ノエイン

近年のSFジュブナイルの傑作と評価が高いが、私は首をかしげる。自由奔放な作画は確かにすごいが、それによって支えられるべき演出があまりに拙劣。
@ 説明ゼリフが多すぎ
確かに量子論は難しいが、みんなセリフで語らせてどうする。それを映像で見せるのが映画というものだ。できないのなら、脚本家と演出家が無能なのか、元もと映像化にむかない素材だったのだ。小難しい用語が出てくると、決まっておうむ返しに聞き返す。
これを、律儀にフレーズごとに繰り返すのだ。聴いててイライラしないのか?
A ノエインの行動の不自然さ
愛する者を失って狂乱する。愛する者を取り戻すために禁断の研究に手を染めて・・・というのがマッドサイエンティストものの定番だ。これなら判る。だが、そこから世界を滅ぼそうという行動には、明らかに巨大な飛躍がある。誤解を恐れず言うが、死と悲惨は世のならいである。今この瞬間にも、親兄弟や子供や恋人や妻や夫を理不尽に失う人が何千何万といる。自分も、自分の愛する者も、消滅したところで世界は何ら変わりなく続く。生き残った者は、それぞれに悲しみや罪の意識を抱え、それなりに消化して「喪の仕事」を済ませ、先へ進んでいく。それができない人間もいようが、だからって世界を消滅させようとは普通考えないだろう。悪役の行動に説得力も悲哀もないのでは、物語に深みなど出ようもない。
B 緩急をわきまえない演出
憎まれ役だったアトリが子供達を守ろうとするのが一つのクライマックスのはずだが、一刻を争うはずのこの場面で、延々とガキどもと言い争いをしたり回想シーンが始まったりする。回想なんか、どっかで済ませとけってば。
C マジックサークルプロジェクト
物語の軸だったはずのハルカの争奪戦と、ノエインの意図する世界の消滅と、マジックサークルプロジェクトとは全然リンクしていない。作品のクライマックスにこのシーンがくるのはまるきり偶然である。完全な純粋物理実験であり、実利があるとも思えないこの計画に、絵に描いたような俗物の篠原が何でああ入れ込むのかもさっぱり不明。拳銃持ち出して現職の刑事を撃つにいたっては論外だ。

私は不自然なのがいけないと言っているのではない。「不自然さを気にさせないくらい真剣に考え抜いた上で嘘をついていない」のが、いけないと言っているのだ。
映画は(もちろんアニメも)所詮フィクションであり、何をやってもかまわない。映画の役割は様々なエモーションを喚起することであって、そこに論理的整合性は必ずしも必要ではない(ヒチコック映画とか、「カリオストロの城」を参照)。だが少なくとも、観ている間不自然さを気にさせないだけの工夫は必要であり、それが演出の役割である。客にそんなバカな、と思われたら負けなんだから。
例えば、かの有名なカリ城ジャンプのシーン。なぜこれが許されるのかと言えば、ルパンが落っことすロケットの存在があるからだ。最初からジャンプで飛び移ったらそんなバカな、で終わってしまうはずだが、このロケットでワイヤーを張ろうとする描写がある。この一事が、大ウソを信じさせるエクスキューズになっているのである。
「ノエイン」には、その工夫が致命的に欠けている。「天空のエスカフローネ」の頃の赤根和樹は、こんなヌルい演出家ではなかったはずだ。再起を期待する。


傍観者なる罪  ギャザリング、私は告白する、うた∽かた

「ギャザリング」は決して出来のいい映画ではないが、いろいろと示唆的な作品だった。かつて救世主の死を見せ物として傍観したため、呪われてこの世の悪と悲惨を傍観し続けることを定められた民。傍観することの罪。傍観し続ける責め苦。傍観をやめ、積極的に介入しようとすることで救済を得る。いささか教条的だが、納得のいく展開だ。

そこで思い出したのが、ヒッチコックの「私は告白する」である。無実の罪に問われた主人公の神父(真犯人の懺悔を聞いて真相を知っているのだが、戒律に則って人に言えず、その罪を着せられてしまう)が、群衆からリンチを受けそうになる場面がある。このとき、野次馬の中年女がリンゴをかじるカットがある。確か水曜ロードショーで観た時に水野晴郎が言っていたのだが、これはヒッチコックがわざわざ演出をつけてやらせたのだという。傍観する者の卑しさを強調する名演出だと思う。しかもリンゴと言えば、堕落の象徴、禁断の果実である。

さらに話が飛ぶが、某感想サイトで「うた∽かた」の評を読んだ。「主人公が様々な人間模様を傍観しているだけで、積極的に関わろうとしない。結果的に何ら成長が見られない」という趣旨だった。大いに肯けるが、一方で私は、見たくもないものを無理矢理見せられて、しかも手を出すことができないのは、それはそれで一種の苦行だと思う。だから、行を終えた主人公は「試し」にかけられたわけである。そういえば、あしべゆうほ「悪魔の花嫁」もこんな作品でしたな。
「うた∽かた」は主人公の性格とか設定とか演出とか欠点が多く、お世辞にも傑作とは言いかねるが、最終回の盛り上がりだけは結構好きである。

