更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2006年8月31日(木)
テアトル池袋閉館

本日をもって、テアトル池袋が閉館した。
しばらく前、「時かけ」のような小さなビジネスモデルが成功すれば、いい前例になるという意味のことを書いたのだが、肝心のコヤの方が閉館してしまった。
数々のアニメ特集オールナイトで想い出深い。アニメ文化の屋台骨を支えていたもののひとつは、間違いなくこの映画館だ。
とは言え、キャパの少なさ、設備の悪さは明らかに時代に取り残されつつあった。むしろ、名画座が次々と閉館する中、よくここまでがんばったと思う。

私がここで観たのは、こんな感じ。
「老人Z」。メモを見るかぎり、これが最初。
「トーキング・ヘッド」。いかにもですな。
新春ロボットアニメの夜と題して「ガンダムF91」「0083」「パトレイバー1」。
「獣兵衛忍風帖」。こんな傑作が単館上映なんて!とどっかで聞いたような憤りを胸にコヤを後にしたっけ。
大友克洋ナイトで「幻魔大戦」「AKIRA」「老人Z」「迷宮物語」「ワールド・アパートメント・ホラー」迷宮物語を大画面で観たのはこのときだけ。満員で、通路に一晩座って観た。
「ふたりの人魚」これはちょっと意外な中国映画。
「魚と寝る女」韓流ブームなんかよりはるか前に封切られた韓国映画。今や巨匠のキム・ギドク監督作品。「マラソンマン」とタメはる「痛い」映画として有名。
「DEAD LEAVES」。これもこの映画館がなければビデオスルーだったろう。
「宇宙大怪獣ネガドン」開場1時間前で既に階段整列。氷川竜介先生が応援に舞台挨拶された。
「ディック&ジェーン 復讐は最高!」最後に行ったのがこれ。なんでこのコヤで?と思われるかもしれないが、監督がディーン・パリソット。かのオタクムービー「ギャラクシー・クエスト」の監督である。
確か「トップをねらえ!」のイッキ上映もあったはずなのだが、メモは取っていなかった。

閉館記念の細田守ナイトには、行けなかった。
長い間、ありがとう。

まとまらないまま、本日の一言。
アクターズ・スタジオ・インタビューで、ビリー・ボブ・ソーントンが自作の「スリング・ブレイド」について。
「小さな物語に大きなテーマを込める。それが、私の目指す映画だ。身近な物語こそ力を持つ。」

2006年8月30日(水)
オタク・イン・USAより

現在読書中の「オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史」から2題。

1件は、アニメのハリウッドリメイクの話。和製アニメのハリウッドリメイクのニュースは、もはや珍しくもない。

ジェームス・キャメロンが「銃夢」を。
「ロード・オブ・ザ・リング」を製作したニューライン・ピクチャーズが「LAST EXILE」と「MONSTER」を。
「トリプルX」のロブ・コーエンが梅津泰臣の「カイト」を(TV版でなくOVAの方。念のため)。
「フレディVSジェイソン」のロニー・ユーが「BLOOD THE LAST VAMPIRE」を。
「ミミック」のギレルモ・デル・トロが「童夢」を。
他にも、「鉄腕アトム」に「AKIRA」に「マッハGO GO GO」。もちろん「エヴァ」も。

が、華々しく製作発表はされるが、その後いっこうに完成公開される気配がない。

何でかと思っていたら、こういうことだそうだ。
『「誰も最初の一歩を踏み出す役になりたくないんだ。」(中略)「アニメやマンガをちゃんとした実写映画にすると予算は最低でも1億ドル規模の大作になるだろう。そんなリスク、誰も最初に犯したくないんだよ。日本のホラー映画のハリウッド版が流行してるのは、はるかに低予算でできるからさ。」』

もともと実写の作品のリメイクの方が安上がりというのは、目からウロコ。
今からは想像つかないが、かつて、「アニメは実写のSFXの安上がりなまがい物」と見る風潮が確かにあった。そのアニメを本家ハリウッドが製作しようとすると、高くつきすぎるという皮肉。喜ぶべきか泣くべきか。

無責任な一ファンの私としては、このまんま全てお蔵入りになって欲しい。アメ公のカラホロニヤな思考回路で創れば、どうせG−SAIVORみたいなシロモノになるのは目に見えてるんだし。

もう一件は、’94年に放送された「ウルトラセブン」の英語版の話。
カナダの某社で製作され、ケーブルTVで放送されたのだが、暴力描写はカットされるわ、吹き替えはちっとも面白くないギャグ満載だわの「オリジナルに対する敬意がまるでない」。「アイスラッガーによるフィニッシュは、ほとんど全部がカットされてしまった」。
’02年の「ウルトラマンティガ」も同じ。
『初めて怪獣を目の当たりにしたGUTSの隊員が叫ぶ。
「あの怪獣は・・・うちのカミさんのお袋さんにそっくりだ!」』

このセンス、どっかで見覚えがあると思ったら、韓米合作の「大怪獣ヤンガリー」('00)だった。(「私の妻より恐ろしい〜♪」)
なるほど、この怪獣映画におけるマヌケなダイアローグってのは、つまりあの国の伝統芸だったのだな。

2006年8月29日(火)
トップをねらえ2!

