更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2006年10月31日(火)
シムーン完結

だいぶ前に「シムーン」の最終回を観たのだが、なかなか考えがまとまらず、触れるのが遅くなってしまった。以前に「シムーン」の結末予測のようなものを書いたが、なるほど、こういう形ではずしてきたか、とか、あくまで群像劇として描いてきたのはこの結末のためだったか、とか合点するところの多い最終回だった。戦争が終わり、武装解除されるコール・テンペスト。その和平条件は、シムーン・シビュラ全員が泉へ行き、性別を決定し、大人になること。いわば、少女が牙を抜かれ、社会へ組み込まれること、である。先へ進む者。選択権を放棄し、永遠に佇む者。そして、そのどちらでもなく、別世界へ旅立つ者。
ただより良く飛ぶためだけに、ネヴィリルのパルになろうとしていたアーエル。
アムリアの想い出にとらわれ続けていたネヴィリル。
2人が互いの存在を認める過程が、物語の流れとリンクし、クライマックスへ向かうのが心地よい。少女たちの祈りを乗せ、2人は翠玉のリ・マージョンにより新しい地平へ飛び立つ。もろもろの罪と咎とを担い、真の巫女として。
「大人になりたくなかった訳じゃない。ただ、刻みたかった。ここに生きた証を。」
時間をかけて描かれるエピローグが、悠然と作り上げた世界とキャラたちへの愛情を感じさせる。
説明不足の誹りをものともせず、隅々まで丁寧に作り込まれた、傑作。「ハルヒ」とはまた別次元で、上半期のベストワンだったかもしれない。


なお、「桜蘭高校ホスト部」は、スカパー!放映が始まったのでようやく見始めました。

2006年10月30日(月)
ブラック・ダリア

「ブラック・ダリア」を観てきた。
ジェイムズ・エルロイの代表作である暗黒小説をブライアン・デ・パルマが映画化と聞いて、否が応でも期待が高まる。エルロイの小説の映画化といえば、「L.A.コンフィデンシャル」('97)を思い出す。私はこの映画、オールタイムベストに入れるほど好きなのだが、「ブラック・ダリア」には、残念ながらブライアン・ヘルゲランドもケビン・スペイシーもいなかった。
原作は長大で、一度読んだことがあるはずなのだが、何も覚えていない。複雑で分かりにくい話である。映画版は大幅に短縮し、謎解きを主体に論理的に構成されているが、その結果、ダイジェスト化しただけになってしまった。
「L.A.コンフィデンシャル」は、よく考えると謎解きに不自然な点が多々あるのだが、そんな些細なことを気にさせない香気があった。「ブラック・ダリア」にはそれがない。
デ・パルマ映画だけあって、クレーン撮影による1シーン1カットの長回しとか、主観撮影とかの技巧を凝らしてはいる。だが、それが映画の進行に寄与しているようにはとうてい見えない。主観撮影は、叙述のトリックかと思ったのだが、そういう訳でもないらしいし。失敗作とは言わないが、傑作とは言えない、という程度の映画。
主人公のジョシュ・ハートネット君が「パール・ハーバー」と同じ役柄。すっかり、親友の彼女とできちゃうお下がりくん役者が板に付いてしまった。フィオナ・ショウのキ印演技が迫力。どっかで見た気がしていたのだが、「マイ・レフトフット」('89)の家庭教師役か看護婦さんのどっちかのようだ。
’40年代からあの国のゲイ文化というのは花盛りだったのだな。とは言え、これはアンダーグラウンドだからいいのであって、こういうのはちょっと・・・。

2006年10月29日(日)
ヴィドック回想録など

最近、ヴィドックの回想録を読んでいる。
私も映画「ヴィドック」('01)で知ったのだが、フランソワ・ヴィドックは18世紀末のフランスで、犯罪者から警察入りし、後に世界初の私立探偵に転身した怪人物である。映画の方は、主人公のはずのヴィドックよりも、鏡の仮面をかぶった犯罪者の方が目立っていたが。
何しろ分厚い本なので、1週間がかりでまだ4分の1程度しかすすんでいないのだが、本筋とあまり関係なく印象深かったところをいくつか。
1 鬼頭莫宏「ヴァンデミエールの翼」のネーミングの元になったフランス革命歴が、本当に使われている。
2 「80日間世界一周」を観たとき、主人公の芸達者な召使いが「パスパルトゥ」という奇妙な名前だったのだが、これは「万能合鍵」という意味だった。
3 「指紋を発見した男」に、指紋がなかった時代に個人を同定することがいかに困難だったかという記述があったが、本書は脱獄しては偽名でもよりの軍隊に入隊し、また捕まる、というまさに地でいく展開。
とにかく、前半は脱獄しては捕まる繰り返しで、小野不由美「屍鬼」の上巻みたい(伝染病でひたすら住民が死ぬだけ)である。100ページくらい飛ばしても全然困らない。


