夢のような物語の終焉  秒速5センチメートル


この映画は、中編でありながら一種異様な迫力を持つ作品である。

私は、この映画のあまりのカタルシスのなさに、ひとつ誤解をしていた。第3話「秒速5センチメートル」で描かれた貴樹と明里の再会は、実は時間的にエピソードの最初に描かれるべきものであり、明里が結婚する「彼」というのが貴樹のことではないかと。しかし、中盤で明里の荷物の中から見つかる貴樹宛ての手紙、ラストで電車が通り過ぎた後にもう明里の姿がなかったことに加え、監督の談話も合わせて考えると、やはりこれは誤りだろう。

ドラマの基本が「葛藤を解決することによるカタルシス」にあるとすれば、この映画にはドラマがない。
第1話「桜花抄」は、中学生時代の貴樹が明里に会いに行こうとしたら、雪で列車が遅れる、という一見するとタイムサスペンスである。これが葛藤であり、「再会できる」ことが解決と考えられなくもないが、もう少し考えるとこれはおかしい。もしそうなら、再会の時点で、昔のハリウッド映画のように抱き合ってエンドマーク、という具合に物語を完了できるはずだが、この映画は再会してからの描写が長いのである。これは、単なるエピローグではない。
もう一つの問題は、葛藤=電車の遅れを解決するために、主人公は何もしていないということだ。主人公が、葛藤を解決しようと行動する過程が物語を生む、という通常の作劇法に照らすと、ただ電車が動き出すのを待っているだけの貴樹は、主人公の要件を欠いている。
つまり、一見タイムサスペンス的なこのシチュエーションは、この映画の本質ではない、ということだ。
再会してから、2人はキスを交わし、一晩を一緒に過ごす。にもかかわらず、キスした瞬間、貴樹は、「2人は決して今のままではあり得ず、ずっと一緒にはいられない」ことを直感してしまう。
手紙にしたためられた「本当の思い」は、貴樹のものは失われ、明里のものは渡されることはない。

続いて、第2話「コスモナウト」。
種子島に転校してきた貴樹に寄せる、島の少女・花苗の思いもまた、伝えられることはない。貴樹が自分を見ていないことを痛感し、告白できぬままに花苗が泣き出した瞬間、秋の虫の音が途絶え、ロケットが打ち上げられる。天空へ向かうロケットが世界を2つに引き裂いていく。その煙が落とす影が、紺碧の空を2色に染め上げる。成長するに従って、ひとつだった世界は別れ始め、それぞれの人生を歩み始める。この映像が物語るのは、そういうことである。
「秒速5センチメートル」が過去の新海作品と決定的に異なるのは、「コスモナウト」における花苗とその姉の存在である。「ほしのこえ」のミカコとノボル、「雲のむこう、約束の場所」のヒロキとサユリの関係は、2人だけで完結しており、第三者が介入することはない。(余談だが、マンガ版「ほしのこえ」を私が今ひとつ評価できないのも、余計な登場人物が多いことによる)
第三者の存在により、世界は一つなんかではなく、人と人とは本質的に断絶したままであることが示されるのである。また、肉親(保護者)が登場したのもこれが初めてだ。これもまた、もっとも身近な他者という意味を担うキャラと考えられる。

「コスモナウト」で何度か描写される貴樹の夢の中で、草原に立つ貴樹の隣には明里が座っている。地平線上に地球が登ると、光が貴樹を照らすが、座ったままの明里は影の中にいる。明里が立ち上がって初めて、光の側の住人になる。しかしそれは、夢の中のできごとに過ぎない。明里へのメールは送られず、世界は2つに別れたままだ。

そして第3話「秒速5センチメートル」。
語られなかった言葉はついに伝わることはなく、偶然の再会という小さな奇跡は、何ももたらさない。これは「ほしのこえ」のミカコとノボルの、「雲のむこう、約束の場所」のヒロキとサユリの、あまりにも残酷な「その後」なのだ。
こうして、新海誠は自らが紡いできた夢物語−「こうして2人は結ばれ、いつまでも幸せに暮らしました」という−を葬り、結末をつけたのではないか。

私は本作を観て、あるマンガを連想した。

山本直樹の「BLUE」である。
主人公の灰野は、ふとしたきっかけから、校舎の屋上の今は使われていない天文部部室で、クラスメートの九谷さんと肉体関係をもつようになった。「BLUE」は、九谷さんが持っていた何らかのドラッグの名である。「BLUE」を手に入れていたのは、製薬会社に就職した双子の先輩たちであり、九谷さんは彼らとも関係がある。灰野と九谷さんの関係には、まるで情が絡まない。九谷さんは灰野とセックスしながら、灰野が好きだと語るが、それは灰野の考える「好き」とはまるで異質なものである。
灰野は、「秋だから飛び降り自殺でもしてみようかと思って」と屋上の手すりの上に立つが、九谷さんに「あ、やってやって」とはやされ、「やっぱやーめた」と下りてしまう。
灰野と九谷さんはあるとき、双子の車を盗んで、ドライブに出かける。灰野は真剣に、「このまま町を出よう。ガソリンが尽きるまで走って、金がなくなったら自動販売機を壊して手に入れよう。そしてどこか遠くで、2人で暮らそう。」と語るが、九谷さんに「・・・冗談でしょ?」と言われ、「・・・冗談だよ。」と返すしかない。

