イリヤの空、UFOの夏(暫定公開。もう少し整理します

実を言うと、セカイ系という言葉の定義を、よく知らなかった。おおかたセカチューあたりのことを指すものとばかり思っていたのだ。で、試しに調べてみたら、ウィキペディアにはこの通り。そうか、エヴァもセカイ系だったのか。

あらかじめ言っておくと、私はこの言葉が嫌いである。とても浅薄だ。まあこの言葉自体はどうでもいいのだが、ある作品を「セカイ系」と分類し、それ以上何も考えようとしない思考停止がもっといやだ。

ウィキペディアによる定義をそのまま転載する。

『「世界」(セカイ)には一人称の主人公である「ボク」と二人称となるヒロインあるいはパートナーの「キミ」を中心とした主人公周辺しか存在しないという設定の元、救世主である主人公周辺の登場人物の個人的行為や精神的資質・対人関係・内面的葛藤等がそのまま「世界」の命運を左右していくという形で物語が進行していく作品スタイルを指す。』

試しに表にしてみた。「エヴァ」には、他作品と明らかな違いがある。世界の命運を握っているのが、主人公の側だということだ。その他は、ヒロインの側であることが多い。それにしても、「THEビッグオー」までセカイ系だとは知らなかったぞ。

作品名 ぼく(主人公) きみ(ヒロイン) 世界の様相
新世紀エヴァンゲリオン シンジ みんな 人類補完計画
イリヤの空、UFOの夏 浅羽 イリヤ 宇宙人との戦争
雲のむこう、約束の場所 ヒロキ サユリ 並行宇宙との置換
交響詩編エウレカセブン レントン エウレカ コーラリアンとの全面戦争
最終兵器彼女 シュウ ちせ 世界大戦
THEビッグオー ロジャー・スミス ドロシー・R 世界の記憶喪失
少女革命ウテナ ウテナ アンシー 世界の革命
涼宮ハルヒの憂鬱 キョン ハルヒ ハルヒの意のまま
ほしのこえ ノボル ミカコ タルシアンとの戦争
ラーゼフォン 綾人 調律
なるたる シイナ みんな 破滅と再生?

もっとも典型的なパターンが「イリヤの空、UFOの夏」ということらしいが、まず主人公周辺しか存在しない、というのはどうだろう。描写されないのは事実だが、これは14才の少年が主人公で、彼の視点で物語が進行する形式なのだから当然ではないか。描写されない=存在しない、というのは、観客の側の知的怠慢とか短絡と言うべきであろう。

この作品は、未踏査の鉱脈ライトノベルからの収穫である。考えてみると、実に健全な物語だ。この世界には、命をかける価値があるという主張なのだから。入里谷は浅羽を守るために命をかけるのだが、ラストの真由美の手紙にあるように、浅羽が体現しているのはこの世界そのものである。
たぶん、世のため人のために命をかけるのが尊いことだ、ということを、みんな知ってはいるのだ。ただ、それを公言するのがはばかられるのが、この国の現在なのだろう。「セカイ系」という分類法自体が、その軋みから出てきているのではないか。

私はアニメ版を観てから原作を読んだクチだが、原作に非常に忠実なアニメ化をしているのが判る。むしろオリジナルな部分が少ないかも。1、2話は普通のアニメだったが、3話から俄然面白くなる。改めて観ると、3話の演出は飛び抜けて粋だ。この回の演出・絵コンテは中村健治。改めて調べてみたら、「鴉」第1話の演出・絵コンテを担当している。今後要注目だ。

原作と比べてみてつくづく思うのは、実は映像というのは、情報を伝えるのがとても難しいメディアだ、ということである。浅羽の怒り、水前寺の鬱屈、晶穂の痛み。言葉で内面を語れる、ということがどれほど恵まれているか。そのなかで、言葉では語れないものを、雄弁に語っているのが、3話のフォークダンスである。自由に軽やかに宙を舞うブラックマンタ。映像が小説に勝利した瞬間というものがあるとしたら、このシーンこそがまさにそれである。