秋の新番組は、いまのところ「カノン」をさしおいて、「あさっての方向。」がダントツの出来。BS視聴なのでまだ2話まで観ただけだが、2人のヒロインの年齢が入れ替わってしまった後の、混乱、とまどい、恐怖といった当然の反応を丁寧に描いていて好感が持てる。
「ぼくは怖くない」('03)というイタリア映画がある。小さな村に住む主人公の少年が偶然古い井戸に下りると、そこには、村人たちが身代金目的で誘拐してきた子供が監禁されていて・・・という話なのだが、その誘拐された子供が、状況を把握できず、「自分はもう死んでいるんだ」と言うシーンがある。これを観たとき、なんだかよく考えられているようでいて、逆に計算されたリアルさのように感じて冷めてしまった覚えがある。ちなみにこの映画の監督は、珍品SF「ニルヴァーナ」('96)を手がけた人。
私はこまっしゃくれた子供とか異常に丁寧な言葉遣いのガキ(の描写)が嫌いなのだが、本作の場合、「子供扱いされるのが嫌いで早く大人になりたい」と願うからだの性格設定が、生きている。大人の体になってしまってパニクるからだに対し、子供になってしまった椒子が冷静なのも良い。これが逆だったら、凡庸になっていたと思う。
2話の演出:こんなところにも大畑清隆。総作監:なんと長谷川眞也!J.C.STAFFだから不思議はないか。
桜美かつしは当たりはずれが大きいが、水上清資の力量で突っ走れるか。ピアノのテーマ曲も効果的。
決して、ヒロインがストレートロングのメガネっ娘だから贔屓しているのではない。

2006年10月26日(木)
ファイターズ日本一

北海道ファイターズが、ドラゴンズを圧倒して日本一に輝いた。
私はスワローズファンだが、訳あってドラゴンズが嫌いなので、今年はファイターズを応援していた。日本シリーズで初戦に敗れた後の4連勝。まさに横綱相撲の強さだった。これを機にチーム名から「日本ハム」をはずせば、完璧なのだが。

私はファイターズに詳しいわけではないので、戦力的な分析は他に譲るが、これで、プレーオフ開始後3年、常にパ・リーグが圧倒的な強さをみせて優勝している。これは決して偶然ではないだろう。
昨年、マリーンズがまさに鎧袖一触という感じでタイガースを破ったとき、シーズン終了から日本シリーズまでのタイムラグを敗因にあげる向きがあった。一ヶ月近く実戦から遠ざかっていたから、というのである。ふざけた話だ。かつての日本シリーズは、優勝決定後にダラダラと消化試合をやり、個人タイトルのための敬遠合戦を演じ、それこそ一ヶ月も間をおいたチーム同士が戦っていた。
われわれは、プロの至芸を観るために金を払う。かつての日本シリーズは、実戦から遠ざかってふぬけたチーム同士が戦っていたとでも言うのだろうか。

作家の海老沢泰久氏が、こんなことを書いている。
「彼ら(注・プロ野球選手)というのは二種類の選手に分けられると思っている。それは、日本シリーズに出場した経験のある選手と、経験のない選手だ。
というのも、日本シリーズ経験者の話というのは深みがあっておもしろく、未経験者の話というのは、同じ野球の話をしても薄っぺらでつまらないからだ。
(中略)
そうした(白熱した)ゲームの中では、ピッチャーはこの一球でシリーズの行方が決まるという一球を投げなければならず、打者もその一球を打たなければならない。ぼくは日本シリーズで投げたことも打ったこともないから、そういうときの彼らの気持は分からないが、察するにあまりある。きっと、生きるか死ぬかという気持だろう。そして、ぼくの見るところ、そういう死にものぐるいの経験が、彼らを野球選手として別の高みにみちびくのである。」

一昨年優勝したライオンズの伊東監督が、インタビューでまさにそういう話をしていた。
「プレーオフの8試合で、1試合ごとに選手が強くなっていくのが目に見えて分かった。」
セ・リーグの各チームは、日本シリーズに臨んだ時点で、既に敗れていたのに違いない。来年から、セ・リーグもプレーオフを導入する。白熱した戦いを望む。

2006年10月25日(水)
サザエさん

どこで読んだのだか忘れたが、日本にはアニメ界の他にサザエ界というのがあるという。(「アニメ批評」の0号だったかな?)
何となく覚えていたのだが、「アニメーションRE」vol.3にその辺が出ていた。これももう古いですが。

