本稿は、劇場で1回観た後、記憶を頼りに書いたものです。細部に記憶違いがある可能性があります。本来ならば、絵コンテ集と突き合わせながら書くべき文章かもしれませんが、私が脳内で再構築した「私の時かけ」について論じたもの、程度として読んでいただけると幸いです。結果的に、「雲のむこう、約束の場所」以来の長文になりました。

’06.8.3 一部加筆(
赤字部分

’06.8.23 一部加筆赤字斜線部分

時をかける少女 〜上昇と転落のダイナミズム〜


この映画は、一言で言ってしまえば「一夏の不思議な経験を通じて成長していく女の子の物語」である。この上なく真っ当な、青春映画だ。
では、その当たり前の物語を、どう表現しているか。それこそが、映画の出来の良し悪しである。

映画のなかでもっとも印象的なのは、タイムリープする真琴のアクションだ。走っていって、ジャンプして、転がり込む。最近でも、「タイムマシン」「バタフライ・エフェクト」といった時間旅行テーマの映画があるが、一番の見せ場である時間旅行の描写には、力を入れている。おそらく、本作の真琴のタイムリープは、映画史上最もカッコ悪い時間旅行であろう。このとき必ず描かれるのが、「上昇と転落」のダイナミズムである。特に果穂の告白を助けるときのタイムリープを考えると分かり易いが、階段を駆け上がっていって、ジャンプする(上昇)。リープした直後は転がり込んで、何かにぶつかって止まる(転落)。ギャグとして描かれているが、特にリープした後の転がって止まるアクションは、何度なく繰り返される(細田演出!)。

例外が、千昭に関係するシチュエーションだ。土手で告白を受けるシーンと、電話で「タイムリープしていないか」聞かれるシーン。このときだけは、唐突に過去に戻っている。
なかでも特筆すべきは、最後のタイムリープである。このときのリープは坂道を駆け下っていって、夜景をバックにジャンプする。「上昇」のダイナミズムである。一方、リープした先では、真琴本人は最初から床に寝ている(宙に浮いていたノートが落ちてくるが)。つまり、「転落」のアクションがないのだ。前述した、果穂の告白に関係するリープと比較すると、違いがよく分かる。ジャンプするときからして、「階段を駆け上がる」のに対し、「坂道を駆け下り」ている。
加えて、リープ中の空間でこのときだけは、決然とした表情で進行方向へ向き直る動作が入る。

ジャンプすれば、一瞬宙に浮いて、地面に落ちる。当然のことだ。ジャンプする前と後は、同じ平面に立っている。これが、リープの描写に伴う「上昇」と「転落」である。リープの前後で、真琴本人は何も変わっていない。
真琴は、タイムリープの能力を手に入れ、有頂天でリープを繰り返すが、その目的といえばカラオケをしたり、夕飯に焼き肉を食べたり、告白から逃げたりとどうでもいいようなことばかりだ。それも、全て自分のため。
だが、果穂の告白のシーンで、自分にかかった「功介とつきあってる疑惑」をはらすためとは言え、他人のために一肌脱ごうとする。
そして最後に、千昭のため、大切な人との大切な時間のために、かけがえのない一瞬のために、力を使う。
最後のタイムリープに上昇の場面だけが描写され、転落の場面がないのは、着地した真琴がこれまでと違うステージに立っているからだ。それだけ成長した真琴を表現しているためである。
さらに、このリープだけが夜のシーンであることは、おそらく偶然ではない。真琴が河原の土手で最初に試みたリープは夕方だが、他のリープは全て昼間に行われる。
必ず夜は明け、朝がくる。だがその新しい朝を迎えるのは、今まで通りの真琴ではない。大切な人のために力を使い、別れの悲しみを知って少し大人になった真琴だ。

このリープのあと、千昭のもとへ走る真琴を、カメラが追う。この動きは、ずっと水平移動である。かけがえのない時間の大切さを知り、新しいステージに立っている真琴は、もうタイムリープを必要としない。彼女は自分の脚で、未来へ向かう。

真琴の成長物語という側面を暗示する小道具がある。冒頭のシーンで、真琴が和子に届ける「桃」だ。「魔女おばさん」に届ける果物なのだからリンゴの方がふさわしそうなのに、なぜ桃なのか?初夏だからというのはもちろんだが、他にも理由がありそうだ。
高校の漢文で、こんな漢詩をならったはずだ。

桃夭
            無名氏
桃之夭夭  桃の夭夭たる
灼灼其華  灼灼たる其の華
之子于歸  之(こ)の子、于(ゆ)き帰(とつ)がば
宜其室家  其の室家に宜しからん
桃之夭夭  桃の夭夭たる
有[艸賁]其實  [艸賁]たる其の実有り
之子于歸  之の子、于き帰がば
宜其家室  其の室家に宜しからん
桃之夭夭  桃の夭夭たる
其葉蓁蓁  其の葉、蓁蓁たり
之子于歸  之の子、于き帰がば
宜其家人  其の家人に宜しからん

