更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2007年1月31日(水)
コゼットの肖像

昨日の続き。
試しに、「コゼットの肖像」から似たカットをピックアップしてみた。

幾何学的でシンメトリカルな構図。


超アップで振り返る演技。


写真を加工したとおぼしき背景。


おまけ。有名な、本筋と全然関係ないのに異常に気合いの入った作画の女の子たち。

2007年1月30日(火)
新房タッチ

「ひだまりスケッチ」1話を観た。

演出・絵コンテ 上坪亮樹となってるので、新房昭之総監督自身がどのくらい手を入れてるのかは分からないが、画面を見ると紛れもなく新房作品だ。

書き割りみたいに極端に省略された背景とか、


画面奥まで延々と続くオブジェとか、


写真の貼り込みとか、(これだけ見るとアニメとは思えん)


幾何学的でシンメトリカルな画面構成とか。


特に驚いたのがこれ。

超アップで振り向くカットなのだが、ちゃんと顔にパースがついて、奥行きがある!

実をいうと、私は新房監督の本領は「ソウルテイカー」「コゼットの肖像」だと思っていたのだが、これは「ぱにぽにだっしゅ」も観ないといかんかな。

2007年1月28日(日)
「裏窓」と「ミュンヘン」

ヒッチコックの「裏窓」を、高校時代以来10数年ぶりに観た。「ヒッチコック「裏窓」ミステリの映画学」を読んだので、今の視点で観直してみたくなったのである。

周知の通り、この映画はずっと、足を骨折して動けない主人公が窓の外、向かいのアパートをのぞき見る視点で展開する。しかし、研究者によって指摘されていることだが、映画のクライマックス、主人公が犯人によって窓から突き落とされそうになるとき、ただ一度カメラが主人公の部屋から出て、主人公のアパートを外から写すのである。

これは、それまで語られてきた映画の文法を崩す、いわば「破調」である。それゆえに、強烈な印象を残すシーンになる。
これを観て、一つ思い出したことがある。スピルバーグの「ミュンヘン」である。以前にも触れたのだが、ずっと主人公の一人称で語られるこの映画の中にも、その文法が崩れるシーンがある。主人公が誤って、標的の娘を爆殺しそうになるシーンだ。主人公に見えるはずのない、標的の自宅内が写るのである。私は、このシーンがスピルバーグの語りたいテーマに直結しているからだ、と書いている。

「破調」を、映画のクライマックスにもってくるヒッチコック。
テーマを語るために用いるスピルバーグ。

どこまで自覚的にやっているのかは、もちろん分からない。
どちらが正しいということもない。

ただ私は、以前引用したヒッチコックのこの言葉に共感する。

2007年1月25日(木)
若手女優あれこれ

私はアニメ好きだが、別に二次元の人というわけではなくて、ちゃんと三次元にも好きな女優がいる。例えば、

「ユメノ銀河」('97)の小嶺麗奈
「害虫」('02)の宮崎あおい
「はつ恋」('00)の田中麗奈
「blue」('01)の小西真奈美
「リリィ・シュシュのすべて」('01)の蒼井優
「スワロウテイル」('96)の伊藤歩
といったところ。

問題なのは、いずれも「○○に出ていたときの」、と但し書きがついてしまうところだ。
フィルモグラフィーを見ればわかるが、みんな上にあげた作品の他に、ろくな作品に出ていないのだ。

小嶺麗奈は、「ユメノ銀河」で浅野忠信を向こうに回して一歩も引かない瞳の強い光が、バスガイドという記号性を割り引いても余りあるオーラを放っていた。美しいモノクロ画面と相まって、弱冠17歳にして女優人生の頂点を極めてしまったかのようだった。その後、学業優先で活動を控えていたせいもあり、気がついたら変なインディーズ映画の脇役ばかり。ちょっと凄みのある美貌という、余り一般受けしない個性のためでもあるが。それでも、「樹の海」('04)では、ほとんどセリフも出番もない役なのに、その圧倒的な存在感に舌を巻いた。ジーナ・ローランズのようなインディーズ映画のマドンナを目指すのも一つの道だが、ちょっと間違うとスティーブ・ブシェーミの女優版になってしまう危険が。

