キャスト・アウェイ喪失と再生と

現代版ロビンソン・クルーソーと言われる本作。
飛行機事故で絶海の孤島に流れ着いた主人公のトム・ハンクスは、たった一人で4年間を生き延びる。心の支えは、残してきた恋人の面影。しかし、筏で島を脱出し、生還した彼を待っていたのは、既に別の男と結婚して幸せな家庭を築いた恋人だった。

生還と引き替えに、真の喪失を経験する。この構図は、「雲のむこう、約束の場所」と非常によく似ている。実は喪失の予兆は、漂流中に繰り返し現れる。まずは、島を脱出するきっかけとなった帆である。自由の翼を描いたそれは、強風に吹き飛ばされてしまう。続いて、孤独の4年間に正気を保つよすがとなった親友のウィルソン(バスケットボール)だ。ウィルソンは波にさらわれ、いくら泳いでも追いつけず、見送るしかない。最後は、オールである。真に一人になったハンクスは、自らオールを波間に捨てる。これは、生き延びようとする意志の放棄に他ならない。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言うが、皮肉なことに、その後彼は船に拾われ、九死に一生を得る。そしてその結末が、恋人の喪失である。喪失が再生のための通過儀礼だったとすると、ここに喪失は完結し、彼は生まれ変わったのである。

映画のラストシーンは、大平原の十字路に立つハンクスを俯瞰で捉えたショットである。十字路に立つと未来が見える、という言い伝えがある。彼には、どんな未来が見えたのだろうか。


ところで、映画が始まった直後、彼の私室をカメラがパンすると、机の上のヨットレースの賞状やトロフィーをさりげなく写しているのである。これに気付くと、主人公の行動に俄然説得力がでてくる。

悪魔崇拝カルト

長年気になっていた、「悪魔を思い出す娘たち」を読んだ。そこで知ったのは、幼児虐待、近親相姦や生贄儀式を伴う悪魔崇拝カルトの存在が、一種の都市伝説として当時広く流布していたという事実だ。そうした土壌あってこそ、こんな穴だらけの自白強要や誘導があり得たわけだ。都市伝説が広まりだしたのが、国際共産主義の衰退と機を同じくしているという指摘はまことに鋭い。マーティン・シーンの「サンタリア」が公開されたのは1987年。日本ではオカルト映画の一亜種として宣伝(例によって東宝東和)されたが、悪魔崇拝カルトによる幼児誘拐をテーマにした、至って真っ当なサスペンス映画である。2期目のレーガン政権が大詰めを迎え、強硬路線を推し進める一方、旧ソ連ではゴルバチョフ書記長が改革路線を採り、共産主義の衰退が誰の目にも明らかになりつつあった時代だ。そういえば、1950年代には宇宙人や怪物による侵略テーマのSF映画や、洗脳テーマの作品が数多く作られた。これらは、共産主義の恐怖を背景にしていたといわれる。朝鮮戦争からベトナム戦争を経て冷戦終結まで、共産主義の影響はかように色濃かったのである。

ところで、もう一つ気になったのは、性的奴隷という奴。ここから先は完全に私の想像なのだが、従軍慰安婦問題で、アメリカがSEX SLAVEという単語にやけに過剰に反応したのは、この悪魔崇拝のイメージがあるからではないだろうか。


ロシアンSF映画特集(’02.4.9〜5.5頃)

「火を噴く惑星」「妖婆・死棺の呪い」「惑星ソラリス」「両棲人間」「ストーカー」「ドゥエル教授の首」・・・と、バウスシアターで特集上映してたのでまとめて観たのだが、どうも私はロシア映画のリズムって生理的に会わないらしく、全て途中で轟沈してしまった。てな訳で何を言う資格もないのだけど、一つだけ気になったことが。
それは、
ロシアの水着にはカップがないのか?ということである。
いや、だってどの作品観ても、水に濡れると透けてモロ見えなんだもん。共産主義的サービス精神?感謝します、同志!


幻の湖(’02.5.5)

ついに観てしまいましたよ、伝説のあの映画を!ありがとう、自由が丘武蔵野館!私は基本的にコメディを観ない人なので、笑える映画を教えて、と言われると困るのだが、この作品は自信を持ってお薦めできる。ピグミーチンパンジーより知能の高い人なら、誰でも笑えるはずである。
ストーリーを口で説明するのは不可能。理解するのはもっと無理。映画秘宝「底抜け超大作」をご覧ください。
だいたい、始まって30分くらいは、ここ笑うとこじゃないよなあ・・・、と周りの反応をお互いに伺っているのだが、1時間も経つとほどよく脳内麻薬が分泌し、遠慮なく笑えるようになる(それまでに腹を立てて退出しなければの話だが)。映画祭やオールナイト以外で、終了時に拍手が起きたのは、後にも先にもこの映画だけ。偉大だ!


