2006年5月

2006年5月31日(水)
本日の更新と「ダ・ヴィンチ・コード」のこと

アニメの話題に、「練馬大根ブラザーズの最終回」を追加。

Googleに登録されたせいか、ここ数日ようやくカウンタが回るようになった。ご来場の皆様、がんばって更新していきますので、またのお越しをお待ちしております。

さて、世間は「ダ・ヴィンチ・コード」一色である。私は原作を先に読んだクチだが、ついでに元ネタである「レンヌ・ル・シャトーの謎」も読んでみた。
結局、何がどう暗号になってて、どこからキリストの子孫の実在なんて結論が出てくるんだか、さっぱり解らなかった。オレ、頭が悪いのか?これって、キリスト日本渡来説と五十歩百歩の与太なのと違うの?その筋では昔から有名な話なんじゃ?

映画版は、ロン・ハワードでトム・ハンクスでジャン・レノだから、それなりのものだろうがそれ以上になるわけもないので、どこがどうそれなりなのか確かめるためだけに金払うのもアホらしくて、未見。

突如思いついたが、今、この時期にあえて「ナショナル・トレジャー」を観る、というのは結構男らしい選択じゃないか、という気がしてきた。
バカ映画の帝王ブラッカイマー御大が、「ダ・ヴィンチ・コード」の映画化権を取り損ねたので、「ダ・ヴィンチ・コード」の完成前に一稼ぎするためにでっち上げた映画である(推測。でも、絶対間違いないと思う)。シオン修道会に対抗してテンプル騎士団、モナリザの代わりに1ドル札。見るからに激安映画の気配。
主演はニコラス・ケイジ。そういや「ザ・ロック」やら「コン・エアー」にも出てたが、いい加減少し作品を選べ、と言いたくなる。
でも、
パチンコ必勝ガイドのTVCMに出て、ピアノの弾き語りで「パチンコ〜、oh、パチンコ〜」と歌ってた人だからなあ(実話)。

2006年5月30日(火)
本日の更新と、ザンゲの三連発

アニメの話題に、「地獄少女」を追加。

本日のザンゲその1
今掛勇、杉山慶一、水島精二が「エヴァ」に参加していることを知りませんでした。しかし、「レイ、心のむこうに」の演出担当者が、何でこんな映画作っちまうのか?

その2 

「BECK」のOPで、真帆のアップの原画は平松禎史の担当だとばかり思ってたら、本田雄だそうで。
いや、でもあの猫目とぽってり唇は、平松さんだと思うでしょ、普通。まあそれ以前に、今頃「BECK」を観てるってのが問題外と言われれば、一言もありませんが。

その3
思うところあって、山田風太郎「人間臨終図巻」を読み始めたのだが、日活無国籍アクションのスター・赤木圭一郎って、「ゴーカートのアクセルとブレーキを踏み間違えて事故を起こし、22才で死んだ」んですってね。
すみません、こんなことも知らずに映画好きを名乗ってました。

全然脈絡ないけど、本日の一言。
「やつらはセンスがない。なんか日本の物真似をやっているけど、演出の詰め方ひとつとっても職人根性がない。」(摩砂雪氏 ハリウッドのCG表現について聞かれて。「ガイナックス・インタビューズ」より)
これぞ、ニッポンアニメーターの心意気。
2006年5月29日(月)
涼宮ハルヒとガンダムと

2006年プロ野球マネー・ボール的評価に、パ・リーグ編を追加。

「涼宮ハルヒの憂鬱」第9話を観た。以前、この作品に自主制作映画の血を感じる、という評を読んだが、今回も遠くから部室の中へ響いてくる演劇部の練習の声に、それに似た感じを受ける。○ラスの×面らしいのが笑える。
・・・と思っていたら、脚本が原作者本人だった。今回は、原作にないオリジナルエピソードである。9話まで来て、まだ朝倉涼子のエピソードもオトナ朝比奈さんのエピソードも使っていない。何とも骨太というか、悠然たるシリーズ構成だ。