追記
「私は告白する」のリンゴの話は、トリュフォーの「ヒッチコック映画術」の中にも出てくる。と言うより、これが元ネタだろう。水野晴郎が直接ヒッチコックから聞いたとも思えないし。


メガゾーン23の許し難い選民思想

スカパー!でやってたので、実に久しぶりに、メガゾーンを観た。Hシーンがカットされてるのはご愛敬だが、OVAに可能性を見ていた時代の徒花として、エポックメーキングな作品ではあった。実際、今の目で見ても技術的には古びていない。板野サーカスの速さなんか、「マクロスゼロ」をしのいで最高記録かもしれない。
しかし、高校時代に感じた不快感は相変わらずだった。人類が、地球を捨てて巨大宇宙船で漂流しており、帰還の日を待っている。そこまではいい。問題なのは、帰還できるかどうかを決定するのが、旧世界のコンピュータだということである。新しい地球にふさわしいかどうかなんて、誰がどうやって決定するのか。一応、イヴという端末がデータを送っているという設定ではあるが、神ならざるものが人を裁いて良いのか、という倫理的な悩みは微塵もない。しょせんアニメといえばそうだが、あまりにも幼稚である。軍が戦争の準備をしている、というパート1にしてもそうだ。何で軍が悪役なのか、さっぱり分からない。デザルグの侵略という明白な脅威を前に、何もしなければそれこそ悪である。バハムートに任せておけば、夢を見続けていられたとでも言いたいのだろうか。ラストで、主人公たちは選ばれた民として地球に降りるが、一方でおそらく数百万単位の人々は宇宙に葬られた。これは、明白な選民思想である。なおかつ、これが「汚い大人」に対する「青春」の勝利と描かれるのだから、絶望的な気分になる。


GONZO

私のGONZO作品の好みを書くと、こうなる。

◎ 「戦闘妖精雪風」「巌窟王」
○ 「青の6号」「バジリスク」
△ 「フルメタル・パニック」
× 「SAMURAI7」「ラストエグザイル」「銀色の髪のアギト」

なんでこう、画面作りだけはハイレベルなのに、作品はつまらんのか。「フルメタル・パニック」は京アニに移ったとたんに面白くなったし、「バジリスク」も、スタジオへらくれすに丸投げ状態だったらしい。黒澤映画をリメイクしたり、「バジリスク」でファンからの投資を募ったり、劇場オリジナルを実現させたり、この企画力というか、山っ気は大したものである。いっそプロデューサー業に専念するか、あるいは高度な技術力を提供する外注専門スタジオとなるかのどちらかしかないのでは。

ところで、「戦闘妖精雪風」のなかで、ブッカー少佐役の中田譲治だけはミスキャストだと思う。声自体はとても好きなのだが、あの時代劇みたいなしゃべり方は違うだろう、という気がする。「巌窟王」のモンテ・クリスト伯のような大仰な演技を必要とする役ならベストマッチなのだが。ギロロは気にならないんだよな。声と役柄と外見のギャップを楽しんでるからかもしれない。

あえて「カレイドスター」を外しているのは、理由がある。愛憎半ばというか、傑作には違いないのだが手放しで褒めたくないと感じる。これはいずれ項を改めて。

春の新作「ガラスの艦隊」は、サテライトとのコラボレーション。2重に駄目駄目な気配が濃厚。

カレイドスター

上でも述べたように、傑作であることは間違いないのだが、どうも絶賛するのをためらってしまう。原因の1つは、クライマックス前の主人公そらの追いこみ方である。主役をライバル・メイに奪われた主人公・そらは、一発逆転を目指してサーカスフェスティバルに参加する。しかし、その参加者達が互いに相争う醜い姿にショックを受け、棄権してしまう。
しかし・・・。争うのが嫌だ、観客の笑顔が見たい、と言うそらの態度が、私にはどうにも甘えに見えてしまうのだ。

2つほど引用する。まず細野不二彦「BLOW UP!」より。ジャズミュージシャンを目指す主人公は、ある時親の七光りでデビューを目指すタレントとバンドを組むことになる。だがそのタレントは、交通事故でデビューをフイにしてしまう。主人公は、病床のタレントにこんな言葉を投げる。
「あんた オレに会った最初カッコいいコト言ってたよな・・・。」
「'親の七光りでも何でもいい!自分の目の前にころがりこんだチャンスをムダにすることはない'・・・とか何とか・・・」
「だけど・・・オレはずっと思ってたよ・・・そのチャンスってヤツが実はいかに恵まれたものか・・・そのチャンスってヤツをあんたなんかより切実に必要としている人間が世の中にはどれほどいることか・・・!」
「そんなことはなにひとつあんたにはわかっちゃいないやろってな!」