ラスト・サムライ(’03.12.6)

観る前は絶対何か勘違いしていると思っていたのだが、うれしい誤算であった。実にまっとうなできの映画である。滅びを知りつつ抗う、気高い男達。渡辺、真田の所作の美しさ。サムライ版「ダンス・ウィズ・ウルブズ」という評が言い得て妙だが、これまでインディアン(政治的に正しくない用語)以下だった訳か・・・。うっかり「キル・ビル」で感動したことを深く反省したものであった。
ところで、「Blood+」でも日本刀もどきが使用されているが、日本人のこの武器への愛、と言うか信仰は根深い。歴史研究家の鈴木眞哉氏は、「鉄砲と日本人」「刀と首取り」の両著作で、興味深い論考をしている。
日本刀は元もと合戦の最中、動けなくなった敵の首取り用に発達した武器で、戦闘に使われたことはほとんど無いというのだ(もちろん、喧嘩や果たし合いは別として)。戦国時代の資料で、戦場での負傷者の原因内訳を調べたところ、弓矢が4割、鉄砲と槍が2割ずつ、残り2割がその他もろもろという結果であった。刀傷にいたっては、全体の7パーセントにすぎず、城攻めの際に投石で負傷した者より少ないくらいだったという。つまり日本の合戦は昔から遠距離戦指向だったのであり、武士が「飛び道具は卑怯なり」などという精神性を持ったことは一度もなかったのである。
また、刀は意外と故障しやすい。日中戦争の際に軍刀の修理を請け負った軍属の証言によると、中子と柄の接続がすぐがたがたになるのだ。刀身と柄が別々になっているのは、斬りつけた際の衝撃を吸収するための日本刀独特の工夫であるが、実用上は、柄まで一体成形の洋剣の方が優れていると言わざるを得ない(もちろん、使用者の腕前にも、拵えの出来不出来にもよるだろうが)。刀が武士の魂などと言い出したのは平和な江戸時代のことであり、彼ら御家人が幕末の動乱期に何の役にも立たなかったのは周知の事実である。この辺はパオロ・マッツァリーノ「反社会学の不埒な研究報告」に詳しい。
忠義というのも、後に生まれた概念だ。もっとも武士の活躍した戦国時代は裏切り御免の時代であり、合戦の帰趨は一にも二にも敵将を寝返らせる調略にかかっていた。「勇敢な武士」というのは、「男らしいカウボーイ」とか「厳正な英国紳士」とかと同列の幻想にすぎない。おそらく、そうした共同幻想の集積が、文化とか民族とか伝統というものなのだろう。幸か不幸か、人間は、それらなしにはアイデンティティを構築できない。社会を営んでいくために、必要不可欠なものなのだ。
ただ私は、それが幻想であることには自覚的でありたい、と思う。


ローレライ(’05.3.10)

健闘しているのはよくわかるのだが、それだけに不満が強く残る、というタイプの映画。小説版(映画化を前提に並行して書かれた小説なので、「原作」ではありません、念のため)の圧勝。やっぱり、尺を気にせずに作れるのは強い。結局時間が足りないというところに集約されるのだが、とりあえず列挙するとこんな感じだ。

@ 伊507の来歴・異形ぶり
開巻いきなり姿を見せてしまうので、旋回砲塔に大口径砲を持った潜水艦という特異な姿がどれだけ異常なものか、作中での印象が薄い。また、小説版冒頭のボーンフィッシュとの戦いは見せておくべきではなかったか。
A 浅倉の人物像
餓島で人を喰らい、鬼となって生還した男の印象が薄い。なぜ東京に原爆を落とさせようとしているのか、あれでは無能な海軍首脳に報復しようとしているだけにしか見えない。無責任体制を排し、日本民族を再生させるために、日本人の依って立つものを根こそぎ焼き尽くす。長くなるのは覚悟の上で、浅倉の演説は聞かせるべきだった。パト2みたいなスマートな方法もあったはず。
B 絹見の葛藤
Aと密接に関連するが、絹見のバックグラウンドが描かれないので、なぜ浅倉の言葉に屈しそうになるのかが分からない。絹見もまた、無責任体制の被害者であり、同時に下手人でもあったという点が重要なのだ。
C パウラと折笠の関係
妻夫木聡は、この極限状況下で恋愛にはならないという趣旨のことを言っていたが、そうだろうか。パウラが、生体実験の地獄から抜け出し、力の論理を鎮めようと覚悟を決めることができたのはなぜか、理解が浅いのでは。
D 清永の無意味な死
潜水艦ものの定番とはいえ、ちょっと、可哀想な上に間抜けすぎ。猿みたいに、ボールを離さないから手が抜けませんでした、てなオチかと思った。だいたい、小説版では沈没した特殊潜航艇「ナーバル」回収のために潜水要員と「海龍」搭乗員が乗ってたわけだが、映画では何のために出てきたんだ、こいつ。
E テニアン島海戦
駆逐艦が数隻映るだけで、スケール小さい。巨大な戦艦が、空母が、洋上を睥睨するという絵と、オブライエン艦長の役割は絶対必要だったはず。
F ラスト
椰子の実はやりすぎかもしれないけど、ローレライの秘密を葬るため、千尋の海底へ向かう伊507最後の航海は見せるべきだった。
かくなる上は、全26話くらいで、小説版のとおりアニメ化しかない!(アフタヌーンでマンガ版連載してますが、ちょっとね・・・。)


21g(’04.6.5)

