある。
「『グエムル』と『廃棄物13号』には巨大警察ロボットが登場しないという根本的な違いがある」とし、「公権力の象徴である警察が『廃棄物13号』では猛活躍するという点、怪物の誕生が偶発的な事故でなく計画的な飼育という点、そして怪物退治のために怪物をスタジアムに誘引する点などが違う」

しかし、デザインが似ていることには言及していない。

例えば、「全身真っ黒の人間型で、後頭部が突起していて、眼がなく巨大な口を持つクリーチャー」をデザインしたら、誰がどう見てもギーガーの「エイリアン」であって、偶然の一致だとは言えないだろう。

細部が違うから盗作ではないというなら、同じ韓国映画の「オールド・ボーイ」はどうだろう。「理由もわからず長期間監禁された男の復讐譚」という基本プロット以外は全く別物だが、土屋ガロンの、日本の同名マンガが原作であることをきちんと謳っている。

さらにうんざりさせられるのは、予想通りこういう反応が出てきたことだ。

【グエムル】盗作疑惑は「反韓流・嫌韓流に起因」

私は何も、盗作だからいけないとか、つまらない映画だとは言わない。

ただ一言、「怪物のデザインは、『廃棄物13号』にインスパイアされました。あれは私の大好きな映画です」と言ってくれればいい。
権利の問題、訴訟の問題、オトナの事情で「パトレイバー」なんか知らないと強弁するのは、わからないでもない。だがその態度は、あまりにみっともない。
「グエムル」は大変な傑作であり、ポン・ジュノ監督の才能は本物である。
だからこそ、このみっともなさを惜しむ。

プログラムのインタビューより。
「怪物が人間を食べるところを直接見せるようなハードコアな描写は、個人的にはあまり好きじゃないんです。(中略)ハードコア的なものは、むしろ本当の恐怖やサスペンスを阻害するものではないかと僕は考えています」
本当に、よくわかった監督である。

蛇足1
最近似た事例で、「ロード・トゥ・パーディション」がある。これは公開後に、「子連れ狼」にインスパイアされたと監督自身が公表しているが、原作者の小池一夫には挨拶もなかったという。私の中では、これでサム・メンデスはだいぶ株を落とした。

蛇足2
上の記事中、「有名なアニメ監督の高山文彦」と言っているが、それを言うなら「伝説の」か「知る人ぞ知る」だろう。高山が「有名」なら、アニメ業界は余程ましな場所になっていると思う。

2006年9月4日(月)
「時かけ」に追加

先日の「語る会」で、「芳山和子が登場するのはなぜか」という話題が出たのだが、「原作ファンへのサービス」「真琴を振り回しているだけ」という以外の意見が出ず、がっかりした。
私も言葉にして考えてはいなかったから口を挟まなかったので、大きなことは言えないのだが、このままにするのはなんか気分悪い。

というわけで、改めて考えてみた


ネット巡回してて発見した、高畑京一郎型タイムリープの実例

 →「過去への退行を繰り返す“多重人格”の1症例について」


ほんと、世の中不思議なことがあるもんだ。

2006年9月3日(日)
「時かけ」を語る会と「グエムル」

2日に、有志で主催した、『「時をかける少女」を語る会』に参加させていただいた。オフ会を兼ねたようなイベントは初めてで、緊張しました。サイトで書いたことを中心に、最低限言いたいことは発言させてもらったが、キャラ話が中心だったので、あまり出る幕ではなかったかも。とは言え、濃厚なオタ話の連続で楽しかった。

4時間連続のこのイベントの後、レイトショーで「グエムル 漢江の怪物」を観る。「殺人の追憶」('03)のポン・ジュノ監督の新作で、なんと怪獣映画。体長10m前後で、都市破壊者という属性を持たないので、モンスターパニックものと言うべきかもしれない。普通こういう映画は、怪物の姿を見せないことでサスペンスを盛り上げていくものだが、これは最初から最後まで出ずっぱりの大活躍。川べりをこっちに向かって走ってくるところなんか、笑っちゃうほど怖い。

以下ネタバレあり。
一見して、「機動警察パトレイバーWXV」によく似ている。強力な前肢と退化した後肢、巨大な口、あるかないかの眼。鉄骨をよじ登るアクション。火だるまになって息絶えるラスト。さすがに乳揺れはないが。監督は「WXV」は観ていない、と言っているが、ちょっと信じがたい。他にも、アニメ・特撮くさい表現が山ほどある。槍で突き刺した後、押されてずずっと脚が滑るところとか、トドメを刺した後、振り返って見栄を切るところとか。

「グエムル」とは、「怪物」を意味する韓国語である。「なまえのないかいぶつ」?
この怪物は、在韓米軍が漢江に不法に流した化学薬品の影響で誕生した、という設定である。韓国にも、外国の軍隊を駐留させ、ようやく独立を保障される国として、どこかの国と共通する鬱屈があると見える。
英語原題を、「The HOST」という。「寄生生物の宿主」を意味するもので、作中では怪物が未知のウイルスの宿主という設定になっているからだが、アメリカに寄生した韓国と、宿主たるアメリカとのダブルミーニングであろう。
それを裏付けるビジュアルがある。
米軍は、怪物対策として「エージェント・イエロー」なる対生物兵器用化学兵器を投入するのだが、その噴霧器の形状は、怪物がしっぽでぶら下がった姿そっくりなのだ。
怪物も、その対策も、米軍がもたらす災厄。身勝手に見えなくもないが、偽らざる韓国の本音なのかもしれない。

ふと、エメリッヒ版「GODZILLA」('98)を思い出した。この映画では、ゴジラはフランスの核実験の影響で誕生したことになっている。核兵器の親玉が、なんで人のせいにするのかと当時は笑ったものだが、怪獣は常に異界からやって来る。意図したものではあるまいが、意外とこの映画は、怪獣映画の精神を正しく受け継いでいたのかも。

3日は、例によって阿佐ヶ谷で「宇宙大怪獣ドゴラ」('64)を観る。なんかゴム製のクラゲみたいのが泳いでいたような気もするが、ほとんど爆睡。

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