もう1つは、海老沢泰久「巨人がプロ野球をダメにした」所収の「絶望の二軍選手」より。
「ぼくは、なりたくないものはいろいろあるが、なかでもジャイアンツの二軍の選手にだけはなりたくない。二軍の選手の希望は、一軍に上がり、一軍の試合に出ることである。(中略)しかしジャイアンツの二軍にはその希望はないのである。一軍に上がるチャンスが生まれるたびに他球団から落合や広沢や清原といった大物選手がやってくるからだが、(後略)」

これ以上説明は不要だろう。観客の笑顔が見たい、というそらの願いに嘘偽りはあるまい。しかし、そのためには舞台に上がらなければならない。そらがトップスターを目指すことで、積極的に人の足を引っ張ることはないにせよ、結果として何千何万という人を蹴落としてきた、という事実には目をつぶったままである。そらには、その人達に対して責任があったはずだ。そらが人一倍努力し苦しんできたことは、免罪符にはならない。そんなことは誰だってやっている。

もっと下司なことを言えば、こんな甘い根性でプロとしてやっていけるはずがない。ジャイアンツの二軍選手を扱ったドキュメンタリーで見たことだが、彼らはTVで一軍の試合を見ながら、「ケガをしろ、ミスをしろ」と祈っているそうである。そうすれば、自分たちに出番が来るかもしれないから。そらが生きるのも、こんな世界のはずだ。

もう一点は、本作の一般性だ。本作は、古典的な物語とキャラクターで、熱心なアニメファン以外にも理解できる、誰にでもお勧めできる作品だ。いわば古き革袋に新しき酒、というタイプなのだが、それ故に、アニメ表現に新しさをもたらしはしなかった。例えば「厳窟王」もデュマの古典文学を翻案したものだが、世界設定と斬新なデジタル効果に独自性を打ち出した。言ってみれば、酒を入れすぎたら破裂してしまった、みたいな破綻がある。「カレイドスター」には、こんな破綻したところがない。もちろんそれは、完成度の高さと裏腹である。だが私は、「厳窟王」の方が好きだ。

私は未読なのだが、「セーラームーン」終了後に、佐藤順一と幾原邦彦が対談している。その中で、アニメ界の現状について、佐藤が至って楽観的なのに対し、幾原は危機意識を表明しているという。その後佐藤が「カレイドスター」を、幾原が「少女革命ウテナ」を作ったのが象徴的に思える。2人とも作家としての業を果たしたのである。

おそらく私は、無い物ねだりをしているだけなのだろう。最初に述べたように、「カレイドスター」は紛れもなく傑作である。しかし私は、「ウテナ」の鬱屈の方が好きなのである。


地獄少女 異色作ならいいってもんではなかった

人を呪わば穴2つ、復讐を依頼した者も、いずれ地獄に堕ちるというのが本作のキモ、必殺仕事人と一線を画すところである。
しかしこれって、ものすごく難しい条件ではあるまいか。人間の弱さ、醜さを描こうと思ったら、地獄少女に復讐を依頼する側を、徹底した被害者にはしづらい。単純な勧善懲悪にしたくない、というのは分かるが、実際問題ドラマツルギーとしてはそうならざるを得ない。始末される側が、この程度で地獄に落とされたらかなわん、となったら失敗だし、かと言って極悪人にしてしまったら、何で被害者まで地獄に堕ちるハメになるのか、説得力がなくなる。
とすると、あしべゆうほ「悪魔の花嫁」のように、依頼人をこそ、俗悪凡庸な人間に設定するか、あるいは善良であるがゆえに復讐せずにいられない人の弱さ、浅ましさを描くしかあるまい。

・・・以上は、1話を観た後の感想。結局最後まで観たところ、これが解っているスタッフと解っていないスタッフの落差が非常に激しい、ある意味で面白いシリーズになった。私が面白いと思った−つまり「解っている」スタッフの作ったのが、下の各話。

脚本 絵コンテ 演出
第一話「夕闇の彼方より」 鈴木雅司 大森貴弘 則座誠
第七話「ひびわれた仮面」 広真紀 若林厚史 則座誠
第十二話「零れたカケラ達」 高木登 後藤圭二 後藤圭二
第十三話「煉獄少女」 西園悟 小島正士 小坂春女
第十七話「硝子ノ風景」 金巻兼一 名村英敏 則座誠
第十九話「花嫁人形」 高橋ナツコ 福田道生 岡崎幸男
第二十二話「悔恨の雨」 西園悟 福田道生 小坂春女
第二十三話「病棟の光」 高木登 大畑清隆 岡崎幸男
第二十四話「夕暮れの里」 金巻兼一 わたなべひろし 筑紫大介
第二十五話「地獄少女」 金巻兼一 大森貴弘 小坂春女
第二十六話「かりぬい」 金巻兼一 小島正士 大森貴弘