心臓移植を巡る3人の男女の愛憎劇・・・なのだが、これもしかして、「HEART」(98、英)のパクリでは? 臓器移植ネタというと、たいがい臓器の違法売買というパターンになるのだが、この「HEART」は、愛する者の肉体を受け入れた他人への執着とか、異物を受け入れた自分の肉体への恐怖といった異常心理を、男女3人の愛欲渦巻く地獄絵図のなかに描き出す異色作である。ロバート・カーライルと並んで最近のイギリス映画に必ず顔を出し、しかも変な役ばっかりのクリストファー・エクルストン(人呼んでイギリスの大杉漣)とか、サスキア・リーブスの思い詰めたまなざしとか、異様な印象を残す。考えるほどに「21g」とそっくり。「HEART」の偉いところは、人間ドラマなんて安直な色気を出さず、あくまでサイコ・スリラーとして描いたことだろう。結果として、遙かに深みのある映画になった。
で、「21g」の方なのだが、ショーン・ペン、ベニチオ・デル・トロ、ナオミ・ワッツといった濃すぎる3人が暑苦しい熱演を繰り広げる。正直言って、こういう映画は苦手だ。
ハル・ベリーが「チョコレート」でオスカーを取ったが、脱いだり絡んだりを体当たりの熱演と言うのは、私に言わせれば、的はずれである。「チョコレート」のハル・ベリーの場合、真に評価すべきは、ビリー・ボブ・ソーントンの秘密を知った後、無言で彼を見つめる表情である。
ひとつだけ、「21g」にも印象的なシーンがある。部屋を出て行くショーン・ペンを、カメラがパンして追う。ドアを出た後も、カメラは不自然に静止している。そのカメラが写しているのは、両手を広げたキリストの小像だ(リオデジャネイロにあるアレのミニチュア)。興味深いことに、このキリスト像には目隠しがしてあるのだ。意味するところは明白だ。「盲目の神」である。この世の悲劇を見ようとしない神。役に立たない神。そんなものに意味があるのか?そんな挑発的なメッセージをこっそりと隠してある。これが、映画を観る楽しみの一つである。


イン・ザ・ベッドルーム(’02.8.20)

「いとこのビニー」で助演女優賞を取って以来、すっかりご無沙汰のマリサ・トメイが目当てで観たようなもんなのだが、これは傑作であった。
人はいかにして殺人者になるのか。これが、この映画のテーマだ。マリサ・トメイの役は、暴力亭主と離婚調停中の人妻。彼女の恋人が、嫉妬に狂った亭主に殺される。真の主人公は、殺された恋人の両親だ。彼らを演じるのが、トム・ウィルキンソンとシシー・スペイセク。とりわけ、ウィルキンソンの平静を装った表情に時折のぞく苦渋は、練達の技。暴力亭主と言いながら、実は彼が実際に暴力をふるうシーンは、一度も写されない(一回しか観ていないが、私の記憶によれば)。詳細は書かないが、その理由が、ラストで明らかになる。
印象的なシーンがある。手動の開閉橋だ。いや、マジで。私も初めて見た。橋の真ん中の金具にバーを差し、それを回してやると、橋が回転していって、船が通れるようになるのである。当然操作する者は、一カ所をぐるぐる走り回ることになる。ウィルキンソンが、それを眺めている。必死で走りながら、どこにも行けない悲哀。それはまるで、彼自身の姿だ。
「一仕事」を終えた彼は夜明けに帰宅し、ベッドにはいる。妻は、いつものように彼を迎える。ラストカットは、まるで墓標の群れのような住宅地の風景だ。一様にベッドルームの窓が、こちらを向いている。一人の死者と一人の殺人者を生んで、いつものように朝がくる。日常はまた続いていく。ベッドルームの数だけ、秘密を抱えて。


羊たちの沈黙の「映画的」表現

サイコ・スリラー中興の祖(もちろん元祖は「サイコ」('60))。はっきり言って、このジャンルの映画はこの2本を観ておけば十分である。後はお好みで「セブン」('95)くらいか。まあ「セッション9」('01)みたいな佳作もあるが・・・。クラリス・スターリングとレクター博士の異常な愛情を横軸に、連続殺人鬼バッファロー・ビルとの壮絶な戦いを描いた本作。ストーリーや演技については語り尽くされた感があるので、この作品の「映画的」表現について、触れてみたい。「映画的」と言っているのは、映画でしかできない表現、というほどの意味で使っている。ぶっちゃけて言ってしまえば、いかに説明ゼリフに頼らずに表現できるか、ということだ。本作の冒頭のシーンは、そのお手本のような見事な表現にあふれている。
開巻まず、「バージニア州クワンティコ」というテロップが出て、早朝の森が映される。下へパンすると、急斜面にロープが張られており、一人の女性がロープをよじ登ってくる。虫や鳥の声に、彼女の荒い息と落ち葉を踏みしだく音が重なる。森の中を黙々と走る彼女を、カメラは追い続ける。木枠にロープの張られた障害物を彼女が登り始めると、カメラは障害物を回り込んで、降りてくる彼女を待つ位置に移動する。初見の時、てっぺんまで登った後どうするのかと思った。ここでカメラが停止したら、せっかくここまで維持してきた躍動感が消えてしまう。と、彼女はでんぐり返しの要領で、あっという間に障害物を降りるのだ。かくして彼女(とカメラ)は、さらに疾走を続ける。コース上の設備と彼女の真剣な表情に、何かの訓練らしい、ということがわかる。やがて彼女は誰かに呼び止められ、やっと静止する。声をかけた男性は、彼女−「スターリング訓練生」が呼び出しを受けている、と告げる。彼はずっとカメラに背を向けているが、スターリングを見送る形でカメラに向き直る。その帽子に大書されたFBIの文字。凡庸な演出なら、「FBIアカデミー」の看板を写したり、テロップを出してしまったりするところだ(もっとも、クワンティコという地名は、FBIアカデミーの存在で有名で、わかる人はこの地名だけでわかるのだとか)。
アカデミーの建物に戻ったスターリングを追って、カメラは訓練生達の日常−ロープをよじ登ったり、銃を清掃したり−を手際よく写していく。とりわけすばらしいのは、スターリングがエレベータに乗るシチュエーション。エレベータに乗ったときは、女性は彼女一人で、周りは優に頭一つ大きい巨漢の男子学生ばかりだ。しかも、スターリングが青いジャージなのに対して、男子はみんな真っ赤なジャージで、彼女の存在は否が応でも目立つ。次のカットでスターリングがエレベータから降りてくるが、他には誰も乗っていない。
ここで、2つわかることがある。ひとつは、FBIといえども、女性の訓練生はまだ珍しい存在であり、おそらく必要以上に背伸びしなければならない、ということ。そういえば、早朝に一人でランニングをしている様子も、いかにもである。もうひとつは、エレベータから出てきたのが彼女だけ、というところからすると、彼女が呼び出されたのが、普段学生が出入りできない重要セクションだ、ということである。何か異常なことが始まる、ということを強く予感させる。
映画を観る側にも、これだけの注意と緊張を強いる本作が、傑作でないわけがないのだ。
撮影監督はタク・フジモト。調べてみたら、ジョナサン・デミ作品以外には、シャマラン映画にもよく参加している人だった。