(現代語訳)
桃の花は若々しく美しい 紅く燃え立つその花よ
 その麗しい桃の花さながらの娘は嫁ぎ行き 仲むつまじく暮らすだろう
 桃の花は若々しく美しい ふっくらとしたすばらしい実よ
 その桃の実さながらの娘は嫁ぎ行き 仲むつまじく暮らすだろう
 桃の花は若々しく美しい 葉は生き生きと茂っている
 その艶やかに茂る桃の葉さながらの娘は 嫁入り先で仲むつまじく暮らすだろう

【桃夭】「夭」は若くしなやかなさま。若々しい娘をみずみずしい桃にたとえる。嫁ぐのにふさわしい年頃。嫁入りどき。婚期。(大辞林より)

持って回った言い方だが、桃というのは、性的に成熟した女性の象徴なのである。開巻いきなりこれが出てくるのは、真琴が少女から女へと成長していく物語であることを宣言しているのだ。その届け先の芳山和子が、時空を超越した魔女、見方によっては永遠の少女であることを考えると、なおさら意味深長である。

ところで、本作を観て当然抱く疑問がある。真琴はタイムリープの能力を、既に犯してしまった失敗を取り返すためにばかり、つまり過去に戻るためにばかり使っているのだ。なぜ、真琴は未来を見ようとはしないのだろう?
(注1)

その答えは、作中で登場人物の口から何度も示される。真琴はバカだからである。
それは真琴のせいではない。テストの点が悪いからでも、テンプラを揚げるのに失敗するからでもない。ただ、彼女が青春のただ中にいるからだ。
そう、
青春はバカだ。あのころ、僕らはみんなバカだった(みうらじゅん風に)。
現在は、永遠に続くように思っていた。未来なんて、想像もつかなかった。かけがえのない時間を、それがどんなに価値があるのかも気づかぬままに、ムダに過ごしてきた。
でも、いつか夢は覚め、人の心は変わり、別れの痛みを覚え、大人になる。なくして、初めて価値に気づく。無為に過ごしてきた時間の一瞬一瞬がどれほど大切なものだったか。
(注2)
そして、思い出を抱き、未来を見据え、歩き出す。
子供達が、川辺で水切りをして遊んでいる描写が、2回出てくる。水切りの波紋は、流れのなかで飛び飛びに生まれては消えてゆき、互いに交わることはない。
1度目は、真琴が最初に自分でタイムリープするシーン。川面に描かれる水切りの波紋は、時間の流れのなかの、タイムリープによる真琴の断続的な経験のようでもある。
2度目は、千昭との別れのシーンである。このときの波紋は、異なる時代に生きて互いに交わることのない、真琴と千昭そのものだ。
だが、波紋は消えても、川は流れ、いずれ海にたどり着く。

ラストシーンで真琴が涼やかな表情で見上げる夏の空には、雄大な入道雲がそびえる。それもまた、果てしない上昇のダイナミズム。人生は、これから始まるのだ。



注1 もともといた時代より未来には行けないというような設定があるのかもしれないが、この際その解釈はとらない。
注2 その意味で、2度目に「Time waits for no one」の文章が出てきたとき、例のAAが無くなっていればいいのに、と思った。真琴が2度目にこの文章を見たときには、その意味が痛いほどよくわかったはずだから。


追記

この映画を観て連想した作品について触れておく。
千昭が未来からわざわざ見に来たという絵のシーンを見て、星野之宣の連作「妖女伝説」の一編「ボルジア家の毒薬」を思い出した。ルネサンス期のイタリアで勢力を誇ったボルジア家。彼らが政敵を暗殺するのに使ったと言われる猛毒「カンタレッラ」と、政略結婚の具として扱われた悲劇の女性ルクレツィア・ボルジア、そして彼女の肖像を描くレオナルド・ダ・ヴィンチの物語である。
この作品は、ダ・ヴィンチの描いた「洗礼者ヨハネ」のモデルが、ルクレツィアであるという設定になっている。ダ・ヴィンチは語る。「私たちの時代は暗く悲惨な時代だったが、だからこそ魂は天上の高みに触れたいと願った」と。和子が修復なって展示された絵を前に述べた言葉そのものではないか。

もう一つは、氷川竜介先生がパンフレットに書いていた「記憶装置としての映画」という表現で思い出した、とり・みきのSF短編「カットバック」である(短編集「山の音」所収)。「トマソンの罠」「石神伝説」を発表している今となっては意外でも何でもないが、ギャグマンガ家としてのとり・みきしか知らなかった頃に読んだこの短編集は、結構衝撃的だった。
なかでもこの「カットバック」は、時間旅行と映画を重ねた、まさに「記憶装置としての映画」そのものをテーマにした作品である。とり・みきが熱烈な原田知世信者であり大林版の「時をかける少女」の大ファンであることを公言していることを考えると、この小品は「時かけ」にオマージュを捧げたもの、と解釈できる(どこかで語ってたかな?)。
今回の細田版「時かけ」について、とり・みきの感想を是非聞いてみたい。