こうして見ると、実に多彩なスタッフが参加している。26話ものって、脚本・絵コンテ・演出にこんなに大勢参加するもんか?
「恋風」の大森貴弘が監督だというので期待してたのに、直接手がけてるのは1話とオーラスだけだし。
第1話は、美しいビジュアルと、安易なショック描写に走らない大森貴弘の上品な演出で、見応えある作品になっている。このまま行けばよかったのにねえ。
第7話「ひびわれた仮面」は、雪野五月の「真に迫った空々しい演技」が見物。舞台の上の嘘と、真実を語る仮面。しかし今時、靴に画鋲はないだろう。
第12話「零れたカケラ達」も異色作でいい出来。絵コンテが後藤圭二!
第13話「煉獄少女」は傑作。「映像でなければ表現できないこと」が、ここにはある。地獄へ向かう船上での、あいの「最後の一言」には久々にやられた!と思った。
第19話「花嫁人形」は、救いがないという意味で、一番ハードなエピソード。完成度の高さは1話に次ぐ。
終盤は、狂言回しとして柴田親子を登場させ、地獄少女の出自に迫るという方向性でまとめた。試行錯誤の連続というか、よほどシリーズ構成に苦労したと見える。
作画も全体として低調だったが、大きな問題点の一つは、音楽のセンスに欠けることだった。


しかしこれが、「なかよし」連載とは。侮れない雑誌だ。

蛇足1 どんな事情があろうが、やっぱり日本人の子供は、親を名前で呼んだりしないと思う。
蛇足2 このタイトルを聞いてムロタニツネ象の「地獄くん」を思い出したのは私だけだろうか。



地獄少女 二籠のスタッフ編成

まず脚本。1期シリーズのメンバーが、おおよそ続投している。

脚本
1期 2期
鈴木雅司 1 7
金巻兼一 2,8,11,17,24,25,26 1,4、7,14,21,22,26
広真紀 3,7,10,15,20 2,10,16,17,23
福嶋幸典 4,9,16,21
西園悟 5,13,18,22 8,12,15,19,24
高橋ナツコ 6,18 3,9,20,25
高木登 12,14,23 6,11,18
川崎ヒロユキ 5,13

これに対して、絵コンテと演出はこのとおり。

絵コンテ 演出
1期 2期 1期 2期
大森貴弘 1,25 1 則座誠 1,7,17
細田雅弘 3 大関雅章 2
森下昇吾 4,8 細田雅弘 3
こでらかつゆき 2,5,9,14,18 千葉大輔 4
小島正士 6,13,26 石堂宏之 5
若林厚史 7 吉田俊司 6,11,16,21 2、8,14,17,21,25
大畑清隆 10,15,20,23 2,11,19,24 栗井重紀 8
大畑晃一 11,16,21 林有紀 9
後藤圭二 12 岡崎幸男 10,15,19,23
名村英敏 17 6,12,16,20,26 後藤圭二 12
福田道生 19,22 小坂春女 13,22,25
わたなべひろし 24 4,10 林直孝 14,20
小滝礼 3,7,18
25
筑紫大介 18、24 3,11,19
中山ひばり 5,22 大森貴弘 26 1,26
藤原良二 8,13,17,21,23 神保昌登 4,12,16
22
中山岳洋 9,15 株本毅 5
渡辺正樹 14 孫承希 6,13,23
山口美浩 7
わたなべひろし 10
中山岳洋 15,20
中野英明 18,24
平向智子 26

2期シリーズから新登場のスタッフが非常に多い、と言うか総入れ替えに近い状態である。脚本を生かすも殺すも演出次第、と言葉では分かっていても、こうも明確に形に表れることはあまりないと思う。



練馬大根ブラザーズの最終回

旧聞に属するが、この最終回を苦笑しながら(爆笑するほど大した出来でもないので)観ていたのだが、なんだか観終わってから猛烈に不愉快になってきた。何でだろうとずっと気になっていたのだが、内田樹先生のこの文章を読んで、これだと思った。(先生、こんなところに引き合いに出してすみません。)

この最終回には、当事者意識というものがまるっきり欠落しているのだ。幸い日本には表現や言論や思想の自由というものがあるので、何を考えるのも言うのも自由である。もちろん、政府を揶揄するのも自由だ。だが、その劇場政治って奴を望み、黙認し、楽しみ、助長してきたのは、他ならぬ我々なのだ。我々がその片棒を担いできた、という自覚がこの作品にはない。内田先生は、『「身内の恥」を語ることへの「含羞」』という表現をしておられるが、実に含蓄のある言葉だと思う。
たかがギャグアニメと言うなかれ。真実は、ふとした拍子に思わぬところから顔を出す。
朝日新聞の社説なんか、読む必要はない。現代日本の精神風土は、この最終回に余すところなく表れている。

ところで、この最終回の構図って、犯罪者と公務員と金貸しとパンダが、政府の「改革」に逆らう、というものである。間違って主人公に自分を重ね合わせたりしなければ、それなりに鋭い現状分析のような気もする。何より気になるのは、パンダが『あの国』の比喩ではないか、ということなんだが・・・。