最後に、余談その1。私は、本作がアカデミー賞を受賞した後の凱旋リバイバル公演で初めて観たのだが、「ゆりかごを揺らす手」('01)と同時上映で、おまけに場内私一人!という恐怖の体験でした。
余談その2。キャストに、「evangelist」という役名が出てくるので何かと思ったら、レクター博士が見せられている宗教番組のTV伝道師だった。


’09.5.20追記
作中のちょっと気になる表現。



冒頭の、訓練場に掲示されたプレート。「AGONY(苦悶)」「HURT(苦痛)」「PAIN(苦悩)」「LOVE-IT(それを愛せ)」と読める。問題はその下。もう一枚プレートがあるが、汚れて読めない。ここには「PRIDE」と書かれているようだ。

なぜこの単語が書かれ、しかも読めないのか?本作のタイトルが暗示する「子羊を救う者」とはキリストのことであり、また「PRIDE(傲慢)」とはいわゆる七つの大罪の一つであることを考えると、なにがしかの意味があるように思える。



レクター博士とスターリングの最初の対面シーン。このシーンは両者の切り返しのカットが続くが、常にガラス越しに撮っている(上の映像では判らんと思うが、本編を観ると判る)。もちろんロケの都合ではあろうが、常に相手の主観ショットであること、2人の間が完全に隔てられていることを強調してもいる。だから、ただ一度指先が触れ合うシーンは感動的なものになるのだ。


もう1つ気になるのが、「星条旗というモチーフの多用」である。主人公は法の執行、つまりは国家権力の側に身を置く人間だから解るが、奇妙なことに、犯罪者側にも多用されるのだ。



レクター博士の貸倉庫の中で、車を包む。この中でスターリングは死体を発見するのだが、「国旗に包まれた棺」と言えば、ストレートに戦死者を連想させる。



バッファロー・ビルの部屋。机の向こうの壁に星条旗が貼ってある。



バッファロー・ビルを射殺した時に破れる窓。星条旗をはさんで左に鉄カブトのような帽子、右にはG.I.ジョーらしき人形がある。バッファロー・ビルやレクターもまた、アメリカの産んだ病理だということなのだろうか。



エンドクレジット。チルトン博士を追って、レクターが雑踏に消えてゆく。
このシーン、群衆はほぼ皆(細かく言うと全員ではないが)が画面奥へ歩み去り、二度と戻ってこない。

つまりこれは、「人の死に行く道」なのである。



大怪獣プルガサリ(’98.7.5)

ご存じ北朝鮮製の怪獣映画。諸般の事情により公開が延び延びになっていたのが、本邦初公開というわけで、キネカ大森まで行ってきました。何でも半島の北の首領様は怪獣映画、特にゴジラシリーズの大ファンなのだそうで、自国でも創りたい、と考えた。そこでまず、
韓国からスタッフを誘拐してきて創らせたのだが、あまり創作意欲のわかない環境だったのか出来がよくなかった(いや、噂だけど)。やはりプロに任せなければダメだ!というわけで、正式に日本からスタッフを招聘して創ったのがこの「プルガサリ」である。もちろん主役のプルガサリは着ぐるみで、中に入っているのが、正真正銘のゴジラ役者、薩摩剣八郎。
プルガサリは「不死殺」と書き、あちらの民話に登場する、鉄を食らう不死身の怪物である。お話は至ってほのぼのしており、悪代官に苦しめられる貧しい村人が、偶然拾ったプルガサリの力で反乱を起こす、というもの。革命思想、と言って言えなくもない。人民軍全面協力のわりには、マスゲームをやるわけでもなし、スケールが大きいんだか小さいんだかよくわからない。序盤で登場する手のひらサイズのプルガサリは、棒の先に人形を取り付けて操っているのがモロ見えで、ほほえましい。
しかし、革命を果たした後もプルガサリはひたすら鉄を喰って成長を続け、人々はその存在をもてあますようになり、主人公の娘は我が身を賭してプルガサリを倒す・・・と、なかなかシリアスな幕切れ。あの国の体制を思うと、結構ラジカルな映画かもしれない。
原語では「プルガサリャ〜」に近い発音で、とてももの悲しい響きの名である。
それにしても、このとき私の払った1800円が、北の人民の血となり肉となり、
テポドン1号となって日本列島を飛び越えていったのかと思うと、感慨深いものがある。つーか、職業倫理にもとることをしてしまったような気がしないでもない。



