更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2006年12月31日(日)
2006年締めくくり

恵比寿ガーデンシネマでの「時かけ」上映をさんざ持ち上げておいて、観に行かないというわけにもいかんので、29日にもう一回観てきた。平日の昼間だが、仕事納め後でもあるし客足は6分の入りといったところ。今年の劇場通いはこれにて終了。
今さらだが、水面の波紋とか、踏切の警告灯、信号機、交通標識に風船と、円環をイメージさせるショットが非常に多い作品である。

思えば、「キング・コング」に始まり「時をかける少女」で終わった一年だった。なかなか悪くないではありませんか。
明日は冬コミ。帰ったらその足で帰省します。

2006年12月27日(水)
マイケル・J・フォックス

2005年収録のアクターズ・スタジオ・インタビューに、マイケル・J・フォックスが出演していた。

その中から印象に残った発言。
「不遇な時代には、部屋にあったソファを売って生活の足しにした。最後はオットマンに座っていた。」
「ファミリー・タイズ」でヒットを飛ばしたとき。
「それまで、演技とは何かを付け加えることだと思っていた。この作品で、そうではなく、余計なものをそぎ落とすことだと知った。」
パーキンソン病について。
「この病気は、天からの贈り物だと思っている。奪い続ける贈り物だが。失ったものを見るたびに、今あるもののありがたさが分かる。」
病気を公表したのが91年だから、もう15年も前だ。闘病生活は今も続いている。

かつてのティーン・アイドルは、やや言葉のろれつが回らないようだったが、今なお若々しく、「ファミリー・タイズ」で競演した奥様と15歳になる息子さんとに囲まれて、幸せそうに見えた。

それにしても、カナダ人だったとは知らなかったなあ。

2006年12月26日(火)
「時かけ」in恵比寿

以下は、先日mixiで書いた文章。
「恵比寿ガーデンシネマで、「時をかける少女」の公開が決定だそうである。シッチェス国際映画祭での受賞記念の凱旋公開だそうだが、実際大したロングランだ。恵比寿ガーデンシネマといえば、普段かける作品も設備も内装も、ついでに客層も一流のミニシアターだ。調べたわけではないが、ここでアニメをかけるのは初めてじゃないだろうか?この映画館に足を運ぶような人にこそ、この映画を観てほしい。」

公式ブログに、凱旋上映+トークショーのレポートがあった。シッチェス国際映画祭ではなくて、報知映画賞特別賞受賞の記念上映だそうである。
恵比寿ガーデンシネマのHPを見たら過去の上映作品が載っていたので、’94年のオープン以来アニメの上映があったかどうか、試しに調べてみた。

「アタゴオルは猫の森」('06)
「白くまになりたかった子ども」('04 デンマーク)
「キリクと魔女」('03 仏)
「ペイネ・愛の世界旅行」('01 仏・伊)
「キャメロット」('98 米)
「銀河鉄道の夜」('85) '96にリバイバル上映
「スワン・プリンセス」('95 米)

「ウェイキング・ライフ」はアニメかどうか微妙なところ。思ったよりは多かった。
洋画系の映画館とは言え、見事なまでに海外アートアニメ偏重である。「時かけ」は、日本伝統の作画アニメとしては、「銀河鉄道の夜」に次いで2番目と言えそうだ。
こうしてみると、1つの映画館で1年間に上映されるのは、2スクリーンの恵比寿ガーデンシネマでもわずか10数本。別に映画館によって映画そのものの価値が変わるわけではないが、映画館の格式というのは確かにある。ここで「時かけ」が上映されるのは、年間わずか10本のうちに選ばれたということでもあり、やはり名誉なことだと思う。

ただ、「日本の商業アニメでも海外のアートアニメに引けを取らない立派な芸術なのだ」という文脈で理解してほしくはない。「時をかける少女」は、優れた映画だ。ただ、それだけでいい。

2006年12月25日(月)
密室映画

本日は思いつきの小ネタ。
少し前に、「UNKNOWN」を観た。
廃工場で昏睡から覚めた5人の男たちは、みな記憶を失っていた。彼らのうち2人は人質、3人は誘拐犯らしい。もうじき、犯人たちのボスが帰ってくる。人質は誰で、誘拐犯は誰なのか?

