『涼宮ハルヒの消失』の高雄演出('11.9.26追記)

物語の転機となる、キョンが「この世界のハルヒ」の元へ走るシーンから。
走るキョンを、電車が追い越していく。


キョンはようやく出会えたハルヒに語りかけるが、ハルヒは聞く耳を持たない。このときは画面手前に標識がそびえ、2人の間を隔てている。


しかし、3年前の七夕の事件に話が及ぶにつれ、ハルヒの態度は変化を見せる。2人の間の障害が後景に退き、しかもハルヒからキョンに向かって傾いている。また、カメラがハルヒの側に回り込んでいるのに注意。



キョンが、ハルヒしか知らないはずの名前ジョン・スミスを名乗ったことに衝撃を受けるハルヒ。カメラは完全に反対側に回り込んで、立場が逆転する。2人を遮っていた縦のラインは消失し、代わりに線路の金網のフレームが2人をつなぐ。追い討ちをかけるように走り込んでくる電車。その方向はもちろん上の図と逆に、右から左へ、ハルヒからキョンへと向かう。


画コンテ担当は、我らが高雄統子!(公式ガイドブックによると、全6パートのうちC、Dパートが高雄の担当)。ちなみに、高雄の画コンテの演出を手がけたのは内海紘子だとか。

もうひとつ、この映画の特徴的な場面として、古泉とみくるの2人がそれぞれ何かつぶやくがキョンには聞こえない、という描写がある。
  

これに対して、長門の最後のセリフ「ありがとう」は、反対にOFFゼリフとなる(下図がピンボケなのはデフォルト。一応)。


どう解釈すべきかは正直よく分からない。ただ、朝倉に「目を開けているだけでは覚醒しているとは言えない」というセリフがあること、また高雄統子が「私は朝倉といい古泉といい、『選ばれなかった人』が気になってしまうんです。長門、朝倉、古泉は私の中では同一線上にいて。『選ばれなかった人』こそが『消失』の世界観では大事なような気がしたんです」と発言している(公式ガイドブック演出家座談会、104頁)ことだけ、紹介しておく。(追記:ちょっと誤解を招く書き方をしてしまったが、ラストシーン近くは石原、武本の絵コンテらしい)



「エンドレスエイト」を演出家で楽しむ('11.1.18追記)

「エンドレスエイト」は、周知の通りほぼ同じストーリーを毎回違う演出家が手がけている(正確には最初と最後が米田光良担当)。
しかも、絵コンテと演出を同一人物が担当しているので、非常に演出家の個性や特色が出やすいと言えるだろう。

本来なら担当した7人全員の特徴を列挙するべきなのだろうが、さすがにそこまでは力が及ばない。そこで、特に傑出した出来と思える「エンドレスエイトW(15話)」と、「エンドレスエイトX(16話)」について述べたい。なお、現在公式には単に第○話「エンドレスエイト」が正しい表記のようだが、ここでは便宜上「W」「X」と表記する。

まず「W」の担当は、今をときめく京アニ期待の星・高雄統子。『消失』の絵コンテの一部を任されたことで、一気にメジャーになった。
手前味噌だが、私は『CLANNAD』を手がけたときからこの人に注目していたのが、密かに自慢である。

この人の特徴は、とても理知的な画面作り。
例えば、ループの真相が明らかになる夜のシーン。
ただ1人、1万5000回の繰り返しの記憶を抱えてきた長門だけが、他の3人と柱で区切られている。



それが、真相を告白したあとは、ちゃんと同じ画面内に収まる。



8月30日の喫茶店で、キョンのフラッシュバックのシーン(右)。異なるループの記憶なのだろうが、似たシーンでも微妙に変わっている。

 

長門のクリームソーダのカットが、中盤のシーン(左)とはアングルが違う。素材は使い回しかもしれないが、わざわざ新たに描き起こしているということだ。

より印象深いのが、この映画館のシーン。

  

フラッシュバック(中)では、ハルヒがいない(しかもキョンたちもBANKじゃない!)。そのハルヒは、いつの間にかスクリーンの上に。
物語の主人公と映画の観客との間にある断絶に、ハルヒとキョンたちとの関係を重ねた、秀逸にして映画の本質に迫る自己言及的なカット。