ココシリ 青年は荒野をめざす(チベットでは中年も) (’06.6.3)

この映画のパンフを読む限り、配給元のソニー・ピクチャーズは「命を捧げてまで守り抜こうとした自然の偉大さと厳しさ」「神が与え、祖先から受け継いだ大自然を次の世代へ引き継いでいきたい」みたいな映画として売ろうと思っていたようである。
だが、この映画はシャンテ・シネなんかではなく、
新宿昭和館で公開すべき映画であった。
ココシリとは、チベットの高山地帯のことを指す。標高4700m、ほとんどは人跡未踏の地だ。

90年代初め、この地方に生息するチベットカモシカは、高級な毛皮が取れるため、密猟者によって乱獲され激減していた。この映画は、密猟者を取り締まる民間パトロール隊の戦いを描いたものである。

パトロール隊といっても民間のだから、警察でも軍隊でも森林警備隊でもない、あくまでボランティアだ。「金もない、人手もない、銃もない」有様で、それでも男達は山をめざす。

映画の主役のひとつは、ろくに草木もないココシリの荒野だ。
何しろ酸素が薄いので、密猟者を追って走っただけで酸欠を起こし、倒れてしまう。
車がスタックしたので、うっかり砂地に出ると、流砂に飲まれる。
密猟者は密猟者で、重武装しているし人数も多いので、パトロール隊を発見すると問答無用で攻撃してくる。
密猟者は無法者だが、パトロール隊の方はそれに輪をかけて無茶苦茶である。
酸欠の患者に注射しようとすると、粉末の薬を溶かす水がない。で、血を抜いて、その血で溶かす。
逮捕した密猟者を連れて歩いていると食料が乏しくなり、途中で放り出す。「300キロほど歩けば道路に出る」と言い残して。(人里に、ではない)
予算が足りない分は、女にせびる。押収した毛皮を密売して、足しにする。

それでも男達は家族や恋人の涙を振り切り、ココシリへ向かうのだ。「女なんかいくらでもいるさ」と笑って。
次々に仲間が倒れ、車を失っても吹雪に見舞われても、追跡をやめない。
パトロール隊が毛皮を密売するのは、もちろん綺麗事を言っていられないからなのだが、反面、彼らが密猟者と同じ穴のムジナだ、ということでもある。パトロール隊は自然のため、密猟者は金のため、という名分があるにはあるが、実際はそんなものはどうでもいいに違いない。

彼らは、追ったり追われたり殺したり殺されたりするのが好きでたまらないのだ。
彼らは、大馬鹿者だ。しかし、たとえようもなく崇高で美しい馬鹿者である。

私のなかにも、彼らをうらやましく思う気持ちが確かにある。あいにくそれを実現するほどの気概も体力もないので、金を払って映画を観ている。

以下は蛇足。映画の冒頭で、殉職した隊員の葬儀があるのだが、チベットだから鳥葬である。
で、鳥葬って、遺体をナタで・・・つまりその、「食べやすく」するのですな。知らなかったよ。


コーエン兄弟の映像魔術

世界一の映画の語り手と言えば、コーエン兄弟を置いて他にない。彼らの映画は、とにかくセリフや説明に頼らない。映像を観ているだけで、何でも伝えられるし、伝えてやるという気迫がほとばしっている。
処女作の「ブラッド・シンプル」が既にそうだった。悪徳探偵が、バー経営者から妻と間男を殺すよう依頼される。探偵は殺しの証拠写真を示して報酬を受け取る。次のシーンで、探偵は写真を燃やしている。その写真は、証拠写真のバージョン違い。つまり、狂言なのだ。このシーンだけで、それを判らせてしまう。
 メジャー初挑戦の「未来は今」では、フラフープ大ヒットまでのシークエンスを観れば十分だろう。売れないフラフープがどんどん値下げされ、やがて腹を立てたおもちゃ屋の店主が道端に放り出す。そのうちの一本が道路を走っていき、一人の少年の前で止まる。彼はそれを拾い、本能のままに回し始める。折しも放課後で、学校から出てきた子供達がそれを目にする。自在にフラフープを回す少年に見とれる子供達。彼らは、一気におもちゃ屋に走る。どんどん値上がりしていくフラフープ。これで世界的ブームの出来上がり、である。
 そして、最高傑作の「ファーゴ」だ。主人公は、金持ちの義父から金をだまし取るため、妻の偽装誘拐を企てる。ある日、外出から帰ると家が荒らされている。自分が雇った犯人が妻を誘拐したのだ。主人公が取り乱して義父に電話をかける声が聞こえる・・・と思いきや、彼は電話をかける前に、義父に話す内容の練習をしていたのである。これほど、品性というものを鮮やかに描写したシーンがあったろうか。
やがて、主人公が行くはずだった身代金の受け取り現場に、義父が強引に出かけてしまう。そして、口論の末に犯人に射殺される。心配で後を追ってきた主人公は、車のライトに照らされた義父の死体を見つける。見事なのはこの後のシーンだ。車のトランクが開くのを写すだけなのである。これだけで、死体を隠す気なのだな、と判らせてしまう。説明ゼリフの多い凡百の映画監督は、彼らの爪の垢でも煎じて飲むべきである。ところで、冒頭にこの作品は実話を元にしているとテロップが出るが、ガース柳下先生によると、これに該当するような事件は見あたらないという。つまり、最初からホラなのだ。さすがといおうか・・・。