・・・という筋立てを見ると凄く面白そうなのだが、なんか私の趣味ではなかった。
どうしてだろうと考えてみると、舞台が廃工場内に限定されていないからではないか、という気がする。回想シーンが入ったり、警察の捜査状況が描写されたり、犯人たちのボスの行動が描かれたりするのだ。
と、ここまで書いて、以前「SAW」について書いたことを思い出した。私はこの映画のどこがいいのかさっぱり分からず、「UNKNOWN」と同じように、「密室の中だけで勝負していない」ことに不満を覚えた。
しかし、今考えると、「SAW」という映画が画期的(あまりいい意味でなく)だったのは、この「密室ものは密室の中だけで展開しなければいけない」という暗黙のルールを無視してしまったことにあったのに違いない(注1)。
例えば、ヒッチコックの「救命艇」('43)「ロープ」('48)「裏窓」('52)といった作品群は、あえて限定した空間内だけで展開する映画である。最近でも、「CUBE」('97)という傑作がある(注2)。
そりゃ映像表現に限界やタブーなどなくてもいいが、たぶん「SAW」はパンドラの箱を開けてしまったのである。

注1:「SAW」以外にもこういう構成の映画はあるのかもしれないが、私の印象に強く残っている作品ということで細かいツッコミはご容赦下さい。
注2:ヴィンチェンゾ・ナタリもその後は鳴かず飛ばずですが。



え、青島幸男、岸田今日子に続いて、ジェームス・ブラウンも死去 !?

2006年12月24日(日)
「鉄コン筋クリート」と、もっと凄いもの

公開初日に「鉄コン筋クリート」を観に行ったら、またしても舞台挨拶の罠にはまった。
午後からの回に変更して観たのだが、予告編で期待したとおりのすばらしい出来。原作のテイストを損なわず、しかもアニメならではの表現に踏み込んでいる。原作もののアニメ化としては理想的な出来。
ちょっと心配だった、二宮和也と蒼井優の演技もいい。特に蒼井優は、シロの声はこれ以外考えられないと言うくらいのハマりっぷり。

いい映画体験だった・・・と思ったら、続けて観た「哀しみのベラドンナ」('73)のあまりのキョーレツぶりに印象が薄れてしまった。
何が凄いって、濃厚な性描写である。70年代に、商業アニメでこれほどの表現をしてしまったというのはちょっと衝撃的。
悪徳領主に迫害を受ける主人公のジャンヌは、悪魔に魂をゆだね魔女となるのだが、悪魔がジャンヌの魂を手に入れるために彼女を追い込むその方法が、ほとんど調教SM。中盤のサバトのシーンなど、よく18禁指定受けなかったものである。
ただエロなだけではなくて、体制に虐げられた者にとって、悪の論理こそが救済ではないのか、といった問いかけがあり、自立した女性が愚かしい男によって破滅する物語としても読める。実際、ジャンヌの夫ジャンのダメ男ぶりは徹底している。
ポップでキッチュな幻覚シーンも含めて、「パプリカ」の100倍は刺激的な映画。必見!