実のところ、宮崎あおいはあまり感情表現のうまい役者じゃないんじゃないだろうか。ずっと仏頂面の「害虫」が一番光っていたのは、きっとそのせいだ。

今回調べて初めて知ったが、田中麗奈って「鉄人28号」と「忍者ハットリくん」、「ゲゲゲの鬼太郎」に出てるのな。ただの1本も成功していない旧作アニメ・マンガのリメイクに、しかもよりによってこれか。いっそ「CASSHERN」と「キューティーハニー」にも出ておけば良かったのに。

「blue」では市川実日子がモスクワ映画祭主演女優賞を取っているが、モスクワ映画祭は宮沢りえにも賞を与えている太っ腹なイベントなので、あまり信用してはいけない。この映画で断然優れているのは、小西真奈美の方である。はっきり言って、完全に主役を喰ってしまっている。彼女のつぶらな瞳と、ちょっと現実離れした気品のある佇まいがなければ、この幻想的な物語は成立しなかったろう。

一見順調にキャリアを重ねている蒼井優だが、少し作品を選べ。やっぱり、「リリィ・シュシュ」の不幸のてんこ盛り女子高生がベストの演技。これ以降の作品はガキっぽさばかりが目につく。ただ、天然ぶりを生かした「鉄コン筋クリート」のシロ役は大当たり。

ある意味、一番悲惨なのが伊藤歩かもしれない。子役の頃から成熟した色気の持ち主だったが、あっという間におばさん顔に。「ふくろう」('03)では御年91歳の現役スケベ新藤兼人に脱がされるし。

若手役者がキャリアをのばすのが難しいのは洋の東西を問わないが、こうしてみると今の日本映画界にとりわけ欠けているのは、若手女優を生かす企画だと思える。「アイドル」という立場を求める観客側の問題かもしれないが。
その点、「暗いところで待ち合わせ」の田中麗奈は、ようやく一歩前進した感があって評価できる。あまり盲人役には見えなかったけど。

2007年1月24日(水)
リアルにもほどがある

アニメのキャラに対して、写実主義的な意味でのリアルさを突き詰めていくと、結局は骨格がどうなっているのか、ということに突き当たる。

しかしこれは、いくら何でも。



第二次性徴ラブコメ「今日の5の2」の、女の子の背骨の表現。
リアルとかエロとか言う以前に、犯罪の香りがする。


ところでこの作品を制作している「真空間」て聞いたことがないんだけど、スタッフの顔ぶれ(監督則座誠、キャラデザイン小島正士)からすると、スタジオディーンから分離したんだろうか?

2007年1月23日(火)
冬眠

昨年12月19日の朝日新聞の記事から転載。

『六甲山遭難の男性が奇跡の生還
 神戸市の六甲山で10月に遭難し、24日ぶりに救助された兵庫県西宮市職員の打越三敬(みつたか)さん(35)が12月19日、奇跡的な回復力を見せて病院を退院した。意識を失ったまま20日以上も飲まず食わずで、発見された時は体温22度、心肺停止状態だった。持っていた焼き肉のたれと水で飢えをしのいでいたとも伝えられたが、意識があったのは2日間だけで、「たれは数滴試しただけ」という。治療にあたった医師は、低体温の「冬眠状態」だったことが幸いして回復できたのではないかと分析している。
 医師らの説明によると打越さんは10月7日、六甲山頂付近で同僚とバーベキューをした後、1人で下山しようとして道に迷い、約10メートルのがけ下に転落。骨盤を骨折して歩けなくなり、2日後に意識を失った。同31日に心肺停止状態で発見されたが、翌日の夕方には意識も戻ったという。
 体温が25度を下回ると死亡率が高まるといい、医師は「冬眠状態に近かったため、臓器の機能は落ちたが、脳の働きは回復したとも考えられる」などと説明している。』

人間の冬眠と言えば、以前に「プラネテス」を批判したことがあるのだが、事実は小説よりも奇なり。上の事件は特例中の特例だとは思うが、うかつなことを言うもんじゃないねえ。

2007年1月22日(月)
三越の公開講座レポート

氷川先生の5回目の講義に参加。レポートはこちら。講師も生徒も三越側担当者のK氏も、回を追うごとに濃くなる。ほぼ30人程度の参加で、教室がちょうど満員だった。

今回は作画が話題なだけに映像テキストが多く、言葉ではとうていまとめきれないのだが、まあ備忘録代わりに。
ところで、講義の中で「ライブアライブ」が話題になったのだが、このシーンでハルヒの「歯が描き込まれている」ことを指摘されていた。美少女なのに、ここまで描いてしまうのだなあ。
私も以前、このシーンのハルヒの「形相」を指摘したことがあったのだが、歯のことまでは気づかなかった。