この度、DVDを買って通して観たが、冒頭いきなりエリカの撃墜シーンがあったり、伏線がたくさんあって驚く。よかったマークも何回か出てくる。初見では、ラストシーンのよかったマークが判らなかったのだが、続けて観ていれば、気づいたかも知れない。登場人物誰もが魅力的だが、榎本と椎名真由美は出色。2人は世界の歪み、壁、大人を体現する存在である。本来ならば社会が守るべき子供の犠牲のうえに平和を守る彼らは、その醜さ・浅ましさを痛いほどに自覚している。全ての罪を納得ずくで背負っていく彼らは、近年まれに見るオトナだ。浅羽と入里谷はもがき、抗い、結局は彼らの手のひらのうえで踊らされ、敗北していく。2人が世界の命運を握っていると言っても、実はそれは表層的な問題にすぎない。セカイ系と評するのは、あまりにも浅薄だ。実に古典的な青春ものだ。考えてみると、「青春の蹉跌」「青春残酷物語」あたりからの直系かも知れない。

この作品への批判の中心である、「浅羽が入里谷を救うためなら、世界を滅ぼしてもいい」と行動するのは、私にはごく自然な心理に思える。このストーリー展開で、他にはあり得ないだろう。榎本と一緒になって、世界のために戦えと説得するのか?

ところで、同じセカイ系というくくりで一緒くたにされる「最終兵器彼女」は、本作の完成度の高さと比較すると、幼稚さが際だつ。何で自衛隊が女子高生を誘拐して改造するのだ。ゲル・ショッカーじゃあるまいし、法律でがんじがらめの公務員だというのに。いきなり空襲されるというのも嘘っぽいけど、まあそれはよしとしよう。問題は、戦ってる相手が定かでないというところだ(どう見ても米軍だが)。自由主義国家だったら、戦争になるのであればなおさら、敵に関する情報を宣伝して国民の戦意を煽るはずだ。それが真実かどうかは別問題である。

追記(06.7.11)
以下は、唐沢俊一「猟奇の社会史」から孫引き。
「彼女にとつては、誕生と交合と死による自然的世界だけが重要で、戦争とか革命とか政権の交替とか王朝の興亡とか、そんなことは眼中にないんですね。つまり歴史的世界はどうでもいい。言ふまでもなく、これこそは女のものの見方、女の生き方でありまして、お定さんの世界観もこれであつた。(中略)二.二六事件も満州国もしつたことぢゃない。あつぱれとしか言ひやうのない世界に彼女は生きていた」(丸谷才一著「男もの女もの」所収「阿部定問題」より)

丸谷才一が、阿部定について語った文章である。「女のものの考え方」かどうかはともかく、自分の周囲だけが世界、という思想は別に珍しいものでも何でもない、ということはわかる。ブンガク方面は詳しくないが、私小説なんてみんなそうだ。とすると、「セカイ系」について考えるべきは、「にもかかわらずなぜ世界全体に影響を及ぼすことができるのか」「そういう考え方はいつどこから発生したのか」であろう。

追記2(06.8.1)
この間の北朝鮮のミサイル実験以来の騒ぎを見ていると、なおさら「最終兵器彼女」の設定がバカらしく思える。領土内に着弾したわけでもないのに、この大騒ぎだ。戦争している相手が正体不明で、大都市が白昼堂々空襲されるような状況になるまで、誰も気づかないわけがないだろう。「イリヤ」の方は、社会の影でひっそりと戦われていることで、この辺をうまく説明しているのだ。

追記3(06.10.4)
私は「サイカノ」の方は原作未読で、アニメ版だけ流し観している。原作は1巻を読んだだけでイヤになった。「イリヤ」の方は、先にアニメ版、後に原作を読んでいる。したがって、アニメ版についても原作の印象がごっちゃになって、ひいき目に観ている可能性があるのだが、それにしても「サイカノ」をどうしようもなく幼稚に感じたのは事実。
その原因は何かと考えてみると、周辺に迫る戦場というものを直接描写「してしまったこと」にあると思う。それが逆に、世界設定の薄っぺらさ、歴史や文化や社会といったものへの洞察の底の浅さを、浮き彫りにしてしまったのである。
「イリヤ」はもちろん、「エヴァ」に対しても用いられた「箱庭的設定」という批判は、あまり的を射たものではない。描かないことにより「外界」への広がりを感じさせたものと考えるべきだろう。セカイ系を批判する決まり文句が、個人から世界へ直結してしまって、社会というものがない、というものである。この批判には、2つの前提がある。つまり、世界とは個人→社会→世界という3段構造になっている、ということと、このモデルが正しいということである。だが、それは本当か?まずそれを検証しなければいけない。