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母校と同窓会と私―5―
 
  函館東高は、私の心のふるさと
     
           
俵浩治先生(東高1回生、昭和25年卒)
■ 校歌は今でもそらで歌えます

 「(校歌は)すっかり頭に入ってね、今でもそらで歌えますよ。たいへん愛着のあるいい校歌ですね」
 これは、函館東高放送部製作、平成18年度第53回NHK杯高校放送コンテストラジオドキュメント部門全道大会出場作品『思い出のよすがに(6分53秒)』で語られた東高第1回生の俵浩治先生(78)の言葉である。
 「校歌に対する思いは、教員として長く(33年間)過ごしたのが大きいですね」
 1950(昭和25)年、アメリカ占領下、GHQの占領軍命令で大学区制男女別教育から小学区生男女共学が強行された。俵浩治先生は当時北海道道立函館高等学校(現函館中部高)に通っていたが、このため函館東高に3年生で編入になった。
 1951(昭和26)年2月7日に生徒より公募で作詞された新校歌が披露された。その1ヶ月足らずの翌月3月1日に、函館東高第1回卒業式を迎えている。
 「函中(かんちゅう現・中部高)から一緒に最後の1年間東高に来た同期の厚谷悌二君が作詞しました。仲間が作った校歌ということで特別な気持ちがあります」。

■ 3高生徒のわだかまり解消、きっかけは運動会

 「急に統合になったから、函中、市中生に反目ということまではいかなかったけれど、どこかにお互いに馴染めない感じが漂ってましたね。でも、運動会をきっかけにわだかかまりが解消されました。どうしても協力しなければならなかったからです」と当時を述懐する。
 右写真は6月11日の運動会での仮装。先生のV年E組はかぐや姫を演じた。
 「後で聞くと、何組も同級生同志のカップルが誕生することになったのですね。東高はその後もずいぶんカップルが多いみたいです。これは東高の特徴で、市中として始まって以来のああいうキャンパスや教育方針がそうなったと思います」。

●【男女共学】
 「男女7歳にして席を同じにすべからず」の時代から男女共学への変革は大きかったようだ。新制度発足後の1950(昭和25)年4月20日女生徒身体検査の時には男子が臨休となり、翌日20日男子身体検査の時には女子が臨休となった。1957(昭和27)年12月9日、全校生徒に対し、校長より男女交際について特別訓話があった。函館東高50年史沿革略年表にはそんな歴史が綴られている。
 昭和25年の函館東高の先生による報告書によれば、「.学力面:男女とも異性に対する一種の羞恥心から勉学に励むようになった。ことに女子は従来の別学では一般に男子より程度が低いという不満があったが、それが除かれて非常に活気を呈してきた。学習態度が極めて良好でことに静粛な為、学習効果が増してきた事は著しい」と記されている。
 当時の様子については、当ホームページの東高誕生の2年福田芳子さんの雑感、昭和25年の報告書「共学についての報告を参照。
●【3校合同同期会】
 1982(昭和57)年から今日まで函館三高高校合同同期会が行われている。ある日突然、市内4高を3高に統合して小学区制男女共学が実施され、市内の普通高の生徒達は地域ごとに東高、中部高、西高の3高へばらばらにさせられた。(詳細は当ホームページ「市内高校統合案を阻止した人々―戦後にもあった統合問題―参照) その時の高校生は一同に集まり、函館と東京で今もなお同期会を年1回実施している。
 2001(平成13)年9月22日、第20回の同期会が函館のホテル・ロイヤル柏木で開催され、東高28人、中部高30人、西高24人の合計82人が参加している。その時の東高1回生の集合写真と名簿を函館東高第1回生写真集の中に収めた。
 
■ 自由な選択性のあるカリキュラム

 発足当時、幅広い自由で選択性のあるカリキュラムだった。「私が(東高の)教員になった時(1958年)には基本的な教科はクラス単位で受けていた」が、東高発足当時、時間割も制度も学生一人ひとり違っていた。英語、国語、数学もクラス内でも別々な先生に習っていたという。「今じゃ考えられない、革新的で大胆なカリキュラムを先生方は考えていたのですね」と先生は入学当時のことを回想する。
 「初代岡村威儀校長先生は、とにかく伝統的な型にはまった学校にしたくなかったのです。非常に優秀な先生方を集めたという話は有名です」
 当時は校長先生の考えでスタッフを集めていた。函館市立中学(現函館東)の教諭第1号は井上一先生だった。「1932(昭和8)年3月、小林多喜二労農葬準備中逮捕されるが、7月起訴猶予で釈放される」(井上一先生追悼集「開けない夜はない」)という経歴の人物である。後に井上先生はレットパージにより学校から追放された。(詳細は「函館市立中教員第1号の井上一先生に辞職勧告?」を参照)
 
