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ラクビー部熱闘の足跡 ― 全国制覇の歩み
―― 本校最初で最後の全国連覇 ――
 1947(昭和22)年11月第2回国民体育大会にて、函館市中ラクビーが優勝、翌年23年1月の第27回全国中等学校ラクビーフットボール選手件大会でも優勝した。
 本校67年の歴史の中で、後にも先にも全国連覇したクラブはラクビー部しかない。

 いかにして全国制覇したか、当時のメンバーの証言を集めてみた。
  平成10年発行「青雲はらん会50年記念誌」、同年発行「函館市立中学校 ラクビー部熱闘の足跡 吾が青春の闘い あれから50記念OB会」、「50年誌」から資料を集めることによって、本校の特徴が浮かび上がってくる。
 左写真は昭和23年中等ラグビーで再優勝の時の盾(レプリカ)
☆力と走力で押す、函市中ラグビー軍、福中を圧倒 ― 17-0で破り優勝戦へ☆
 【金沢にて山本特派員】 北と南の両雄が奇しくも争った中等ラグビー第一日目優勝候補九州代表福岡中学に対して走力の新鋭函館市立中学の対抗は大会中で好試合と観衆の人気を呼んだ、強豪福岡中を向うに回して函館市立中は前半ゆうゆうワンゴールで5点を獲得、5点をリードしたままホイッスルが鳴る。先取得点に思わずグランドに体を乗り出す倉橋部長を囲んで3人の四高生が函館市立長学がんばれと飛び出してきた。その三君は文科乙3年高貝健作君、理甲3年生勝木春仁君、理科1年宮林俊男君といっていずれも函館市立中学出身だが恩師と後輩に会えて全くうれしそうに始終“函館”“函館”と大きな声で支援を送った。
 