「トップをねらえ!」のちょっとした演出

今さら説明不要の名作、OVAの頂点、時代のあだ花。作品論も周辺事情も散々語られた作品だが、芸の細かい演出でも特筆すべき作品だろう。
最終話に、こんなカットがある。



最後の決戦を前に、身だしなみを整えるノリコとユング。悲壮な決意と少女らしさが同居した、優れた描写である。

で、この次のカットがこれ。




白状するが、ビデオで観ていた頃は、このカットのカズミはマニキュアの具合を見ているのだとばかり思っていた。ではなくて、左手の指輪を見ているのですな。たぶん絵コンテには明記してあるのだろう。戦いに赴くにあたり、今は亡きコーチとの絆に思いをはせる、説得力にあふれた名シーンだ。

言い訳めくが、カットをつないで、カットごとの関係性により、映像に新たな意味を与えることをモンタージュ理論という。映画理論の基礎であり、このことに気づいたとき、活動写真は映画になったのである。

と、まあ、このシーンについてはそれで誤解していた、というお話。

例によって蛇足。
「エルトリウム」内のノリコの私室に、カズミとコーチの結婚式の写真が貼ってあるが、タキシードにウェディングドレス姿である。本作においては、紋付き袴に白無垢であるべきだ、と今さらだけど力説したい。



ステルヴィアのコーヒーカップ

毎度今さらながら、「宇宙のステルヴィア」を観ていて、気に入ったシーン。

21話「みえないかべ」より。


生徒たちを最前線に投入せざるをえないことに苦悩する教官の白銀迅雷と、レイラ。


レイラと会話したことで少し気を取り直した白銀は、コーヒーに手をつけぬまま立ち去る。


残されたカップのアップ。次のシーンで、そのコーヒーをレイラが飲んでいる。


そこへやって来る保険医の蓮。ソーサーの位置に注目。


ふと、手元に目線を落とす蓮。


連の目線でとらえた空のソーサーのアップ。一番重要なのがこのカット。このカットがあることで、一連のシークエンスが俄然意味を帯びてくる。
蓮は、レイラの飲んでいるコーヒーが誰のものだったかに、気づいている。
白銀は蓮に好意を寄せているが、蓮はそれを知りつつ、常にはぐらかしている。
さらに、このシーンで、レイラと蓮は、片瀬志麻のことを「自覚のないまま男を振り回す、一番タチの悪いタイプ」と評している。その言葉が真に指しているのは、果たして誰のことなのか。

「私たちも、あまり変わってないってことか。」
「・・・ほんと。」



脚本:堺三保
コンテ:後信治
演出:鈴木利正


シムーン 処女性と、成長と

(以前に日記に書いた文章の転載)

’06.5.28
「シムーン」が面白い。
スカパー!で観ているので1ヶ月遅れの視聴であり、やっと4話まで観たところ。

西田亜沙子デザインの美少女が群舞するのを観ているだけでも楽しいのだが、注目したいのは、作品の構図である。本作はざっくり言って、
「大人になりたい欲求」
「子供のままでありたい欲求」
「子供のままでいさせようとする社会の要求」
これらがせめぎ合う3つ巴の構図となっている。

特に社会の要求が、子供を速く大人にしようとする世間一般と逆になっているのがポイント。「エヴァンゲリオン」も14才の少年少女だけがエヴァを操縦できたが、14才のままでいさせようとする社会の圧力まではなかったように思う。

一方で興味深いのが、大人になるか子供でいるかの選択権が、子供の側にあることだ(少なくとも4話まで見る限り)。
これは設定上は、おかしなことである。大人になってシムーンの操縦ができなくなったら、それだけ国の戦力が低下してしまうのだから。
つまりこれは、それだけ作品の根幹に関わる問題なのだ、と思う。
もうひとつは、「大人になる」ことが「性別を決定する」ということであり、ある意味即物的に描かれている点だ。

性別を決定するということは、つまり性愛の当事者になることである。大人になる以前、男でも女でもない彼女たち(矛盾した言い方だが)の間にある感情は、恋愛ではないし同性愛ですらない。彼女たちの関係は肉体のあるレズビアンではあり得ない。

むしろこれは、正統な、きわめて純粋な「百合」ものの極北に位置する作品でもあるわけで、「マリア様がみてる」のスタジオディーンがこれを作っているのは、ごく自然なことのように思える。


(’06.7.28)
WOWWOWの新作「イノセント・ヴィーナス」を観る。2分間のナレーションで世界設定を全部説明してくださる安っぽさに辟易。何から何まで紋切り型の描写に耐えられず、10分でやめた。

以前にも書いたが、不親切なまでにストイックな「シムーン」が実に志高く見える。しかし、15話まで群像劇的に進行してきたが、そろそろ落としどころというものを考えておかないとまずいのと違うか。
結局のところ、「アーエルとネヴィリルが性別を決定するか否か」がクライマックスにならざるを得ないと思うが。「科学と宗教の相克」みたいなテーマにまで色気を出して、大丈夫かな。
ときに、監督の西村純二って「風人物語」を手がけた人なのですな。「シムーン」のような美少女乱舞の作品を作っても全然媚びたところがないのは、ああいうキャラ萌えの対極にあるような作品を作っていたことと関係あるのかも、と思ったり。



