更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2006年6月29日(木)
ワン・オブ・チャリエン

本文更新はお休み。

自慢することでもないが、私は「チャーリーズ・エンジェル」を観ていない。
伝え聞くところによると、カンフー!裸!爆発!最初に戻る!・・・という感じの映画らしいですな。

別に高尚なゲージツ映画が好きな訳じゃないが、こうまで潔く下世話に徹した映画も観る気がしないだけだ。

で、エンジェル3人のうち、キャメロン・ディアスとドリュー・バリモアは、絶世の美女とも言えないが、魅力も実力もある女優だと思う。

よくわかんないのが、ルーシー・リュウだ。少なくとも、日本人でこのお顔を美人と感じるのは、よほど変わった趣味の持ち主だと思う。
キワモノ映画に出るのをいとわない(カンパニー・マン、キル・ビル・・・)という意味で貴重な役者ではあるが、いったいどこがいいのか?

ところが、ある時ディズニーのポスターを見て気がついた。これだ。ついでにこれ。長い黒髪、高いほお骨、おちょぼ口、そしてキツいつり目。
つまり、西洋人の考える「エキゾチックな東洋人美女」のイメージそのものなのである。
黒人の描写は、人種的特徴を誇張してはいかんのに、東洋人はいいのか?という点はさておき、世界がいくら狭くなっても、美意識の溝の深さと広さには、呆然とするほかはない。

2006年6月28日(水)
最近のギモン

リンク集の整備に着手。やっぱヒッキー君じゃいかんよな。相互リンクしてくださる方、お待ち申し上げております。

ところで、表題のギモンに思っていることというのは、「最近のアニメは、なぜあんなに原画マンが多いのか?」ということである。30分作品に10人20人なんてのもざらだ。
スカパー!で80年代の作品を観る機会があるのだが、30分作品に3〜4人しか、原画がクレジットされないことも珍しくない。アニメーターの収入って、縁日のヒヨコなみに物価の優等生なんじゃなかったっけ?
制作費が上がったという話も聞かないし。

いや、もちろん作品のレベルが上がるのは歓迎すべきことなんだけど、予算の上限がある以上、どこかにしわ寄せがいっているのじゃないかとなんだか気になって仕方がない。ちょっと前なら、韓国、中国の下請けがもろに影響を被ってたわけだが。
それにしても、業界の危機が叫ばれながら、こう次々と新しい才能が登場するとは、我々はまことに幸福な国に住んでいる。

2006年6月27日(火)
で、結局オタクってどうなの?
久々に映画の話題で、「コーエン兄弟の映像魔術」を追加。

7月1日、ロフトプラスワンで「メカビ」公開打ち上げだそうです。

これはこれで面白そうではあるが・・・。
ちょっと待て、ついこの間、ところも同じロフトで、「オタク・イズ・デッド」のイベントやったんじゃなかったか?

無節操というよりも、オタクという概念がそれだけ拡散して、実態のつかみにくいものになってしまったということなんだろう。私とて、アニメは観るけどゲームは一切やらないし、キャラクター商品にも興味がない人間である。

それをヒエラルキーとは思いたくないが。
2006年6月26日(月)
ありがち企画ですみません

日本中で同じことをしている人が3万人くらいいるのではないかと思われるが、『「涼宮ハルヒの憂鬱」の時系列』をアップ。

本文でも触れた「季刊エス」のインタビューによると、EDのダンスの振付は、演出の山本寛氏本人によるものなのだとか。プロの振付師に依頼したのかと思っていた。
作画の参考にと、アニメーターの前で実演してくれたそうです。いい話ですなあ。
もう一つ、このシーンは1秒30コマで作画されているとのこと。ビデオ素材を前提にしているということなのだろうが、あのパキパキ感は、これが影響しているのか?