このデジタル全盛の時代に、セル画は全て手描き!それどころか、トレスマシンを使っていないって!?
エイケン仕上部課長のOさん曰く、
「サザエさんは手作り感が大切だからね」
「だからトレスマシンなんぞサザエさんには使わせん
昭和40年代なみかい。
それでいて、デジタルハイビジョンには対応済み。
進歩しているんだかいないんだか。

放送1年目のプロデューサーから、「サザエさんは実写のホームドラマと同じ。漫画的要素をなくせ」との指示を受け、漫画的にデフォルメした動きを排した。国民的アニメになったのはそこに要因がある、とのこと。
個人的に、アニメとして正しい姿とは思わないが、一つの見識ではあるな。

「BLACK LAGOON」2期シリーズ、また1話を見損ねた。ヘンゼルとグレーテル編、小山茉美の名演と相まって、見応えのあるエピソードになった。よく見ると、子供が人を殺すという直接の描写そのものは、注意深く排除してあるようだ。次回からオリジナルエピソードらしいが、大丈夫か?

2006年10月25日(水)
最近の読書

「三千年の海戦史」
タイトル通り、世界の海戦の通史。海洋国家と大陸国家の覇権争いという視点から、世界史を見直して興味深い。

「陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り」
こういう本を書くのはもちろんこの人、兵藤二十八。戸山流とは、旧陸軍において真剣術を研究していた一流派。今は数少なくなった真剣の使い手に、実際の剣術の極意を聞くという趣旨だが、大変興味深い。以前、本文に「日本刀は意外と故障が多い」という話を書いたのだが、これは旧陸軍が軍刀としていた日本刀は、目釘に、伝統的な竹ではなく真鍮を使っていたからなのだとか。また、当たり前かもしれないが、剣術は何より腕力が第一で、ある達人は前腕の太さが太股ほどもあったという。たおやかな美少女が日本刀を振るったりするのは、やはりフィクションでしかないのだな。

「黒澤明VSハリウッド」
「トラ・トラ・トラ!」('70)は、当初黒澤明が監督として起用されていたが、撮影開始後わずか3週間で解任されてしまう。辞任ともノイローゼとも言われたこの事件の謎に迫るドキュメント。
本編も面白いが、こんな記述があった。「トラ・トラ・トラ!」の日本パートは、東映京都撮影所で撮影されていたのだが、
「(1930年代頃の映画の制作現場は)向上心あふるる低学歴者と、エリートコースからすすんで外れた高学歴の勘当者と、やくざ上がりと左翼くずれが共存して切磋琢磨できる場所」
「京都こそは日本における映画製作発祥の地」
「日本では(つまり京都では)映画産業の黎明期から、観客の人気を集めるメインジャンルとして時代劇が数多く作られてきた。分かっている職人たち、すなわち美術、大道具、役者、脚本家、監督が京都にはいる。古い町並みや神社仏閣はあるし、市街地から車で三十分も走れば、山や川、湖はあるしで、外でのロケ撮影に困らない。(中略)それは伝統と様式美の世界を作り上げていく。」

京都アニメーションの躍進は、映画発祥の地におけるルネッサンスのようなものなのかもしれないなあ、と妄想してみたり。

2006年10月23日(月)
元祖トミノゼリフ

倦怠期の夫婦の会話。

「できたら、別れたいの。」
「できないだろうね。」
「わたしが?それとも、あなたが?」
「君がさ。」
「しょってらっしゃる・・・。」

どこからどう見てもトミノゼリフの応酬(特に最後の一言)だが、実はこれ、先日WOWOWで観た「あした来る人」('55)の一節。川島雄三監督、菊島隆三脚本、井上靖原作。川島雄三は、人情ものが主だった邦画の喜劇に、ドライな感覚を持ち込んだ早すぎた天才。菊島隆三は、後に「天国と地獄」「椿三十郎」等の黒澤映画を多く手がける脚本家。

なにも、富野監督が直接影響を受けたと言うつもりはない。
きっと、こうした膨大な映画的記憶が、あの独特な言語感覚を生んだのだろうな、と想像するだけだ。

ついでに一つ発見。
若い頃の三國連太郎は、長嶋一茂にそっくりである。

2006年10月22日(日)
半落ち

だいぶ前になるが、横山秀夫のベストセラーを映画化した「半落ち」を観た。映画そのものは可もなく不可もなしという出来なのだが、あることがずっと気になっていて、DVDレンタルして確かめてみた。
するとやっぱり。



人物の背後の棚、向かって左側に注目。
3体のフィギュアが並んでいる。で、真ん中はもちろんガンダムなのだが、これもしかして、あの伝説のクローバー製DXガンダムではないか?ファーストガンダム放映時に、タイアップで発売されたものの、あまりの出来の悪さに当時から見向きもされず、今でも熱心なコレクターでさえ敬遠しているという幻のトイ。もしそうなら、おっそろしくレアなアイテムだ。