トップをねらえ2! ガイナックスSFの魂」をアップする。

先日、職場の先輩と朝の電車が一緒になった。
先輩は、「硫黄島の星条旗」を読んでいた。
私は、夏コミで買った「月刊岡田斗司夫」を読んでいた。
平和だった。

2006年8月27日(日)
阿佐ヶ谷の週末

週末はラピュタ阿佐ヶ谷で過ごす。

まずは「血を吸う薔薇」('74)。東宝吸血シリーズの第3作。主演の黒沢年男と、組んずほぐれつの取っ組み合いを演ずる体育会系吸血鬼の岸田森が素敵すぎ。女性陣の露出度も大幅アップで、隅から隅までB級ホラー感が漂う。とは言え、恐怖映画としてはいたって真っ当な作りであり、吸血鬼ものの恐怖というのは、見知った人間がそのままの姿で怪物に変貌してしまうところにあるのだなあ、と再確認。
結局、第2作の「呪いの館 血を吸う目」('71)は見逃した。

もう一本は、「潜水艦イ-57降伏せず」('59)。終戦間際、和平工作のため特殊任務に就いた潜水艦イ-57の苦闘を描く。映画のモデルになっているのは吉村昭「深海の使者」であろう。前半のユーモラスな描写と、壮絶な最期のコントラストが見事。
昨年の「ローレライ」は、間違いなくこの映画を下敷きにしている。

監督の松林宗恵は、「連合艦隊」('81)の監督で有名な人物だ。実は一度、ご本人を見たことがある。BOX東中野で「世界大戦争」('61)をリバイバルした時、ゲストとして舞台挨拶をされたのである。もう80歳を越えているとのことだったが、かくしゃくとして全然そんなお年には見えなかった。さらに、飛び入りで宝田明まで登場して驚いたものである。

映画界には「潜水艦映画にハズレなし」という言葉があるが、なぜか私は潜水艦ものと相性が悪い。何しろ、「Uボート」を2回観て、2回とも寝てしまった前科持ちである。なぜかと考えてみるに、潜水艦は被害の描写がしづらいからではないか、という気がする。板子一枚下は地獄どころか、ぐるり周り中が地獄なのだ。穴でも開いたら終わりである。したがって危機の描写がかえって難しい−画面として作りづらいのでは。

「トップ2」については、案外長文になりそうなので、腰を据えて書こうと思う。論点は、
1 「王立」→「トップ」→「ナディア」→「エヴァ」と続く、ガイナSFの総決算
2 ラルクとノノの関係性とそれぞれの成長
の2点。

2006年8月24日(木)
本日の小ネタ

TA−DA9100ESの使用レポートを少しだけアップ。

ふと思い立って、「フルメタルパニック?ふもっふ」と同じく「TSR」
を見返すことにした。
右の図は「ふもっふ」の第4話「空回りのランチタイムより」。「時の人」山本寛氏演出の回である。ZONEのネタがあることで有名な回だが、やっぱり踊っていた。

出来の良さでは定評のある両作だが、DVDの仕様がどうも納得いかない。フィギュアなんかいらないから、かさばらないようにしてくれ。UMDなんか見ないから、安くしてくれ。特に「TSR」の、5.1ch録音なのはUMDとのツインパックだけ、というのは許し難い。
「作品以外」はいらない、と思うのは私だけなんだろうか。
実を言うと、私はオーディオ・コメンタリーも特典映像もあまり必要とは思っていない。何しろ、本編を観る時間もそうそうないのだ。特典を観ている時間なんて、あるものか。
老後の楽しみと思って取っておけば済む話ではあるが。

2006年8月23日(水)
冥王星はどうなる

しばらく前、第10番惑星が発見されたというニュースが流れた。それが契機になったのかどうか、国際天文学連合は惑星の定義を見直し、冥王星の衛星カロンに小惑星セレスを加え、計12個とする案を提出した。ところが、これに反対が相次いで、結局冥王星を惑星からはずし、計8個とする方向で決着しそうである。一連の報道で知ったのだが、アメリカ国民は、冥王星に対して関心が高いのだそうだ。なぜかというと、惑星のなかで唯一アメリカ人が発見した惑星だからである。
そのせいでもあるまいが、実にいいタイミングで、今年1月、初の冥王星探査機が打ち上げられている。
NASAのホームページ

名前は、NEW HORIZON。太陽系の外縁を形成する、まさしく地平線だ。冥王星到達は2015年の予定だという。

知っての通り、惑星のうち探査機が接近していないのは冥王星だけである。一歩でも遠く、未知の世界を目指すあの国のスピリットは、いささかの衰えもない。皮肉でもなんでもなく、大した国だ。