2006年6月25日(日)
「Ergo Proxy」についてのちょっとした考察

風邪で寝ていたのでほぼ2週間遅れなのだが、「Ergo Proxy」14話を観た。その中で、実に興味深い描写があった。既にネット内で指摘されているが、ご容赦ください。
これである。


このイメージは、19世紀イギリスの画家ジョン・エヴァレット・ミレーの代表作「オフィーリア」からの引用である。→画像
さらに丁寧なことに、このエピソードの舞台となるショッピングモールの名前が、そのものズバリ。


オフィーリアは「ハムレット」の登場人物で、ハムレットの恋人であるが、復讐のため変貌してしまったハムレットに絶望し、入水自殺する。この絵は、そのシーンを描いたものである。

実は私がこの絵を知っていたのは、町山智宏先生が、テリー・ギリアムの「ブラザーズ・グリム」にこの絵のイメージが頻出することを指摘していたからだ。ついでだが、「スター・ウォーズ エピソード3」のアミダラの葬儀のシーンも、このイメージからきているのではないかと私は思っている。

「Ergo Proxy」がロード・ムービーの様相を呈し始めたとき、私はこの作品が、「王の帰還」パターン説話の変形ではないかと思うようになった。「ロード・オブ・ザ・リング」の第3部がまさに同じ題名だが、「王の帰還」とは、オデュッセウスに代表されるように、王位を追われたものが、苦難の旅の果てに帰還を果たし王位を取り戻す、という形式の物語である。

追われた王はビンセント・ロウであり、ピノは王に付き添う道化の役回りだろうか。リルは全てを見届ける者の役である。
ビンセントが旅を終え、ロムドに帰還したときがクライマックスになるはずだ。
「ハムレット」は王位簒奪者の悲劇を描いた作品であることを考えると、このシーンはその一つの傍証となるだろう。ビンセントの変貌に動揺するリルを暗示しているのかもしれない。

14話の絵コンテ担当は監督の村瀬修功本人。「ウィッチハンターロビン」も悪くはなかったが、よもやこんなしたたかな演出家だとは思わなかった。

蛇足だけど、無人のショッピングモールって、「ゾンビ」を連想させるイメージである。これも終末感の演出のひとつなのかもしれない。

2006年6月22日(木)
「蟲師」完結

「セカイ系」の話はちょっと中断。「イリヤの空、UFOの夏」を細々と更新しているので、よろしければそちらをどうぞ。

BSフジで、「蟲師」の放送が完結した。最終回は「草を踏む音」で、やけに地味なエピソードを持ってきたものだと思ったが、人と蟲との関わりを描いてきたこのシリーズの最後は、(ギンコでなく)ただの人間代表を主人公にした作品で締めくくりたかったのかもしれない。なお、この作品の着想はおそらくサンカ衆の伝承からきていると思われる。

この作品は、基本が2コマ撮りだという。3コマの方が重量感やメリハリが出る、と言う意見も聞くが、2コマの滑らかな動きの魅力を再確認したものであった。まさしく、優れた原作を良心的に映像化するとこうなる、という見本のような傑作であった。

ところで、本作のナレーションと予告を担当しているのが土井美加である。考えてみれば、「マクロス」の早瀬未沙もこの人ではないか!この人をはじめ、榊原良子、藤田淑子といった、かつてお姉様声で我々を魅了してくれた人がこういう老け役をやっているのを見るのは、なんだか寂しい。
特に榊原さんは、「新訳Z」でもハマーンの声をあてていて、久々に妙齢の女性の役と期待したのだが、凄みがありすぎてキャラが変わっていた。

オペラ歌手のデル・モナコは、公演の一週間前から一言もしゃべらなかったそうである。歌うときの喉は心地よい緊張の元にあるが、しゃべるときは不連続で過酷な刺激を与えるから、というのが理由だったとか。
それを考えると、声優の仕事というのがいかに過酷なものか、わずかながら想像できる。

2006年6月21日(水)
セカイ系はアメリカン・ニューシネマか?