□戦評 技の福岡中に対する力と走力の函館市中は熱戦を予想されたが、この日函館市中は重量FW軍の活躍で終始福中をおしバック陣また快走を重ねて3トライ1ゴール1ペナルテーと都合17点を上げ福中最後の反撃も得点にならずタイムアップとなる。
                                   昭和22年10月31日付「北海道新聞」より 
☆優勝決定☆
 第2回国民体く大会(金沢)は10月30日にはじまり、その第一日目わがラグビー部は優勝候補と目されていた九州代表“技”の福岡中学を「函館市中17-0福岡中学」と「力と走力」で圧倒し決勝戦に進出した。決勝線は国体第3日目11月1日秋晴れの高師グランドで行われ、対戦チーム関西代表の強豪西条畷中学を「函館市中12-0西条畷中学」と無得点に抑え、栄えある全国初優勝を遂げたのであった。
 「勝利のホイッスルが高らかに鳴り響くや本部応援団、市中卒業生などに囲まれて倉橋部長が選手たちのもとに走り寄った。薄ネズミ色のユニホームが土とほこりにまみれ真っ黒だがみんなうれしくたまらぬという顔・・・。みんなが倉橋部長と橋本主将を囲んで円陣を作った。興奮にうるむひとみ、無言の喜びの中から期せずして「先生ありがとうございました」という声がわき起る。「よくやったなあ」とだけであとはなにもいえない倉橋部長のロイド眼鏡がきらきら光る。お互いに喜びの手をとり肩を組んだ感激のシーンが晴渡った秋空の下グランド一ぱいにいつまでも温かい雰囲気を巻起していた」とは北海道新聞(23年11月2日)の報じた感激の情景である。
                                  「30年史」より
☆楕円形ボールの思い出☆ ― 橋本幸次郎・函中ラグビー部主将(昭和23年卒)
 函館市中を卒業して50年の歳月が流れました。当時を振り返ってみますと、「はらん会」の名のとおり戦前から戦後にかけての激動の時代にあって苦しみと喜びが織りなす正に波乱万丈の青春時代でした。
 当時の函館市中に思いを馳せると、戦後の荒廃の中から新しいクラブ活動が次々と芽生えはじめた頃、戦前人気のあった柔道、剣道など武道をやっていた仲間達はGHQの占領政策によって鳴りを潜め、あり余る体力の捌け口を失って他の部活の練習する姿を指をくわえて眺めているような毎日でした。
 昭和20年も終わりに近い11月初めの頃だったと思いますが、函館の名家が立ち並ぶ杉並町の遺愛女学校通り(通称三角通り)を自転車で通りかかった私は、一人の小学生が楕円形のボールを蹴って遊んでいる姿を目にしました。
 自転車を降りて名前を尋ねたところ、大田春雄君という日魯漁業の役員の息子さんでした。春雄君の方では私の名前を知っていて、学校も柏野小学校で後輩になるので二人はすぐにうちとけて仲良くなりました。
 後に私も奉職することになる日魯漁業は、ラグビー発祥の地である英国に戦前から缶詰を輸出していたためか、当時日本ラクビー協会に所属する実業団チームの十指に数えられるチームを持っていたのです。
 私は、春雄君にそのボールを一週間ほど貸してくれないかと頼んだところ、「いいよ」と快諾してくれたのです。
 今にして思えば、このことが私をラグビーにのめりこませるきっかけになったのでした。早速私は楕円形のボールを学校に持ち込んで、かつての格闘技の仲間達に、これがラグビーボールだと見せ、手渡してやったものです。
 その後間もなく同期の伊豫田君のお兄さん二人が体育館にみえて初歩の手ほどきをしてくれました。
 初めはルールを度外視して先に相手陣の床にポールをつけた方が勝ちとして何度も紅白戦みたいなことをやったのが、我がラグビー部のスタートでした。
 しかし初めは30人ぐらいいた部員も、まもなく12・3人に減り、止むなく下級生をおどかして集め、25人ほどになった頃からやっと本格的な練習を始めました。
 他にこれといって遊ぶものもない時代でしたから毎日練習に打ち込み、日曜日はもちろん、春休み、夏休み中でも練習に明け暮れたものです。
 食料難で学校に行くより買出しに行く方が大事な時代でしたから毎日空き腹をかかえて放課後すぐにグランドにとび出して7時、8時まで練習するものですから、終わるとクタクタになりました。短い秋の日が暮れると、ボールに石灰を塗ってまでやったものです。
 それでも同期の部員で脱落したものはありませんでしたが、下級生には退部者もありました。当時佐藤博之君と虻川正夫君が勧誘の担当をしておりましたが、二人に声をかけられて断れる者は一人もなく、後になってあまり練習の厳しさに耐えられず、父兄から先生を通してやめていったものです。
 そんなある日のこと、私も部員も連日の猛練習に疲れがたまって、「今日は天気も悪いし、グランドコンディションも悪いようだから久し振りに休養しようか」と相談して、ふと2階の窓越しにグランドを見やると、ハンチング帽をかぶり首から肩にタオルをかけたコーチの伊豫田さんが、授業の終わるのを待ってグランドに佇む姿が目にはいり、一同大慌てでとび出したこともありました。あの時の伊豫田さんの姿は今でも瞼に焼きついております。
 吾々がラクビーで全国制覇したことは、卒業後もあまり実感がなく、それほど大したことだとは思っていませんでしたが、近頃年をとったせいか、我々ラクビー部は偉大なことを成し遂げたものだと思えるようになりました。北海道のラグビーチームとして全国優勝を成し遂げたのは、後にも先にも我が市中ラグビー部だけなのです。
 平成7年には花園ラグビー場のそばに、我が校をはじめ歴代優勝校の校章を描いた陶板が飾られました。我々一同も遅れ馳せながら母校の創立50周年記念に優勝盾を寄贈いたしました。
 昭和22年、全国大会の地区予選、全道大会と勝ち進み、翌年1月2日に全国大会が行われる西宮ラグビー場に向けて出発することになりました。桟橋には全校生徒が見送りに来てくれて、中でもボート部は港の防波堤までボートを漕いで、連絡船に乗った我々の壮途を激励してくれました。
 遠征は食料持参でしたが、東北線郡山駅に着いたところで「ヤミ屋狩り」といわれた、一斉検問にあいました。我々は遠征食料として警察の許可証を持っていましたからよかったのですが、我々の荷物の中に自分達の荷物を放り込んで検問を逃れたカツギ屋がいて、無事通過したお礼にと、何か色々なものをもらった記憶があります。
 上野に着くと、戦災で家を失った人々が大勢地下道を寝ぐらにたむろしており、映画のニュースで知ってはいたものの、実際の姿を目のあたりにして衝撃を受けたものです。
 東京では立教大学の合宿所を借りて一週間の合宿をやりました。練習後に食べた焼きいもがうまくて、食べ過ぎてしまい、胸焼けしてしまったこと、街には笠置シヅ子の銀座カンカン娘が鳴り響いてことなど印象に残っています。
 全国大会の結果は、準決勝で神戸二中と対戦し、動転ながら当方に反則が多く惜しくも判定負けとなりましたが、帰ってから大会出場チームで長髪の選手がいたのを見て来て、ラグビーは危険なスポーツだから長髪の方が怪我が少ないなどと理由をつけて長髪運動なるものをおこし、先生をてこずらせたものです。その後他校にも長髪が広がって、我々が中学生の長髪の草分けであるなどと云われたものです。
 全国大会で大いに自信をつけた我々は、雪中トリーニング、室内での基礎体力造りと、増々練習に励むようになり、着々と実力をつけていきました。
 その頃、今では考えられない事ですが、私は市中5年生に在籍したままで4月から8月までの間東京の大学にラグビー留学する機会を得ました。その時に学んだ技術が後の国体や全国大会での優勝に大いに貢献したものと自負しております。
 ところがこのために私が大学生ではなかったのかと疑われることになり、北海道教育委員会から呼び出しを受け、道庁まで釈明に行く破目になったのです。
 道庁で担当官から色々質問を受けているうちに、先方は私の話を聞いて、当時の教員長が函館市中の初代校長である岡村先生であることにはじめて気がついたのです。
 諮問を終えて私が岡村先生の部屋をたずね挨拶に行きますと、先生は私が呼び出しを受けて出て来たことなどご存知なく、よく来てくれたと大変喜んで下さり「君達はよくぞ市中建児の名を全国にとどろかせてくれた」とお褒めの言葉を頂いて感激して帰ってきました。釈明の結果はどうなったものか、その後教育委員会からは何の沙汰もありませんでした。
 個々の試合の戦記については、他の同期の部員も寄稿してくれるものと思い、詳述しませんでしたが、とにかく市中の4年生、5年生を通して公式戦に於いて、実質無敗、二引分けの成績を残し、全国制覇を成し遂げたのは、部員全員のラグビーに対する情熱と固い結束があったからだと確信しております。
 バウンドする度にどちらへ転がるかわからない、波乱万丈の人生を象徴するかのような楕円形のホールを追いかけた我々ラグビー部員は、素晴らしい思い出を持つことが出来ました。
 最後に当時のキャプテンとして、コーチの伊豫田さんのご冥福を祈り、当時お世話になった多くの皆様、部長倉橋先生、渡辺先生、始め全国制覇したメンバー、各部員に対して心から感謝申し上げ擱筆いたいます。