しかし、こんなもん確かめるためだけにDVDレンタルしてしまった俺って・・・。

2006年10月19日(木)
地獄少女 二籠

この作品が続編制作というのは、ちょっとした驚き。
以前にも書いたが、この作品は設定上、物語構造にカタルシスを欠くという本質的な欠点を持つ。それを克服するには、余程練られた脚本を必要とするのだが、第1期シリーズでは及第点と言えるのは26話中半分以下だった。

第2期シリーズにも正直言ってあまり期待していなかったのだが、2話まで観るかぎり、今度は相当に考えて作っている。
1話は、またもいじめがテーマ。第1期シリーズに倣ったものかもしれないが、セルフパロディに堕すことなく、どんでん返しで救いのない結末を与え、不安と憂鬱の通奏低音を奏でる。
2話では、早くも絵コンテに大畑清隆を投入。行方不明の妹を捜す姉が、妹を殺した相手に復讐するというプロットだが、ケンカ別れした直後に行方不明になったことから、姉が妹の死に罪悪感を感じている、という心理がポイント。
ここで、復讐を依頼することで自らも地獄に堕ちる、という設定が説得力を持つ。一方で、妹については生前も死後も全く描写されない。つまりは、妹の声が聞こえると思ったのも、恨まれていると感じたのも、全てが姉の思いこみに過ぎないのかもしれないわけで、そう考えると、復讐を果たした後の姉の穏やかな微笑みが、何とも哀しいものに映る。傑作。
作画も、第1期シリーズはあっというまに崩れたが、今回はハイレベルをキープ。一目連の過去らしきものに言及する場面もあり、さらに世界を広げる気かも。

2006年10月18日(水)
パンプキン・シザーズ

1話を見逃して、2話から。
まあ世界設定が飲み込めていないのだけど、この作品にかぎらず軍というものの描き方にいつも不満があるので、列挙してみる。

・軍が司法権を持つのは、占領下で軍政を敷いていたり戒厳令下のみ。当然民間人を取り締まる権限はない。発展途上国には軍警察という曖昧な組織もあるが。
・悪名高い憲兵(Military Police)は、本来「軍人の犯罪」と「軍人に対する犯罪」を取り締まるのが任務。れっきとした司法警察職員で、捜査権や逮捕権を持つ。
・軍は士官と下士官からなる。大雑把に言って、士官は大卒相当。自衛隊の例だと、3尉を2年、2尉を3年、1尉を5年やってから3佐。2尉3尉はいわば見習い扱いで、1人前とみなされるのは1尉の中堅どころ、30歳くらいから。サラリーマン社会と一緒である。ちなみに海自はもっとはっきりしていて、「幹部及び2尉3尉」と表現するのだとか。2尉3尉は幹部扱いされていないのである。
・感覚的に言って、中佐で「話しかけるには心の準備がいる」程度に偉い人、大佐以上は雲の上。何しろ陸軍なら1個師団・1万人を指揮するのだ。シャアが20代で大佐というのは常識的にはあり得ないが、それだけ組織が若く、ドラスティックだからだとは言えるだろう。
・戦争するにはジュネーブ条約で定められた「交戦資格」というものが必要。「制服があること」「指揮系統があること」「武器を公然と携行していること(隠し持っていてはならない)」等。交戦資格を持たない人間は戦争してはならない。違反すれば、単なる犯罪者として処罰されても文句は言えない。
・軍には指揮系統というものがあり、階級がどうあれ、指揮系統の違う者には「指揮権」がないので命令はできないし、もちろん聞く義務はない。
・日本軍には伝統的に「下士官から選抜して士官へ」という制度があり、そのため中年の少尉や中尉があり得る。もともと庶民の教育程度が高く、西洋の貴族ほど階級制が根強くなかったためらしい。
・「Officer and Gentleman」という映画があるくらいで、士官とは伝統的に貴族階級の仕事。イギリス軍などは、ノブレス・オブリージュに従って士官が先頭に立って戦うため、士官の死傷率が極めて高いのだとか。

せっかくだから、作品への突っ込みを2、3。
・汚い風体のため、入門時に一悶着。軍の施設に入るのに身分証が必要なのは常識。こういう定番の描写は不快。
・随伴歩兵のいない戦車は、歩兵の肉薄攻撃には脆い。
・戦車内は、騒音と振動で声は全く聞こえない。会話は喉頭マイクによるインターホンが必須。旧日本軍はそんなものなかったので、車長が砲手や操縦手を叩いたり蹴ったりして指示を伝達していた。
・弾丸の自動装填装置が標準装備になったのは、わりと最近。あのくらいの技術レベルなら、装填手が必要。