本文更新はお休み。

以前のセカイ系の話の続き。「正義」の観念の揺らぎが、セカイ系と呼ばれる作品群を生んだ一因ではないか、ということをしばらく前に書いたのだが、考えてみるとアメリカ映画にもそういう時代があった。

第二次世界大戦を勝利で終え、独裁に対する自由の勝利を謳い上げたアメリカは、続いて共産主義との戦いにはいる。60年代まで、アメリカの正義は揺るがず、映画のなかのヒーローもまた常に正しかった。宇宙人の侵略、洗脳、核戦争といった共産主義の恐怖を背景に生まれた映画が多かったのもこの頃である。

しかし、ベトナム戦争の激化とともに正義は揺らぎ始める。60年代半ばから、ハリウッド・スタジオシステムの崩壊とともに、作家性の強い映画が続々と作られる。その名を、アメリカン・ニューシネマという。「俺たちに明日はない」「卒業」('67)、「明日に向かって撃て!」「イージー・ライダー」「真夜中のカーボーイ」('69)「スケアクロウ」('73)「カッコーの巣のうえで」「タクシードライバー」('75)・・・

ニューシネマの特徴は、反体制的な若者が体制に敢然と闘いを挑む、もしくは社会に背を向け刹那的な出来事に情熱を傾けるなどするのだが、最後には体制側に圧殺されるか、あるいは個人の無力さを思い知らされて幕を閉じるもので、大概はアンハッピーエンドである。

やがてベトナム戦争の終結から政治の季節は終焉を迎え、80年代のレーガノミックスから保守への回帰が始まり、冷戦終結、湾岸戦争でアメリカ一極による世界支配は固定したかに見え、映画もまた安定していった。

その後9.11を経て、現代アメリカ映画のヒーロー観は、「スパイダーマン2」('04)に集約されている。スパイダーマンは、力を持ちながらそれを正しいことに行使しないのは罪だ、と考える。そして、悩みながらも敢然と悪に立ち向かっていく。長くなるのでまた別に考察するが、正義の依って立つものそれ自体は疑っていないのが、実にアメリカ的である。

さてところで、日本の場合は敗戦国だけあって、もう少し事情が複雑である。アニメのなかのヒーローだけ考えてみても、鉄腕アトムは人とロボットの狭間で悩み傷つく存在だし、サイボーグ009にも「太平洋の亡霊」という問題作があった。鉄人28号に至っては、「いいも悪いもリモコン次第」の怪物にすぎない。戦後日本にも安保闘争を筆頭に政治の季節はあったが、72年の連合赤軍事件を契機に終息してしまい、以後長い閉塞にはいる。

その間、タツノコヒーローは陰りを帯び続けていたし、サンライズのロボットアニメは戦争アニメなどと言われながらも、正義と悪を相対化し続けた。
それでも、経済だけは順調だったから日本はいびつに成長していった。この辺の論考は「ゴジラとヤマトと僕らの民主主義」(佐藤健志)に詳しい。

で、その後の日本を直撃したのがバブル崩壊('91)と阪神大震災、地下鉄サリン事件('95)である。
最初から揺らいでいた正義と悪の観念が、大きな衝撃を受けたと考えても不自然ではあるまい。
奇しくも、「新世紀エヴァンゲリオン」の放送開始がその年10月であった。

とは言え、あまり世相に頼るのは本意ではない。何より分かり易すぎてつまらない。

もう一つ、映画界には「静かな世界の破滅」という系譜がある。代表作は「渚にて」('59)。こっちから読み解いた方が面白そうだが、この話はまた今度。

2006年6月20日(火)
アニメ文化公開講座

病身をおして(笑)、氷川先生の公開講座に行ってきた。

今回が最終回ということで、お題は「アニメ表現の変遷とその未来図」。近年の作品の技術的動向から、未来像を考えようというものである。

何よりもまず、
・2000年を境界に、急激にデジタル化が進み、いわゆるセルアニメは絶滅してしまった(もっとも「サザエさん」はどうなのか未確認)。2004年から05年にかけて、ほぼ成熟期に入ったと思われる。