以下は、先日のヒーローの話の続き。

氷川先生の講義と併せて思いついたが、「ガンダム」という作品は、ホワイトベースが世界をさまよう旅の様子を描いている。これはその土地に住んでいる人々からすると、「境界を越えてきた異物」である。考えてみればホワイトベースは、行く先々で攻撃を受け、味方であるはずの連邦軍からも厄介者扱いされている。しかも乗っているのは、子供ばかり。オトナ社会から見た、異物だ。この点はこれまで、疑似家族という文脈から解釈されていたが、「ヒーローと正義」を読んでから改めて「ガンダム」を観ると、別の解釈ができる。
すなわち「ガンダム」は、「悪の側から世界を見た物語」だったのだ。

ところで、ガンダムは連邦軍の最新型MSだが、その技術は先行したジオン軍に大きく影響を受けている。そういう意味では、ガンダムもまた、両義性を備えたヒーローだと言える。(リアルロボットアニメの嚆矢とされる「ガンダム」は、実際にはヒーローロボットもののフォーマット通りの作品である)

また、これも再三指摘されていることだと思うが、実はホワイトベースとガンダムは、連邦とジオンの戦争という大きな状況に対して、ほとんど何もしていない。ガンダム(とアムロ)の戦闘力は突出してはいるが、戦争の帰趨を決めたのは、連邦の圧倒的な物量とされている。

最終話に至っても、これまた何も解決してはいない。アムロは仲間の元へ戻るが、これはもともと彼が所属していた小さな共同体へ帰っただけのことである。

主人公グループが船に乗ってさまようというのは、富野アニメの定型であるが、「ガンダム」以降の作品を観ると、やがてそれが一大勢力となり、体制を覆してしまうというパターンになる。つまり、悪が勝利し、侵略が成就してしまうのである。

「ガンダム」だけが、完結していない。
これが、この作品に続編が成立し得た原因の一つではないだろうか。

(イデオンについては、また機会があれば。)

2006年5月28日(日)
「キング・コング」に涙する

DVD発売記念に、「キング・コング」をアップ。

3時間を超す映画が、通常版で2980円て、激安。そのうちDTSバージョンとかディレクターズ・カットが出るんじゃないか、という気もするが、やっぱり買ってしまった。

劇場で観て以来2度目だが、やはり同じシーンで号泣。どこがポイントかは、本文をどうぞ。

一件、訂正。「プルガサリ」の中身は、破李拳竜氏じゃなく、薩摩剣八郎氏でした。お詫びして、訂正します。

2006年5月25日(木)
本日の更新と「ヒーローと正義」

思い出したことがあったので、「マイ韓流」に、ちょっと追加。

「ヒーローと正義」(白倉伸一郎、寺子屋新書)を再読してみた。
著者は、平成仮面ライダーシリーズや、セーラームーンのプロデューサーで、たぶん日本で一番ヒーローというものを突き詰めて考えている人である。

要旨を述べると、

・我々は、世界を「我々の世界」と「異界」の二元論的に認識しており、境界を越えて「我々の世界」に侵入してくるものを、我々は「悪」と認識する。

・ヒーローは、侵入者を滅するか、恭順させて「我々の世界」に取り込む存在である。

・ヒーローは、「我々の世界」にありながら、「異界」の属性をも兼ね備える。それが、改造人間だったり異星人だったり、覆面だったりである。

少し話が飛ぶが、
・英語で言う「Justice」は、盲目の裁きの女神が振り下ろす剣の、その行為自体を指す。日本語の「正義」とは、ニュアンスが異なる。

ここからは引用する。
「(正義の女神は)人を平気で天秤に乗せ、平気で剣をふりおろすことができる。彼女は自分の剣が、どんな人の命を奪うことになるのか見ないままでいられる。剣をふりおろす以外の選択肢がないのかどうか、自分が剣をふるう資格を本当に持っているのかどうか、考えないままでいられる。
しかし、我が国の〈正義〉の女神は、目隠しをしない。
彼女は、だれを天秤に乗せ、だれに対して剣をふるわなければならないのか、その目をしっかり開いて、一部始終を見届けなければならない−そうする自分自身の顔を、世間に対してさらしものにしながら。」