2007年1月21日(日)
GONZO作品の監督

「ぼくらの」のアニメ化企画にあたり、監督が森田宏之と聞いた。「猫の恩返し」の、と言われれば思い当たるが、定評ある作家とは言いにくい。

試しにこういうものを作ってみた

アニメは多勢のスタッフによって作られるものであって、その出来が監督だけで左右されるものではないとは承知しているが、それにしても、ここ数年のGONZOの監督起用は、いささか場当たり的に見える。
「才能ある若手に機会を与える」というポリシーを貫いているのならいいのだが。

2007年1月20日(土)
原画マンの数

以前、昔に比べて最近のアニメはなぜあんなに原画マンが多いのだろう、という疑問を書いたのだが、アニメスタイルの三原三千夫氏インタビューに答えが出ていた。
要するに、納期が厳しいから多勢で手分けして描いているということだ。何枚描いていくらの出来高制が原則だから、最終的な絵の枚数が変わらなければ、予算は変わらない。つまりはただでさえ少ないパイを多勢で食い合っているわけで、部外者の目には壮絶な自転車操業に見える。
とすると、社員として固定給を払っている会社は、多勢投入すればするほど人件費がかさむわけだから、相対的に原画マンが少ないのか?調べる気力はないけど。

2007年1月16日(火)
ハリウッド映画の死体

昨日の続き。
ハリウッド映画の死体はなぜリアルなのか?道を歩けば銃撃戦に出くわし、石を投げれば連続殺人犯に当たるお国柄で、死体を見慣れているせいか?
まあそれもあるかもしれないが、私は、徹底的にマニュアル化された教育システムに理由があるのではないかと思っている。

以下は、確かシャーリー・マクレーンの自伝に載っていた話だと思う。それも本を読んだわけではなくて、新聞の書評に、本文が直接紹介されていたのを読んだように記憶している。
マクレーンの通っていた演技教室で、ある日「卒倒する演技」を教わった。それも、「貧血を起こしたとき」「激しい驚き」「恐怖のあまり」「悲しみ」等々で、全部違うのである。この辺うろ覚えだが、貧血の場合は2歩前へ踏み出して、それからゆっくり後ろへ倒れる、驚いたときは体が硬直してから膝の力が抜けて、その場に崩れるといった具合に、事細かにやり方が決まっているのである。その日は、一日中そうやって倒れる練習ばかりしていたという。

まるでファストフードだが、マニュアル化は悪いことばかりではない。マニュアルが整備されているというのは、誰にでも教えられるということであり、通り一遍の演技ができる人間なら大量生産が可能だということである。その中から頭一つ抜け出ようと思ったら、基本を身につけた上でさらに、工夫や研究が必要なわけだ。卒倒一つで上述のとおりである。死体の演技にかぎらず、この中から頭角を現す人間が優秀なのは、理の当然であろう。

言うまでもないが、上に書いたのは曖昧な記憶に想像を交えたものなので、資料的価値は一切ありません。あしからず。

2007年1月15日(月)
「手紙」と死体

やや旧聞に属するが、東野圭吾の原作を映画化した「手紙」を観てきた。
殺人を犯して服役する兄と、それを隠して生きる弟の物語である。山田孝之、玉山鉄二、沢尻エリカといった出演陣からは想像もつかないハードな社会派ドラマに仕上がっている。
登場人物が泣きすぎるとか、沢尻エリカ演じる主人公の妻がパーフェクトキャラ過ぎるとか、欠点はある。例えば、沢尻は作中で徹頭徹尾、毅然としたキャラなのだが、娘が殺人犯の子供呼ばわりされていじめを受けていると知ったときだけは動揺を見せる、とした方が造形に深みが出たのではないか、とか。

だが、作品を引き締めているのは例によって脇役陣だ。
1人は、主人公の恋人の父親を演じる風間杜夫。主人公の素性を知って、手切れ金を払って娘と別れさせようとするのだが、ありきたりな悪役になっていないのがすばらしい。
「君がいつか人の親になったら、今の私の気持ちが分かるはずだ。」

もう1人は、被害者の息子を演じた吹越満。霊前に詫びようと訪れた主人公に、彼は刑務所の兄から届いた謝罪の手紙の束を見せて言う。
「もういいじゃないか。もう、終わりにしよう。・・・・・・お互い、長かったな。」
この演技を見るだけでも、観る価値あり。