一応、もう少し観てみる。

2006年10月17日(火)
カポーティ

フィリップ・シーモア・ホフマンのアカデミー主演男優賞受賞作、「カポーティ」を観てきた。
私がシーモア・ホフマンを初めて意識したのが、「マグノリア」('99)。死ぬ前に、家出した息子に会いたいと願う末期ガン患者のために奮闘するホスピスの役で、セリフも出番も少ないし大げさな感情表現をするわけでもないのに、大変な存在感だった。
次に観たのが「太陽がいっぱい」のリメイク、「リプリー」('99)。人を殺したリプリーにつきまとう、被害者の友人役だが、「マグノリア」の善意の固まりのような役と同一人物とは思えないふてぶてしさ、憎々しさに仰天した。
実はそれ以前に「ハピネス」(’98)に出演しているのだが、タイトルと裏腹の不幸な人々の群像劇であるこの映画の中でも、とりわけ不幸なイタ電オナニー野郎の役だった。

こんなバイプレイヤー人生一筋の彼が、堂々と「冷血」の執筆のため死刑囚を取材するトルーマン・カポーティを演じて、見事オスカーを受賞したのだった。
で、肝心の作品はというと、私はてっきり、死刑囚でさえ小説のため食い物にする怪物的人物という描き方をしているものと思いこんでいたのだが、正反対の映画だった。
この映画のカポーティは、不幸な身の上から行きずりで殺人を犯して処刑される死刑囚に、どっぷり自分を投影して落ち込んでしまうのである。
「傲岸不遜な天才が、実は人一倍傷つきやすい魂をもっている」という文脈でとらえてしまうと、えらく陳腐な映画だ。ホフマンの、本物そっくりという甲高い声や、高級な服を自慢するチャーミングな仕草に一見の価値はあるが。
寝不足だったせいもあるけど、途中でダウン。

2006年10月16日(月)
「ガンダムの現場から」より

「ガンダムの現場から 富野由悠季発言集」氷川竜介・藤津亮太編を読んだ。

ガンダムの制作過程において、富野監督が様々なところで発言した言葉・執筆した文章をまとめたものなのだが、その中に実に興味深い部分があった。
企画段階の中でもかなり初期段階に書かれたメモである。思いついた言葉を書き殴った自筆のメモがそのまま掲載されており、構想以前のものと思われるので、あえて内容についてはコメントしない、と編者の注にある。こんな文章だ。

「世界をフカンするな
 巨大になる社会
 いや、社会が巨大なのだ
 一人の人間の頭脳で組み立てられはしない
 社会!それ故、社会!
 切り口をさがせ。
 ドラマは、社会学でなく
 人間の生死、生き、死に、なのだ。
 どう生き、どう死んだのか?
 それは、小さく、悲しい。
 巨大でも、格好よさでもない。
 人生は、大河の、ド・ラ・マ・なのか?
 異なろう。
 人生は、一つの人生は偏見と独善なのだ。
 技力(?)を得てもそうであり、○○○○には全て悪なのだ。
 その人たちにも、人生があるから、
 では、
 まとめられるのか?人生を?
 それこそ、○○の夢のまた夢」

宇宙世紀という世界を構築してしまった人、作品世界の造物主として、厳しい自戒の言葉ではないか。
ここで11、12日あたりの記述につながるのだが、ハンパに異世界を構築する作品群を観ていていらだつのは、社会や歴史や文化や芸術や政治や軍事や科学や宗教といった、世界を構成するもろもろについての、洞察の浅さ、薄っぺらさである。しばしばセカイ系と称される作品への批判の対象になる「箱庭的世界」というものは、むしろわからないものは無理に描かない知的誠実さの表れではないか、と思う。

竹田滋プロデューサーが「コードギアス 反逆のルルーシュ」の企画にあたって、「東西冷戦なんてもう古い」と言ったそうだが、「BLOOD+」の「米軍が極秘に開発した生物兵器」というフォーマットだって、もう大概に古いだろう。「どこかに悪い奴がいる」と思っているかぎり、世界の構造は見えてこない。

2006年10月15日(日)
さよなら土橋選手

ドラゴンズの優勝が決まって、一際秋風の冷たい毎日だが、今夜の神宮球場は熱かった。
土橋勝征内野手と山部太投手の引退試合だったからだ。
私はスワローズファンではあっても、個々の選手のファンということはないのだが、こと土橋についてだけは思い入れが深い。

