更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2007年2月28日(水)
善き人のためのソナタ

ミクシィで書いた文章の流用だが、「善き人のためのソナタ」の評を本文にアップ

ネタバレでちょっと補足を。
今になって気づいたことだが、この映画のヴィースラーとドライマンの関係は、一種同性愛的なものを感じさせる。ヴィースラーが、ドライマンの恋人であるクリスタが女優業に自信を失っているところを励まそうとするのは、ドライマンの幸せを願ったからとも思えるし、クリスタに過酷な尋問をおこなうのは、クリスタがドライマンにふさわしい相手であるか、その愛の深さを試すがごとくである。このときのヴィースラーは、まるでメフィストフェレスのように見える。そしてクリスタがドライマンを裏切ったとき、ヴィースラーはドライマンの反体制活動の証拠となるタイプライターを処分して、ドライマンを救う。クリスタとともに墜ちることを許さぬとばかりに。
結果、クリスタは死を選ぶ。

この映画のキモ、と言うか詐術的なところは、ドライマンが情報公開後に自身の一件書類を見て、ヴィースラーこそがクリスタを死に追いやった張本人であることに気づいたかどうかを、巧妙にぼかしていることである。気づかぬままに、新作小説をヴィースラーに捧げたのかもしれない。だとすれば、皮肉である。
ヴィースラーもまた、その責任と罪を自覚していたからこそ、ドイツ統一後は郵便配達夫としてひっそりと暮らしていた。つまりこの映画は、体制の中で「善き人」であろうとし、ついに善き人たり得なかった男の物語だったのである。


ついでに、検閲のために手紙の開封をおこなうシーンがあるのだが、封をはがすための蒸気の吹き出し口がW字型をしている。なるほど、封筒ののりしろの形に合わせてあるのだ。さすがドイツ人は合理的だなあ、と妙なところに感心してしまった。

2007年2月26日(月)
氷川先生のアニメ講座第6回

行ってきました。皆勤賞です。
三越側担当のKさんは異動するらしいが、第3期も開催決定。めでたしめでたし。

2007年2月25日(日)
しにがみのバラッド。

本日は小ネタ。
「しにがみのバラッド。」は6話しか放映されなかったことも含めて(まさか打ち切りではないだろう)、大していい出来の作品とも思えないのだが、作画的にやけに気合いが入っていて気に入ったのが第3話「ひかりのかなた。」のこのシーン。

  

重い荷物を肩にかけて重心がずれる感じが見事。

これとか。

    

堤防の上に引っ張り上げるときの重みと力感が良く出ていると思う。

おまけ。



布団の中で話しているときの、足の演技。あざといと思っても、やっぱり良い。

2007年2月22日(木)
馬鹿が戦車でやって来なかった

WOWOWで、「馬鹿が戦車でやって来る」('64)を観る。馬鹿な奴が馬鹿な振る舞いをするのを、もっと馬鹿な連中が馬鹿にするという笑いのとり方が不愉快きわまりなく、半分まで行かずにやめた。

寅さんを含めて、山田洋次の映画ってこれが初めてだったのだが、みんなこの調子なのなら、貴重な人生をムダにせずにすんだという意味で、これまで観なくて幸いだった。
基本的にコメディって観ないのだが、いままで一番笑った映画と言ったら、「奇人たちの晩餐会」('99)かなあ。日本公開が珍しいフレンチ・コメディの傑作。そういえばこの映画は、馬鹿な奴を笑おうとするインテリどもの浅薄さが次第に露わになっていく、という裏のある映画だった。

「ロケットガール」第1話。結構期待してたんだけど、1話を観るかぎりでは人物造形から設定から演出まで、ありきたりで平凡。「体重が軽い」というだけで女子高生を宇宙飛行士に、という無茶な展開は、有人宇宙飛行の実績作りに、推力は低いが信頼性の高い旧型ブースターを使用するため、という理屈でどうにかクリアしているが、これは原作に準拠してるだけだろうし。
どうも気になるのは、ソロモン諸島の現地人やら中国人のステレオタイプな描写。いいのか、21世紀にもなってそんなんで。海外配給を考えているなら、もう少し敏感になるだろうに。こういうのを観てると、「アニメを国際的に通用するコンテンツに」なんて、誰も本気で信じていないのだということがよくわかる。
そのかけ声自体も底の浅いものではあるがね。

2007年2月21日(水)
ニモ

一般人と会話していると、「ファインディング・ニモ」を「ファイティング・ニモ」と勘違いしている人が結構多い。戦ってどうする。
もっとも、とっさに「ファインディング・ニモ」が出てこずに、「リトル・ニモ」と言ってしまった私の方が病が重いが。

