「世界探偵小説全集」 完結にあたって



 2007年11月刊行のナイオ・マーシュ 『道化の死』 をもって、ながらくご愛顧いただいた 〈世界探偵小説全集〉 (国書刊行会) もひとまず完結となりました。第一回配本のアントニイ・バークリー 『第二の銃声』 が1994年11月刊ですから、13年間にわたって4期・45巻を刊行したことになります。

本全集発刊のいきさつについては、すでに第1期完結時にまとめたことがありますから、ここでは繰り返しませんが、作品選択、翻訳、解説等の各方面にわたって、多くの方々のご支援、ご協力がなければ、この 〈世界探偵小説全集〉 という企画はありえなかった、少なくとも現在あるような形では実現しえなかったことをあらためて銘記して、感謝を捧げたいと思います。また、十年以上にわたって、この全集を愛読しつづけてくださったクラシックミステリ・ファンのご支持がなければ、当初全10巻の予定で始まったこの企画が、ここまで継続発展することもなかったでしょう。当編集室がこれまで手がけてきた企画の中でも、本全集がもっとも読者に愛され、育てられた 「幸運な企画」 であることは間違いありません。

 この全集が始まった1990年代前半は、冒険小説やサイコ・スリラー、リーガル・サスペンスなどの流行もあり、翻訳ミステリ・ブームとも言われるなかで、クラシックミステリのファンはすこし淋しい思いをしていた、というのが実感だったと思います。そうしたなかで出発した 〈世界探偵小説全集〉 がめざしたのは、古き良き探偵小説を愛する “the happy few” のための、いわば専門書店でした。その後、現在に至るまでのクラシックミステリをめぐる状況の変化は、皆さんご存知のとおりですが、この機会に 〈世界探偵小説全集〉 4期の編集方針の変遷を、その間のクラシックミステリ出版の動きとあわせて簡単に振り返ってみたいと思います。


【第1期】 (1994.11〜1996.6)

全10巻。カーター・ディクスン、バークリー、クリスピン、ロースン、ライスなど、クラシックミステリの愛好家にはお馴染みの名前を並べています。『薔薇荘にて』 『第二の銃声』 『一角獣殺人事件』 『Xに対する逮捕状』 には (とうに絶版になっていましたが) 先行訳もあります。まずは既に親しみのある名前を並べて、確実にこのジャンルのファンの心をつかみたい、という気持ちがその根底にはありました。欧文タイトルを強調した坂川事務所によるシンプルで印象的な装丁も話題となり、各作家の全作品を視野に入れた充実した解説とあわせ、シリーズの骨格ができあがります。月報は 「知られざる巨匠たち」 と 「原書ジャケットでみる黄金時代」 の二本立て。もちろんこの時点では第2期・3期と続けられる保証はなかったのですが、第一回配本 『第二の銃声』 の予想を上回る好評が、企画の成功を確信させてくれました。バークリーは全4期を通して、カー、クリスピンと共に全集の軸となる作家になりました。予定を半分ほど出したところで、第2期のセレクションに入っていたと思います。

クラシック・リヴァイヴァルの動きは、創元推理文庫のセイヤーズ全訳や現代教養文庫ミステリボックスなどがその前後にもあったのですが、〈世界探偵小説全集〉 の出版界的な意味は、クラシックミステリのハードカヴァー企画の可能性をはっきりと示したことにあったと思います。


【第2期】 (1996.9〜1999.11)

第2期は全15巻。巻数も増え、また第1期の成功を受けて、マケイブ、ペニー、クレイスン、ロジャーズ、スミスなど、本邦初紹介のマイナー作家に力を入れています。A・ギルバート、C・デイリー・キング、ロラックあたりも、この時点ではほとんど忘れられた作家となっていたはずです。探偵小説黄金時代には、クリスティーやクイーン、カーといった巨匠たちのほかにも、多くのバイプレイヤーたちがいて、それぞれの持ち味で探偵小説の世界を豊かなものにしていましたが、その一端なりとも紹介したいという気持ちがありました。このとき作業が同時進行していた森英俊氏の画期的事典 『世界ミステリ作家事典/本格派篇』 の影響も大きかったと思います。

イネス、マーシュ、第1期からの繰越しとなったウエイドは当然、再評価されるべき重要作家として。ストリブリング 『カリブ諸島の手がかり』 は全集唯一の短篇集ですが、後に本全集のスピンオフ企画として、短篇集中心の 〈ミステリーの本棚〉 全6巻 (2000-2001) が生まれています。

このなかで 『赤い右手』 『カリブ諸島の手がかり』 (ともに97年) が各種の年間ベストテンにランクインしたことは、〈世界探偵小説全集〉 が広くミステリ界に認知されたことを示すと同時に、クラシックミステリをめぐる空気の変化をあらわすものでもありました。一方で、関心の高まりとともに他社の競合企画も出現、第1期発刊当初とは別の難しさを感じはじめます。

