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 北 海 道 函 館 東 高 の 誕 生
追加:函館東高へ編入・・・・・・・・宮原時男先生の思い出などを紹介、男女共学に関する当時の報告書を追加
追加:生物のテスト、イラスト4題・・・東高誕生の頃、独自の教育方法の一例を紹介
☆男女共学スタート☆
 統合は、再編成が成り、市内各高校は呼称問題などが一部で論議を呼んだが、教育界の大革命というべき、男女共学制、通学区域制に基づく新教育はスタートした。
 本校は、盛山兵護校長を迎え、かつての道立高(現中部)、函館市高(現東高)・道立女子高(現西高)・市立女子高(新年度より廃校)の4高から2、3年生の生徒が、新制中学校から1年生が入学して、函館東高等学校の第一歩を踏み出した。通学区域の設定で長年なじんだ母校をさらねばならなかった生徒、男女共学に嫌悪感を抱く生徒もおり、前途多難が予想されるスタートでもあった。
 (管理人注:このため今も3高合同の同窓会が開かれている。新設になった函館市立高及び廃校になった北高・東高の同窓会をどう結びつけるか、その鍵はこれら学校の歴史にあるのではないだろうか)
 
 “創り出す” 努力

 市高時代に培われた生徒自治の萌芽的活動は、東高になっても引き継がれ、いち早く自治会発足が検討された。生徒会の定義・性格・組織などイロハより創りださなければならない苦労は大きかったが、新学期スタート後1ヶ月余りで新役員が選出され、東高生徒会は市内各高の先頭を切って正式発足をみた。生徒会役員の選出は、最初の選挙戦にふさわしく、どのポストにも対立候補のいる15名が白熱した雰囲気の中で闘い、生徒会自治を創りだす意気込みが感じられる。
 25年5月、初代会長厚谷悌二君を始めとする役員会は、議事会とともに、応援団の設立、規約の成立、議事法の成立、委員会(当時は風紀・美化・勉学の三委員会)の設置等、その組織確立に重点を置きながら一方では、男女共学した初の運動会、文化祭に意欲的に取り組んでいる。
                                   青雲時報縮刷版 解説 昭和25年4月から初頭より
☆信義こそ最大の融和☆
 厚谷悌二生徒会長談(東高校歌の作詞家)

 私が就任してから、ほぼ支障なく運営し得たことは諸先生方のご指導の賜物であることは申すまでもなく、会員諸君の絶大な御協力によるところ大なることを思い感謝にたえません。
 非才の身といえ生徒会を明朗に発展させるためには最大の努力を注ぐつもりです。
 本校は名の如く函館の東に位し、その環境は、風光の明美なこと新鮮な空気に充ちていること、等学問をするものにとって極めて幸福な条件のそろった明るい学園です。私が運営にあたりました信条としまた会員諸君に希望いたすことは、先ず信義を旨とすることです。そして私は万事を処するには相手を信頼することを根本としております。
 そしそこにこそ真の融和が存すると信じます。お互いに尊敬し、尊敬され得るプライドを保つべきです。限りなく栄え行くべきこの東高の基礎を築く最初の年にあたり、会員諸君と手を取り合って、力強く進むぺく努力致すつもりです。
                                          昭和25年7月11日付「青雲時報」創刊号より
☆東高生徒会の船出☆
 昭和25年5月に発足した、初代会長厚谷悌二を始めとする役員会は、議会とともに、応援団の設置、規約の成立、議事法の成立、委員会(当時は風紀、美化、勉学の三委員会)の設置等、その組織の確立に重点を置きながら一方では、男女共学下初の運動会、文化祭に意欲的に取り組んでいる。昭和25年後半は、村上彦博を会長とする役員会が設立、次第に男女共学制などの問題は前面より退き、前期役員会の敷いた軌道に乗った活動が行なわれた。昭和26年になると役員選挙になると立候補が無く、再三締め切りを延期しているが、その後2年生を中心に、クラスやクラブ単位で推薦それた候補者が続出し、その名からから柴田恒雄を会長とする役員会が誕生する。
                                          50年史 生徒会の歩みより
☆函館東高等学校― 東高編入の思い出など ―☆