・ディズニーが2Dアニメスタジオを閉鎖したことに象徴されるように、世界的に3D化が大きな潮流。写実的でありながら、表現的にはカートゥーンのまま、というのが主流。

してみると、日本のあくまで手描きの2Dにこだわったアニメはむしろ完全な少数派であり、きわめて独特な文化になりつつある、ということだ。それは強みでもあり、弱点でもあるだろう。

・デジタルは「良くする技術」ではない。むしろ「破壊する技術」であり、効率化、コストパフォーマンスが命。

・従来の技術とデジタル表現とのコンフリクトをいかに解消(なじませ、マッチング)し、武器とするかが勝負所。そのせめぎ合いから、逆に「アニメの本質とは何か」が見えてくるのではないか。

・デジタル背景と2Dキャラの演技(例:「イノセンス」)。これは、「映画史の反復」のようだ。もともと映画は見せ物小屋でかけられたもので、演劇的に書き割りの前で演技をしていた。今の状況は、この映画的記憶をなぞっている。

そういえば、「イノセンス」で、なぜキャラも3Dでやらないのか問われた押井守は、「手描きの方が圧倒的に表現力が優れているから当然のこと」と答えている。アニメ表現は観客との了解の上に成り立った特殊なものだから、3Dがもっと進歩しあるいは普及すれば、表現力においても2Dを上回る日が来るのかもしれないが、一方で「不気味の谷」問題は解決のめどが立たないし。私としては、手描き2Dを大切にしたいが。

・実写のアニメ化・アニメの実写化(例:「キューティハニー」「CASSHERN」。「デビルマン」ではなかった。(当然か・・・))。境界の浸食。ジャンル分けの無意味な映画の増大。表現の過剰なエスカレーション。
モーションキャプチャーで取り込んだ画像を、逆にアニメ的に加工・演出(例:「アップルシード」)
初期の大林宣彦的な映像の玩具化。(「HOUSE」とか。「漂流教室」は違うと思うが)
「厳窟王」「創聖のアクエリオン」の独特なデジタル表現の使い方。

・「アニメのサイボーグ化」。機械的な補完により、さらなる進化を遂げる。

本題とちょっとそれるが、「アニメを語る言葉の不毛」を語っておられたのが、強く印象に残った。アニメというものが我々の文化になって半世紀近く経つのに、我々は未だに「面白い」「つまらない」以上の言葉を持っていない。技術論を語り続けるのは、そんな状況を少しでも打破したいからだ、とのこと。
大きく頷けるものであった。

2006年6月19日(月)
ガンダムの回し蹴り

39度の熱で一週間倒れていたが、ようやく復活。

ガンダムの回し蹴り」をアップ。

WOWOWで、「Ergo Proxy」が佳境に入ってきた。最初は、ドーム都市やらアンドロイドという設定でまたかと思ったり、弐瓶勉「BLAME!」みたいと思ったりしていたのだが、ダークな雰囲気とエッジの効いた演出は悪くない。
当初発表されたスチルからは、海外配給を意識した、(あまりいい意味でなく)アメコミ調の作品という想像もなされていたが、実際観てみると、この柔らかな描線は紛れもなくニッポンアニメだ。
キャラクターデザインは恩田尚之。新訳Zでの仕事が記憶に新しい。安彦さんのオリジナルデザインとはひと味違う、ふっくらした描線が魅力的だった。
TVシリーズに比べて、やけに物わかりの良くなったカミーユのキャラが受け入れられたのは、この文字通りカドの取れた恩田の描線に負うところが、結構大きいのではないかと思ったりする。

2006年6月11日(日)
高熱でダウン

季節はずれの風邪らしい。寒気がするのに、全身汗びっしょりというのがたまらん。何より、何で休みの日に限ってこうなるのか。

ダウンする前の話だが、「ソウルテイカー」のDVDボックスを買ったので、少しずつ観返している。新房昭之の独特すぎるビジュアルセンスが爆裂した作品だが、第3話「髑髏と少女篇」のスタッフに見たような名が。