なお、イギリス空母の「インビンシブル」を「インビジブル」と間違えていた人もいた。見えない空母。
どこかの宇宙人の円盤みたいで、なにかよさげだ。
それにしても、最近流行のステルス軍艦というのは、のっぺりしていてカッコ悪いったらない。やはり軍艦というのはこう、無骨で出っ張りだらけでくろがねの城で(以下略)。

2007年2月20日(火)
エヴァンゲリヲン

庵野監督の所信表明文を読んだ。

「この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。」

ことの当否はともかく、庵野監督にはそう言う資格があると思う。
12年。人が変わるには、充分な時間。
プライベートでのいろいろが作家性にどんな影響を及ぼすものか、私には何とも言えないし、そういう見方は好きではない。

トミノ監督に、久方ぶりに「イデオン」を見返して、「昔の自分がこんな気持ち悪いものを作っていたのが信じられない」という意味の発言があったと記憶する。
スピルバーグは、「未知との遭遇」について、「いまの(家庭を持った)自分には、家族を捨てて旅立つ男の話など考えられない」と語った。
庵野監督もそういう心境なのだろうか。
「21世紀のエヴァ」はどんなものになるのか。
オタク人生は、楽しみが尽きない。

2007年2月19日(月)
大塚康生氏インタビュー

藤津亮太先生のブログから、大塚康生氏のインタビューを読んだ。

http://info.toei-anim-inst.jp/?eid=596627

目からウロコが落ちたのが、アニメーターを養成するにはまず原画を描かせなければダメというくだり。
「アニメーターの養成というと、どうしても動画として中割を教えるというところから始めているところが多いようだけれど、中割をいくら覚えても動きを覚えることにはつながらないんです。」

動画を海外発注するようになって、日本人の若手が動画の修行をする場がなく、産業構造の空洞化が危惧されて久しいが、その割には次から次へと新しい才能が登場するのが不思議でしょうがなかったのだが、そういうことなのか。
業界が無為無策のままではいけないが、むやみと将来を悲観することもないのかな。

2007年2月18日(日)
「シュヴァリエ」完結間近

「四銃士」のバリエーションと決め込んで気楽に観ていたら、オーラスを前に、壮絶な展開になっている本作。
とりとめなく、気になった演出ポイントを列挙。

第19話「紅に染むるまで」
デュランと剣を交えることになったデオン。リアに変身するとき口にする詩編「私はおまえに報復する」が、このときだけ、「主よ、私はおまえに報復する」に変わっている。つまり、残酷な運命を強いた神に対する呪詛にも読める、というわけ。

第20話「殉ずるものと」
テラゴリー先生の裏切り。オープニングで、テラゴリーが剣を捧げ忠誠を誓うカットがあるが、その相手がわからないようになっている。手の込んだ伏線だ。息子が死んだというエピソードも、かなり前に出てきたはずだし。

第22話「NQM」
キーパーソンの一人、マリー王妃の最期。前半で、王妃の胸元の、深紅のペンダントを強調するカットが多用されて気になっていたのだが、血とワインを暗示する役割だったわけだ。

いよいよ次週、最終回。
史実としてルイ15世は天然痘で死んだのだが、私は小学生の頃、「ベルサイユのばら」でこのシーンを見て長い間うなされた。「ブラック・ジャック」の人面瘡のエピソードと並ぶ、トラウママンガである。

2007年2月15日(木)
溝口健二特集観終わった

計6本、約12時間を費やして得た結論。私には、溝口映画は合わん。12時間中7時間は寝た。

以前、溝口映画の極端な長回しのことを書いたが、やはりこれは溝口作品の大きな特徴だそうで、本人の談話に、「絵巻物のような映画を撮りたい」という言葉が残っている。残念ながら、映画は絵巻物ではないし、ましてや撮影技術を見せるものでもない。
長回しと言えば、必ず言及されるのがオーソン・ウェルズ「黒い罠」('58)の冒頭のシーンである。逆に、これ以外の作品があげられることはほとんどない。つまり、長回しが、労多くしてあまり効果のない技法だということをみな知っているのじゃなかろうか。
ヒッチコックに「ロープ」('48)という80分全編ワンシーン・ワンカットの実験作があるが、ヒッチコック自身も撮影の大変さのわりにあまり気に入った作品ではないようだ。(「いまふりかえって考えてみると、ますます、無意味な狂ったアイデアだったという気がしてくるね。というのも、あのようなワン・カット撮影を強行することは、とりもなおさず、ストーリーを真に視覚的に語る秘訣はカット割りとモンタージュにこそあるというわたし自身の方法論を否定することにほかならなかったからなんだよ。」ヒッチコック映画術より)
ついでに、ヒッチコックを高く評価していたビリー・ワイルダー監督も、この作品に対してだけは「映画の命はカット割り。愚の骨頂」と厳しく批判している。
また、長回しの弊害として、溝口映画の登場人物はほとんどが全身像である。クローズアップどころか、バストショットさえ数えるほどしかない。映画の父グリフィスがクローズアップという技法を「発明」した当時、演劇しか観ていない批評家は「せっかく役者が全身で演技しているのに、顔しか写さないなんてもったいない」と批判したそうである。
溝口の映画には、これと同レベルの前近代性を感じてしまったのであった。それがいいというのなら、なにをか言わんやだが。