いぶし銀。
職人肌。
練習の虫。
バッテリー以外ならどこでも守れる器用さ。
派手さはないが堅実な守備。
宮本と組んだ鉄壁の二遊間。
分厚いテーピングを施したバット。
内角の球でもおっつけて二塁手の頭上を抜いてしまう、芸術的な右打ち。
追い込まれてもカットで粘り、簡単にアウトにならないしぶとさ。
通算打率4割を超える桑田キラー。
ルーキーイヤーの上原に、「20勝できたのは土橋さんのような打者が(故障で)いなかったから」と言わしめた男。
サヨナラヒットを打ってもヒーローインタビューを断ってしまう謙虚さ。
女優の白島靖代と結婚したときのスポーツ紙の見出しは、「名脇役、名脇役を射止める」。
トレードマークはメガネ。後に視力矯正手術を受けるが、その理由が「雨の日のフライ捕球に差し支えるから」というもの。

千葉県印旛高校出身。87年ドラフト2位で入団。
プロに入ってからしか知らない私には意外だが、高校時代はホームランバッターで、県下にその人ありと名を轟かせていた。ドラフト上位指名も、将来の大砲の期待あってのことと思うが、御多分に漏れずプロの壁にぶつかる。高校時代のイメージを捨てられずに消えていく選手が多い中、土橋はユーティリティープレーヤーとして生き残る道を選んだ。
その象徴が、バットのグリップに巻いたテープ。これ以上長くは持たず、大きいのは狙わないという決意の表れだった。

そうかと思えば97年の日本シリーズ第2戦で、いきなりの5点ビハインドから反撃ののろしを上げるヒット。思い切り引っ張った打球だった。(試合は延長の末に破れたが。)
01年の優勝目前、突如打線が沈黙してしまい、激しい巨人の追い上げを受けた9月。3試合連続の完封負けの危機に、久方ぶりのタイムリーを生んだのが土橋のバットだった。

土橋の引退により、93年の日本シリーズで常勝ライオンズを下し、スワローズの黄金時代を迎えた時を覚えているのは、野手では古田だけになった。
これは土橋のエピソードではないが、当時のスワローズでの選手ミーティングでのこと。右中間の打球をカットするのはセカンドかショートかで議論が白熱し、つかみ合いのケンカになりかけたという。土橋は間違いなく、スワローズのそんな時代を体現する選手の一人だった。

この日の試合に2番セカンドで先発出場した土橋は、4回裏2死無走者からセンター前ヒットで出塁し、一塁側を埋め尽くしたファンの声援に応えて、ヘルメットを取って一礼してみせた。
いつものように、控えめな仕草で。


2006年10月12日(木)
セカイ系再定義

ウィキペディアの「セカイ系」の項が、ずいぶんと大幅に改訂されていた。
→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB

私としては、この言葉自体が嫌いだしこうした分類や定義にあまり意味があるとも思えない。
早いところ消滅してほしい言葉である。
それもあって、「イリヤの空、UFOの夏」に少し加筆。
この項続く。

2006年10月11日(水)
新番組の懐かしい感じ

地上波の写りが悪いせいもあって、今シーズンはほとんど新作アニメを観ていない。実際、多少食指が動くのが「コードギアス」くらい。
そのうちスカパー!でやるだろうし。

たまたまBSで「夜明け前より瑠璃色な」をやっていたので、少し観てみたのだが、いきなり宇宙で日本海海戦みたいなことになっていてずっこけた。両軍の最終兵器らしきものまで出てくるし、「ガルフォース」かと思った。
かつてOVAが占めていたニッチを、深夜アニメが取って代わったとよく指摘されるが、何も絵面や作風まで似せることもあるまいに。こういう80年代テイストって、最近の流行なのか?
結局お姫様が出てくるまで耐えられずに、視聴中止。

「舞-乙HiME」を観てた時にも思ったのだが、現代文明の延長上にある未来世界で、なんで王制なのだろう。王家というのは、歴史と伝統が不可欠の要素だし、20世紀を通じて王国(kingdom)が次々に姿を消していることを知らないのだろうか。こういう作品(乱暴なくくりだが)が好きな人って、そういうことは気にならないのか?
この話は長くなりそうなので、項を改めて。

メジャーリーグのチャンピオンシップ第1戦は、アスレチックスが初戦を落とした。エースのジートを立てての敗戦だけに、後に響きそうだ。相手のタイガースは投手力のチームだし、先行き心配。今年こそワールドシリーズを制して、マネーボールの神髄を天下に知らしめてほしい。

2006年10月10日(火)
「自然」と「リアル」

ひとつ、昨日書き忘れたこと。



トップ5話のはずし技、ガンバスターの手のエアロックですが、これ横スライドじゃなくて、外側へ押して開けてるんですね。
大画面で観て初めて気がついた。しかも、ちゃんとハンドルまで描き込んであるし。
18年目の新発見!・・・いや、設定資料見れば一発なんだろうけど。


