ミュンヘン

1972年ミュンヘン・オリンピック。イスラエル選手団を、「黒い九月」を名乗るパレスチナのテロリスト集団が襲い、人質11人が殺害される。イスラエル政府はその報復に、テロ組織の幹部と目される11人の暗殺作戦を決行する。

この事件を事実に忠実に映画化したのが、「ミュンヘン」である。ユダヤ人であるスピルバーグが、報復の応酬を批判的に描いたことで、イスラエル政府が不快感を表明する等、話題の多い作品である。

その暗殺チームのリーダー・アフナーの回想録とされるのが、「標的は11人」(ジョージ・ジョナス 新潮文庫。ノンフィクションだが、以下便宜的に小説版)であるが、これはあくまで映画の参考図書であり、原作ではない。
並行して読了したので、映画版との相違点を指摘する。


@ 電話爆弾で危うく標的の娘を爆殺しそうになるシーンは小説版にはない。

A 大学教授をしている標的が、アラビアンナイトの朗読会をするシーンは小説版にはない。

B フランス暗黒街の地下組織の情報屋・ルイの、敵味方不明で信用ならない態度は映画版のオリジナル。小説版では、常に信頼の置けるパートナーとして描写されている。また、映画版のルイはユダヤ人と取引するのに、常に「ジャーマン」シェパードを連れているのが意味深長である。

C ルイの準備した隠れ家で、PLOと鉢合わせするシーンは小説版にはない。

D ホテルのベランダで暗殺の標的と話すシーンは、小説版にはない。

E ベッドに仕掛けた爆弾で、隣室まで吹っ飛ばしてしまい、爆弾屋が解体が専門で、爆破の訓練は受けていないことが判明するシーン。小説版では、凄腕の爆破の専門家であり、ホテルでも狙いどおり標的だけを爆破している。

F CIAが、PLOと裏取引しており、アフナーらの暗殺作戦を妨害するシーンは小説版にはない。

G アフナーがクロゼットの中で寝るようになるのは小説どおりだが、ベッドや電話を解体するのは映画版オリジナル。

H 小説版では、モサドの意に反して帰国しなかったため、10万ドルの報酬を没収されているのだが、映画版ではこの描写はない。


こうしてみると、スピルバーグの意図が見えてくる。特に注目すべきは@のシーン。この映画はミュンヘンの虐殺のシーン以外は、全てアフナーの一人称で描かれているのだが、このシーンだけは、アフナーに見えるはずのない室内の娘の様子が描写されている。つまり映画の文法を曲げてまで、これを描きたかったのである。

また、Aについても考えてみよう。スピルバーグは、こんな知的な人間がテロ組織の幹部の訳がない、と思えるように撮っているのだが、小説版によると、この人物がテロ組織の指導をしていたのは、公然の秘密であった(大学教授であることも事実)。むしろ、知性と暴力が一人の人間の中に矛盾なく同居しうる、そのことこそが、テロの本当の恐怖ではあるまいか。

この映画は傑作には違いないが、これは既に脚色の域を超えている。原作と謳えなかったのも仕方あるまい。