 昭和25年4月、道立函館高等学校(現中部高校)1年生より学区制により函館東高2年生に編成者になった。新世橋近くの自宅より五稜郭病院前の松並木を通り、校門まで来ると真黒い土の第一グランウンドがあり、その後に石瓦の屋根らしい2階建のモルタル塗りの青雲台の校舎に初めて登校した。体育館は天井が高く、第二・第三体育館があり贅沢な感じがした。前の学校と自宅との距離とを比較すれば、ほぼ同じで又、通学する仲間も学区制の為に同じ顔ぶれで、あまり違和感は無かった。ただし、少々戸惑ったのは小学校より別学の私には初めての男女共学となり、女生徒の顔が皆美人に見えたことである。
 当時の2年生は在籍者数370名位の8クラスで、男女を問わず頭の良い奴が居て、一体、家でどのような勉強をしているのか、と思うくらいである。・・・・
 クラブ活動はバレーポール部に所属し、当時9人制であった為背の高からずの私でも何とか全道大会に出場することができた。しかし、当時の運動部は野球・体操・バスケット・羽根球・陸上などが全国大会に出場しており、バレー部は少々影が薄かった。クラブに一生懸命で勉強に手が廻らない者もいたが、授業中は静かで他人の迷惑にならずそれなりの点数を取り追試を受けなければならない生徒は居なかったように思う。
 教員となって3校目、12年ぶりに又青雲台に戻ってきたが、卒業時と比べると牛舎が無くなり、第一グラウンドが立派になり若干変わっていたが、校舎は以前と同じ状態であった。ただ、窓には目張りを必要とし、夏冬を問わず風通しの良い教室になっていた。そのなかで、生徒の気質は以前と変わらず、生徒会・クラブ活動等で活躍し、個性のある生徒が目についた。着任して3年生を受け持たされたが、近所の子供で幼稚園に入るか入らないかの男の子・女の子が3年生に居たのには驚いてしまった。授業では、東大・東北大を受験するものは静かに、マイペースで勉強をし、北大受験者は質問を繰返していたようだ。
 最近進路等が多様化し、入試制度も変わり、生徒も教科選択・進路選択に色々と悩んでいると思うが目的意識をもって毎日を行動してもらいたい。人生の半分以上を東高校で生活をして来たが、これからの東高がどのように変わっていくのか。今度は外から今迄以上に発展していく東高校を楽しみに見ていきたいと思う。
                                  平成6年3月1日発行「ひんがし」30号より 宮原 時男先生
上左写真:昭和48年当時の宮原先生、右写真:平成19年10月撮影
☆共学雑感☆
 男女共学制が発表された時に、あまりにも急激な変化に私達は唯唖然としました。これについてそうあるべきだ早くそう為すべきだとの適切な意見を多く耳にしていたが、教育界の一大変革とも云うぺき大変動がこのように早く私達の深刻な問題になろうとは・・・・・長い伝統を瞬時に打破してしまった男女共学制――この言葉が大きな社会問題となり、実施を目の前にひかえた時、始めて事の重大さを悟った私達の心境に対してどんなに刺激の強い言葉だったろう。そのために絶えず何かに追われているようなあわただしさと前途不安な気持ちとが果してこの問題を克服出来るかという疑問で一杯だった。
 共学開始以来早2箇月、この2箇月の間にこの疑問はどのような解決を与えて呉れたろうか。まず何よりも大きな収穫はお互いに異性を知る事が出来たことであると思う。今まで私達は女子は女子、男子は男子の限られた世界で生活して来たためにお互いに異性を理解する機会がなかった。そのために偽った見解が多くの悲劇を生じ破滅を導いた。がこの矛盾は完全にこの問題が解決して呉れた(又解決してくれると信じる)そして男性は女性を知り、女性はよく男性を理解し、互に相妥協する事によってこそ完全なる人間が出来るのではなかろうか。
 次に上げられるのは、生活の刺激が強くなり何事も活動的になって来たと感じられる事である。今までの女の学問的地位は低いと云われて来たし、男女共学制反対に“男子の学力低下”といった現象で、少なくとも私達の責任とは言えないだろう。
 女子が政治方面なり経済方面に男子と同位置につく事は努力次第によってためせない事はないでしょう。女代議士となり女社長となる事の悪い点はどこにもありません。しかしそれにしては現在の社会はあまりにも不完全ではなかろうか。私はこのような事を望まない。それだからと云って針仕事が出来る従順な古代の典型的な女性になる事では全然ない。あくまでも高い知性をもち、強い信念を持った円満な人格の持ち主にならなければならないという事である。