ここから本題。
以前にも書いたが、私はBSで不定期放送している「アクターズ・スタジオ・インタビュー」が好きである。俳優の養成機関であるアクターズ・スタジオが、一流の役者を招いて学生たちの前でインタビューする番組である。何しろインタビュアーも現職の演技の教官なので、突っ込みの深さがハンパではない。
招かれた俳優もまた、招かれたことを心底光栄に感じ、教官や学生に敬意を払っているのが実に好ましい。
先日、この番組の10周年を記念して、過去の名場面集的な特番が放送された。
その中で、エレン・バースティンが、アクターズ・スタジオ創始者の一人、リー・ストラスバーグから受けた指導として、こんなことを言っていた。

「ある日、『とても自然な演技だが、リアルではない』と言われた。この意味がわかるまで、その後7年かかった。」

仏作って魂入れずと言うか、形はできていても観客の心を揺さぶる何かがない、というようなニュアンスだと思うのだが、アニメにもよく当てはまる言葉だと思う。
現実を模倣するのが、「リアル」を追求する唯一の方法ではない。

2006年10月9日(月)
合体劇場版

ハルヒネタはもう終わりのつもりだったんだけど、再見したらもう一つ語りたいことができたので、「ハルヒとキョンと長門の構図」をアップ。

「トップをねらえ!」「トップをねらえ2!」の合体劇場版を観てきた。2本合計で3時間というのは、さすがに疲れた。開場1時間前着で整理券65番。さすが秋葉原。
2本とも、前半は大胆にカットしてしまって終盤の展開に時間を割いた、オーソドックスなできになっている。旧作の方は新作カットはないらしいが、作り手自身の絵柄の変化を考えると、これが正解だろう。
作品の出来以外に、気がついたこといくつか。

・HDリマスターのおかげで、太陽系絶対防衛戦の際、ブラックホール爆弾の重力で崩壊する雷王星がはっきり見える。
・旧作のラスト、地上の明かりに気づくノリコのカットの前、地球を背景にしたガンバスターのカットで、2つ3つ明かりがともりはじめているのが見える。そうでなければ不自然だ、とずっと思っていたシーンなので、長年の疑問が解けた気分。
・「敵が七分に黒が三分」というセリフが岡本喜八の「激動の昭和史・沖縄決戦」('71)へのオマージュだ、というのは有名な話だが、「敵機直上、急降下!」というのも、「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」('60)からではなかろうか。ミッドウェイ海戦の有名なセリフなのだ。
・新作のクライマックス、歯っ欠けのラルクの表情が、いかにも熱血少年である。

それにしてもこの映画を観ると、クリシェがいけないのではなく、「出来の悪いクリシェ」がいけないのだ、ということがよくわかる。

2006年10月4日(水)
シャマラン映画の裏テーマ

懲りずにもう一回シャマランの話。(ネタバレ上等)
もともとは、「アンブレイカブル」('00)と、松本大洋の卓球スポ根マンガ「ピンポン」との類似を指摘しようと思っていたのだが、「ヴィレッジ」を観たら妄想が発展しはじめた。
「アンブレイカブル」は、ブルース・ウィリス演じる主人公が、不死身のヒーローである自分を見出す物語だが、もう一人の主人公がサミュエル・L・ジャクソンが演じたミスター・ガラスだ。彼は先天性の異常で、些細なことで骨折してしまう体質である。彼は、あこがれのヒーローを捜し出すために、自らを悪に落とす。
この構図が、実は「ピンポン」とそっくりなのだ。スマイルこと月本誠は、自分のヒーロー、ペコ・星野裕を産み出すために、自らを悪役としてしまうのである。

シャマラン映画の多くが、先行作品との類似を指摘されている、と町山先生が書いているが、さすがに「ピンポン」まで読んでるってことはないだろう。

「ピンポン」のことはさておき、「ヴィレッジ」まで観てみると、なんだか共通のモチーフが見えてくる。
それは、「ヒーローの無力」である。

出世作の「シックス・センス」では、ヒーローのはずのウィリスは、自分の正体を知った時、彼岸へ去るしかなかった。
「アンブレイカブル」では、ヒーローは邪悪の存在によって産み出されたものにすぎない。
「サイン」はちょっと異質なので保留にするが、「ヴィレッジ」ではもっとはっきりしている。
子供達の病気を治すために、外界へ薬を取りに行きたいと訴えるホアキン・フェニックスは、紛れもなくヒーローの資質を持つ人物だ。なのに、ホアキンは作品中盤で刺されて負傷し、実際にヒーローの役割を担うのは盲目の女性ブライス・ダラス・ハワードの方である。
念を入れたことに、この作品にはもう一つ仕掛けがある。