■ 教頭先生が大学にスカウトに

 市立函館中の時代から良い先生を見つけるべく、大学に行って「これはとういう学生をスカウトして見つけてくる」という伝統があった。その頃、校長に教師を採用する権限があったようだ。
 俵先生もそのスカウトされた学生のひとりだった。
 1958(昭和33)年、函館東高から四ツ柳忠夫教頭先生(数学、昭和18年3月31日就任、昭和38年4月30日退任)が札幌の北大まで先生をスカウトに来た。そこで当時北大の大学院生であった元教え子の俵さんに偶然に再会した。それを機に先生をスカウトすることになる。翌年1959(昭和34)年、俵先生は正式に函館東高の教諭として採用された。それ以来、退職まで33年間、東高に勤めることになった。
 「私だけでなく、天野先生や羽田先生など結構そういう先生はいました」。
 
 函館東高の先生方には多彩な経歴をもつ人も少なくない。東高の先生から大学教授になる人もいた。
 俵先生は父親が早くに亡くなられたため進学を諦め東高卒業後市役所に勤めた。卒業1年後、北大に進んだ同期の仲間達が夏休みにやって来て、「大学の寮に入れば、学費はなんとかなるから」と進学を勧めたという。そこで親には内緒で北大受験を受ける決意をし、市役所の上司の協力を得て函館の北大水産学部で受験をしてみごと合格した。新聞に合格発表が載り、親も了解。1952(昭和27年)、北海道大学文学部に入学。親の仕送がまったくない中、奨学金とアルバイトのお金で学生生活を過ごし、更に同大学院に進み卒業している。

■ 教員生活― 教師から見た東高

  前述のようにスカウトされた先生方も多く、「私を雇ってくれた校長先生、学校だという思いが先生方には強かったと思います」。
 「東高の特徴は、60人の教員の定員の中でその1/3の20名が東高卒の先生でした。そういう時代が結構長かったです」。
 そんな中、「東高のもっている雰囲気、独特のキャンパスが生徒に影響を与えたと思いますね」。
 「例えば、中学生時代にあばれたりして手が付けられなかったような生徒が、東高に来て非常に良く変ってしまったということもありました」。
 「市内の中学校の女の子が東高にあこがれるということを聞きます。勉強、勉強と追いまくられるような高校生活をしたくない。高校生活を楽しみたいという想いがあるようです。特に能力をもった女生徒に多かったですね」。

■ 青雲魂の太鼓の発見と復活

 戦時中、函館市立中学校に初代校長岡村威威先生の発案で設置された時報用の大太鼓があった。直径1m、胴の長さ1.3mの太鼓で、かつて全国制覇も遂げたラグビー部(当ホームページ「ラグビー部熱闘の足跡」参照)応援にも使われた。そんな話が市中生から聞いていたという
 新校舎を建設中、旧体育館のステージの中からその皮が破れた太鼓を、先生が発見した。
 1981(昭和56)年12月、東高一回生同期会が、それを修復して「この機会に我々の時代を何らかの形で残すために、母校に東高として記念品を贈りたい」(1回生世話人代表 寺井章吾)という思いで52万円の募金を集め復活させた。
 翌年6月11日、高体連全道大会壮行式に合わせて、俵先生ら1回生15人が参加して、引渡し式が行われた。
 上の写真はその太鼓贈呈式の記念の集合写真である。
 それ以来、2007(平成19)年3月の閉校式までの26年間新校舎倉庫口の前に設置されていたのが、この青雲魂の太鼓だ。
 今は、市立函館高が新設されたことに伴い、体育館上の一室にあるという。

 参照:「和太鼓の謎

■ 東高は私の心のふるさと

 「東高校に通った期間は、わずか1年間だけだった。けれど東高の思い入れはだんだんと強くなりました。偶然にも在学中にスカウトされ、最後の退職までずっと東高の教諭を務めることになりました。最初に教えた生徒達は10才位しか違わず、生徒というより兄貴分のように学校の後輩として接したのです」。
 
●先生は今年3月に刊行された「続・青雲時報縮刷版」の顧問をされ、設立総会から半年以上編集会議に常に携わってこられた。(続・青雲時報予約受付中祝・青雲時報縮刷版刊行を参照) その刊行委員長・岩佐章夫さんは先生の初めての教え子のひとりだった。二人の師弟関係は51年になる。

 「この学校に対する愛着と思い入れは、根本にそんなことがあると思います。それが東高の一番いい特色でしょう」。
 「私だけでなく他の先生もそうです。毎年6月、東高を退職した先生の親睦会があり、30人位集まります。東高の時代のことを大変懐かしく思いいろいろ思い出を語る人が多いです」。
 「東高は卒業させてもらった学校であり、しかも人生の大半仕事をさせてもらった学校。しかもああいうすばらしい環境で、学校の伝統や雰囲気がすばらしく、全国にもないような学校だと思っております。私にとって東高は心のふるさとです」と俵先生は2時間のインタビューを締めくくった。 
                    2009年4月26日、青雲時報縮刷刊行委員会山の手編集室にて インタビュー・文:管理人
☆私の高校時代 ― 1973(昭和48)年3月10日「青雲時報」第90号より

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