(’06.10.31)
だいぶ前に「シムーン」の最終回を観たのだが、なかなか考えがまとまらず、触れるのが遅くなってしまった。以前に「シムーン」の結末予測のようなものを書いたが、なるほど、こういう形ではずしてきたか、とか、あくまで群像劇として描いてきたのはこの結末のためだったか、とか合点するところの多い最終回だった。戦争が終わり、武装解除されるコール・テンペスト。その和平条件は、シムーン・シビュラ全員が泉へ行き、性別を決定し、大人になること。いわば、少女が牙を抜かれ、社会へ組み込まれること、である。先へ進む者。選択権を放棄し、永遠に佇む者。そして、そのどちらでもなく、別世界へ旅立つ者。
ただより良く飛ぶためだけに、ネヴィリルのパルになろうとしていたアーエル。
アムリアの想い出にとらわれ続けていたネヴィリル。
2人が互いの存在を認める過程が、物語の流れとリンクし、クライマックスへ向かうのが心地よい。少女たちの祈りを乗せ、2人は翠玉のリ・マージョンにより新しい地平へ飛び立つ。もろもろの罪と咎とを担い、真の巫女として。
「大人になりたくなかった訳じゃない。ただ、刻みたかった。ここに生きた証を。」
時間をかけて描かれるエピローグが、悠然と作り上げた世界とキャラたちへの愛情を感じさせる。
説明不足の誹りをものともせず、隅々まで丁寧に作り込まれた、傑作。「ハルヒ」とはまた別次元で、上半期のベストワンだったかもしれない。



GONZO作品の監督リスト

作品名 監督 監督作品等
1998 青の6号 前田真宏
1999 メルティランサー もりたけし ストラトスフォー
2000 ヴァンドレッド もりたけし
ゲートキーパーズ 佐藤順一
2001 HELLSING 飯田馬之介 デビルマン、おいら宇宙の探鉱夫
I-wish you were here- 水島精二 鋼の錬金術師
2002 戦闘妖精・雪風 大倉雅彦 遠い海から来たCoo作監
超重神グラヴィオン 大張正巳 ダンガイオー、Virus
最終兵器彼女 加瀬充子 機動戦士ガンダム0083
フルメタル・パニック! 千明孝一
キディグレイド 後藤圭二 うた∽かた
2003 GAD GUARD 錦織博 忘却の旋律、獣王星、妖奇士
カレイドスター 佐藤順一 セーラームーン、ケロロ軍曹
LAST EXILE 千明孝一
PEACE MAKER鐵 平田智宏
クロノクルセイド 紅優 LOVELESS
2004 爆裂天使 大畑晃一 破壊魔定光、一騎当千
GANTZ 板野一郎 メガゾーン23PART2
SAMURAI7 滝沢敏文 伝説巨神イデオン劇場版、クラッシャージョウOVA
砂ぼうず 稲垣隆行 マージナルプリンス
厳窟王 前田真宏
2005 バジリスク 〜甲賀忍法帖〜 木崎文智 VIRUS,超重神グラヴィオン作監
SPEED GRAPHER 杉島邦久
トリニティ・ブラッド 平田智宏
Solty Rei 平池芳正 ARIA、ケロロ軍曹等演出
BLACK CAT 板垣伸 ガドガード、なるたる等絵コンテ
2006 銀色の髪のアギト 杉山慶一 十二国記、貧乏姉妹物語等演出
ウィッチブレイド 大橋誉志光 ギャラクシーエンジェル、アクエリアンエイジ
ガラスの艦隊 大原実 φなる・あぷろーち、シスター・プリンセスRe Pure等絵コンテ
ブレイブストーリー 千明孝一
NHKにようこそ! 山本裕介 しあわせソウのオコジョさん
パンプキン・シザーズ 秋山勝仁 ガルフォース、精霊使い、神秘の世界エルハザード
RED GARDEN 松尾衛 ローゼンメイデン
2007 ストライク・ウィッチーズ 杉島邦久 遊戯王、絵コンテ・演出多数
月面兎兵器ミーナ 川口敬一郎 銀盤カレイドスコープ、灼眼のシャナ等絵コンテ
ロミオ×ジュリエット 岸誠二 勇午、マジカノ、ギャラクシーエンジェる〜ん
瀬戸の花嫁 坂田純一 こみっくパーティーRevolution
ぼくらの 森田宏幸 猫の恩返し