 私達が低い知能で非人格的であったなら、次の時代を背負って立つ子供達にどんなに強く響くだろう。そう考えると男の人よりももっとためさなければない事が多いのではなかろうか。そして健全な母になる事が社会的にどんなに大きな任務だろう。私が男女共学に一番望みたいのは女性はあくまでも女性の立場を主張し努力しなければならないということである。そして両性に与えられた任務を忠実に守り、女子は女子の分野で、男子は男子の分野でともに励まし合いながら生活する事が出来たらどんなに明るい社会になるだろう。
                                             2年 福田芳子    青雲時報 創刊号より
☆昭和25(1950)年 報告書 北海道函館東高等学校 倉橋俊雄☆ 共学についての報告
T 教科課程について
(6) 共学々に於て特に別学に比べて利点と思われる点
1..知性面
 感情的・消極的・主情的な女子の性向は男子の影響によって漸次感情克服し判断を正確にし、自立独立の傾向を生じつつあり、男子に於いては原因、条件が錯雑して判断に苦しむ場合などにもしばしば女子の直感的な判断に導かれ良き結論に達する事ができる。(たとえば、生徒会、ホームルーム等の際)
2.感情生活面
 男女の粗野粗暴の傾向が弱まると共に女子においても特有の偏奇的傾向(たとえば、低級なゴシップ、他人の非難等)が是正されつつある。
3.学力面
 男女とも異性に対する一種の羞恥心から勉学に励むようになった。ことに女子は従来の別学では一般に男子より程度が低いという不満があったが、それが除かれて非常に活気を呈してきた。学習態度が極めて良好でことに静粛な為、学習効果が増してきた事は著しい。
4 校内生活面
 異性に対する正当なる理解と判断とが養われ相互の特性にもとづく協力互.助の特性にもとづく協力互助によって男女間の迷妄と誤解とは次第に減退しつつある。ことに常来の女子劣等感は急速に是正されつつある。
U 生活指導について
12 校外に於ける男女考察について
(イ)意を用いて事柄
 校外の男女交際と正しくするための第一歩として相互の呼称に敬称をつけるように奨励した。
(ロ)反省
 従来のような男尊女卑の弊風は漸次なくなり、交際も明朗になって統合前の心配も全く杞憂に了った。
14 むすびの言葉
(7)男女別に比して指導上の利点
 男女共学以来日未だ浅く十分な成果も得られない事がすくなとくも次に列挙するような利点を認めることが出来る。
1.早退の数が減少した。
2.整理整頓が目立ってよくなりことに卑猥の落書等が少なくなった。
3.男子の粗暴粗略の点が改められつつある。
4.男女の交際が健康になって来た。
5.女子の学業成績が漸次向上しつつある。
6.女子の態度が積極的になって来た。
7.クラブ活動が活発になり生活が明朗になって来た。
8.男女共に服装が整えられて来た。
W 教職員について
(3)男女教員の協力について
1.女子の心理的生理的特質を理解しこれに立脚した適切な教育を施すためには女教員の存在は特に重要である。
2.生徒に対し男女交際の正しい在り方。男女平等の思想等と理解徹底させるためには男女教員の理想的協力の姿を教育のあるゆる分野に於て示すことが必要である。
3.これが為には校務のあるゆる部門に男女教員が適当な比率に於いて配置され各々その特長を十分発揮し以って教育の成果を大ならしめるように努めなれればならない。
(4)男女教員組織上最も困難を生じた点
1.生徒の男女比率は6対4であるから教員も大体この割合が望ましと思われるが本校は従来男子高等学校であった関係上男教員が絶対多数である。従って女子生徒を多数収容している現在職員組織は決して完全とは言い得ない。
2.いずれの教科にも女教員のあることが望ましいが現在2、3の教科に偏している。
家庭科 3名、音楽科1名、商業科1名、体育科(非常勤講師)1名
3.経験に富み相当年配の有能女教員を得ることが出来なかった。
4.女教員にも重要なポストを分担させたいが現状では不可能である。
5.男女教員の場合も幹部及至中堅級の教員を得ることは住宅等の関係上不可能なため新に採用する場合は殆ど未経験者のみであった。