喫茶店の前で解散するシーン。この「W」から、このシーンの背景音に鈴虫の声が入るようになる。



これはあまり自信がないが、夏を代表するセミの声と、秋を象徴する鈴虫の声の比率が、「エンドレスエイト」全体を通じて少しずつ変えてあるように思う。「W」では、深夜に突然鳴き始めるセミの声に、セミの死骸というビジュアルが効果的に使われる。

公式サイトによると、高雄本人は雲と飛行機の描写に力を入れたとのこと。この入道雲などは、ただの背景の「引き」ではなく何らかのエフェクトがかけてあるように見える。



おまけ。この回は絵が『けいおん!』っぽいと評判だったそうだが、なるほど確かに。




高雄は、『けいおん!!』でも同ポ反復の多用とか極端な長回しとか、いろいろと凝った演出技法を見せている。監督を任される日が待ち遠しい。


(12.12.8 追記)

喫茶店前で解散した後、キョンは自分でもなぜか分からぬまま長門を呼び止める。キョンの視点で長門を見るカットが、わずかな時間インサートされる。
夕陽、逆光、何か疲れ切ったような表情の長門、と強い印象を残すカットだ。
しかし改めて見ると、それ以上に不思議なカットである。



この画は、キョンの目線で長門の顔をほぼ正面から捉えている。したがって、消失点はその延長上、画面の中央あたりになければおかしい。



ところが、画面右側の建物と電線を見ると、下図のようになる。消失点がはるか下方にあるのだ。



もちろん、このパースの歪みは意図的なものだろう。背景が空であるため、長門が宙に浮いているような、崖っぷちに立っているような不安定さを覚える。そして消失点が下にあることが、観客にまるで奈落の底に落ちていくような不安感を与えているのである。
これが高雄演出の真骨頂、これが映像の力だ。 



さて、続く『X』の担当は石原立也。さすがは監督の貫禄。
『X』の特色は、まあ見てのとおり。

 
 

 


極端にキョンの主観ショットが多いのだ。しかもキョンの手が一緒に写っているので、単にキョンの目線というよりキョン自身がカメラを回しているような錯覚に陥る。

おそらくこれと対応していると思われる演出が、下の図。

  

  


上段は長門の衝撃の告白のシーン。下段は8月30日の喫茶店のシーン。
つまり肝心な場面で、キョンの表情、特に目を写さないのである。
これは観客とキョンとの一体感を高め、キョンの感じている焦燥を印象づけるための工夫ではないかと思われる(考えてみれば、エロゲの主人公絵と同じ方法論だ)。



これも主観ショットで、ラストシーンでキョンが書いている落書きの8の文字。「全8回で終わるという暗示ではないか」という指摘がすでになされているが、付け加えるなら、横倒しにするとどう見えるか?

京アニというスタジオは、個々の演出家が注目されることがあまりないように思う(約1名が目立ちすぎたせいか)。
しかし、石原(と、武本康弘)の業績と実力は正当に評価されるべきだ。


おまけ。これは「Z」からだが、このヘンな寝相は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』じゃないかな。考えてみれば、「エンドレスエイト」も失われた未来を取り戻す話だし。

 


「涼宮ハルヒの憂鬱」2期シリーズの構成(’10.2.22追記)
   または「エンドレスエイト」が果たした役割

2期シリーズのエピソードと「涼宮ハルヒの消失」を時系列に入れ込んでみると、下のようになる。

予告順 エピソード 時期
1 涼宮ハルヒの憂鬱T 入学直後
2 涼宮ハルヒの憂鬱U
3 涼宮ハルヒの憂鬱V
4 涼宮ハルヒの憂鬱W 5月頃
5 涼宮ハルヒの憂鬱X
6 涼宮ハルヒの憂鬱Y
7 涼宮ハルヒの退屈
笹の葉ラプソディ 七夕
8 ミステリックサイン 期末試験
9 孤島症候群(前編) 夏休み
10 孤島症候群(後編)
エンドレスエイト 8月中旬
涼宮ハルヒの溜息
11 朝比奈ミクルの冒険 Episode00 学園祭直前
12 ライブ アライブ 学園祭
13 射手座の日
14 サムデイ イン ザ レイン 12月頃
涼宮ハルヒの消失 12月末