そういえば、絵画もまた時間を超えて存在し続ける記憶装置であるな。



追記2(06.9.4) 芳山和子の役割

注:文中、和子のセリフについては、記憶を元に書いているので、細部は不正確。

魔女おばさんこと芳山和子は、映画の中で2つの役割を持たされている。
1つは、タイムリープの先輩として真琴にアドバイスする役割である。ところが、奥寺佐渡子脚本による和子の言動は、一筋縄ではいかない。毎回言うことが違い、真琴を導くどころか、むしろ混乱させるようである。
人によっては、こうした言動を無責任と感じているようだ。だがもう一歩進んで、なぜ和子はこうした言動をとるのか、と考えてみなければならない。重要な部分をあげてみよう(和子のセリフは全て重要ではあるのだが)。

初めてタイムリープしてしまった真琴に、
「真琴くらいの歳の子には、よくあることよ」
とあっさりと言い放つ。これで真琴は、自分からタイムリープに取り組むようになる。

カラオケしたり焼肉食べたり、タイムリープの御利益に有頂天の真琴には、
「真琴のかわりに、誰かが損をしているのかも」
と水を差す。
高瀬がいじめにあったり、友梨がけがをしたり、千昭が友梨とつきあい始めたり、真琴はタイムリープがいいことばかりでないことに気づき始める。

「うまくいかなければ、リセットしちゃえばいいじゃない」
これはもともと、真琴本人が言った言葉だ。言外に、「本当にそれでいいの?」というニュアンスがある。

そして最後にかけた言葉は、
「真琴は私とは違うでしょう。待ち合わせに遅れた人がいたら、走って迎えに行くのが真琴でしょう」
この後、真琴は最後のタイムリープに臨む。

こうしてみると、和子の言葉は、真琴の心理と行動に、確実に変化をもたらしているのがわかる。では、なぜ持って回った言い方をするのか?そこに、テーマとの関連がある。
この映画のテーマは、「今という時間の大切さ」「モラトリアムな時間からの脱却」「人生の節目の選択が及ぼす影響」といろいろ読み取れるが、そのうち「選択」という要素に着目してみると、和子のあいまいな態度が納得できる。真琴の選択は、あくまで真琴自身の考えでなされなければ意味がないからである。だから、和子の言葉は決して真琴に強要をしない。

さらに、最後の言葉に着目すると、和子のもう1つの役割も明らかになる。「走っていく真琴」と「待ち続ける和子」の対比である。
未来へ向けて走り出す真琴に対し、和子は永遠に少女であり続け、想い人を待ち続けることを選んだ。和子の仕事にも関連してくる。和子は絵画の修復を手がけているが、絵画とは、「静止した時間を封じ込めた芸術」である。「静止した時間の守人」。待ち続ける和子にふさわしいフレーズではないか。

真琴と和子、どちらが正しいというわけでもない。ただ、それぞれの選択があり、それぞれの幸福があるだけだ。


追記3('07.9.9) 作品中の円環のイメージ

追記4('08.8.5) 円環と対比される直線部分

「時かけ」は、円環のイメージが頻出する作品である。

その円環を際立たせるために、四角形又は直線を同じ構図に収めているらしい。

まず、商店街の時計。

背景のビルと、屋上のフェンスが四角い。

踏切の赤色灯。

赤色灯以外、電信柱や建物が全て直線構成。

印象的な道路標識。運命の分かれ道を暗示する小道具だが、外形はやはり丸い。

背景の建物が方形。「ここから」の表示も。


以下10枚は、静止した時間の中で千昭と話すシーンから。標識、信号、ボール、風船と、もうこれでもかと言うほど出てくる。




信号機の外形が四角。


消火栓標識の下に、方形の枠が。強いて言えば背景の自動車も。


強いて言えば、サッカーのゴールポスト。


手前のフェンスと、後景の建物。


背景が全部直線構成。

バリエーションのひとつ、振り子時計。

時計の枠。

水面の波紋2形。




大輪のヒマワリの花。

この3枚は例外、かな?

和子の部屋の時計。ドライフラワーとともに写真を引き立てるが、形状がそれぞれに違うのも面白い。

言うまでもなく、写真立ての枠と背景の本。

クライマックスの直前、真琴が見上げる電灯。そういえば、このとき視界を横切り、真琴の腕にとまるテントウムシも丸い(漢字では天道虫だ!)。

天井の板目。
ここで、最初の商店街の時計をもう一度見て頂きたい。このカットだけ、他の構図と違って背景が直線で埋め尽くされておらず、半分が不定形の雲であることが、これから起こる事件への不安をあおっているとも考えられる。

この執拗なまでのこだわりには、何か意味を求めたくなるが、参考にこちらを挙げておくに留める。