もっとも、「惑星の数が変わる」との報道のなかで個人的にツボだったのは、GAINAXにコメントを取った朝日新聞である(「トップをねらえ!」で13番惑星が登場するから)。大意「SFはSF、現実は現実で影響はない」とのコメントだったが、そりゃそうだ。でも、「制作中の劇場版に反映させる」とコメントしてくれた方が、GAINAXらしいような気もする。

2006年8月22日(火)
書き忘れたこと

AVアンプとHDDレコーダーを新調したので、AVのページを少しばかり更新。

先日の神戸芸工大の公開講座だが、安彦氏が学生運動の思い出を語っていた。頭に合うヘルメットがなかったので運動を離れた、という有名な話を冗談交じりではあったが、直に聞けた。
そこで思い出したのが、「遅れてきた全共闘世代」と言えばこの人、の押井守氏。
調べてみると、安彦氏が’47年生まれ、押井氏が’51年生まれである。

’69年 東大安田講堂事件 安彦22歳 押井18歳
’70年 第二次安保闘争  安彦23歳 押井19歳
’72年 連合赤軍事件    安彦25歳 押井21歳
闘争が盛り上がった時点で既に卒業しつつあった安彦氏と、わずかに間に合わなかった押井氏、という対比がよくわかる。
何も学生時代の体験が全てを決めるわけでもあるまいが、安彦氏の大河ロマン志向と、キャラより状況の押井氏、という作風の違いを考えても面白そうだ(とっくに誰かやってそうではあるが)。

ついでだが、「一人学生運動」かわぐちかいじが’48年生まれ。もっとも、かわぐち自身は学生運動の経験はないらしいが、作品はああなるのか。
「団塊説教オヤジ」弘兼憲二が’47年生まれ。安彦氏と同い年なんですな。


「ゲド戦記」について補足。
1 手元にパンフがないので記憶が頼りだが、原画のメンバーに、プロダクションIG組とマッドハウス組がやけに目につくように思う。スタジオジブリのブランド力は相変わらずだが、内実は意外と空洞化が進んでいるのではないか。
2 やっぱりテルー役の手嶌葵はヘタすぎる。
3 「世界の秩序の回復」というモチーフは、黒沢清映画にも頻出する。実際に影響を受けているのかもしれない。そういえば、そのものズバリ「ドッペルゲンガー」という映画もあった。


蛇足
あずまきよひこの「時かけ」イラストが妙に気に入ってしまった。

2006年8月21日(月)
ゲド戦記を観てきた

帰省中に、地元のシネコンでゲド戦記を観た。今から発言すると後出しっぽいが、やっぱり言っておきたい。

悪評紛々なので覚悟して観たのに、なんだ、全然普通の映画じゃん。
私も「北京原人」「竹取物語」「評決のとき」「スチームボーイ」「銀色の髪のアギト」「座頭市(北野版)」と、歴史的駄作を数多く観てきたけれど、そういうのと比べなくたって、充分にいい映画である。
私の映画の評価基準には、「ゾクゾクするかどうか」というのがある。1カ所でもいいから、ゾクゾクするシーンやショットがあれば、それだけで観てよかったと思う(1カ所もない映画が山ほどあるのだ)。その点で、この映画は水準以上に合格点である。

オープニングの、荒れる海に翻弄される船上から、雲間に竜の抗争が見える場面。
王を刺殺するアレン。
丘を越えて、眼下に広がる町の景観。
泉水の前で、何かの気配におびえるアレン。
沼地で、影に追われるアレン。
影との合一を果たし、剣を抜くアレン。
テルーの赤く輝く瞳と、その本性。
こうしたイメージに、私はゾクゾクしっぱなしだった。

原作未読の人にとっては、「真の名」という設定が取っつきにくいのかもしれないが、敵に呪術をかけられるのを防ぐため、真の名を隠すというのは、未開部族に多く見られる風習だと聞く。私も原作未読だが、かなり以前に伊沢元彦の「言霊」を読んだことがある。日本社会にも根強く残る言語の呪術性を批判的に検証した本で、面白い。近世以前の日本人がやたらと雅号や変名を持っているのはこの名残であり、西郷隆盛の本名は隆永だった(漢字はうろ覚え)、などというエピソードも載っている。

したがって、アレンの影とテルーがお互いに「真の名」を教え合うのは、最高度の敬意と信頼の表明であり、このシーンは言ってみれば結婚式なのである。ちょっと不満に思ったのが、このシーンでテルーがアザのない側を向けていること。テルーは異形であるが故に力を持つ存在なのであり、アザのある側を向けていて欲しかった。あるいは、それはそれで意味のあることかもしれない。