なおこの間、1996年にD・G・グリーン 『ジョン・ディクスン・カー/奇蹟を解く男を』 を刊行。1998年には 『世界ミステリ作家事典/本格派篇』 が完成、翌年、日本推理作家協会賞を受賞しています。1999年には 〈翔泳社ミステリー〉 を発刊、J・D・カーの幻のデビュー作 『グラン・ギニョール』 (世界唯一の単行本です) など4冊を出しました。

この時期、新樹社、原書房の参入があり (ともに97年から)、98年頃からハヤカワ・ミステリ、創元推理文庫、小学館文庫でもクラシックの刊行が目立ち始めます。


【第3期】 (1999.12〜2002.7)

クラシックミステリをめぐる状況の変化もあって、第3期では再び小回りのきく10巻編成にもどり、広く様々なタイプの作家を収録した第2期から一転、バークリー、クリスピン、ケネディ、ノックス、ミッチェル、ヘアー、ウエイドという英国作家中心のセレクションになりました。結果的に、この第3期が編集者自身の好みがいちばん濃く出たシリーズかもしれません。ミッチェル 『ソルトマーシュの殺人』 のオフビートな笑い、ケネディ 『救いの死』 の辛辣な探偵小説読者批判、ウエイド 『警察官よ汝を守れ』 の堅実さ、どれも英国ミステリの重要な魅力のひとつです。「知られざる」 作家としてはC・W・グラフトンとS・ハイランドの2冊。装丁も1期・2期の文字のみのデザインから模様替えして、影山徹さんに装画を依頼。これも毎回の楽しみになりました。

なお、第3期と併行して短篇集中心の 〈ミステリーの本棚〉 を刊行。『ミステリ美術館』 (2001) では、森英俊さんの素晴らしい原書コレクションをオールカラーで紹介することが出来ました (この企画のアイデアも、〈全集〉月報の原書ジャケット紹介のコーナーから生まれたものです)。完結間近の2002年6月には 〈晶文社ミステリ〉 を開始しています。


【第4期】 (2002.9〜2007.11)

第4期10巻も基本的に3期の方針を引き継いでいますが、あえていえばマーシュ、アリンガム、マクロイと女性作家を並べたところに特色があるかもしれません。初紹介作家はノーマン・ベロウとマックス・アフォード。イネスの超大作 『ストップ・プレス』 は、おそらく 〈全集〉 の枠組でなければ今後紹介の機会はないだろう、ということで思い切って。イネスやグラディス・ミッチェルの、いままで紹介の遅れていたファルス・ミステリに力を入れたことも本全集の特色のひとつでした。挿画は浅野隆広さん。

併行する 〈晶文社ミステリ〉 では、この間、バークリー/アイルズ/コックス作品の集中紹介と、異色短篇集など、〈全集〉 の枠組には収めにくい企画をすすめており、ジェラルド・カーシュやジャック・リッチーのヒットもありましたが、2005年に版元の事情で中絶。翌2006年から河出書房新社に版元を替えて 〈KAWADE MYSTERY〉 として再出発しました。このシリーズでは引きつづき短篇集と、イネスやエリオット・ポールなどファルス・ミステリに力を入れています。

 この時期の動きとしては、なんといっても2004年の 〈論創海外ミステリ〉 刊行開始があります。当初は月3点という驚異のハイペース。同じ年にしばらく中断していた原書房も 〈ヴィンテージ・ミステリ〉 を再開し、この辺でクラシックミステリ出版は完全に新たなステージに入ります。2006年にはさらに長崎出版も参入。複数の出版社から毎月数点のハードカヴァーが刊行されるという、〈全集〉 発刊時には想像もつかなかった状況が生まれていました。

 〈世界探偵小説全集〉 第1期完結にあたって、クラシックミステリ・ファンの 「夢の本屋」 をすこしでも現実のものにしたい、という抱負を述べました。それから十数年がたち、クラシックミステリをめぐる状況は一変し、本全集もひとまず当初の目的を果たして、一区切りをつける決断をいたしました。〈世界探偵小説全集〉 は第4期をもって完結となりますが、けっして 「店仕舞い」 というわけではありません。〈全集〉 はいわばクラシック復権の基盤整備のようなもの。今後はその上に立って、“the happy few” のために、クラシックミステリの豊饒かつ多様な世界を、新たな枠組みで、違った角度から紹介していきたいと考えています。

2008.6)  

note】

クラシックミステリ・ファンジン 《ROM》 131号 (2008.6) に寄稿したものを一部改稿。