しかし、どうもその後パッとしない。「ビッグ・リボウスキ」にしてからが私にはどこが面白いのかさっぱり判らなかったし、「オー・ブラザー!」「バーバー」もセルフパロディのようだった。ジョージ・クルーニーとキャサリン・ゼタ・ジョーンズの2大スターを投入した「ディボース・ショウ」で少し持ち直したものの、「レディ・キラーズ」はもはや不愉快なレベルだった。
大丈夫か?


ゆれる (’06.7.8)

「蛇イチゴ」('02)の西川美和監督の新作。前作のブラックコメディ風味は影を潜め、人間の内面に深く踏み込んだ、いわばストレート勝負である。東京で写真家として成功している弟(オダギリジョー)と、田舎で家業を継いだ兄(香川照之)。母の一周忌で久しぶりに再会した2人は、幼なじみの女の子と近くの渓谷に遊びに行った。彼女は、兄の勤め先のバイトだが、実は弟と深い関係にある。渓谷で楽しい時間を過ごすのもつかの間、渓流に架かった吊り橋から彼女が転落し、溺死する。橋の上に一緒にいたのは兄だけ。事故か、それとも殺人か?

兄に殺人容疑がかかり、弟は裁判のために奔走するが、「温厚ないい人」でしかなかった兄は、次第に弟の知らない一面を見せ始める−。

実のところ、予告編を一回観ただけで、ほとんど予備知識なしで観た。兄弟の情愛ものみたいなもんかと思っていたのだが、どうして、ミステリーとしても心理サスペンスとしても一級品であった。基本的には室内の会話劇なのだが、研ぎ澄まされた台詞のひとつひとつがとてつもない緊張をはらむ。田舎でしがない生活を送っている兄が、内心押し隠していた嫉妬や憎しみ。弟が、兄に対して抱いている後ろめたさと、それと裏腹の「いい人」過ぎる兄へのいらだち。それらが次々に露わになり、ぶつかっていく。そして訪れる裏切りと、救済。

画面設計にも、工夫がある。兄と弟は、常に「あちら側」と「こちら側」に位置しているのである。食卓では、向かい合わせに座る。夜遅く帰ってきた弟に声をかける兄は、室内から。弟は廊下に立ったまま返事をする。渓谷へ向かう車のなかは、前席と後席。弟が兄を見るのは、ルームミラー越しである。渓谷についてからも、兄は川のなか、弟は岸辺。あるいは、さらにはっきりと川を隔てて彼岸と此岸。兄が収監されてからは、面会室のガラス越しであるが、3回目の面会に注目したい。2回目の面会までは、互いのバストショットの切り返しという常識的な構図が連続するのだが、3回目はガラスを中央においた断面図で、兄弟がシンメトリーに配置されるのだ。この3回目の面会で、兄は弟に、「最初から人を疑って、一度たりとも信じたりしない。それが、俺の知っているお前だよ」と冷酷な台詞を浴びせる。ずっと弟に慈愛を注いできたかのように見える兄の、むき出しの悪意である。このとき、2人の力関係は完全に拮抗している。それが、構図にも表現されているわけだ。そして、ラストシーン。やはり2人は、道路を挟んであちらとこちらにいる。「家に帰ろう!」と叫ぶ弟と、それに気づき笑みを浮かべる兄。帰るべき家とは、何なのか。どこにあるのか。そもそも、そんなものはあったのか。そんなことを思わせつつ、フレームインしてきたバスが2人の間を断ち切る。

ただ2カ所だけの例外が、吊り橋の上のシチュエーションと、母の形見分けで渓谷の記録フィルムを見つけるシーンである。あの渓谷の思い出が、2人をつないでいるという直接的な比喩であろう。

オダギリジョーは、私は「アカルイミライ」('02)で見たきりで、あのときは藤竜也と浅野忠信という化け物みたいな役者に挟まれて、受けに徹した演技だったのだが、今回はその存在感を全開にしている。香川照之って、まだ41才だったのか。この先が楽しみ。年齢といえば、西川監督は74年生まれってことは、まだ32才!オレよりも若いじゃないか!脇役では、嫌味たらしい検察官を演じた木村祐一が出色。「蛇イチゴ」の宮迫博之もそうだったが、西川監督はこういうすごい面構えの役者を発掘するのが、実にうまい。ついでに、ご本人は女優でも喰っていけそうな美人である。順調にいけば、これから3,40年は現役で活躍できるはず。邦画界は、これから実に豊潤な時代を迎える。


太陽(’06.9.23)

その内面の計り知れなさ、という点において、現代史に実在した人物としては最大の難役であろう昭和天皇を、イッセー尾形がまさしく一世一代の名演で演じる。イッセー尾形を起用した理由は不明だが、私の想像では、「一人芝居の第一人者」であることが決め手だったのではないか、と思う。