そこで「セカイ系」の話につながるのだが、アメリカンだったヒーロー像が、日本的な「正義」の女神に変容していく過程で生まれたのが「セカイ系」という作品群だった−という文脈で理解できないだろうか、というところを思案中。

2006年5月24日(水)
「セカイ系」のこと

本文の更新はお休み。

俗に「セカイ系」という作品群についても何か言おうと思って、考えているのだが、先日の氷川先生の講義(22日の日記参照)で、一つ思いついた。

「フレーミングによって世界が発生する」というくだりである。セル画は、それ自体はただの絵にすぎない。特に周辺部分は、画面に収まらないところはいい加減に色を塗ってあるので、不定形だ。それを四角い画面に切り取る−フレーミングすると、切られた外側に、世界の広がりを感じさせるようになる。その広がりを、いかに裏打ちしていくかが、演出の腕の見せ所だ。

これは、実写でも同じことである。現実の風景をカメラで切り取り、つないでいくことで別の意味性−新たな世界を創造するのが、映画の機能である。(写真だとさらにはっきりする)
しかし実写映画は、写す対象が実在するだけに、世界の創造という意識が、作り手に希薄なのではあるまいか。それに対して、本当に一から描かなければならないアニメは、このことに自覚的なのではないだろうか。

これが、「セカイ系」と呼ばれる作品に、アニメが圧倒的に多い理由ではないかと思う。
→ウィキペディアによる定義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB

2006年5月23日(火)
本日の更新とシムーン

映画の話題に、「大怪獣プルガサリ」をアップ。

「シムーン」が面白い。
スカパー!で観ているので1ヶ月遅れの視聴であり、やっと4話まで観たところ。

西田亜沙子デザインの美少女が群舞するのを観ているだけでも楽しいのだが、注目したいのは、作品の構図である。本作はざっくり言って、
「大人になりたい欲求」
「子供のままでありたい欲求」
「子供のままでいさせようとする社会の要求」
これらがせめぎ合う3つ巴の構図となっている。

特に社会の要求が、子供を速く大人にしようとする世間一般と逆になっているのがポイント。「エヴァンゲリオン」も14才の少年少女だけがエヴァを操縦できたが、14才のままでいさせようとする社会の圧力まではなかったように思う。

一方で興味深いのが、大人になるか子供でいるかの選択権が、子供の側にあることだ(少なくとも4話まで見る限り)。
これは設定上は、おかしなことである。大人になってシムーンの操縦ができなくなったら、それだけ国の戦力が低下してしまうのだから。
つまりこれは、それだけ作品の根幹に関わる問題なのだ、と思う。
もうひとつは、「大人になる」ことが「性別を決定する」ということであり、ある意味即物的に描かれている点だ。

性別を決定するということは、つまり性愛の当事者になることである。大人になる以前、男でも女でもない彼女たち(矛盾した言い方だが)の間にある感情は、恋愛ではないし同性愛ですらない。彼女たちの関係は肉体のあるレズビアンではあり得ない。

むしろこれは、正統な、きわめて純粋な「百合」ものの極北に位置する作品でもあるわけで、「マリア様がみてる」のスタジオディーンがこれを作っているのは、ごく自然なことのように思える。




・・・どうでもいいが、プルガサリとシムーンって我ながらすごい取り合わせだ。

2006年5月22日(月)
アニメ文化公開講座を聴講

本文更新はお休み。

日曜日に、○越カルチャーセンターで氷川竜介先生の「アニメ文化を読み解く」を聴講する。
マジで、日本橋三○でこういう催しがあるのだ。いい時代になったもんだ。

受付に接近しただけで、「アニメ文化の講座ですね」と声をかけられる。まあアロマテラピーやら日舞やらを習うようには見えないだろうが、オタクの血って、そこまで濃厚に表に表れてるんだろうか。

第二回の今回は、ガンダムのお話。内容的に、「フィルムとしてのガンダム」(太田出版)とかぶるところもあるが、印象に残ったところを列挙。

・ガンダムの原点がザンボット3にあるのは常識だが、デザインからして、実際に並べてみるとクリソツ。

・ミノフスキー粒子の存在のために、人型の機動兵器が必要となった、という設定だが、実際はロボットプロレスをやりたいがために導入した設定。こうしたウソとリアルが2重3重に転倒したところがガンダムらしさ。