2007年2月14日(水)
ピンチクリフ・グランプリ

標題は、1975年製作のノルウェーの(!)人形アニメ。一言で言えば「チキチキマシン猛レース」の実写版である。リバイバル上映があったので観てきた。
私は寡聞にしてこんな作品の存在をまるっきり知らなかったのだが、78年の日本公開時には、宣伝用のレーシングカーの実車を持ち込んで、大々的にプロモをしたりしている。

ハッキリ言って前半はかなり退屈。人形及び背景の精緻な作り込みと滑らかな動きは確かに凄いが、映画的に意味のないカットの連続でイライラする。しかし、レースが始まってからは一変。主観撮影で、猛スピードでコーナリングしたりするのだ。人形アニメのカメラワークの自由闊達さに驚いたのは、「ウォレスとグルミット」シリーズが初めてだったのだが、源流はこんなところにあったのか?

パンフレットに、公開当時のキネ旬の監督インタビューが掲載されているのだが、いろいろと面白い。

(イヴォ・カプリノ監督)「(カレル・ゼマンやイジー・トルンカの活動している)チェコはいい。作家に金銭の心配がないから。ゼマンやトルンカは、国家から、毎年1千万クローネ(4億円/’78年当時)も支給されている。こちらは、毎日が、資金繰りのための戦いだからね。」

知ってのとおり、旧共産圏はアートアニメの宝庫だったが、民主化とともに壊滅してしまった。

(インタビュアーの小野耕生)「最後の自動車競走のシークエンス、あそこは、とてもなまなましい迫力がある。しかし私は、これじゃまるで、ライブ・アクションだ、果たして、いま見ているのは人形映画なのかと、妙な気分になった。(中略)これが果たして、人形アニメーションの正しいありかただろうかと・・・。」
(カプリノ監督)「それは、人形映画はかくあるべきだと、ひとつの考えにとらわれているからだ。もっとナイーヴで、シンプルであるべきだと。専門家ほど、きみのような意見になる。(中略)また、これではなにも人形でなくても、人間の役者をつかっても同じではないか、なぜそうしないのかという質問も受けた。で、私は答えた。もし人間を使ったら、誰も見やしないだろうと。なぜなら、これはあくまでも人形で、いくらリアリスティックに動いてみえても、やはりファンタジィなのだから・・・。」

まるで今 敏の記者会見だ。

ジャズバンドの演奏シーンで、譜面のとおりに指を動かしたりしているのだが、偏執的な情熱には敬意を払うものの、3コマ撮りで口パクの合ってないアニメに慣らされた身には、大して意味のあることとも思えない。映画の中のリアルとはそういうものではあるまい。

それはそうと、一番笑った、と言うか驚いたのがこれ。

(小野)「召使いの鳥が、絵本を見ているシーンがありましたね。ドナルド・ダックが描いてあったけど。ディズニーに敬意を?」
(カプリノ監督)「別に深い意味はない。あれは、40センチほどの高さの人形にあわせて作った絵本に、、ディズニーの本からとった絵をつけたんだ。スタジオにあったのをね。」

まず間違いなく許諾とってないと思うんだけど、大丈夫なのか?エンドクレジットに出てないかと思ったが、ノルウェー語なので読めませんでした。

2007年2月10日(土)
月面兎兵器ミーナ

とらをとるならとらをとるよりとりをとりとりをおとりにとらをとれ。

漢字仮名混じり文って、偉大ですね。

一応チェックした第1話の、個人的なツボ。



野暮なツッコミを1つ。月面から地球まで14秒で到達ということは、月−地球間の平均距離38万kmを割って秒速27143km。光速のおよそ10分の1。この加速に耐えうる物質は存在しないのではないかと。
しかし、第1話からバンク使ってるようで大丈夫か。