2006年12月21日(木)
「フロイト先生のウソ」

「パプリカ」つながりでもう一件。

本作は夢、無意識といったキーワードで語られるが、こうした分野(乱暴な言い方ではあるが)に興味のある方必読の本が、標題の「フロイト先生のウソ」(ロルフ・デーゲン 文春文庫)である。
タイトルも過激だが、中身はさらに刺激的。何となく信じている常識を、次々に粉砕してくれるのが快感だが、トンデモ科学へのカウンターにもなっているのがミソ。
例えば、フロイトの精神科学の中核である「精神には、意識と無意識があり不快な記憶は無意識に抑圧され、悪影響を及ぼす」という考え方に対して、こんな風に切って捨てる。
「60年以上にわたって研究がおこなわれ、優れた実験方法が数え切れないほど考え出されたにもかかわらず、抑圧という構想を裏付ける実験結果は今日に至るまで得られていない。」
「嫌な思い出はその印象があとで弱まること、そのために、いい思い出に比べて鮮明でなくなることが分かったのである。(中略)嫌な思い出の印象が弱まる理由は単純なことだ、とホームズ(注:研究者の名)は説明している。つらい出来事の多くは、そのときに思ったほどは悪い結果にならなかったというので、(別に記憶を抑圧しているのではなく)あとから見るとそれほどひどいものではなかったと思えるものなのである。」
むしろ、PTSDの存在が示すように、つらい記憶を「忘れられない」ことこそが問題なのである。
多重人格について。
「セラピストのあいだでは大流行しているが、多重人格障害などというものはそもそも存在しない。」
「ほんのちょっと暗示を受けただけでごく普通の人間がいとも簡単に多重人格の役割を細部に至るまで演じてしまうことが証明された。」

偽記憶症候群。
スペースシャトル・チャレンジャーの事故の直後に、「どこでニュースを聞いたか」「誰と一緒にいたか」といった質問に答えさせ、数年後、再度同じ質問をする実験がなされた。
まず、回答者の4分の3は、以前同じ質問に答えたこと自体を忘れていた。
また、回答者の4分の1は、すべての回答が最初の調査時と食い違っていた。
刺激や暗示によって正しい記憶を呼び覚まそうとする試みは、すべて失敗に終わった。
回答者の記憶への自信、細部の描写、具体性は、正確さとはなんの関係もなかった。

ショッキングなのはこれ。
手足の随意運動と脳波の関係を調べたところ、被験者が手足を動かす約1秒前に脳波の特徴的な高まりが見られた。つまり、「『これがしたい』と言ったり考えたりした場合、それは、脳が0コンマ何秒か前にすでに決定したことなのである」。

これを読んで思い出したのが、「銃夢 Last Order」の、武術の達人カエルラ・サングウィスのセリフ。
「お前は「頭」を使って考えたと言い張るだろうが・・・」「考える前に結論は「体」が出している」「「頭」は後からそれを追認するだけだ」(単行本6巻)
おそらくこの研究結果を基にしているのだろう。

一流のアスリートが新記録を出した瞬間のことを覚えていないという話はよく聞くし、武道の達人の言う「真我」とは、このことを指して言うのかも。

2006年12月20日(水)
もう一つ「パプリカ」

「パプリカ」について、もう一つ思いついたこと。

「千年女優」ほどではないが、
「パプリカ」もまた、映画という表現形式に自己言及的なところのある作品である。パプリカのコスプレとか、「ローマの休日」のパロディとか。
「千年女優」の冒頭のシーンで、千代子の家に向かうトンネルが、画面の中にもう一つのフレームを作り、立花がそのフレームの中に入っていくように見えるカットがある。(藤津亮太「アニメ評論家宣言」所収の「立花源也という「観客」」の指摘)

「パプリカ」にも、これと少し似たシーンがあった。
ラスト近くに、かつて映画監督志望だった刑事の粉川が、天窓を見上げるシーンがある。桟で区切られたその天窓が、まるで映画のフィルムのように見えるのである。
だが、「千年女優」の前述のカットが、これから始まるのが映画の中の物語であることを暗示していたのに対して、「パプリカ」のこのカットでは、窓の向こうにはまぶしい陽光が広がるばかりである。
「CUT」12月号のインタビューによると、今 敏監督は、「パプリカ」を作るにあたっては、原作のダイジェストにする方向性は捨てて、ひたすらアイデアをぶち込んでイマジネーションの奔流を見せることに専念したという。
その果てにある、「何も写っていないフィルム」を連想させるカット。
どれほどのイメージを紡いでも、実はフィルムの向こう側には何もないのだ、という深い諦念。