絵コンテ・演出に武本康弘、作画監督に米田光良。原画に、荒谷朋恵、池田晶子。初見では全然気づかなかったけど、完全に「フルメタル・パニック!」の布陣だ。01年の作品なので、「フルメタ」第1期シリーズの直前、京アニ的には「犬夜叉」「ハレグゥ」と並行していた時期と推察される。

ざっと調べた限りでは、6話「成層圏魔城篇」もどっぷり京アニ。

WOWOWとのコネクションは、この頃から出来ていたのですな。

2006年6月8日(木)
妖精を信じるなら手をたたいて

本文更新はお休み。

伊藤明弘「ジオブリーダーズ」12巻を読んだ。
「敵」である化け猫とは何か。
そもそも、数ある妖怪のなかでなぜ化け猫なのか。

初めて読んだときから疑問に思いつつ、迫力あるアクションを楽しめばオッケー、とばかりに忘れたままでいたのだが、連載開始から10年を過ぎて、きちんと回答を提示してきた。

闇を恐れる心が生み出した、共同幻想。
文明の進展とともに滅びるはずだった種族。
「奴等は生き延びた」
「そこに手を叩く者が居たから」

これまで、思わせぶりに散りばめてきただけだった伏線を、きちんと回収していったら、これは10年に1度の傑作となるかもしれない。

思想的に近い作品が、2本思い当たる。
1つは、とり・みき「山の音」。
伝説や怪異は、それがウソや迷信だから信じられなくなったのではない。それらを人が信じなくなったとき、最初から知らない人間が多数派になったとき、力を失ったのだ、という趣旨の台詞があった。

もう1つは福井晴敏「終戦のローレライ」である。
恐怖を、さらなる恐怖で塗り込め、それを平和と呼ぶこと。
一方で、確かな未来はなくとも、それに異を唱え続けること。
これが、ローレライの戦いだった。

神楽警備保障の戦いは、どこを目指すのか。

2006年6月7日(水)
「トップをねらえ!」2題

古いうえに小ネタで恐縮ですが、「『トップをねらえ!』のちょっとした演出を追加。

トップつながりということで、「トップをねらえ2!」について少し。
完結するまで評価は定まらないが、近年これほど志高く、気迫のこもった作品は他に思い当たらない。今作るべき作品を作っている、という確信に満ちている。何よりタイトルが、「トップをねらえ!2」ではなく「トップをねらえ2!」だというのがいい。ただの続編では終わらさん、という覚悟のほどが伝わってくるではないか。

5話まできて判ったのは、実はノノはトリックスターにすぎず、真の主人公はラルクだ、ということだ(3話でも既にそういう気配はあった)。改めて見返すと、1話冒頭のモノローグは、ラルクによるものだった。
「私はこの流れ星を待っていたのだから」という台詞が、意味深長である。ちょうど、列車のヘッドライトが星のように見えるカットに続くのだが、これは全て承知の上のミスディレクションだったのかもしれない。

5話で、ノノが彗星のなかで眠っていた、という描写と併せて考えると興味深い。いや、もちろん彗星と流れ星は別の天体現象だというのは知ってますが。
後は完結を待つのみ。

なお、本作でも頻出する頭からナニかが出てくる、というイメージは強く「フリクリ」との共通性を感じさせる。鶴巻+榎戸テイスト。

しかし、5話まで観てやっとノノリリってそういうことか、と気が付いたオレって、ひょっとしてバカ?