・メカデザインというのは、もともと美術の一ジャンルだった。メカニカルな世界設定のためにメカをデザインしたのが、独立したもの。

・水陸両用MSが登場したのは、スポンサーからテコ入れを指示されたのが6月だったので、これから夏になるから海に行こうか、という発想。

・地球上を漂流している間、舞台の変化を印象づけた美術の中村光毅の功績は大きい。ベルファストのどんよりと曇った空とか。

・ダイアローグのなかに必要な情報を織り込み、人と人との関係性、社会や歴史の存在、思い通りに進まない現実の苦さ、といったものを表現する富野演出の妙。

・世界観の構築のための、徹底した設定主義。これが、二次創作の基盤ともなった。

・一枚の絵をフレーミングしたときに、世界が発生する。

・記号でない、人物を表現するに至った安彦作画。安彦氏の仕事のなかでも、ファーストガンダムは突出している。これは、スキルだけの問題ではなく、富野氏らと同じスタジオで作業していた共同体的連帯感から、醸成されたものではないか。

夜は神宮球場でスワローズ×ホークス戦を観戦。
9回裏に同点に追いついたところで11時を回ったので、諦めて帰ったが、帰り着いたら負けていた。

2006年5月21日(日)
邦画のクレジットについて

本日は本文の更新はなし。

邦画を観ていて、前から不思議に思っていることがある。何で、エンドクレジットに役者の名前と役名を併記しないのだろうか。おかげで、誰がどの役を演じていたのかわからない。いや、主役の名前くらいは観る前から知ってるからいいんだけど、初めて見る顔で、端役だけれどいい仕事をしている、という役者がいたときに、名前がわからなくて困るのだ。
これは昭和30年代頃の映画からずっと変わらない。主演スター以外は十把一絡げ、という時代の名残なのだろうか。でも、洋画では昔から役名も併記しているように思う。邦画界の意識の古さって、こんなところにも出ているような気がする。

2006年5月18日(木)
本日の更新とレッドフォードとコオロギ
(フタコイ オルタナティブ第1話風に)

アニメのページに、小林利允を追加。

NHKのBSで、時々アクターズ・スタジオ・インタビューという番組をやっている。演技の教育機関であるアクターズ・スタジオが、現役の一流俳優を招いて、学生達の前でインタビューを行うものである。インタビューする側も演技とその指導のプロだけに、実に知的で興味深い番組だ。これを観ると、トップランナーなんかバカに見えてしまう。いや、インタビュアーがだが。

で、先日その番組にロバート・レッドフォードが出ていた。この番組には恒例の10の質問というのがある。
名司会者のB.ピボーが考案したものだという。
こんなのだ。

1 好きな言葉は?
2 嫌いな言葉は?
3 わくわくすることは?
4 うんざりすることは?
5 好きな音は?
6 嫌いな音は?
7 好きな悪態は?
8 生まれ変わったら就いてみたい職業は?
9 絶対に御免という職業は?
10 天国に着いたら、神様になんて言われたい?

で、興味深かったのが、レッドフォードが、5の好きな音は?という質問に、コオロギの鳴く声、と答えたことである。
虫の音や鳥の声に情緒を感じるのって、日本人だけじゃないんだなあ、と思ったのだ。
ある日本映画の録音をハリウッドのスタジオに発注したら、意図的に入れていた虫の音をノイズと間違われて消されてしまったとか、日本人の脳は、鳥の声を、音楽を聴くときと同じ部位で処理するとか、まことしやかな話を聞いたことがある。
日本人の独自性を強調することは、ほんの半歩踏み出すだけで優越性という次元の話になる。厳に戒めるべきだろう。

2006年5月17日(水)
本日の更新とDVDレコーダー

映画のページに、羊たちの沈黙の「映画的」表現を追加。

TV番組の録画には、主に収納スペースの問題で、DVD−RWの両面タイプを使っている。
標準モードでDVDの片面一枚に、120分録画できる。30分アニメの1話が、実質25分なら4本だが、24分なら5本入る。2クール26話が、4枚必要か3枚で収まるか。塵も積もればでこの差は大きい。