結局2人の関係はその後もだらだらと続き、高校卒業とともに終息した。秀才の九谷さんは東京の大学に進学し、灰野は地元で就職して、郵便配達をしている。「可愛い彼女もできた。田舎の生活も悪いもんじゃないよ。」しかし、灰野は「BLUE」の後遺症のフラッシュバックに悩まされている。ある日、灰野は彼女を連れて母校の学園祭に行く。屋上の天文部部室はもう撤去されていた。そこで灰野は、あの日飛び降り自殺しようとした自分を幻視する。
「とんでもねえフラッシュバックだ。」

貴樹と明里が一夜をともに過ごすことをセックスの暗喩と考えると、この2作品の構成は似ていないだろうか。

「秒速5センチメートル」
  中学時代:キス・一夜をともに過ごす
           ↓
  高校時代:第三者(花苗)の介在・断絶・夢
           ↓
  現在:白昼夢のような再会

「BLUE」
  九谷さんとの肉体関係
       ↓
  双子の介入・飛び降り自殺の真似・ドライブ
       ↓
  現在・フラッシュバック


貴樹も灰野も、愛(と思ったもの)の残滓を抱えて生き、白昼に過去を幻視するのである。
体を重ねても、決して触れ合わない心を抱いて。


「ほしのこえ」のトレーサー、「雲のむこう、約束の場所」のヴェラシーラに続いて、この映画でも、ロケットが天空を目指す。それは、少年の夢と人生の希望を象徴するものには違いあるまい。だがそれは同時に、世界を、他者と自分とを分断し、孤独を抱えて生きることを強いるものでもある。現在にいたって、あのとき打ち上げられた衛星は太陽系外縁に達したことが示される。それは壮挙ではあるが、あまりに孤独で暗い旅路だ。
偶然ではあるが、「BLUE」の冒頭には、こんな言葉が掲げられている。


「そしてまた 僕らは のぼってゆく」



DVD発売記念
「秒速5センチメートル」における断絶のイメージ

「秒速5センチメートル」は、どうしようもない心の断絶を描く映画であるが、改めて観ると作中にそれを暗示するイメージが頻出する。

まずは、「桜花抄」のラスト近く。
画面を分断する川。


さらに、下にPANすると左手に鉄道が見えるが、川とずっと平行なままで交わらないことに注意。



続いて、「コスモナウト」から。テーマが一番はっきり現れているのが、実はこの第2話であり、断絶を感じさせるショットも数多い。

まず、冒頭の夢のシーン。草原に並んだ貴樹と明里だが、貴樹にしか光が当たっていないことに注目。



原付のバックミラーを分割するセンターライン。


作中でもっとも印象的なロケット打ち上げのシーン。貴樹に告白しようと心に決めていた花苗は、貴樹が自分の方を見ていないことを悟り、ついに何も言い出せない。その直後にロケットが発射される。ロケットは天地を裂いて上昇し、世界を分断してその一方に影を落としていく。


満月の真ん中を貫いた電線。


最終話「秒速5センチメートル」はもちろん、踏切のシーンであるが、少し細かく観てみよう。

まず、俯瞰で2人がすれ違おうとするシーン。


ところが、この直後に次のカットに切り替わる。


再び俯瞰に戻ったときには、2人はもうすれ違っており、踏切中央のブロックに同時に存在するカットは巧妙に排除されている。作者は、決して2人を同じ舞台に立たせないのである。


2人の間を電車が遮り、通り過ぎた後には・・・


やがて踏切は開放されるが、上がっていく遮断機をアオリで捉えた下のカットで、その遮断機はあくまで画面を分断したままである。
(追記:最近になって気がついたが、「遮断機が上がる」のは、本来「道が開ける」という意味である。それなのにこの構図!いかに論理的に画面を作っているかよく解る)


こうして、カットの持つ意味が映画のテーマを補強していくのである。
この作品に対して、「観る人を選ぶ」という評が意外に多いのは、こうした極めて「映画的」なつくりに原因があるのではないか。

おまけ
試しに並べてみた。
最終話の閉塞感あふれるカットと、


「シカゴ」('05)の「監獄のタンゴ」のワンシーン。