その後、「ラーゼフォン完全攻略」を読んだら、結構誤解していたようで。参考程度にお読みください。


ラーゼフォン

「ラーゼフォン」は、不幸な作品である。ハイレベルな作画、魅力的な登場人物、抑制の効いた演出、いずれも一流でありながら、「新世紀エヴァンゲリオン」の亜流としか見なされず、正当な評価を受けているとは言い難い。

確かに、主役である謎の巨人とか正体不明の敵とか、数多いSFガジェットとか思わせぶりな展開とか、舞台がほぼ限定されていることや数多くの女性キャラも含めて、似ている点は数多い。ただ一つ、決定的に違うところがある。いや、主人公が自閉的でうじうじしてないとか、本放送で完結したといったところではない。
それは、「父性の不在」である。エヴァンゲリオンにおいて、物語を引っ張るキーパーソンがシンジの父・碇ゲンドウである。ネルフの総司令であり、人類補完計画の主唱者であるゲンドウは、不自然なほどにシンジに対し無関心であり、高圧的である。その真意は、死別した妻ユイを取り戻したいという悲しいものだったのだが、彼はリリスの卵に還元されることも許されず、初号機に喰い殺されるという悲惨な最期を迎える。

「ラーゼフォン」を見てみよう。「ラーゼフォン」の舞台は東京ジュビターと呼ばれる閉鎖空間内の東京と、地球防衛組織TERRAの本拠地・根来島である。当初東京ジュピターの中でごく普通の高校生として暮らしていた主人公・神名綾人は、東京ジュピターを脱出して世界の真相を知らされ、ラーゼフォンに乗って戦い、多くの人々との出会いを経験する。この構図は、エヴァとよく似ている。しかし、ゲンドウが時として敵と同一視されるほど、過剰に強圧的な父として描かれたのに対し、「ラーゼフォン」にはおよそ父らしい父が一人もいない。そもそも綾人は父無し子であり、その出生は謎となっている。綾人の周囲の大人の男性としては、綾人の保護者となる六道翔吾と、TERRAの司令官・功刀仁がいるが、六道は娘に去られた父であり、功刀は娘を死なせた父であるうえ、父らしい存在になろうとした(綾人と食事の約束をした)とたんに死んでしまう。2人とも父たる資格を失った人物として描かれているのである。それどころか、まさに父になるところだった八雲総一も、その前に死ぬ。

すなわち、本作はあらゆる意味で父がいない。

物語の種明かしをしてしまうと、ラーゼフォンは次元共鳴装置=世界を思うがままに変える装置であり、綾人はその操縦者−作品中では奏者と呼ぶ−として、作られた人間だった。綾人は神人となり、如月久遠の変化である女神と戦い(性交の隠喩だろう)、自ら父となって世界を調律(創造)する。つまり父を持たない少年が自ら父となり、世界をあるべき姿にするわけだ。綾人の真の父は、全ての黒幕であり、ラーゼフォンの作者でもあるバーベム卿なのだが、綾人が直接バーベム卿と対峙することは、ついにない。ただ、おそらくは運命の恋人・紫東遙の影響で、バーベム卿が望んだ調律はなされなかったということが示されるだけだ。

「父性の不在」が叫ばれて久しい。「エヴァ」は、にっくき父を喰い殺すことで乗り越えていくビジョンを辛くも示して見せたが、もはや「ラーゼフォン」には、手本とする父どころか、倒すべき父性すらないのである。

それでも私たちは、愛し合い、子をなし、生きていかなければならない。「ラーゼフォン」は、指針も敵となすものもない時代に生きる我々に、なおも前へ進めと、よりよい世界を目指せと、訴えるのである。



ところで、改めて見返すと、伏線の多い作品である。1話の綾人の重要なセリフに、「年上に興味ないんだ」というのがある。最初見た時はやけに唐突なセリフなので違和感を持ったのだが、やがてその意味が明らかになる。12年の間想い続けた人の前に、12歳年上の姿で立ち、12年前と同じ姿の想い人からこの言葉を聞いたら。
あまりに残酷な言葉ではないか。このシーン、あえて遙の表情は描写されていないが、その気持ちは想像するに余りある。

大胆に翻案された劇場版も問題作である。あのラストシーン、実は全て遙の妄想だった、という解釈もできると思うのだが、どうだろう。