ひっかかったのが、ウサギの描写。いかにもジブリ映画らしい、コメディリリーフ兼任の小悪党といった造形で、一人で映画の雰囲気を壊してしまっている。特に、初登場でテルーを追いつめたときの、ワキワキした手の動きは、ここでやっちゃいかんだろう。思い出したのが、「タイドラインブルー」。これも、ハードな世界観といかにもマンガ映画的なキャラ描写がかみ合わないまま、なし崩しに終わってしまった作品だった。構造的な欠点もないではない。テナーの家を突き止めたウサギが、なぜ一度引き上げてしまうんだろう、とか、テルーが人の姿に戻ってのエピローグは不要なんじゃないか、とか。
とは言え、そんなのは些細な問題である。宮崎吾朗監督は、真摯に、いい仕事をした。最後にひとつ。観客の4割程度は子供だったのだが、飽きて騒ぐこともなく、最後まで食い入るように画面を観ていた。このことは、特筆すべきことだと思う。

2006年8月20日(日)
神戸芸術工科大学公開講座を聴く

「高校生のためのメディア入門」と題した公開講座に、高校生に混じって参加してきた。
講師と題目は、
 大塚英志 「物語の体操 映画編」
 石井聰亙 「映像にかけるパッション 大学大パニック」
 安彦良和 「元アニメ監督から見た映画」
 しりあがり寿 「映画になった弥次さん喜多さん」
すぐおわかりと思うが、もともとの目当ては安彦氏の講義である。

結論から言ってしまうと、期待はずれだった。

まず大塚氏の講義は、物語には構造というものがあり、アメリカがアフガン戦争・イラク戦争へ向かう経緯は、ハリウッド映画そのものの構造を持つという指摘。
@ 背景 大統領の権威の低下
A 内的欲求 威信回復
B きっかけ 9.11テロ
C 外的目的 戦争(の勝利)
D 準備 TVの報道
E 対立 ビン・ラディンの登場
F 主人公の決意 大統領の開戦決定
G オブセッション 民衆の支持・決起
H 闘争 アフガン戦争
I 解決 タリバン政権の崩壊

まあお話としては面白いが、先に反米・反体制という結論ありきという気がしてならないし、この指摘もあと半歩で陰謀論と化す。
「表現とは、論理的な技術の体系である。」
「快楽原則=物語の構造は我々のうちに内在する。だから表現者は、なぜ、どのように表現するかに自覚的でなければならない。」
という主張には同感だが、マスコミが安易な物語を作っているなんてのは、今時誰だって知っていることだし、マイケル・ムーアもまさにこの「物語」を武器にしていたのではなかったか?

んで、安彦氏の講義は、「『戦時下』のおたく」(ササキバラゴウ・編)をテキストにした雑談みたいなものであった。なんで安彦氏がこれを語らなきゃならんのか。「おたく」を嫌いだと言いつつ、最後に唐突に「げんしけん」をもちだして、「ここに描かれている人々は、コミュニケーションが取れているから「おたく」ではない」などと言い出すにいたっては、もう脱力するしかなかった。「げんしけん」が現実に沿っているかどうかはともかくとして、あなたの嫌いな「おたく」とはどんな連中?そもそも実在したの?と言いたくなる。

大塚氏が頑として「オタク」と表記しないのは私も知っているが、岡田斗司夫氏が既に「オタクは死んだ」と言っているときに、まだこんなことをやっている。周回遅れと言うか何というか、時代から取り残されつつあるのでは。

石井聰亙監督は、私は「ユメノ銀河」以来のファンなのだが、もう50になるはずなのに、学生と言っても通りそうな若々しさに驚いた。
しりあがり寿氏は、安彦氏も観ている前でこんなもんを上映して、安彦氏に謝っていた。

2006年8月19日(土)
本を買う

帰省中に地元で本を買おうと思ったら、中学校の時から世話になっている本屋が閉店してしまっていた。amazonが全盛の昨今、いわゆる町の本屋さんというのは苦しいだろうとは思うが、帰省するたびに応援の意味で利用している店だったので、残念。何しろ、私はマンガにビニールをかけている店では買い物をしないという難儀なポリシーの持ち主なので、新宿の青山ブックセンターが閉店して以来、利用できる書店がほとんどないのだ。仕方がないので、車で隣町の本屋へ行く。この店も長いつきあいだが、頑としてビニールをかけない男気あふれる店である。まあコミックLOでさえそのままで店頭に並べているほどなので、単に何も考えていないのかもしれない。

買ったものは、
 ・宗像教授異考録 第三集(星野之宣)
 ・阿部窪教授の理不尽な講義(滝沢聖峰)
 ・紅壁虎(ホンピーフー)(山本貴嗣)
 ・BSアニメ夜話 機動戦士ガンダム
 ・オトナアニメ vol.1
 ・Number 8/24号
 ・BUBKA 9月号
 ・文藝春秋 9月号
 ・週刊朝日 8/24号

しめて8400円也。我ながら、メインストリームからサブカルまで手広く押さえたものだ。一応補足しておくと、文藝春秋と週刊朝日は母からの頼まれもの。BUBKAは例の記事が目当て。立ち読みですませればいいと思ってたら、この雑誌だけはちゃんとテープで閉じてあった。デラべっぴんのエヴァ特集の例もあるから少しは期待してたんだけど、390円「も」払う価値はありませんでした。