当サイトには「涼宮ハルヒ」で検索かけて来られる方が一定数おられるが、これまで2期シリーズについては発言せずにきた。理由は簡単で、地上波で観られなかったからである。したがって「エンドレスエイト」についても、バッシングに加担する浅薄さとは無縁でありたい気分も手伝って、意見を表明しなかった。

そもそも、私は2期シリーズ製作に反対だった。アニメ版「涼宮ハルヒの憂鬱」は1期シリーズで、完全にテーマを消化し終えて完結しているからである。
「エンドレスエイト」の進まない物語は、「完結した作品の続篇を作り続けるとはこういうことなのだ」というひそかな悪意の産物なのかも知れない、と思っていた。

しかし「涼宮ハルヒの消失」を観た後で思うのは、「エンドレスエイト」はこのために必要なステップだったのだ、ということだ。改めて2期シリーズの構成を取りだし、そこで何が描かれていたかを考えてみると、このようになる。

笹の葉ラプソディ ハルヒとキョンの関係の原点
エンドレスエイト 長門のエラーの蓄積
涼宮ハルヒの溜息 ハルヒの能力の実証
涼宮ハルヒの消失 長門による世界改変とキョンの決断

各エピソードが慎重に、「消失」の前段階としての役割を振られているのがよくわかる。

実は1期シリーズにおいては、ハルヒの能力は閉鎖空間と神人という形以外の描写はされていない。「憂鬱」以降のシリーズ後半は、ハルヒの退屈を紛らわすために奮闘するSOS団の面々を描くものだったことを想起してほしい。
これが2期シリーズになると、「エンドレスエイト」「溜息」でハルヒの能力が具体的に描写されてくる。さらに、「エンドレスエイト」と「溜息」では大きな違いがある。前者ではハルヒの能力は、世界全体に作用してSOS団のメンバー以外には感知されなかったのに対し、後者ではもっとミニマルな、局地的な怪現象−例えば猫がしゃべるというような−として実現してしまう、という点である。
つまりハルヒの能力は古泉らの妄想などではなく、本当に現実を浸食し世界を改変するものだということが明らかになるのだ。
そこで、キョンたちは「ハルヒの機嫌を損ねず」、「世界の改変を阻止し」、しかも「第3者にもハルヒ自身にも改変を気づかれてはならない」という三重苦を負うことになる。
「消失」における長門の異常行動もキョンの決断も、これを前提にしているわけだ。
とりわけ、長門が1万5千回も繰り返される夏の中で鬱積させていった倦怠は、わずか8回の繰り返しでああいう反応を見せた視聴者にはなおさらよく理解できるはずだ。
これが、「エンドレスエイト」があんな形で製作されなければならなかった理由なのである。



ハルヒとキョンと長門の構図


シリーズを通して再見してみて、気がついたのだが、下のような構図が何回か出てくる。



1話(時系列上の)より、長門の初登場のシーン。画面手前に長門、奥にキョンとハルヒ、という構図である。次は4話。探せばもっと出てくるかもしれない。



その変形技が、13話「射手座の日」のこのカット。



コンピュータ研に勝負を挑まれた後の帰り道、古泉がキョンに対し、「ハルヒとキョンは理想的な信頼関係にある」と話す。そのシーンの、キョンの目線が上のカットである。で、次のカットではカメラが切り返して、下の構図になる。



見てのとおり、どちらも長門が手前に配置される。
強固な信頼で結ばれるハルヒとキョン、さらにキョンに使命感を超える好意を抱く長門、というのが彼らの関係であるが、繰り返されるこの構図が、無言のうちにその関係を強く印象づけているのである。


おまけ


10話「孤島症候群(後編)」より、長門の流し目。
気がついたかぎりでは、シリーズ中長門が「視線を動かす」のはこのときだけ。
このエピソードがミステリ仕立てであり、「真相を見抜く」こととリンクしていると考えるのは、さすがにうがちすぎか。


「涼宮ハルヒの憂鬱」のちょっとした伏線

1話(時系列上の。以下同じ)で、冒頭にこういうカットがある。

  