以下は、以前にも紹介した白倉伸一郎「ヒーローと正義」の一節。
「『わたしたちの世界』の周縁部にあって『わたしたち以外』との境界を浸食している共同体を〈異人〉とみなし、わたしたちは排除しようとする。その異人と対抗しうる〈ヒーロー〉は、やはり『あいつら』の属性をいくぶんか帯びた人間でなければならない。」

「外の世界」で手に入れた薬品を取り込むことが、「異世界の属性」を帯びること、つまりヒーローの資格を得ることのはずである。ところが、その薬を飲んだホアキンは作中では、ケガをして寝ているだけなのだ。薬を入手するための冒険という「ヒーローらしい行為」は、盲目というイノセンスをまとったダラス・ハワードに一任されてしまう。
すなわち、ホアキンのヒーロー性は徹底的に剥奪される。

シャマランは、もしかすると映画からヒロイズムを奪っていったアメリカン・ニューシネマの、もっとも正統な後継者なのかもしれない。

2006年10月3日(火)
ユートピアはないにしても

先日「ヴィレッジ」を観て、その歪んだユートピアについて書いたのだが、偶然にもこんな事件が発生した。

『米東部ペンシルベニア州ランカスター郡で2日午前(日本時間同日深夜)、電気や自動車を使わない質素な生活を続けているキリスト教の一派アーミッシュの小学校に男が押し入り、人質に取った女子児童らに次々と発砲した。

 この事件で児童3人と教員を補助する10代の女性1人が死亡、児童7人が重傷を負った。男は自殺した。地元警察によると、犯人は近くに住む32歳のトラック運転手。家族に残した書き置きには、20年前に起きた出来事の報復をするなどと記されていたが、詳細は不明という。

 男は、この小学校に散弾銃やライフルを持って乱入。男子児童や教師を解放した後、6〜13歳の女子児童ら十数人を人質に取り、入り口を机などで封鎖して立てこもった。女子児童の足を縛って黒板の前に並ばせ、警察が駆け付けた直後に頭などを狙って発砲した。男自身はアーミッシュではない。』
(読売新聞ニュースより)

アーミッシュは「刑事ジョン・ブック 目撃者」('85)で知られるようになった、前世紀そのままの生活を続けるキリスト教メノナイト派の一派である。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

ユートピアを浸食する邪悪。これはもう、完全に「ヴィレッジ」の作品世界そのままだ。
ユートピアもイノセンスも、この地上に存在しないことはわかっている。
だからといって、こんな現実を突きつけられるとやりきれない。
2006年10月2日(月)
「ケモノヅメ」が凄いことになっている

これまで、主にエロ方面が15禁だったのだが、ここのところグロ方面も15禁どころかX指定になりつつある。8話冒頭のシーンなんて、切株派の皆さんも納得のできばえだ。(切株派:ホラー映画愛好者のうち、人体の切断面の表現にこだわる一派。言わでものことか)別に過激ならいいというわけではないが、地上波でできないことをやってこそWOWOWのオリジナルアニメとしての価値がある。このテンションで最後まで突っ走ってくれれば、「妄想代理人」以来の傑作になるだろう。
作劇上の見所は、食人鬼側のキャラが立ってきて、物語に奥行きが出た点。
作画・演出的には、ボディランゲージのシーンが良い。派手な作画ばかりじゃなく、こういう説得力ある演技ができるのが強み。

偶然、「サムライチャンプルー」の9話「魑魅魍魎」(湯浅政明がゲストアニメーターで参加した回)を見直したのだが、メタモルフォーゼの感じとか、極端なパースをつけた棒術の表現とかがまるきり同じで笑った。ちなみに、絵コンテは今石洋之。

余談だが、古いビデオを発掘していて、「機動警察パトレイバー」の第1期OVAを見直したら、仕上げで京アニが参加していた。

2006年10月1日(日)
阿佐ヶ谷詣で終了

予定通り、「宇宙人東京に現わる」('56)を観てくる。
岡本太郎デザインのパイラ人を堪能しましたが、途中から人間に化けちゃうので、あのヒトデ状の姿で出てくる機会はそんなに多くないのだ。突っ込むのは野暮とは思うが、地球の危機を知らせに来る割には、のスケールの小ささが何とも言えない。一般家庭のお茶の間を覗くのはまだしも、ダンスホールの天井に潜んでるのは、誰かおかしいと思わなかったのか。

週末は映画漬けの日々。HDDの容量が大きくなったのをいいことに、録画しまくっているので、結局またD−VHSに退避させたりしている。

「ゼーガペイン」完結。録画失敗したりで視聴順がかなり前後してるので、考えがまとまっていないのだが、何か評価に苦しむ作品だった。絶賛する気は起きないが、むげにけなす作品でもなし。
「クラウ」といい「Fate」といい、もしかして私は川澄綾子の声に弱いのか!?


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