監督と総監督がいる場合、総監督を記載。監督作品等については、まだ調べる余地がある。


実写監督が手がけたアニメ作品

『宇宙戦艦ヤマト』('77) 構成・監督:舛田利雄
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』('78) 原案・監督・脚本:舛田利雄
『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』('79) 監修:舛田利雄
『龍の子太郎』('79) 監督:浦山桐郎(代表作は『キューポラのある街』('62))
『未来少年コナン』('79) 監督:佐藤肇(『吸血鬼ゴケミドロ』('68)の監督!)
『ヤマトよ永遠に』('80) 監督・脚本:舛田利雄
『あしたのジョー』('80) 監督:福田陽一郎
『母をたずねて三千里』('80) 構成監督:岡安肇
『宇宙戦艦ヤマト 完結編』('83) 脚本・総監修:舛田利雄
脚本はいずれも共同。クレジットを見るかぎり、参加の態様が少しずつ違うらしい。

『海のトリトン』('79) 監督:舛田利雄
『科学忍者隊ガッチャマン』('78) 監督:岡本喜八
『銀河鉄道999』('79) 監修(編集も?):市川崑
『地球へ・・・』('80) 監督:恩地日出夫
『FUTURE WAR 198X』('82) 監督:舛田利雄
『少年ケニヤ』('84) 監督:大林宣彦
『ルパン3世 バビロンの黄金伝説』('85) 監督:鈴木清順
『平和への誓約(うけい)』('06) 監督:三池崇史

参考:河崎実作品
『江口寿史のなんとかなるでショ!』('90)
『サイレントメビウス外伝・幕末闇婦始末記』('93)



『機動戦士ガンダム0083 スターダスト・メモリー』の伏線について

何でも本作のヒロイン・ニナって「ガンダム3大悪女」の一人ってことになってるんだそうですな。
クライマックスで主人公を裏切って昔の男に走るからなんだそうだが、以前からよく、そこに至る伏線がないと批判される。
これはとんでもない話で、伏線は山ほどある。こんな感じだ。

サブタイトル セリフ 解釈
フォン・ブラウンの戦士 「まさか、昔のことで意地になってるんじゃないでしょうね」
「また恋でもしてみたらいいじゃない?」
ガンダムの改修に打ち込むニナに対して、親友ポーラが言うセリフ。
蒼く輝く炎で 「またミスっちゃった。もうリタイアね」 アルビオンを下りる決意をしたニナが呟くセリフ。上のセリフと併せて、ニナが過去に辛い恋愛を経験しているらしいことが解る。
「やめてケリィさん!こんなことをするのはガトーだけで良いのよ!」
「ニナさん?どうしてあなたが!」
全編を通して一番あからさまな伏線。ケリィとコウの戦いを止めようとニナが叫ぶセリフ。ケリィとニナが知り合いだったのはなぜか?この前に、ケリィとガトーが旧知の間柄だったことを示すシーンが入る。
策謀の宙域 「特に、あのアナベル・ガトーは」 観艦式への懸念を語るシナプス艦長のセリフを受けて、ニナがひとりごちるセリフ。
激突戦域 「なぜ、どうしてこの2人が戦わなければならないの?」
「あの人のことを言うのはよして!」
1号機と2号機の戦いを見ながら、そして生還したコウに対して言うセリフ。上のセリフもだが、これらはガトーを個人的に知っていなければ出てこないセリフである。

批判の多くは、第1話でガトーが2号機を奪取する格納庫で顔をあわせているはずなのにリアクションがない、ということを問題にする。私もそれは否定しないが、だからといって上で示した伏線に気づかなくて当然、ということにはならないだろう。
それも、昨日今日アニメを観始めたにわかファンばかりでなく、アニメ誌の編集者でも平気でこういうコトを言うのだ(例えばラポートデラックスのムック本のスタッフ座談会)。
このくらい気づいてくれなきゃ、作り手はそれこそやってらんないと思うのだが。



2008〜2009年 エロアニメのオリジナル事情

しばらく前、「少女セクト」のDVDをレンタルに行って、久方ぶりに18禁コーナーに入ってみたら、マンガ原作アニメがやたら多くなっている印象を受けた。
そこで、今エロアニメにオリジナル作品はあるのだろうか?という疑問が浮かんだ。
どうやって調べたらいいかと思案していたところ、世の中はうまくしたもので、冬コミで近年のエロアニメのレビュー集「エロリーメイト」を入手した。そこで、本書収録のエロアニメは何を原作にしているか調べてみた。

2009年上半期

タイトル数 ゲーム マンガ オリジナル その他
21 16 3 1 1

ゲームはスピンオフの「魔界騎士イングリッド」を含む。オリジナルは山文京伝原作の「山姫の実」、その他は詳細不明の「15美少女漂流記」

予想通りというか、圧倒的にゲーム原作が多い。
一方、2008年通年ではこんな感じ。


2008年

タイトル数 ゲーム マンガ オリジナル その他
44 25 8 10 1

オリジナルは鬼の仁、MARUTA原作を含む。その他は詳細不明の「催眠術」。

意外なことに、4分の1がオリジナルだった。
ところがよく見ると、10作のオリジナル中8作が「ストロベリージャム」ブランドから出ている。軽くググってみたかぎりでは公式サイトもないようで、詳細が解らない。単一メーカーが1年間にこれほど、それもオリジナル作品を出せるとは思えないし、エロリーメイトのレビューでも「古くさいオムニバス」との評が多いことから考えると、旧作を適当につぎはぎして新作として売っているのではないだろうか?