唐突に挿入されるカットなので印象が強かったのだが、このシーンにはキョン君のこんなモノローグがかぶさる。
「こうして俺たちは出会ってしまった。心から思う。偶然だと信じたい」

で、6話にもこんなカットが出てくる。

 

このカットには、古泉の「この世界の、アダムとイブ」という台詞がかぶさり、あまりと言えばあんまりな直接比喩に使われている。

1話で早々とこういう伏線を張っているあたりに、シリーズ構成の緻密さ、巧みさを感じる。
1話では、3コマ目の2つ並んだトイレの入り口の構図があるが、6話にはこれに相当する絵がない。この辺、ちょっと深読みできそうな気もするが、野暮だからあえてやらない。



「涼宮ハルヒの憂鬱」のシリーズ構成について

完結を機に、もう一回時系列を見直してみて、ひとつ気がついた。この作品は、最終回(時系列上の)に向けて、次第に非日常→日常へとシフトしているのだ。時系列がシャッフルされていたため、本編に番外編を混ぜている、としか認識していなかったが、その番外編の選び方、並べ方にも非常に周到な計算があったようだ。
6話(時系列上。以下同じ)「涼宮ハルヒの憂鬱Y」が非日常の頂点であり、7話「涼宮ハルヒの退屈」8話「ミステリックサイン」では長門がその力を使っているが、これ以降14話「サムデイ イン レイン」に向かって、日常的な話ばかりになる。13話「射手座の日」では、長門が超人的な技巧を見せるが、現代の地球以上のテクノロジーは使っていないことに注意が必要である。

非日常的なエピソードが減る一方、重点的に描写されるのは内面の変化である。8話・13話では長門の変化が描かれる。10話「孤島症候群(後編)」では、キョンを気遣うハルヒ(得意げに自分の推理を開陳していたのに、被害者を死なせたのはキョンの行動かもしれないと気づいて、口をつぐんでしまう)と、キョンのハルヒへの信頼(「あいつが本気で死人が出ることなんて望むはずがない」)が語られる。
そして12話「ライブ アライブ」である。ハルヒの人助けが描かれるこのエピソードは、原作でも異色作である。

私は以前、「ハルヒは少女マンガだ」と書いた。現実を面白くないものと考えていたハルヒが、仲間を得て、自分の居場所を見出していく過程がこの作品だとすると、オーラス直前にこの「ライブ アライブ」を持ってきた理由、原作にあった「なぜMDが売れたか」のタネ明かしがカットされた理由がわかる。「バンド演奏」「人助け」といった、決して特別ではない出来事に、ハルヒは「いま、何かやっている」「生きている」と感じた。それこそが肝心なことだったからである。だから、このエピソードはシリーズ中この位置に、絶対に必要だった。

14話にいたって、もう特別なことは起こらない、普通の一日が描かれる。それでも、ハルヒは幸せである。
これを現実に取り込まれて敗北したと見るか、成長して自分の居場所を見出したと見るかは、考え方次第であるが、私としては後者だと思いたい。

島本和彦風に言うと、「涼宮ハルヒの憂鬱」は完全にテーマを消化し終えて、見事に完結したのである。

追記:そもそも時系列のシャッフルは、この概観すると分かり易すぎる構造を韜晦するための手法だったのかも。



やったもん勝ち企画 
「涼宮ハルヒの憂鬱」の時系列


まず放映された順番は下表の通り。「季刊エス」の監督インタビューによると、時系列のシャッフル感覚というのは原作にもあったテイストなので、それに倣ったということらしい。

放映順 エピソード
1 朝比奈ミクルの冒険 Episode00
2 涼宮ハルヒの憂鬱T
3 涼宮ハルヒの憂鬱U
4 涼宮ハルヒの退屈
5 涼宮ハルヒの憂鬱V
6 孤島症候群(前編)
7 ミステリックサイン
8 孤島症候群(後編)
9 サムデイ イン ザ レイン
10 涼宮ハルヒの憂鬱W
11 射手座の日
12 ライブ アライブ
13 涼宮ハルヒの憂鬱X
14 涼宮ハルヒの憂鬱Y