ところで、私は常々、日本映画にいちばん欠けているのが死体(もしくは意識のない体)の演技ではないかと思っている。本作では、吹石一恵がひったくりにあって転倒し、ケガをするシーンがあるのだがこれがどうにも、ポーズをつけて寝っ転がっているようにしか見えないのだ。言葉にしづらいが、火曜サスペンスの死体を思い出していただければ大体分かると思う。

この点で凄いのは、「LAコンフィデンシャル」の悪役ジェイムズ・クロムウェルである。ラストで後ろから不意に散弾銃で撃たれ、絶命するのだが、枯れ木のような倒れ込み方、ありえない角度にねじ曲がった手足、どこから見ても死体だ。この役のために生きてきました、と言っても過言ではない入魂の死体っぷりである。
「ロード・トゥ・パーディション」のジュード・ロウも凄い。気を付けのまま前へぶっ倒れるというシンプルな芸を見せてくれる。

「たかが死体」の演技でなぜこう差があるのか。長くなるので、続きは明日。

余談1 「シリアナ」のジョージ・クルーニーは拷問を受けるシーンの撮影で、脳ミソがはみ出して本当に生死の境をさまよったとか。
余談2 ケビン・コスナーの映画初出演は死体の役で、しかも編集でカットされてしまった。

2007年1月14日(日)
地獄少女 二籠

「地獄少女 二籠」が快調に飛ばしている。以前書いたとおり、第一期シリーズは各話ごとの出来不出来の波が非常に大きく感じられたのだが、第二期はハイレベルな水準を維持し続けている。シリーズが長期化して、スタッフが勘所というものを心得てきたからかと思っていたのだが、ちゃんと理由があったらしい。
その辺を本文にアップ

これだけ変われば、そりゃ作風も変わるわけだ。社内的な事情は私には知るよしもないが、なんかいろいろと想像してしまう。完結した時点で、もう一度調べてみよう。

2007年1月13日(土)
時計じかけのオレンジ
正月にWOWOWでキューブリック特集をやったので、初めて観た。
バイオレンス描写や「雨に唄えば」などは予備知識があったので驚かないが、例のまばたき禁止装置を装着されているあいだ、ひっきりなしに目薬を(手作業で)差しているのに笑った。
無軌道な暴力と、それに対する洗脳の恐怖というのがこの映画を評価する決まり文句だが、現代の視点で見ると、「犯罪者の更正を認めない社会の非寛容」というのが、見落とされがちなもう一つのテーマだと思う。「非寛容(イントレランス)」と言えば、グリフィス以来映画という表現が抱える大テーマだ。

ところで、これは全くの思いつきなのだが、主人公を含む4人組の不良少年て、ビートルズがモデルなんじゃないだろうか。当時はロックンロールなんてバカな若者の音楽だったわけだし。
ビートルズの活動期間が’60から’70年。映画の公開が’71年。
’28年生まれのキューブリックは、公開当時42歳。ビートルズの全盛期は、「博士の異常な愛情」('63)「2001年宇宙の旅」('68)で、映像作家として確固たる地位を築いた時期に重なる。
ちゃんと調べた訳じゃないのでこの辺にとどめるが、キューブリックの研究は山ほどあるから、誰か指摘しているかもしれないな。
2007年1月11日(木)
休暇中に観た映画

しばらくこのネタでお茶を濁します。

まずは、「あるいは裏切りという名の犬」。フランス版「ヒート」とも言われた、フレンチ・ノワールである。パリ警視庁で、次期長官の座を争う2人の警視の暗闘を描く。
冒頭に現金輸送車の襲撃のシーンがあるのだが、このシーンは確かに「ヒート」そっくり。しかし作品としては、まるで別物である。主人公2人の対立を軸に、連続現金輸送車襲撃事件に、娼婦に暴行する強盗、密告者に報復する情報屋といったサブプロットが巧妙に絡み合い、物語を編み上げていく様は、作劇のお手本のような出来栄え。
特筆すべきは、照明である。柔らかな光が、男たちの顔に複雑な陰影を落とし、心に抱えた闇を浮き彫りにする。
唯一残念なのは、ラストに出てくる主人公の娘のキャスト。主演のダニエル・オートゥイユの実の娘なのだそうだが、7年ぶりに再会する愛娘の役なんだから、有無を言わせぬ美少女を充てるべきだった。