地元のシネコンで「時かけ」2回目を観るが、200人収容の劇場に客が10人だけ。いくら平日のレイトショーでも、少なすぎないか。「大ヒットにつき全国拡大上映」の現実が、これである。うちの地元が田舎なのは否定しないが、実態は冷静に受け止めた方がいい。 

2006年8月15日(火)
夏コミに行く

千葉県在住で、コミケに行かないというわけにはいかんでしょう、やっぱり。

実は前回の冬コミを終了間際にのぞいたのが最初で、今回が2度目。今回はちゃんと事前にカタログチェックして、正午頃に入場。氷川竜介、唐沢俊一、岡田斗司夫の各先生の新刊ゲット。我ながらメジャー指向だな。唐沢先生にサインもらって喜んじまったし。でも、「戦闘妖精雪風」の設定資料集は偶然見かけて、思わず買ってしまった。

暑いわ、聞きしにまさる混雑だわで、早々に退散する。
直接帰ればいいのに、そのまま秋葉原に出てHDDレコーダーを見繕うことにする。貧乏生活が板に付いているせいで、一度家を出たらできることを全部片づけてしまわないと気分が悪いのだ。あてにしていた駅前のコインロッカーに空きがなく、仕方ないので荷物を担いだまま、炎天下をさまよう。

一応HDDレコーダーのめどが立ったので、(帰ればいいのに)渋谷に出て、この間観られなかった「王と鳥」を観る。海外のアートアニメも少しは観てきたつもりだが、「動きがいい」「色がキレイ」「デザインセンスが独特」という「だけ」では感動できない体になってしまっているので、特に所見なし。さすがに疲れていて途中寝ちまったし。「カリ城にも巨大ロボットが出てきたらよかったのに」とか、「あれはダグラムの元ネタ?」とか、埒もないことばかり考えてしまった。「王権=無条件に悪」という思想は、自分の王様をギロチンにかけた国民の了解事項なのか?それとも東の方の全体主義への風刺?

夜は(帰ればいいのに)「カクタス・ジャック」を観る。メキシコ産の犯罪アクションコメディの佳作。ガイ・リッチーの映画(ただし「スウェプト・アウェイ」を除く)をちょっとヌルくしたような感じで、複雑なストーリーを軽快にさばく様と、伏線を見事に回収していく手際は観ていて快感。サッカースタジアムでのカーチェイスなんか、結構予算をかけている。ただ、こういう映画で本筋に関係ない登場人物を死なせちゃいかんと思う。

さらに、阿佐ヶ谷で「幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形」('70)を。リリー・フランキーがコラムで揶揄していたので気楽に観たのだが、本気で怖いじゃないか、これ。瀕死の怪我人に催眠術をかけて蘇らせる、というのは、確かポーの小説に出てくる由緒正しい方法だったはず。

なんだかんだで翌朝には、高圧線にクレーンを引っかけたとかでの大停電で、ゆりかもめが止まっていた。これが昨日なら、暴動が起きてるところだな。

明日から帰省するので、今週中は更新はお休みします。

2006年8月9日(水)
トップ2、まもなく完結

「トップをねらえ2!」の最終巻がもうじきリリース。AT−Xでは先行放送がある。私は視聴できる環境ではあるが、5.1chで観たいので、DVD発売までじっと我慢の子。
ふと気がつくと、この作品は今や数少なくなった「手描き作画のロボットアニメ」である。工学系人間としてデジタル技術の進歩は歓迎するし、手描きには手作りのぬくもりがある、なんてバカなことは言わない。しかし、40年に渡って積み重ねてきたノウハウはダテではない。手描き作画には、3DCGでは(今のところ)決して出せない迫力と動感というものがある。(→「ガンダムの回し蹴り」参照)
しかし、サンライズでさえ「ゼーガペイン」でCGの導入に踏み切った今、「手描きロボットアニメ」は絶滅危惧種である。
それを考えると、なぜこれほど「ガイキング」が熱狂的に受け入れられるのか、「新訳Zガンダム」が大ヒットしたのかが解るような気がする。きっとみんな、「手描きロボット」に飢えているのだ。
おそらく今は技術の過渡期であり、ディズニーがそうであるようにいずれは全てCGに取って代わられ、受け手の側もそれを当然と思うようになる。

「トップ2」は、手描き時代の最後を飾る徒花になるだろう。1作目がOVA時代の最後を看取ったことを考えると、「歴史は繰り返す」という言葉を思わずにいられない。ガイナックスは、またしても「アニメの葬式」を出すことになるのだろうか。



まるで話は変わるが、以前の日記に大デュマの臨終の様子を書いた。これ、大デュマをあかほりさとる、小デュマを黒田洋介に入れ替えてみると、なんだか笑えません?ユゴーの役は関島眞頼とか。

