トップ 統合廃校案を阻止した人々へ 東高ある時ある頃
1940(昭和15)年〜1949年(昭和24)年
函館市立中教員第1号の井上一先生に辞職勧告?
― 知られざるレッド・パージ ―
■ 政治犯で逮捕歴のある異色の先生誕生

 函館東高はその前身である市中の時代から多くの名物先生が存在していた。校長先生に先生採用権限がある時代、各大学に良い先生をスカウトに行く伝統があった。「初代岡村威儀校長先生は、とにかく伝統的な型にはまった学校にしたくなかったのです。非常に優秀な先生方を集めたという話は有名です」と東高一回生で大学卒業後33年間母校で教鞭をとった俵浩治先生はいう。
 市中の教員第1号となった井上一先生は本校67年間の歴史の中で異色な先生の一人であった。
 先生は1907(明治40)年生れ。3歳の頃、父親につれられ十勝に一族で定住した。1925(大正14)年、上京して國学院大学予科に入学。父の病気のため学資に不足となる。当時のことを先生は1994年函中(現、中部高)45期生の同窓会の席で次のように述懐している。、「大学を休学して、昔、少年時代を過ごした十勝の農村に入り、(小学校の代用教員をしながら)大凶作も重なって売るものといえば娘くらいしかない貧農を組織して、凶悪な維持法の眼を盗んで戦う組織をつくったり、(のちに復学した後)、東京で新劇という芝居に首をつっこんだり2度留年」、1993年(昭和8)3月、小林多喜二(最近ブームとなった「蟹工船」の作者)労農準備中に逮捕されるが、完全黙秘でたたかい、7月には起訴猶予で釈放されている。「(1934年(昭和9)年)やっと卒業だけはしたものの、世は正に大不景気のどん底、いわんや危ない奴という看板を背負った身には、どこも受入れるところがないところをお呼びがかかって函館に来たのがちょうど第2回目の港祭りの直前でした。
 市での身分は嘱託、職場は教育課、現在で言えば教育委員会。ところがはからずもぼくが旧制高校の国語の免許をもってることがわかり、函中(現中部高)の校長から貰いがかかったのです。めぐり合わせというものは不思議なもので、免許証という1片の紙切れがぼくの生涯の方向を決めることとなったのです。
 ポプラと砂山と鼻たれエリートで活気に満ちた函中での素人教師コンドル(先生の愛称)の誕生でした。
 ところが、ちょうど函館市が新たに中学を開設することになり、前の縁故から無理矢理に教員第一号とされ、一人の事務官を相手に入学試験を含む開校業務いっさいを取りしきった。正規の学校長(岡村威儀先生)が発令されたのはぼくの発令からちょうど1ヶ月の後でした」。 

■ 岡村初代校長の目と戦時中の監視

 この人事については岡村初代校長が関わっていると考える。後に、岡村校長は市立函館中学校に産みの親である梅津福次郎小伝(新築校舎落成記念出版、昭和18年7月3日1600部発行非売品=右写真はそのコピー)をつくるよう井上先生に命じている。そのことからも岡村校長が井上先生に寄せる信頼は相当なものであったと推測される。もちろん先生の経歴は校長の知るところであった。
 「翌年(昭和17)の晩秋に長男が生れた頃から戦争は次第に激しくなり、それとともに夫の身辺に官憲の目がひときわ厳しくただよっていたようである。日本の敗戦が濃くなる頃には、家庭にまでその手がのびてきた。夫の留守に近くの交番の巡査がやってきて、『本籍地の岐阜の警察から調査がまわって来たのだが、今何をしているか』」などと聞いた。夫が大学時代、プロレタリア文学や演劇、エスペラントや消費組合運動などに頭をつっこんでいたことがマークされていたのだった。職場にも憲兵が校長を訪ねては様子を探っていた」(井上幸子夫人)