2007年2月7日(水)
OUT

正月に実家に帰省したとき、押入から発掘したもの。



思えば、私の転落人生はここから始まったのであった。

写真の右は’83年10月号で、マクロスが一世を風靡し、ボトムズが絶好調放映中だった頃である。
その中に、アニメ・ジュンと霜月たかなか両氏の連名で、「アニ眼よさようなら−「はだしのゲン」と「マクロス」と−」という一文がある。タイトルのとおり、「明るく楽しい宇宙戦争」を描いた「マクロス」と、原爆の惨禍を衝撃的な映像で見せた「はだしのゲン」とを比較した文なのだが、もちろん、「だから後者の方が優れた作品だ」などと結論づけているわけではなく、アニメにおけるリアルと現実は何か、という、3DCGの発達した現在ではなおさらに切実なテーマをとりあげている。その中から、本質的なところを引用する。

「世界のすべてのものは人間の見たい、見たくないという思いとは関係なく、ただそこにあるというにすぎない。見ることとは、無条件にそれらに相対することだ。見たかった、見たくなかったという判断はすべてその後にやってくるのである。
ところがところが、眼と世界の間にカメラ、即ち映像を置くことで、その関係は壊れてしまう。人は見たいものだけを見るようになって、世界は、現実そのものは切り離されてしまうのだ。
映像の本当の恐ろしさはそこにある。
ましてや、見たい−見せたいの関係をもってその映像をさらに選んでしまったら、現実はもう映像の中に断片しか残らなくなってしまうだろう。
映像を見るということは、実は現実を見誤るということなのである。」

「アニメだったら、それであるがままの現実を描こうなどとしたら、見誤りはさらにはなはだしくなるに決まっている。絵は絵であり、あるがままの世界をどうそっくりに描こうと、描いた瞬間に確実にそれは世界を裏切るしかない。せいぜいできるとして、あるがままの世界を暗示し、象徴することぐらいだろう。(中略)
見誤るどころではない。アニメは現実を見せるどころか、現実に対して目隠しをするのだ。」

「それでも僕たちはアニメを見、また見ていくに違いない。仮にそこに救いがあるとすれば、それは、自分に対して何を見ているのかと問う、もう一つのまなざしを持ちえるかどうかにかかっているのだ。」

当時はわけも分からず読んでいたと思うのだが、今の私の映像に対する態度は、まさにこの文章のままである。自分で考えていた以上にこの雑誌の影響は大きかった。


霜月たかなか氏の近年の仕事。「HIVI」誌でのアニメのレビューなんかを読んでると、おかだえみこ氏あたりのスタンスに近い人だと感じていたのだが、いわゆるTVアニメよりの仕事も結構しているんだな。

2007年2月5日(月)
最近気になる言葉使い

いつの頃からか、ネット巡回していたりすると、非常に目につくようになったのが、

「○○が売っていた」
「TV番組がやっていた」

という表現である。
それを言うなら、
「○○を売っていた」もしくは「○○が売られていた」
だろうし、
「TV番組をやっていた」
だろう。一部で指摘されていた、例のアニメの

「壊滅せよ!」

というのも根っこは同じで、他動詞と自動詞の区別がつかなくなっている現象のようだ。そろそろ、言語学的に検証に値するのでは。まあ、「撃沈する」と「轟沈する」の区別がつかないのは仕方ないと思うけど。(一応書いておくと、「○○を撃沈する」「○○が轟沈する」という風に使う。「○○が撃沈する」と言った場合は、「○○が××を撃沈する」という意味になる)

ついでに言うと、話を続けるのに「あと、」という言葉を接続詞的に使うのは、絶対に間違っていると思う。話し言葉なら私でも使うが、そのまま書き言葉にして良いものではあるまい。

2007年2月1日(木)
ステルスその他

今月号の「丸」を読んでいたら、あー、「丸」というのは老舗の軍事専門誌だが、ステルス技術の特集を組んでいた。

それで思い出したのが、これ
かつてステルス機というものが噂に上り始めた頃、イタリアの模型メーカー・イタレリが想像図だけで発売してしまったステルス機のプラモデルだ。私が中学生の頃ではなかったかと思うが、結構話題になった。曲線で構成されたデザインに、内側に傾いた双垂直尾翼で、レーダー電波を発信源に反射しないのだと説明されて、納得してしまったものだ。

その後しばらくして公表された実物のステルス機は、こんなだった
・・・全然違うじゃん。
ちなみにこの機体、F−117ナイトホークが正式な名前だが、現場ではFlying Cockroachと呼ばれているそうである。黒くて平べったいところがいかにも。

ところで、上のプラモの箱にあるように、この機体の機番は、公表前は(米軍戦闘機の中でちょうど欠番の)F−19と思われていた。

これは、マクロスプラスのYF−19

そしてこれが、一部で有名なロシアの前進翼実験機Su47ベルクト

自然は芸術を模倣する。
ロシア人は河森正治を模倣する。


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