2006年8月8日(火)
ケモノヅメ

ついにHDDレコーダーがいかれた。前からI−LINKは調子悪かったのだが、HDD録画でも、デジタル放送を録画すると途中でスタックするようになってしまった。確かに酷使していたけど、3年やそこらで壊れるようでは困る。まだ家電製品として成熟していないのか、そもそも耐用年数がこの程度のものなのか。どのみち、買い換えるしかあるまい。80ギガではもうどうにもならんしな。


「ケモノヅメ」1話を観た。自由奔放なイマジネーションとメタモルフォーゼ、リアルな動きは健在だが、驚いたのがラブシーン。
いくらWOWWOWで深夜放送だと言っても、よくこんな濃厚なシーンを放送できたもんだ。15禁になっているけど、18禁でもいいくらいにエロい。残念ながら時間が短いので、実用性に欠けるのだが、いや、それはともかく。
このラフな(ように見える)描線のこのキャラで、これほど生々しい表現ができるとは。そういえば、「MIND GAME」でもHシーンがあったっけ。
以前、湯浅政明について書いたとき、激しい動きの陰に潜む濃厚な死の気配について述べた。
「ねこぢる草」「MIND GAME」は原作も死をテーマとした作品だったが、オリジナルの「ケモノヅメ」を観て、さらにその印象を強くした。考えてみればセックスは死の対極にある行為なわけで、死の恐怖から逃れるために変形し続ける湯浅作品に、ラブシーンが出てくるのは、いわば必然である。

たまたまこちらの日記で、「アニメという表現技法が本質的に内包するエロスとタナトス」のことを読んだ直後だったので、とりわけ感慨深かった。

どうでもいいけど、椎名へきるが声優の仕事してるの、初めて観た。
ジムショ的にも結構微妙な仕事だと思う。

ところで、昨日の「プロらしさ」の話で、最近観た作品で「プロらしくない」と感じるシーンがあって白けたのが「ウィッチブレイド」と「NIGHT HEAD GENESIS」なんだけど、文字にしてみたらやっぱり揚げ足取りに見えたので、書かないことにする。

2006年8月7日(月)
評価のポイントそれぞれ

会社帰りに、山手線の「ハチクロ」電車を目撃。外装にデカデカと、しかも編成車両全部にペイントしてある。フジテレビは気合い入れてるねえ。

後発の私が言うのも何だが、
いろいろな感想サイトがあるものだ。
あらすじしか書いてないのとか(観ればわかるって)、悪口しか書いてないのとか(時間の無駄だろうに、観るのやめりゃいいじゃん)。

その悪口にも、頷けるものがあればいいのだが、単に揚げ足取りにしか思えないのがある。私は基本的に、キャラの好き嫌いと、作中での論理的不整合については触れないようにしている。論理的不整合というのは、「ここがおかしい」「(作中人物が)なぜこうしないのか」というようなことだ。
「ノエイン」について触れたときに書いたことだが、映像作品なんて所詮フィクション、大嘘なんだから、何をやってもかまわない。観客をいかに気持ちよく大嘘に酔わせてくれるかが、勝負なのだ。その酔わせ方−これを演出と呼ぶが−は、必ずしも科学的真実味や論理性を必要としないのがミソだ。もちろんこれは作品世界に大きく依存するもので、「プラネテス」の世界にワープ航法が出てきてはまずいわけだ。

某サイトで、こうした揚げ足取り的に「ガンスリンガー・ガール」と「コヨーテ・ラグタイムショー」を執拗に批判しているのを目にしたのだが、こういう見方をする人って、そもそも映像作品を観るのに向いていないんじゃないか、という気がする。
「カリ城」を観たら「塔の間をジャンプなんてできるわけない」と言うんだろうか。

ちなみに私は、「ガンスリ」はOKで「コヨーテ」の方はどうも、という感じ。私の価値基準のひとつに、「プロらしさ」というのがある。自分がしがないサラリーマンのせいか、「プロフェッショナルの仕事」に憧れがあり、それをカッコよく説得力を持って描く作品が好きだ(もちろん私の想像するプロらしさ、であるが。現実にはあんなものじゃないと言われれば、引き下がるしかない)。「ガンスリ」の場合、第1話のヘンリエッタのガンアクションである。銃撃戦の最中、銃の弾が尽きると、よどみなく一挙動で弾倉を交換し、射撃を続ける。この動作のカッコ良さに惚れて、他は全部許す気になった。実際この作品て、作画も演出もほとんど文句つけるところはないと思う。

なお、原作は少し読んでやめた。純粋に技術上の問題で、吹き出しにやたらと長文の台詞を詰め込むリズムの悪さと、動作線と集中線が多いわりに動感に欠けるアクションが、どうにも生理に合わない。

一方、「コヨーテ」の方は、録画に失敗したせいもあって、視聴中止。1話は期待を持たせてくれたのだが、それ以降さっぱり盛り上がらない。何というか、シンエイ動画が無理して作っている「カウボーイ・ビバップ」という感じだ。
登場人物誰も彼もが、どうにもプロらしくなくてカッコ悪い。ユーフォーテーブルに向かない題材なんじゃないか?