ちょっと話は変わるが、ネット内を見て回ると、「ハルヒ」9話の「長門さんの長回しシーンはちょっと・・・(手抜きじゃないの?)」という意見が結構多いようだ。部室棟の遠くから響いてくる声を聞いていると飽きない、どころか笑っちゃったので意外に思ったんだけど、もしかすると私がこういう環境で観ているせいか?地上波の音声には完全にオーバースペックだと思っていたけど、結構センタースピーカーの効用ってあるのかも。

2006年6月6日(火)
エロマンガのこと

本文更新はお休み。

昨日書き忘れたこと。
「ヒマ戦」には、トホホ記号が使われている。額の青線と、うしろ頭のでっかい汗だ。
記憶だけで書いているので間違いかもしれないが、「ふもっふ」ではまだ使っていなかったような気がする。まあ、あれはアクションコメディではあったが。
京アニ作品で、しかもこの精緻なキャラでこういう表現が成立することに、いささかの感慨を覚える。

本題その1。
先日本屋の店頭で見かけたのだが、世徒ゆうき「ストリンジェンド」「アッチェレランド」が、累計で320万部だそうである。「ベルセルク」が10年がかりで合計約3000万部だから、大した数だ。私の手元にあるものの奥付を試しに見てみたら、初版が2002年11月で、2004年5月には何と16刷!

それぞれ刷った数が小さいのだろうが、読み捨てが基本の業界で、これは驚異としか言いようがない。女の子はもちろん可愛いのだが、作家としての特色はむしろ、硬質な線で妙に律儀に、しかも異質な意匠で描き込まれた背景美術の方にあるように思う。
アニメ化もされて、我が世の春という感じですな。
なお、カバー裏のオチも○。

その2
世棄犬「DOG MAN」を発見したので、買ってみた。アフタヌーン誌上で、いくつか印象的な短編を発表している博内和代と同一人物ではないか、という書き込みを読んで、気になっていたのだ。確かに、「慢性破綻」なんて絵柄も作風もそんな感じがある。(題名もだな)
でも、どっちかと言うと麻宮騎亜の影響を強く感じてしまうんですけど。

2006年6月5日(月)
京アニのカラー

右は、某官公庁で発見した情報流出防止のポスター。
ここまでやるなら、署名を「ひみつを」にして欲しかった。
そうすりゃ、座布団一枚追加だったのに。

「ハルヒ」10話は急転直下。いよいよ物語は核心へ・・・と思いきや、次回はまた脱線。なにせ原作の話数はまだまだあるんだし、長く楽しませて欲しいもんである。

「フルメタル・パニック!」番外編の「わりとヒマな戦隊長の一日」を観る。
テッサファン向けのサービス作品、ではあるのだが、京アニだから一切手抜きなし。

大塚明夫をああいう風に使うところに、センスを感じる。

私は、カン高くて舌っ足らずで甘ったれた声をかわいいと感じる感性には、断固与さないと決めている人間だが、ゆかなの演技って、新訳Zでフォウを演じた人と同一人物とはとても思えん。大した技術だ。

某名作アニメの某感動的なシーンに編集で悪戯するシーンがあるのだが、こりゃクルーゾー中尉ならずとも怒るわな。和田慎二なんかが観たら、怒りで悶死するかも。

「ハルヒ」8話でも、キョン君のホクロの超アップという変なカットがあったのが記憶に新しいが、こういう露悪趣味っつーか、微妙なバッドテイストは、京アニというスタジオのカラーなんだろうか。

2006年6月4日(日)
ココシリとロータリーエンジン

ウェイン町山先生が絶賛していたので、「ココシリ」を初日に観に行く。こっちは本文にアップ。「キング・コング」について、ひとつ思い出したことを追加。

今読んでいる「プロペラ飛行機の興亡」(黒田光彦)という本から、2題。

・「紅の豚」に出てきた、サボイアS22とカーチスR3Cの話が出てくる。
この両機種は、シュナイダーカップという水上機レースの参加機である。水上機は巨大なフロートをつけており、重いし空気抵抗は多いし、陸上機より不利である。なのに、一時的とは言え水上機が陸上機より速い時代があったのはなぜか不思議だったのだが、原因はタイヤだったのだという。
高速にするには、エンジン馬力を大きく、翼を小さくする必要がある。そうすると着陸時の速度も上がってしまう。当時の劣悪なゴムタイヤでは、高速着陸時の衝撃に耐えられない。その点、水上機なら少々速くても着水できる、という理屈である。