断片的な記録や公的発言からすると、昭和天皇は、歴史の節目ごとにもっとも正確な情勢判断を下していながら、その意志が政策に反映されたのは、ポツダム宣言受諾の「聖断」だけだった。現人神として一国家の運命を担いながら、その破滅を食い止められない歯がゆさ。それはギリシャ神話の予言者カサンドラのごとく、まるで一人芝居のようなものだったろう。それも、相手役どころか観客さえいない一人芝居である。イッセー尾形にとって、その恐怖と絶望は身に迫るものであったろうことは、想像に難くない。
(誤解の多いところなので書いておくが、明治憲法下の天皇は立憲君主であり、責任政府の決定を覆す権限はなかった。また、天皇の意志が反映されなかったのは、無視されたのでも曲解されたのでもなく、単に国内外の情勢がそれを許さなかっただけである。)

よくリサーチされた映画である。昭和天皇が御前会議で明治天皇の御製を紹介するのは、日米開戦を決定した御前会議で実際にあったエピソード。開戦の遠因を排日移民法に求めるのは、「昭和天皇独白録」の記述。「人間宣言」の録音技師が自決した、というエピソードは、史実かどうか私は知らないが、三島由紀夫の最期を連想させる。

この映画を特徴づけるのは、音と光である。
本作は、全編ノイズに満ちている。飛行機の爆音、鳥の声、虫の声、時計の音。それはまるで、神にとっては人の声も鳥の声も、全て等価なものであるかのようだ。
また、タイトルが「太陽」でありながら、太陽と青空は決して映らない。
舞台は地下防空壕の会議室であり、夜の廃墟であり、ロウソクに照らされたGHQ司令官室であり、常に闇に閉ざされている。写真撮影や研究室の明るいシーンでさえ、光源はどこにあるのか解らず、頼りない光があるだけだ。
人間宣言を経て、ラストシーンに初めて、薄闇の中の太陽が映る。人であれ神であれ、天皇はこの国の上に柔らかな光を送り続けている。


善き人のためのソナタ(’07.2.24)

手元に、「グッバイ・レーニン!」を観たときのメモがある。ちょうど3年前になるが、「美しき理想国家へのレクイエム。とは言え、東ドイツってノスタルジックに思い返せる国なんだろうか。警察国家の恐怖と閉塞が描かれないのも何だか気になる。」と書いている。
「グッバイ・レーニン」は傑作ではあるが、「語っていない部分」の多い作品だった。
その「語られなかった部分」を語ったのが、この「善き人のためのソナタ」である。
ドイツ民主共和国。「ソ連以上に社会主義的な国」と言われた国。
その社会体制を支えたのが、秘密警察「シュタージ」による、徹底した国民の監視と密告の奨励である。ドイツ統一後の情報公開によって、隣人や親兄弟、ときには配偶者さえ密告者であったことが明らかになり、深刻な人間不信からノイローゼになる者が激増したとも聞く。
その実態に斬り込んだのが、この映画である。秀逸なのは、監視するシュタージ側の人間を主人公に据えたことだ。主人公ヴィースラー大尉は、ベテランのシュタージ職員で、尋問のプロ。共産党の教えを忠実に守っているが、別段狂信的でもエキセントリックでも、残虐な人間でもない。ただ、与えられた職務を淡々とこなしているだけだ。たとえそれが拷問同然の尋問であっても。
その冷静さにこそ、真の恐怖がある。勤勉、誠実、責任感。職業人として本来美徳であるはずのこれらの資質が、非人道的な監視国家を支えてきた。
ある時、反体制の疑いのある劇作家とその恋人の監視任務に就いたことで、ヴィースラーの内面に変化が生じる。
文学。演劇。音楽。自由。愛。
ヴィースラーを演じるウルリッヒ・ミューエは、セリフも少なければ表情もほとんど動かないのに、ガラス玉のような瞳で、その心のさざ波を見事に表現している。
劇作家は、西側の雑誌に東独の支配体制の告発記事を寄せ、ヴィースラーがそれを見逃したことで、悲劇が訪れる。その果てにある、わずかな救済。
この映画の舞台は、1984年である。見たところあまり触れられていないようだが、これはおそらくジョージ・オーウェルへのオマージュである。オーウェルがおよそ60年前に予見した国は、確かにそのとき、この地上に実在した。


時系列シャッフル映画

時系列を前後させた構成の映画を分類してみた。
時系列シャッフル映画という用語は私が適当に作ったものであるが、作中で時系列が入れ替わっていることが特徴の映画、とゆるく定義する。
ただし、単に本編中に回想シーンがある映画、本編が回想で構成された「だけ」の映画(例:「スタンド・バイ・ミー」)は含まないものとする。


1 串団子型

本編 本編 本編 本編

本編の中に、回想(A・B・C)を挿入していく型。おそらく、時系列シャッフル映画のもっとも古いタイプがこれ。代表例は「翼よ!あれが巴里の灯だ」('57)。本編がリンドバーグの大西洋単独無着陸横断飛行であり、その合間に回想が挟まれる。回想の方は時系列通りに並んでいないのがミソ。本作は今でこそ歴史的名画だが、公開当時はわかりにくいと不評だった。少なくともこの頃の観客には、こうした構成がまだ複雑に感じられたわけだ。
ベテラン投手が現役最後の登板で完全試合を達成する「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」('99)は、試合を本編として回想シーンを挟んでいく構成。野球映画は「万年最下位チームが奇跡の逆転優勝」というのが定石で、こういう作品は構成も含めて非常に珍しい。監督がサム・ライミだというのも意外。