「千年女優」のカットが導入部の役割を果たしているのとは違って、これが映画のラスト近くのカットであることを割り引いても、なんだか危ういものを感じるのである。

2006年12月18日(月)
「祈りの海」

もう一件、病床での読書から。

グレッグ・イーガン「祈りの海」。
イーガンはオーストラリアのSF作家で、本書は日本オリジナルの短編集である。
わたしは高校時代はSF・ミステリの同好会に所属していたのだが、SF・ミステリともに海外の本格派とされる作品群にはなじめなかった。クライトンの70年代作品なんてどこが面白いのかさっぱりだったし、サイバーパンクにいたっては手を出しさえしなかった。ハヤカワSFを読むのなんて、ほぼ10数年ぶりだ。
本書は、「銃夢」の脳チップの元ネタではないか、と思われる作品が収録されているのに興味をひかれて読んだのだが、表題作が印象に残った。

表題作「祈りの海」は、はるかな未来、地球の植民星で独自の進化を遂げた人類の宗教がテーマである。(以下ネタバレ)

その宗教的法悦は、実は微生物の作る麻薬様物質の作用に過ぎなかった。だが、それを知った主人公は、なおこう思うのである。

「麻薬はここにだけあるのではない。水の中にだけあるのでもない。それはいまでは、ぼくたちの一部分だ。それはぼくたちの血の中にある。
だが、あなたがそのことを知ってさえいれば、それはあなたが自由だということだ。あなたの心を興奮させるなにもかもが、あなたを高揚させ、心を喜びで満たすなにもかもが、あなたの人生を生きる価値のあるものにしているなにもかもが・・・・・・偽りであり、堕落であり、無意味であるという可能性に面とむかう気構えがありさえすれば−あなたは決して、その奴隷になることはない!」

フィルムに映った影に過ぎない何ものかに、笑ったり泣いたり感動したりする行為は、虚無かもしれないが、その可能性を知ってさえいれば、決して虚しいものではない、と読み替えて覚えておきたい言葉である。

2006年12月17日(日)
ヒッチコック映画術

この1週間ほど、風邪をこじらせてぶっ倒れていた。生まれて初めて、もしやこれが噂に聞く熱による幻覚?という気分になるくらいの熱だったが、まあ何とか生き返った。

長らく寝たままだったので、読みかけだった本がだいぶ片づいた。
そのうちの一冊が、この「ヒッチコック/トリュフォー 映画術」である。フランソワ・トリュフォーによるヒッチコックへの長大なインタビュー集で、ヒッチコックの監督作品にいちいち自らの解説が付くという豪華版。B5番ハードカバーで350ページもある重い本なので、持ち歩いて電車の中で読むわけにもいかず、今までかかってしまった。

その中で、とりわけ印象に残った一節。
「わたしの最大の満足は、この映画(注:「サイコ」のこと)が観客にすばらしくうけたことだ。それがわたしにはいちばん大事なことだ。主題なんか、どうでもいい。演技なんか、どうでもいい。大事なことは、映画のさまざまなディテールが、映像が、音響が、純粋に技術的な要素のすべてが、観客に悲鳴をあげさせるに至ったということだ。大衆のエモーションを生みだすために映画技術を駆使することこそ、わたしたちの最大の喜びだ。「サイコ」では、その喜びを達成できた。観客をほんとうに感動させるのは、メッセージなんかではない。俳優たちの名演技でもない。原作小説の面白さでもない。観客の心をうつのは、純粋に映画そのものなのだ。」(太字は引用者)

ともすれば、作画がどうの、演出がどうの、レイアウトがどうのといった些事にばかり気を取られてたり、テーマを読み解くことにのみ集中したりして、作品そのものを見落としてしまう我々への自戒として。