・鬼頭莫宏「ヴァンデミエールの翼」に、「ヒマシ油をまきちらす回転式エンジン」という表現がある。英語で言うとロータリーエンジンだが、マツダ車に乗っているあれとは違う。
普通、飛行機のエンジンは機体に固定され、プロペラとクランクシャフトが一体で回る。回転式エンジンというのはプロペラ機のごく初期に使われた形式で、通常と逆に、クランクシャフトが機体に固定され、エンジン本体とプロペラが一体で回転するエンジンである。「エンジンのロマン」(鈴木孝)では、冷却効率向上のためと書いてあったが、前掲書では、クランクシャフトの偏心から発生する振動を防ぐためではないか、と書いている。
何しろシリンダーを振り回しているので、潤滑油のリターンなんかなく、盛大にまき散らしてしまう。燃料と同じくらい補給が必要だったらしい。その潤滑油が、ガソリンと混ざりにくいヒマシ油というわけである。

第二次大戦機のマニアでは、こうしたエンジンは知らないはずだ。現に私がそうだった。鬼頭莫宏は、実によく勉強している。鬼頭莫宏の描くメカ、とりわけ飛行機は、実に色気がある。松本零士の描くメカによく似ていると思うが、メカニズムと歴史への造詣も、画力を支えているに違いない。

2006年6月3日(土)
ハチクロ

本文の更新はお休み。

スカパー!で、「ハチミツとクローバー」を観ている。(毎度のことだが、今更ですみません)
既に散々言われているが、シュヴァンクマイエルみたいなOPにたまげた。最後の、エビで作った手が動くシーンは、マジで恐いです。
登場人物全員が片想いの、一方通行ラブストーリー・・・というところは予備知識があったのだが、実際に観て連想したのが、「無限のリヴァイアス」であった。

どちらも、脚本が黒田洋介である。

「リヴァイアス」について、私は評価を決めかねている。とにかく、登場人物全員が神経症的というか、共感したり感情移入できるキャラが見事なまでにいない。それが作り手の意図だったのだろうとは思うが、その結果何がもたらされたのか、よくわからないのだ。

で、「ハチクロ」の、誰一人として、自分を見てくれる人の方を見ていない、という構図に、なんだか通底するものを感じるのである。それを、世界や人間に対する、絶望や悪意と言ってもいい。
「ハチクロ」が原作ものだということは承知しているし、どこからが黒田脚本によるオリジナリティなのか、判断する材料は私にはない。

しかし、ひょっとすると、黒田は心底人間が嫌いなんじゃないだろうか。

2006年6月1日(木)
本日の更新とジョージ・P・コスマトス

野球のページに、マネー・ボール的「投手の評価」を追加。

NHK BSで「その男ゾルバ」('64 米英・ギリシャ)を観た。
アンソニー・クインがアカデミー助演男優賞を取ったことで有名な映画だが、スタッフのクレジットを見ていたら、助監督にジョージ・コスマトスという名前があった。
ギリシャ系の珍しい名前に記憶があったので調べてみたら、やっぱり。
かのB級深海モンスターアクションホラーの怪作「リバイアサン」('89)の監督であった。88から89年はなぜか深海ものの当たり年で、「ザ・デプス」「アビス」が公開されている。一本も映画史に残っていないのがご愛敬。

ハリウッドではギリシャ系は一大勢力なのだそうだが、この人は出世頭かもしれない。30年がかりでここまでのし上がったのだ。のし上がって「リバイアサン」か・・・とは、言わないお約束。

'05年4月、肺ガンで死去。合掌。

あ、もう一つ発見。「ゾルバ」の音楽担当ミキス・テオドラキスって、「パタリロ!」で名前を使われた人だ。

バックナンバー
2006年5月