6.本校は創立後僅か10年しか経過していないので歴史の長い学校に比べて卒業生の中から適当な教員志望者を得ることも不可能であった。
(5)男女別学に比し利点と思われる点
1.男女教員各々その特長を発揮し合うことによって職務の完全遂行が可能となる。
2.男女各々その特質を知ることが出来、教職員自らの封建的男尊女卑の思想を打破する。
3.従来男生徒のみの学校に於ては教員もすべて男子に限られていたため免角校内に粗野殺風景の気分が張りがちであった。女生徒のみの学校では男教員の女性化がしばしば非難の的にされたが共学によりその何れに偏することも避けられるであろう。
*写真は「青雲時報縮刷版」から
生物テスト、イラスト4題、1953(昭和28)年12月5日  「第2学期期末考査 生物」試験より
 東高の発足当時、幅広い自由で選択性のあるカリキュラムだった。「私が(東高の)教員になった時(1958年)には基本的な教科はクラス単位で受けていた」が、東高発足当時、時間割も制度も学生一人ひとり違っていた。英語、国語、数学もクラス内でも別々な先生に習っていたと東高1回生で母校で教鞭を取ってきた俵浩治先生いう。「今じゃ考えられない、革新的で大胆なカリキュラムを先生方は考えていたのですね」(「東高はわたしの心のふるさと」参照)
 そのことを示すような資料が提供された。イラスト4題だけのテスト問題だ。「B4用紙にガリ版印刷したもので、設問は『次の画は生物学的にみて何かの実習実験あるいは観察をしているところである。それは何を目的とする実験でどのようにするか。操作を順序よく下記説明せよ』」とあります」という。出題は表裏で4題。 ひとつにつき25点で100点満点。提供者の思い出とともに紹介する。
 ここで紹介されている野本義秀先生は東高の前身である函館市立中の生徒であった。当会ホームページの「函館市立教員第一号の井上一先生に辞任勧告」に登場する先生だ。
 東高の歴史は開校当時より先生から生徒へと、やがてその生徒が先生となって母校の生徒へと脈々とつながっている。 
                                         2009.11.22 管理人 
 私は大学では農学部農芸化学科を卒業し、バイオテクノロジーの会社に定年まで勤めましたが、その方向へのきっかけとなったのは、高校1年の時の生物の野本義秀先生でした。先生は大学を出て間もない若い先生でした。

 先生の試験問題をまだ覚えています。当時は先生自らがガリ版を切り問題を作成していましたが、ある時の問題はマンガでした。フクちゃんに似た人物が、生物の実験をしていて、それを文章で説明せよ、という問題でした。

 野本先生は短期間で東校を去られ大学に戻られたはずです。そしてかなり後には函館ラサールの先生(最終的には副校長?)になられました。
その野本先生に、偶然のことから、1993年に東京で再会しました。ほぼ50年ぶりでした。先生も私のことを覚えていておられました。本郷3丁目の喫茶店で、2時間くらいお話ししただけですが、ただただ感謝の気持ちを申し上げました。
 年賀状を交わすことになりましたが、3回交わしただけでした。1997年の私の賀状に対し、前年夏先生が亡くなられたとのご遺族からのお葉書でした。

 私にとって、函館東高校は、人生の原点のひとつであったことを痛感しています。
               東高7回生(昭和31年卒) Tora1938さん
追記:野本先生が前身の函館市立中の生徒であったとは知りませんでした。有難うございました。
                                              東高7回生(昭和31年卒) Tora1938さん
☆50年誌 沿革略年表より☆
1950.4.1
高等学校再編により名称を北海道函館東高等学校と改称、同時に男女共学および小学区制を実施。
1950.4.19
女生徒身体検査、男子臨休。20日男子身体検査、女子臨休。
1950.8.10
新校章を設定(佐藤登教諭を中心とする校章委員会)  *注:詳細は新校章をクリックください。
1952.12.9
全校生徒に対し、校長より男女交際について特別訓話。
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