2006年8月3日(木)
早くも18年のワーストワン「男たちの大和」

「時をかける少女」が週刊アスキーの表紙を飾ったと言っても、関連記事がある訳じゃないのね。
人の感想を読んだり、絵コンテ集を今さらながら
パラパラと見てみたりして、ひとつ思い出したことがあったので、「時をかける少女」の感想にちょっとだけ加筆。「感想」という言葉はあまり使いたくないのだけれど、「批評」というのもおこがましいしな。

かの淀川長治さんは、決して映画をけなさなかった。孫引きだが、こういう言葉を残しておられる。

私は映画の探偵でもなく映画の裁判官でもない。いつでも好きな映画だけを取り上げている。それでは批評家とは いえまいと叱(しか)られるであろうが、私は映画が死ぬほどかわいいので、わざわざ嫌いな映画を“愚作”とお伝えする暇を持たぬ。

淀川長治
映画『スモーク』評 (産経新聞1995年9月26日夕刊掲載)

けだし名言だと思うが、しかし、私の経験から言ってなぜか、いい映画を褒めるよりもくだらない映画を笑う方がはるかに楽しいのである。
ちなみに、淀チョーさんをしてけなすしかなかったのが、ヴェンダースの「都市とモードのビデオノート」('89)「夢の涯てまでも」('91)である。

そんなわけで、凡人たる私が今日笑い飛ばすのが「男たちの大和」。
実は、今年1月1日に観たのが「キング・コング」で、2日に観たのが「男たちの大和」である。よりによって、新年2日で今年のベストワンとワーストワンを観てしまったのであった。

まず鈴木京香が最初からトバシている。鹿児島の漁協にアポもなしに訪ねていって、初対面の人にいきなり「北緯○度○分、東経×度×分へ連れて行って欲しいんです」と切り出すのだ。私は文字通り椅子からずっこけた。誰か脚本の段階で、おかしいと思わなかったのか?

一歩譲って、こういうシーンを撮りたいなら、まず船をチャーターしたいというやりとりがあって、「で、どこへ行きたいの?」「北緯○度〜」で、海図を見て位置を特定した漁師が顔色を変えて、そこはダメだ、誰も行きたがらない、という反応を見せる・・・というのが常道だと思うんだけど。

第2に、真の主人公である「大和」の巨大さを見せる演出やカメラワークが、「画面として」巨大さを語らせる場面が、全くないのだ。前景に何か対比するものを置くとか、あおってみるとかいくらでも方法はあるだろうに。実物大のセットは何のために作ったのだ。

第3。反町隆史と中村獅童はまあよしとしよう。しかし、長嶋一茂はねえだろう。演技力がどうこう言う以前に、顔見た瞬間に太田胃散を連想する人間をこんな映画に出してどうする。

第4に、ハンパな「ブライベート・ライアン」の真似。異常にリアルな戦場の映像を創りたがるのを「プライベート・ライアン症候群」と言うそうだが(「ブラックホーク・ダウン」のリドリー・スコットとか)、本作のは症候群なんて立派なものじゃなくて鼻風邪くらいのもんである。時間を計った訳じゃないが、同じような構図、同じような場面が延々と続くので、退屈きわまりない。笑っちゃったのが、背中の酸素ボンベに被弾して吹っ飛ぶ兵士の描写。「プライベート・ライアン」にそっくり同じシーンがある(こちらは火炎放射器のガソリンボンベだが)。何もこんなとこまで真似しなくてもねえ。

この映画も145分もある。75分で十分だよ。

なにより、12.7cm高角砲をぶっ放してるのに、砲身がブローバックしないというのが一気に萎える。21世紀になっても、爆竹仕込んでるだけかよ。ついでに、25mm3連装機銃って、私の記憶によると1門撃ち終わってから隣に移るんじゃなかったろうか。

最後に小ネタ。「プライベート・ライアン」と言えば、映画史上最もリアルなタイガー戦車が登場することで有名だ。実際はT34の改造なので転輪の形が違うのがご愛敬。ところで、いつの頃からか専門誌や模型誌で、タイガーのことをドイツ語の原音に近く、ティーガーと表記するようになった。このデンで行くと、フォッケウルフはフォッケブルフにならなきゃおかしいと思うんだけど。

いつにも増してわかりにくい話題ですみません。

2006年8月2日(水)
航空パニック映画と医者

一時期、「エアポートもの」という映画が流行った。エアポートと名が付くだけでもこれだけあった。「エアフォース・ワン」「コン・エアー」「乱気流」(いずれも'97 米)も広義にはこれに入るだろう。なにげに大物が出演しているのもポイント高い。筋立ては全部いっしょで、飛行機に不慮の事故が起こり、乗客はパニック、乗務員は役立たず、地上からの指示で素人が操縦桿を握り、奇跡の生還なるか、てな感じである。