2006年12月7日(木)
パプリカ

1度観ただけだが、少し考えがまとまったのでメモしておく。ネタバレあり。
原作は未読。

今 敏映画の特徴は2つある。

「構成の妙」と「虚実の皮膜」である。

処女作には作家の全てがあるとはよく言ったもので、「パーフェクトブルー」以降全てがその変奏である。

「構成の妙」の方が突出した「東京ゴッドファーザーズ」はちょっと置いといて、「パーフェクトブルー」「千年女優」はいずれも、夢と現実の抗争、夢に侵食されて揺らぐ現実を描いている。それが最後にはきちんと現実へ着地して物語が解決する様子を指して、「構成の妙」と言っているわけだが、TVシリーズの「妄想代理人」は少し趣が異なる。前2作で現実が揺らぐのは、あくまで心理上のものでしかなかったのが、本作では物理的に変化(破壊)がもたらされるのである。
私は今 敏監督作品の構成の見事さは、同時に破綻したところを排除してしまう諸刃の剣のようにも思えていたので、この変化を作家としての成熟、自信の表れ、新境地と好意的にとらえていたのだが、「パプリカ」を観てどうもわからなくなってしまった。

実はこれまでの作品と「パプリカ」には、一つ根本的な違いがある。
「パプリカ」は、夢を共有できる装置「DCミニ」を悪用する犯罪者と、セラピスト千葉敦子のもう一つの人格・パプリカの戦いを描く映画だが、夢によって人の精神を侵食する犯人ばかりか、パプリカの方も実体のない存在である。
つまりこの映画は、「夢と現実の抗争」ではなく、「『いい夢』と『悪い夢』の戦い」に対立軸がずれてしまっているのだ。
では、現実の出る幕は一体どこにあるのか?当然、健常者である観客には、奔放なイマジネーションを楽しむ以外の感情移入ができなくなってしまっている。これは、作家として少々やばい領域に踏み込んでしまっているのではなかろうか。
「夢を共有すること」そのものの是非について、作中では価値判断を示していないのも気になる。
もう一つは、ドラマツルギー上の問題。
見せ場の連続で、メリハリとか緩急とかがないのも問題だがそれ以上に、敦子がなぜ時田に惹かれるのか、どうにも納得がいかないのだ。
もちろん現実には、恋愛に理屈もへったくれもないことくらいは承知している。だが、これは映画だ。つくりごとだ。たとえばの話、時田の内心の美しさ、高潔さとか、敦子への一途な想いとかを示す必要はあるはずだ。観客に納得のいかない展開や結末を示すのは、ウソ話として致命傷だろう。

そんなわけで、私は「パプリカ」を傑作と呼ぶのに躊躇してしまうのである。

2006年12月6日(水)
「コードギアス」と「ヤマタイカ」

例によって一ヶ月遅れで視聴中。
もともと冷戦時代を背景にした話だったのが、「冷戦なんてもう古い」という某プロデューサーの鶴の一声でこういう話になった、と聞くが、冷戦時代どころか占領時代まで戻ってしまった。この国が未だに占領下にある、というのが現状認識だと言うなら、それなりの見識と言えなくもないか。
ちょうど、スザク君のあっと驚く出自が明らかにされたところだが、当然のギモンが。
総理大臣て、いつから世襲制になったの?二世議員が山ほどいるのは確かだけどさ。
作り手のねらいは分かる。ルルーシュとスザク、2つの貴種流離譚を対比させたいということだろう。
しかし、架空の国の皇子であるルルーシュはわかるとして、スザクの方はなんで総理の息子なんだ?この敷島の国には、民族の歴史と伝統を体現するお方、国民統合の象徴がおわすではないか。