■ 戦後の民主主義から一転してレッドパージの嵐が先生を襲う

 1945(昭和20)年8月15日、終戦。「間もなく日本の新たな支配者としてアメリカ占領軍がのりこんできた。彼らは日本人民の解放といって民主化政策をつぎづきと打ち出した。悪法として名の高い治安維持法、思想警察の廃止と政治犯の釈放、特高の廃止を命令した。職場では労働組合の結成が盛んだった。夫は長い間、待ち望んでいた日が来たことに目を輝かせて活動しはじめ、毎日が急に忙しくなった」。1947(昭和22)年5月1日、岡村校長、函館市立的場中学校長として転出。同年、11月29日、函館市立的場中学校長岡村威儀先生、道学務課長に補せられる。「(1949《昭和24》)年)秋のはじめあたりから『赤い教員追放か』という記事が新聞に見られるようになった。11月の下旬だったと思うが、当時、南北海道の2万人以上の労働者を結集した函館地方労働組合会議の議長であった夫は、市民の石炭確保のため、函館市食料・燃料対策委員会の代表のひとりとして中央折衝のため上京していた。帰宅予定の前日、辞職勧告が出されたのである。
 O先生からその知らせを受けた時、何も知らずに旅をつづけているだろう夫に一刻も早く知らせたかった。翌日、桟橋に駆けつけ、「とうとう来たのよ」というと、夫は「そうか」と言ったきりだった。その日はたしか土曜日で、月曜日に出勤した夫に校長はおずおずしながら辞職を勧告し、それをはねつけると今度は休職辞令を差し出した。夫はそんなもの受け取る理由はないとはねつけ、受け取らなかったが、授業はもう組替えされ、生徒から切り離されていたのだった。
 夫はその後もいつもと変らず出勤した。『自分はやめる意思はない。やめる意志のないがぎり座る場所を動かしてはならぬ』とがんばり通し、教員室の自分の机に手を触れることを許さなかった。だが、授業もさせられず、毎日学校でどう時間を過ごしているのだろうかと思えば、朝見送るのがやりきれぬほど切なかった」。
 「辞職勧告を拒否したことによって、夫は休職処分になり、給料は本棒の3分の1にされてしまった。休職期間は高等官待遇だったということで2ヶ年であった。戦後のものすごいインフレのさなか貯えがあろうはずがない。3歳の子供の小さなゴム長が千円以上もするというのに、月3千円と私の収入で親子4人の生活を支え行かなければならなかった。その3千円ですら26年春、夫が党の決定で市議会議員に立候補した時、やむなく退職したため、打ち切られていまった」。

■ 退職後も函中、市中生と交流
  その年1951(昭和26)年市議会議員選挙に立候補するも落選。1955年(昭和30)年、市議会に当選、函館で初の共産党議員となる。以降、1979年(昭和54)年4月、引退まで6期24年間市議員を勤めた。