で、予告編のハルヒの言う話数にしたがって並べ替えると、こうなる。

予告順 エピソード 時期
1 涼宮ハルヒの憂鬱T 入学直後
2 涼宮ハルヒの憂鬱U
3 涼宮ハルヒの憂鬱V
4 涼宮ハルヒの憂鬱W 5月頃
5 涼宮ハルヒの憂鬱X
6 涼宮ハルヒの憂鬱Y
7 涼宮ハルヒの退屈
8 ミステリックサイン 期末試験
9 孤島症候群(前編) 夏休み
10 孤島症候群(後編)
11 朝比奈ミクルの冒険 Episode00 学園祭直前
12 ライブ アライブ 学園祭
13 射手座の日
14 サムデイ イン ザ レイン 12月頃


学園生活の一年間をほぼフォローしていることが判る。ハルヒの言う時系列が正しいというのは、世界の成り立ちを把握しているのがハルヒだけ、ということでもあろう。本人はそれを全く意識していないのが、本作のキモなのだが。

もう一つ、原作の方は忘れて、TVシリーズの構成をハルヒの心情に着目して考えてみると、これは「妄想に近い夢ばかり見ていた少女が、現実を認識し、自分の居場所を見出していく過程」の物語である。
・・・あれ?これって、古典的でマットウな
少女マンガのフォーマットではないか。
(一部偏見あり)

まあこれは思いつきにすぎないが、逆に言えば、古典的なフォーマットだからこそ、現代に成立させるためには、ハルヒの性格を強烈に設定する必要があったとも考えられる。


それにしても、9話を放映時に、実質的な最終回と看破された「幻視球」のbonoさんの慧眼にはただ敬服します。


以下は、以前に書いた文章。ハルヒつながりでまとめました。


京アニ・クオリティ 
神は細部に宿る

まずは、「涼宮ハルヒの憂鬱」第1話の感想から。
すげえ・・・。一見さん置いてけぼり。まあ予備知識なしでこの作品観る人はいないと思うが。不自然なパンとか、棒読みのセリフとかいかにもの下手くそな自主映画っぽさが素敵。それにしてもよく動く。・・・ってまた京アニかよ!

「AIR」で多数のファンの度肝を抜いて以来、京アニ・クオリティという言葉が定着した感がある。私は、不覚にも京都アニメーションという名前を知らなかったのだが、業界では昔から、下請け中心で高度な仕事をする実力派スタジオとして有名だったのだとか。常に予約でいっぱいで、飛び込みの仕事は決して受けてもらえないとか、重要な話数を京アニに発注するために全体のスケジュールを調整したとか、逸話にも事欠かない。

「AIR」でまずグッときたのが、OPのこのカット。





回転椅子を回して向き直るだけのなんてことないカットなのだが、上体が奥へ、膝が手前へ回り込んで明らかに画面に奥行きが感じられる。パースを強調してあるのだろうか?

さらに、「ハルヒ」2話で印象的だったのが、このカット。





下のカットでは、右端のハルヒの色調が陰っているのが判るだろうか。画面手前へ移動したので、窓際から離れて、日陰に入ったためである。こんなどうでもいいシーンにこの気配りと手間、妥協のなさ。初見では動画の彩色を変えているのかと思ったが、特殊効果であるらしい。

最後に、ED。パキパキした動きが気持ちいいので、コマ送りで観てみたのだが(我ながらオタくさいけど、でもやっちゃうでしょ?)、機械的に正確な振りの長門、振りを忘れてワンテンポ遅れている朝比奈さん、ノリノリでジャンプしてる古泉に、しょうがなくつきあってるキョン君、とそれぞれの性格がきちんと描き分けられているのだ。



もはや技術がどうこうというレベルではない。これこそが創作というものだ。
京アニ・クオリティの真骨頂ここにあり。

追記
4月29日現在4話まで放送済みだが、このシリーズ構成からすると、単行本1巻のラストをクライマックスに持ってくる構想と推測。
本作を非凡なものにしているのは、一見傍若無人・自己中心的なハルヒの抱える深い鬱屈である。山本弘「トンデモ本?違う、SFだ!」に優れた評があるので、是非ご一読を。