2007年1月10日(水)
卒業白書

WOWOWでトム・クルーズの「卒業白書」('83)を観た。トムくん21歳の時の出世作だが、40を超えた今と、ちっとも顔が変わらないのにまず驚く。
「マグノリア」('99)でも、もっこりブリーフが話題になったが、この作品で既にブリーフ姿でダンスを披露。この人の持ち芸だったんだな、これは。アクターズ・スタジオ・インタビューに出演した際も、「トップガン」よりこのシーンの紹介に時間を割いていたくらいである。

ところで、ちょっと面白いのがこの映画に出てくるコールガールの、前向きであっけらかんとした描写である。
ウディ・アレンの「アフロディーテの誘惑」とかマキャモンの「ブルー・ワールド」なんかで見られるように、なんだかんだいってもアメリカの大衆文化というのは根本のところがモラリスティックで、娼婦という存在に対して非常に厳しいものである。
そのものズバリ「コールガール」という本がある。大学の講師でありながら、生活費を稼ぐために夜は娼婦をやっていた、という著者のにわかに信じがたいノンフィクションである。
この本の中にも、長年のつきあいで信頼していた男友達に、アルバイトのことを打ち明けたとたん、態度が豹変したというエピソードが出てくる。キリスト教的倫理観がどうとかと知ったふうなことを言うつもりはないが、建て前の堅固な社会というのは大変だなあ、と思った次第。
ちなみに本作は、3Pの最中に生理が始まってしまったのを、相方のそれも初対面の女の子がうまくごまかしてくれた、という壮絶なプロ根性の話などが出てきて面白すぎる本である。著者はその後、体験を生かして大学で売春の歴史の講座をもつようになった、という強者。

回り道したが、そういう文化圏で「卒業白書」のような映画をつくるのは結構チャレンジングなことだったのではないかな。レベッカ・デモーネイの元気いっぱいでちょっと中性的な魅力もこの頃が最高潮。実際、本人もレズなんだそうですが。

蛇足ながら、ジョー・パントリアーノがデモーネイのヒモ役で登場し、強烈な印象を残す。13年後の「バウンド」でもまだギャングの役で、年月を重ねてもちっとも変わらないチンピラ属性に、頭が下がる思いであった。

2007年1月9日(火)
気持ちよくだまされる

標題は、「Winter Garden」のオチのことである。(以下若干ネタバレ)

恋敵と思いきや実は・・・の「スター・ウォーズオチ」って奴ですな。まあ注意力のある観客なら予想できるのだろうが、私はまんまとだまされた。
もちろん作り手のミスリードあってのことだと思うが、その最たるものが「呼び名」である。

私はかねがね、アニメの作中で、登場人物がお互いに名前を呼び合うことが多すぎる、と思っていた。自分の生活を考えてみれば、日本人の日常会話で、名前を呼ぶことってそんなにないはず。「名前を呼ぶ」という行為は、非常に「アニメっぽく」て、あまり好きではなかったのである。
で、この「Winter Garden」では、その呼び名を慎重に排除している。
これでコロリとだまされてしまったということは、普段作中の人間関係を把握するのに、いかに呼び名に頼っているか、ということでもあるし、キャラ同士で呼び合わせるのが、いかに手っ取り早い(あるいは安易な)人物紹介になっているか、ということでもある。
後から思うと、ちゃんとヒントになる描写はあるのだ。「同居しているようなのに寝室が別」とか。

つまり、作り手が上のようなことに極めて自覚的に作っていた、ということを物語っていると思う。
丁寧な作画と演技に、抑制の効いた演出。思わぬ拾いものでありました。



・・・ところで、これどこが「デ・ジ・キャラット」なの?

2007年1月6日(土)
明けましておめでとうございます

実家から帰ってきました。

ついでに、年明け早々に35歳に。ここから先は谷底に向かって石が転がるごとく、だそうだが、ま、今年もゆるりとやっていこう。

新年早々にブックオフ巡りをする。急に「エマ」と「菫画報」と「二十面相の娘」をそろえたくなって、イッキ買い。なんやかやで、帰ってから数えてみたら60冊近くなっていた。年末に「エロマンガ・スタディーズ」を読んでチェックしたくなったものが多いので、大半が成年マンガだというのはヒミツだ。

・今年の目標。上遠野浩平の「ブギーポップ」シリーズを読破する。とりあえず、1巻はどれでしょう。え、上遠野って「かどの」って読むの?いいのか、そんなんで。

・愛車の走行距離が177777kmに到達。でも、決定的瞬間は見逃した。


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