そこで思い出したのが、星野之宣の「ヤマタイカ」である。
日本人の源流に「火の民族」仮説を据え、日本人のアイデンティティを鋭く問い直した伝奇SFの大傑作だ。この作品において、現代日本の「体制側」は、「火の民族の王を僭称する者」として描かれる。
作品のクライマックスに、主人公たちの宿敵である「体制側」の雄・広目が操る巨大鉄鐸オモイクロカネが破壊されるシーンがある。破壊されたオモイクロカネの破片は、古代にこの国を征服していった者の武具のイメージと重なり、皇居の堀に墜落するのである。
星野之宣にして、現体制の頂点・日本を統べる者への反逆を、こうした婉曲な表現でしか描き得なかった。

21世紀のこの国には今なお、考えることも口に出すことも許さぬ圧倒的なタブーが存在する。「太陽」を撮ったのがロシア人のアレクサンドル・ソクーロフだったように。「コードギアス」は、4話で早くもそのことを明らかにした。計算の上でやってるのなら、大したものだが。


蛇足1。あの方は、今でも対外的にはEmperorを名乗っているので、この国はれっきとした帝国である。皇帝は王より上位の概念であるのに注意。この辺を参照

蛇足2。ルルーシュの眼力に、制限やらスペックやらが後付けで明らかになっていく手法は、「デスノート」の影響を感じる。

2006年12月5日(火)
エウレカセブン

だいぶ前に思いついたものの、出しそびれていたネタ。京田知己つながりでお蔵出し。
京田知己のTV初監督作品として、多大な期待を担って出発したこの作品だが、あっという間に迷走してぐだぐだに終わってしまった・・・というのが私の印象。正直言って、30話あたりからは観続けるのが苦痛だった。
頭の悪すぎる主人公、理念なき反体制運動、紋切り型の悪役、たたまれない大風呂敷。
ホランドがやたらとレントンに暴力を振るうのも、ひたすら不快。
むしろホランドが主人公だったら、余程マシな作品になったんじゃないだろうか。
仄聞するところでは、本来2クールの予定だったのを無理矢理1年に延ばしたとか。薄味になるのも無理はない。

そんな中、唯一印象の強いのが、第10話「Higher than the Sun」冒頭のこのシーン。





ホランドとタルホが目を覚ますところだが、明らかに情事の翌朝という風情なのに、ホランドはわざわざソファで寝ているのだ。しかも、ホランドがタルホの頬に触れようとすると、タルホは寝言でレントンの名を呟いてしまう。
第一期OPでの、視線の動きにも言えることだが、愛し合っていながらどこかすれ違ったままの2人の関係を象徴する名シーンだと思う。

脚本:野村祐一 絵コンテ:山本秀世 演出:原口浩

印象強いのが全50話のうちでこれだけだというのが、問題の根本ではあるな。

2006年12月3日(日)
大画面の威力再認識

プロジェクタ生活に入って一年になるが、「ラーゼフォン」の第11楽章「虚邪回路」を観返してみた。京田知己の演出・絵コンテで有名な回である。そうしたら、私的に一つ新発見。試しに検索かけてみたけど、どうやら指摘されてないようなので、古い話だけどまあいいだろう。



ドーレムに取り込まれ、気づくと東京にいた綾人。その街並みや友人の姿にひどい違和感を覚えつつ、自宅へ帰ってきたときのカットが上の図である。背後のマンションに注目。
粗い画像だが拡大したのが下図。



踊り場に、美嶋玲香らしき人影が。
「ラーゼフォン」については以前にも書いたが、こうした丁寧な描写からしても、決して「エヴァの二番煎じ」で片づけるべき作品ではないと思う。
まあ京田知己も、「エウレカセブン」はいささかアレでしたが。

ところで、渋谷の某デパートのエレベータは、エレベータに乗っている客にも、箱の中を写した監視カメラの映像がリアルタイムで見えるよう、モニタがついている。防犯用なのだろうが、「仄暗い水の底から」みたいに、一人で乗っているときに誰かの映像が映っていたりしないかと思うと、ちょっと怖い。


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