 「直接、授業をうけたことがないが、後で知り合いになりました。一般の人に党派を超えて人柄が認められていました」 前述の俵浩治先生はこう語る。

 1995(平成)6月11日、88歳で他界。「佐藤健氏が『北海道におけるレッド・バジー ―函館を中心―』という報告をしております。それによりますと、北海道教員委員会は、あからさまな共産党員排除を隠すために辞職勧告の理由をいろいろと付けておりまして、井上先生に対するそれは「勤務成績が概して悪い」「父兄の信用がないかのようにみえる」だということであります。当時の北海道教育長・岡村威儀氏は、函館市立中学校の校長でしたから皮肉なものであります。
 「お別れする会」における函中、市中卒業生の敬愛の気持ち溢れる告別のことば、そして参列者のうち40名もが当時の卒業生であることなど、歴史の真実はどちらにあるのか明白であります」。
         2000年5月発行井上一先生追悼集「明けない夜はない」(=下写真=)國田修司氏のあとがきより 
*右写真は1997年7月5日函館市民会館小ホールでの井上一先生とお別れの会
☆生徒の証言他☆
 井上一先生のホームページ記載文読みました。付け加えることはありません。
 私は1944年(昭和19年)4月函館市立中学に入学しました。(市高2回生)その時の担任が井上一先生でした。
 毎年クラス替えがありましたので1年間だけでした。同じクラスに野本義秀君(元ラサール高校副校長)がいました。
 先生は温厚で授業は厳しかった。特に担任の生徒にはそうであったのかもしれません。クラスの教室が教員室のすぐ上にあり自習時間(当時先生が戦時体制で少なかった)に騒ぐと直ぐ分り全員廊下に座らせられた。先生は目に涙を浮かべ私たちを諭された。
 とても責任感の強い先生でした。一面大変優しい親しみのある立派な先生でした。
                                 2009.8.23 生徒 渡辺宏司さん(市高2回生) 
 厳格で一生懸命な先生でした。兄が教え子で函中(道立函館高、現中部高)だったので、その弟かということで隆俊(りゅうしん)と言われたたことを憶えてます。(談話)
                                 2009.8.25 生徒 中村 隆俊(たかとし)さん(市中2回生)
 今回の井上一先生に関する記事は、早速目を通させて頂きました。
 お貸しした『明けない夜はない』やその他の資料を駆使されて、よくまとめられたと思います。
 井上先生の歩まれた道のみならず、当時の函館、日本のおかれていた状況がわかりやすく書き込まれていて感心いたしました
 卒業生ばかりでなく、より多くの人たちに読まれて欲しいもの内容ですね。