                  「青雲はらん会50周年記念誌」より
*右下の手紙は文中のコーチ伊豫田良一氏(部員の実兄)に岡村校長が年賀にコーチのお礼をしたためた直筆の手紙。

賀正
 早速御丁寧なる年賀状に加えてラクビー部の健闘に対しての祝賀を将来に対する心構えに関して赤心を吐露して下さいまして感謝の外ありません。漸く誕生したラクビー部を貴家御一家皆々様が心から愛し力を入れて下さり逞しい成長をと導いて下さった御蔭が初陣としては満足すべき戦いをしてくれたのでして全く凡ての利害を超越して只管に誠心誠意コーチして下さり、正しく育てて下さった賜で何と御礼申し上げてよいやらほんとうに感謝の言葉もありません。ほんとうに有難う存じました。厚く御礼申し上げます。
 特に嬉しいのは「遠征より戻りまして喜びを一通り爆発させてしまった後は厳に慢心をいましめたい考で居ります」という言葉です。どうかしっかりした心構で若いものの陥り勝ちな慢心とうぬぼれを排し割合に条件も揃って居り選手の移動も無いチームを精神的に固くしめて今年度の覇権へ精進させるよう今後ともご指導を御願します。
 御配慮の御陰で立教の方々に非常な御世話になり西宮まで付添って下さった由で是亦恐縮の外ありません。何でもバックは日本一の折紙をつれられた由で市中ゴールを敵に許さなかった点だけでも将来の期待をかけられませう、中学校として最強チームにさせたいものと存じて居ります。
 いつ帰函するかまだ何等連絡もありませんが、交通難の際ですから苦労することでせうが帰校の上は何等か慰労してやりたいと存じて居ります。
 何れその中ゆっくり遠征の経験等り今後の指導方針等の相談する機会を得たいと思っています。
 不取敢以乱筆御礼の御挨拶申し上げます。末筆乍矢礼特に熱心に声援して下さった御尊父様に何卒宜しく御伝声下さい。

 七日朝
                                       岡村 威儀
 伊豫田 良一様

*写真は「ラクビー部熱闘の足跡 あれから50年記念OBの会」より、文面は「はらん会50年記念誌」より
*岡村先生の手紙は、:1947(昭和22)年1月7日、第26回全国中等学校ラグビー大会で6対6で引き分け、反則数で準優勝した翌日にに書かれたもの。この年5月1日、「本校在任7年1ヶ月、開校以来数々の大事業を達成された」岡村威儀初代校長が、全校生徒の涙に送られて、函館市立的場中学校に転出された。(懐しい木陰に―初代校長岡村威儀先生の胸像除幕式参照) その後、北海道教育長になられている。
 校長先生の文面にあるとおり、ボランティア・コーチ伊豫田良一氏の指導の下「その後の練習は更に厳しさが加わり、早朝のランニング、夕闇迫る中石灰を塗ったボール追う真剣な部員達の姿が毎日グランドに見られた。この努力が、すぐに実を結んだ」(50年誌)の結果が全国優勝を勝ち取ったのである。
 橋本幸一主将は50年誌の「ラクビー部」の項で次のように記している。
 「母校の名誉のためと校長の熱意溢れる姿に応える為、各運動部員は、猛練習につぐ猛練習をつみ重ねました。今、思い出として蘇る事は、体力の限界に挑戦した練習と優勝した時の感激だと思います。開校間もない函館市立中学校の優勝は、岡村校長に対する我々の最大の恩返しであったと自負しております」。
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