2 ユニット型

同時に発生した出来事を、視点人物を変えて語り直した型。
代表は「運命じゃない人」('05)。この映画は、予算はなくともアイデア次第で面白い映画が作れる見本のような作品。「ジュエルに気をつけろ!」('01)もそうだが、低予算のしゃれた犯罪映画にこのタイプが多いような気がする。
あ、本家本元は「羅生門」('50)か。


3 モザイク型

A1 B1 C1 A2 B2 C2 A3 B3 C3

本編が存在せず、時制の異なる挿話を並行して描き、最終的にひとつの物語にする型。
代表は「21グラム」('03)「プレステージ」('06)。きわめて高度な演出力が必要とされる。時系列がA→B→Cでない場合もあるので、観客の側もついていくのが大変。「父親たちの星条旗」('06)もこのタイプか。トリッキーな映画と言えばこの人、チャーリー・カウフマンの「エターナル・サンシャイン」('04)も、記憶自体をテーマにしているだけに構成も複雑。
スペイン代表「オープン・ユア・アイズ」('97)も入れておきたい。
ソダーバーグ監督の「アウト・オブ・サイト」('98)も、やや地味ながらここに。
「クラッシュ」('04)も入れたいが、これは次のループ型かもしれない。
08.10.21「その土曜日、7時58分」('08)を追加。シドニー・ルメット監督の新境地。


4 ループ型

最終的に冒頭に戻ってくるタイプ。タランティーノの「パルプ・フィクション」('94)などだが、デビッド・リンチ作品にもこのタイプは多く、「ロスト・ハイウェイ」('97)「マルホランド・ドライブ」('01)もこの一種だろう。リンチ映画に時系列という概念があるかどうかは疑問だが。


番外 巻き戻し型

文字通り、時系列が後ろから前へ語られる映画。今のところ、「メメント」('00)のみと思われる。公開時はリワインド・ムービーと謳われていた。「プレステージ」のクリストファー・ノーラン監督の出世作であり、時系列トリックには特に思い入れがあるようだ。ちなみに「メメント」のDVDには、映像特典として時系列通りに編集し直したバージョンが収録されている。


微妙だが時系列シャッフルしていない映画
「市民ケーン」('41)は回想のみで構成された映画だが、回想シーン自体は時系列に沿って並んでいる点が決定的に違う。
凝りに凝った構成の「ユージュアル・サスペクツ」('95)も回想主体の映画だが、回想自体は時系列に沿っている。ただし、その回想が実は・・・というひねりを加えてあるのがポイント。
「バック・トゥ・ザ・フューチャーpart2」('89)は、時間軸を行ったり来たりする映画だが、私の考えではこれはシャッフル映画ではない。なぜなら、時間の移動は単に舞台の変更に過ぎず、主人公の主観時間は一定方向に進んでいるからである。


ラスト、コーション

これは「演じること」について語る映画だが、映画の中で本体と鏡像は、まさしく本人と演じられた役の比喩として機能する。
1942年、日本占領下の上海。主人公チアチーは、大学で抗日活動のための演劇の主演女優となり、その演技が絶賛されたことから、日本軍に協力する特務機関の長イーを暗殺するために正体を隠して接近する。
彼女が、大学で演劇に誘われるシーンで、画面左側にはめ殺しの鏡があり、そこに彼女の姿が映る。だがそれは、不自然に断ち切られた像である。この不自然さが、観客の目をそこに誘導し、以後、作中幾度となく現れる鏡像の意味を考えさせずにおかない。
例えばチアチーの姿が窓ガラスに映り込むシーンは、何度も登場する。一方のイーもまた、場末のアパートで初めてチアチーを抱くシーンでは、突如鏡像として登場する。登場人物たちは幾度となく鏡に映ったおのが姿を凝視する。冷酷非情なイーがかいま見せる深い孤独。どちらのイーが本物か虚像か解らなくなった時、虚像のチアチーは揺れ始める。やがて虚像がついに本物に取って代わった時、当然のように破局が訪れる。
チアチーが人生の最後に臨むのは、夜の採石場の巨大な竪穴だ。その闇が画面を覆った後、唐突にイーの家のカーテンが映る。
これはつまり、舞台の暗転と終幕、である。ここに、物語は終わりを告げる。
ラストカットは、ベッドに落ちたイーの影。それはもはや曖昧模糊として、鏡像ではない。虚像が死んだ時、イーの中の何かが死んだのである。

虚像が演じる一夜の夢。これは、映画という表現そのものへの言及でもある。
チアチーが、人力車の客席から、風車を眺めるカットがある。その回転は、容易にフィルムの回転を連想させる。
アラブ系の宝石商の名前がハリド・S・ウディン。おそらくこれは、ハリウッドの語呂合わせだ。作中に数回登場する映画と映画館。映画好きな「本物」のチアチーと、「暗闇が怖いから映画は観ない」という虚像のイー。最後の暗殺の舞台に選ばれるはずだったのも、映画館だった。

フィルムの上に映るのは虚像でも、それはときに真実を語る。