                                 2009.8.13 俵浩治先生(元函館東高教諭、函館東高1回生)(生徒時代は直接授業を受けてはいないが、その後、井上先生と交流をもつ)
☆“コンドルは飛んでゆく、井上一先生を偲んで” 函館市立中学校第1回卒業生 米沢三郎☆
 毎年4月13日は函館ゆかりの歌人石川啄木の命日にあたり、啄木忌が営まれます。
 明治45年の其の日、啄木危篤の報に同郷無二の親友であった金田一京助が自宅を訪れる。東京の4月10日過ぎは桜の散る季節、玄関の庭先には花びらがはらはらと流れる如く美しく散っていた。5歳になったばかりの啄木の長女京子が、父の死も知らずに無心に桜の花びらを拾っては摘んでいた。部屋に入り息を引きとった啄木の霊前に食物(くもつ)を供えようとしたが、空けた米櫃には一粒の米も無かった・・・・。
 金田一京助博士による薄幸の歌人啄木の臨終の状況、博士の述懐を国語の授業の時間に涙を浮かべながら語って下さった井上一先生の印象は余りにも強烈でした。今から50年前の出来事なのに、その思い出が今でも鮮明に脳裏をかすめます。
 その頃私達は旧制中学校の2年生、多感な青春の時期に、たとえそれが軍国主義教育の厳しい最中であったとしても、先生の迸(ほとばし)る情熱と浪漫に限りなく魅力を感じたものでした。
 先生は石川啄木について造詣も深く、「時代閉塞の現状」や社会主義であった「幸徳秋水事件」(いわゆる大逆事件)についても充分熟知されていったことと思います。しかし授業の中では一つもそれについて触れて下さらなかった。その訳を理解するためには、第二次大戦が終熄し、日本が敗戦を迎えなければなりませんでした。
 私達に遺された玉稿の中で先生はこう述べられております。「ぼくは戦時中、特高警察と憲兵の監視下の重苦しい空気の中で、君たちを支えとして、じっと息をひそめていました」。
 ともあれ、先生は昭和15年、函館市立中学校(現函館東高)開校準備のため、ニックネームの「コンドル」を託して、函中(現中部高)の「柏楊丘」から仮校舎のあった船見町へとその場を変えたのでした。名は体を表わすと申しますが、先生の場合は綽名にまで正鵠を得ておりました。昭和20年の卒業まで、否、卒業後も「コンドル」「コンちゃん」の愛称で私達は先生を尊敬し、慕ってまいりました。
 それは正にコンドルの如き風貌、舌鋒鋭く理論をもって。しかし反面慈愛溢るる優しい眼差しに抱かれて私達は育まれました。
 授業に於ける古典文法は峻酷だったなあ。しかし、当時の仲間、軟派も硬派も、事を起しての、先生の諄々とさとす説教には随分と泣かされました。
 一方当時の旧制中学校の教師はある種の威厳があり、近づき難い存在感がありました。その中で担任としての先生は欠席がちの生徒を病気見舞い方々家庭訪問をされるなど、当時としては考えられない希有なできごとだと思って居ります。
 江戸末期の教育者・農民社会運動家であった「大原幽学」の著書を示し、社会に対する生き方・考え方を深く理解されようとしたり、同好者を募ってガリバン刷りの雑誌を作らせ、あの厳しい時代でありながら自主性を育てようと努められたことなど、先生の人間性豊かな行動の数々は枚挙に暇ありません。
 特に昭和18、9年の予科練・特幹の志願者に対して「何れ20歳になれば徴兵検査で入隊するのだから、命を粗末にして死に急ぐことはない」と諭されたことなど、軍国主義教育の下、血気にはやって反発すら感じた私達としては、先生の真意も分らず、今にして思えば慙愧にたえない事ばかりです。戦時下の厳しい状況の中で、先生の立場を思うとき、国家主義や権力に対するささやかな抵抗の姿勢であったのであろうと推察するのですが・・・。授業で習った「万斛(ばんこく)の愁い」は即、先生の生きざまだったのですね。
 私達の後輩でもある元・ラ・サール高校副校長の野本義秀君は師弟を越えた昵懇の間柄、会う度に何時も「これからコンちゃんのところへ夕餉のお采を持って行くんだ」と嬉しそうに話をしていましたが、先生の跡を追うように昨年旅立ちました。今頃は何処で楽しく語り合っている事でしょうか。
 ペルー・インディオの民謡「コンドルは飛んでいく」の素朴で哀愁にみちた民族楽器ケーナのメロディーを耳にすると、私は何時も先生の御薫陶を思い出します。その歌詞の一節。
   「街路よりは、むしろ森になりたい。
    そう、できることなら間違いなくその方がいい。
    むしろ大地をこの足の下に感じたい。
    そう、できることなら間違いなくその方がいい」。
 民衆の偉大な力を信じた先生。先生はコンドルの如く大きな翼を拡げてこの大地の民衆の足元を見つめていることと存じます。
 「愁い」を抱きながら中学校5年間暖かく御指導下さった先生。私達が生きている限り、私達の脳裏からコンドル井上一先生のお姿は永遠に消えることはありません。
 何卒翼をおさめ安らかにご休息ください。
 先生を偲ぶ言葉と致します。