CMカットはもちろん、場合によってはオープニングを消去して詰め込んだりしているのだが、ふと激しいデジャビュに襲われた。これって、ビデオ時代にやってたことそのまんまではないか。

人間て、テクノロジーの進歩と無縁なものですな。

2006年5月16日(火)
本日の更新と元ちとせ「語り継ぐこと」

2006年プロ野球マネー・ボール的評価に、一部追加。

また「BLOOD+」の話。第1クールのED、沖縄が舞台だから元ちとせ、というのが安直。「ちゅらさん」の主題歌にキロロを持ってきたNHKの連ドラ並みのセンスだ。
とは言うものの、名曲だとは思う。むかしフジTVの深夜枠でやっていた「音楽の正体」風にいうと、この曲のキモは、「いとしい笑顔に」の「と」の和音である。よく聴いてみると、前後のフレーズ「語り継いで」とは音階が違う。音楽理論に詳しい方に、解析してほしいなあ。

2006年5月15日(月)
本日の更新とプロダクションIG

2006年プロ野球マネー・ボール的評価を更新。

現在、プロダクションIGのTV作品のなかから「BLOOD+」と「IGPX」を観ている。実のところ、「IGPX」の方が好きだ。1話にいきなり沖浦啓之を投入する(たぶん道場のシーンだと思うが)あたり、本腰を入れている。

「IGPX」は本郷みつる監督、未見だが「xxxHOLIC」は水島努監督。両者とも「クレしん」の経験者なのは偶然かもしれないが、IGとはおよそ縁のなさそうな監督だ。そして「BLOOD+」は、第2クールOPに中沢一登を起用。

IGは、確信的に「外部の血」を導入しようとしている、と思う。大げさでなく、これに社の存亡を賭けているのではなかろうか。

2006年5月14日(日)
本日の更新と国語教育

映画の話題に、マイ韓流をアップ。

最近初めて知った事実。万葉集に、額田王の

熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今はこぎ出でな

という歌がある。中学だか高校の古文で習ったはずだ。「いい月夜だ、船遊びでもしようか」てなノリの、貴族の優雅な歌と教わったと思うのだが、実はこれ、663年斉明天皇の朝鮮出兵の際、熱田津(現松山港)に集結した軍団が出立するにあたって、戦勝祈願に歌ったもので、

潮もイイ感じで戦争日和だ、これから半島に攻め込むぜ、野郎ども気合い入れて行けよ

というほどの意味なのだそうだ。
そういえば、「桃の洋々たる〜」という漢詩があったが、これも実は女性のアレを桃にたとえたエロ小話みたいな意味なのだそうで。
こういう生臭いものをちゃんと教えないのが、国語教育の問題なのではないかと。

2006年5月12日(金)
本日の更新。ついでにBLOOD+

2006年プロ野球マネー・ボール的評価の投手編に、大変恥ずかしい間違いをしていたので訂正。

BLOOD+に不満があった。作画は低調だし、どうにも盛り上がりに欠ける。一番の問題点は、カイとリクの役回りがはっきりしないことだ。いや、意図としてはわかる。
小夜の人間性をつなぎ止めるための、いわばくさびだ。しかしそれが、作中うまく機能しているとは言い難い。家族というキーワードをやたらと連発するのも不愉快だ。それは伝家の宝刀、最終兵器であって、安易に使っていい言葉ではない。
そう思っていたのだ。23話「ふたりのシュヴァリエ」を観るまでは。
家族を強調するのはこのためだったか。
もう一つ、明らかになった。これは、「デビルマン」だ。
それも、「知らないうちにデーモン族を裏切っていた」デビルマン。戦いの果てに、救いはあるのだろうか。
ところで、本作の特徴の一つは、トランスジェンダーな味わいである。1話でいきなり、そこはかとなく百合っぽいシーンがあるし、シベリア鉄道編のリーザの正体はアレだし。
吸血鬼は元々エロチックなモチーフである。女吸血鬼カーミラを描いた最初の映画は、現在レズ映画の古典として扱われていると聞いたことがある。そういう意味でも、正統な吸血鬼ものと言えるかもしれない。