残り2作は、有名マンガ家を原作者として起用するという手法。特典としてマンガが付いてくる。マンガ家のネームバリューに依存しつつ、限りなくオリジナルっぽい作品を作ろうという、まだしも志が感じられる。

なぜこんなことが気になったかというと、かつて「エロアニメはオリジナル企画の宝庫」と思われていた時代があったからだ。
そこは、「エロさえ入れれば何をやってもいい、作家のパラダイス」と考えられていた(ような気がする)。

でも実は、「エロ」の部分には「ロボット」でも「魔法少女」でも何でも入るんだよね。かつて作家の欲望のままに粗製濫造されたOVAの9割が駄作だったことを考えれば、原作付きが氾濫する現状はそう悪いものではないのかもしれない。



「デュラララ !!」 首なしライダー・セルティの感情表現の豊穣さ

「デュラララ !!」の主人公の1人、首なしライダーのセルティはとても可愛い。
首がないのに?
そう、首がないのに。仕草がとても可愛いのだ。

例えば、5話「羊頭狗肉」のこのシーン。セルティは首がないのでしゃべれない。
だから普段は、PDAに文字を打ち込んで「会話」する(注1)。

  


左右の図を比べてみれば、同じアングルで同じ行為をしているのにセルティは別作画なのが判る。こういうキメの細かい「演技」をつけているおかげで、とても「表情」豊かなのだ。

さて、そのセルティには沢城みゆきが声をつけている。
私は、極力セリフに頼らない映画をよしとするので、いっそ声をつけなくてもいいのではないかと思っていた(注2)。セルティの演技はあれほど雄弁なのだから声は不要なのではないかと考えていたのだ。
12話「有無相生」を観るまでは。

セルティは、ずっと失われた首を探している。そしてあるとき、パートナーである新羅が首のありかを知りつつ隠していたことを知る。激高したセルティは新羅を詰問する。




上がそのシーンだが、ここで新羅は、セルティが話す(PDAに打ち込む)前から、セルティの言いたいことをずばり言い当ててみせる。
PDAに打ち込むという余計な動作をはさんで緊迫感を削いでしまう演出上の問題を回避するとともに、セルティのことなら何でもお見通しの新羅の心情を表現してもいる。

一方で観客からすると、これは新羅の口を借りてセルティの心情を代弁する、いわばセルティの感情表現(観客に伝達するための、という意味)のバリエーションという見方もできる。

つまりセルティの感情表現は、
1 芝居
2 文字
3 声
4 他人による代弁
という4つのレイヤーを持つのだ。

首のある(笑)普通のキャラなら感情表現の手段は、表情の変化を含めた芝居と、声との2つがせいぜいだろう(注3)。首(顔)がない、という通常なら感情表現が難しい条件を逆手にとって、より幅の広い表現を手に入れたのである。

さらに言えば、文字による表現には、2-a・PDAと2-b・パソコンの変化があり、声による表現には、3-a・発話と3-b・内語の変化がある。

12話のこのシーンで、PDAとパソコンの使い分けが見られる。セルティは手元にPDAがあるのに、わざわざパソコンに打ち出す。その違いは何か?



伝達のタイムラグである。PDAに打つ場合は、まず打ち込んでから、相手に見せる。その間に、いわば「推敲」する時間がある。見せる前に訂正したり、やはり見せずにおこう、という場合もあり得るだろう。以前にそういう表現があったかどうかは気づかなかったが。
一方パソコンの場合、打ち込むそばから、背後の新羅が画面を見ることができる。ここでセルティは、「死ぬのが怖い。死の核がないのが怖い」「脳味噌も眼球もないのに悪夢を見る」と訴える。つまりこれは、より直接的な「真情の吐露」なのである(注4)。

バイザーに画面が映り込んでいるこのカットも、それを裏付けている。



最後にセルティは、もう一度新羅にPDAで言葉を伝える。このとき、彼女はあらかじめ画面を新羅に見せて、直接文字を打ち込む。声はない。
2人の距離は、それだけ縮まったのである。

  


他にも、このシーンはまるで演出技法の見本市のようだ。
ヘルメットの角度を変えてみたり、

  

バイザーに映り込ませてみたり。



絵コンテ・演出 川面真也。今後要注目!
セルティの感情表現にどのレイヤーを使用するかを、脚本・絵コンテ・演出のどの時点で決定しているのかも興味のあるところ。


注1:有川浩『図書館戦争』シリーズによると、実際、携帯のメール画面は口のきけない人のコミュニケーションツールとして重宝しているのだとか。
注2:だから、声優にはあまり興味がない。語る言葉も持たないので、発言しないことにしている。好き嫌いくらいはあるけど。
注3:感情表現自体は、レイアウト、編集、音楽など様々な方法で可能であるが、ここではキャラクターのことにしぼっている。
注4:にもかかわらず背中を向けている、というところも面白い。