こういう映画のお約束として、機内に妊婦か重病人がおり、たまたま乗り合わせた医者がろくな道具もないのに治療する羽目に、というパターンがある。「お客様のなかにお医者様はおられませんか」って奴だ。
いつだったか実際のハイジャック事件で、偶然乗り合わせた医者が負傷者の救護をしたというニュースを聞いて、「映画みたいなことが本当にあるのだなあ」と不謹慎なことを考えてしまったのだが、ふとこういうことが起こる確率はどのくらいなのか気になり始めた。

さっそく調べてみたところ、日本で平成16年度に医師として登録されている人口は、約27万人だった。日本の人口を1億2千万人とすると、444人に1人が医者だという勘定になる。ジャンボジェットの乗客は500人強だから、1機に1人は医者が乗っていてもおかしくないわけだ。
ついでに、医者は医者だが獣医だ、というベタなギャグも時々ある。獣医ははるかに少なくて、約3万人。4000人に1人である。獣医に手当てされる偶然の方がずっとおきにくい。ちょっと安心?
急にこんなことを考えたのは、道満晴明「続・性本能と水爆戦」(18禁)を読んだから。
「お客様のなかに肉便器はおられませんか?」
天才だ、この人。

「スピード」('94)の元ネタとして有名な「新幹線大爆破」('75)も、御多分に漏れず妊婦さんが出てくる。私は後からビデオで観たクチだが、改めて調べたら2時間半もあるのな、この映画。あと1時間切りつめたら傑作だったかもしれない。犯人側の事情までいちいち描写すれば物語に厚みが出て、「人間ドラマ」とやらが描ける、と思ってるさもしい根性がもうどうにもならない。こんな映画でそんなことしても、冗長になるだけだよ。
列車のなかの妊婦さんも、時折出てきてうんうん言ってるだけで、ちっともサスペンスが盛り上がらない。あげくに死んじまうってのは反則技だろう。ギャグかと思って笑っちまったよ。この監督の佐藤純彌は、今年最高の大バカ映画「男たちの大和」も監督している。げ、よく見たら「北京原人」('97)もこいつじゃないか。市川崑といい、よくこういうのに次々と大作を任せるな、東宝は。

2006年8月1日(火)
「ゲド戦記」と「時かけ」

昨日の原作と映像の話の続き。
’85年に「銀河鉄道の夜」がアニメ化されたことがある。監督は杉井ギサブロー。音楽を元YMOの細野晴臣が手がけたことでも話題になった。
で、メインキャラクターはますむらひろしデザインの、擬人化した猫であった。宮沢賢治の遺族は、当初これに猛反対したと聞く。結果的には、反対を押し切る形でそのままアニメ化され、原作の持つ、時代も国籍も不明の透明感をうまく表現する佳作となった。
最初からイラスト付きで、ビジュアルイメージがほぼ固定されているラノベの映像化と単純に比較するつもりもないが、
映像化にはいろんな方法があり、功罪を判断するのはなかなか難しい、という話。


「ゲド戦記」が出足好調だそうだ。全国435館で公開2日で興収9億、67万人動員
私はまだ観ていないが、ネット内であれだけボロカス言われていながら、この現実。評論家受けはしなくとも大ヒットすることはよくあるし、悪評が逆に話題を呼ぶこともある。ジブリブランドの集客力を改めて見せつけるとともに、宣伝にかけた努力が報われたとも言える。純益がどのくらいなのかは不明だが、宣伝費を考えたらまだまだ、であろう。

ひるがえって、「時かけ」はどうか。8月1日現在全国14館で、シネプレックス系での公開は今週で終わりだそうだ。これから順次全国公開していくだろうが、いささか寂しくなる。

ただ、私は「時かけ」も「ブレイブ・ストーリー」の代わりに・・・もとい「ゲド戦記」のように、全国で大々的に公開すべきだとは、必ずしも思っていない。テアトル新宿は連日大入りのようだが、地方のロードショー館でも同じということはあるまい。私の愛するアニメは、どこまで行っても少数派だ。これが、日本の誇る優良コンテンツ、オタク産業の現実である。

私はそれでいいと思う。公開館を増やすというのは簡単なことではない。それだけフィルムを複製しなければならないし、宣伝に要する費用もバカにはならない。DLPプロジェクター上映館がもっと増えれば、デジタルデータのコピーだけですむのだが・・・。つまり、ローコストでそれなりの収益が上がる、というビジネスモデルでいいと思うのだ。アニメならそういう商売ができる、それで傑作が作れるという評価が確立すれば、次の作品にも金を出そうという人が現れる。(ついでに言うと、映画作家というのは制作費が上がるほど知恵を使わなくなるものだ。ジェームス・キャメロンのフィルモグラフィーを参照)
ハイコスト・ハイリターンの商売はジブリにまかせて、パイの大きさを維持するのに貢献してもらおう。おそらく、ジブリは業界を守るため、かなり確信犯的にそういう商売をしているはずだ。

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