注:ここに登場した野本義秀先生は東高でも教鞭を取っていた。先生の思い出手記を当会ホームページに紹介している。
「東高の誕生、生物のテスト、イラスト4題」を参照。
舟見町にあった市立中学校仮校舎での教職員
(後列右から5人目が井上先生)
☆あのひとこと ―軍人への道を捨てた一生徒の述懐―☆
 指定のホテルのロビーに脚を踏み入れたとたんに、小走りに駆けよって私の手を握ったその男は「Sです先生 この日を40年も待ち続けて来ました。先生に会えると思って山梨の田舎から出てきました」。やや口早やに一気にしゃべって、彼は握った手に力をこめました。
 わたしは愕いてその男の顔をみましたが、急にそれが昔のS少年だとはわかりませんでした。
 「あの時の先生のあの言葉がなかったら、とうの昔にこの世から消え失せていたに違いありません。ありがとうございました」。
 思いなしか眼鏡の奥の彼の眼は潤んでいるかのようでした。
 それは全く思ってもみなかった出来事でした。くわしいいきさつはどうあれ、長い歳月、この一介の教師を忘れないばかりか、再会の日を願ってしてくれたとの言葉を耳にしたわたしは、一瞬いいようもない感動に包まれました。
 その夜は43年前に卒業した旧制中学の同期会でした。
 S君らが入学の年は“紀元2600年”奉祝の年で、まさに太平洋戦争に突入の前夜でした。軍人志望を誉れとする風潮の中で「゛悩みに悩んだ末、相談にあがったのです。先生は最後に僕の肩に手をかけて、ひとこと、『戦争に行くなよ』、言われました。そのことことで肝が決まり、卒業後高等水産へ進みました。あのひとことが無かったら、僕の運命は全く違っていたと思います。このことを直接に伝えてお礼をと思い続けて、とうとう今日の日になってしまいました。望みがかなえられて、こんな嬉しいことはありません」。
 還暦を過ぎたというS君の顔は晴々と明るくみえました。
 実はそのような事実があったかどうか、今でも思い出せないのです。しかし反動の嵐の中で息をひそめて教師の職にあったわたしは、追いつめられた情勢の中ででも、良心と抵抗の姿勢だけは貫き通したいと必死であっただけに、S君の述懐は限りない悦びと勇気を与えてくれるものでした。
                   1989年1月15日発行函館版「平和新聞」掲載、井上一先生著
☆北海道および函館の教員レッド・パージ ☆ (函館市史から抜粋) ☆
 戦後教育労働運動におけるターニング・ポイントを画したとされる教員レッド・パージがおこなわれたのは、昭和24年のことである。この年、共産主義の拡張を警戒するGHQの影響のもと、全国各地で共産主義者やその同調者の教員が罷免・解雇されたが、函館の教育界も例外ではなかった。
 この発表の際に、同時に明らかにされた地域別の辞職勧告対象者の数でとくに注目されるのは、函館の数の大きさである。函館の被勧告者は7名で、他の7市の各1名、石狩支庁の4名をトップとする支庁別の勧告対象者の数を大きく引き離している。これらの被勧告者に対しては、受諾か否かの回答が求められ、受諾の場合には、依願退職となり、拒否の場合には、「官吏分限令」により休職処分に付され、休職期間の満了後に、退職させられるものであった。諾否いずれの場合にも、強制退職ということになるのであった。
 勧告拒否者に対する休職処分の発令は、11月26日におこなわれたが、辞職勧告発表の際に示された「教職不適格者調査基準」の性格は、勧告の客観性、合法性を装うためのもので、その実は、レッド・パージの本質を隠蔽するものであったことが明らかにされている。函館の被勧告者7名のうち1名は退職、6名は休職となったが、これら6名の人たちはほかの4名とともに、教育委員会審査請求をおこなった。しかし、処分取り消しは実現せず、判定書の受理を巡る曖昧さを残したまま、終結したといわれる。さらに、函館の5名が北教組の支援のもとでおこなった裁判所への提訴も、札幌地裁判決、札幌高裁判決、最高裁判決のいずれでも訴えはしりぞけられている。
 このように進められた教員レッド・パージの北海道、とくに函館の教育に与えた影響は、大きなものがあったといわれる。函館で追放にあった人たちは、当時の教職員組合運動の指導者たちであって、函館支部は、北海道教職員組合内では北海道大学支部と並んで、民同(民主化同盟派)的な路線に対抗していた支部といわれ、その指導者が追放になったことは、その勢力が失われたことを意味するのである。
*写真は7名の追放を伝える記事(昭和24年11月19日付け「道新」) 。「函館の被勧告者7名のうち1名は退職」者は井上先生のようだ。「夫が党の決定で市議会議員に立候補した時、やむなく退職したため、打ち切られてしまった。(このことが後に、六人の方々といっしょに再審査の手続きをとらない理由になった)」井上幸子夫人の手記「一つの歴史」より 
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