トップをねらえ2! ガイナックスSFの魂

ガイナックスは、「王立宇宙軍」→「トップをねらえ!」→「ふしぎの海のナディア」→「新世紀エヴァンゲリオン」と、SFアニメを作り続けてきた。「トップをねらえ2!」は、それらの遺伝子を受け継ぎ、ある回答を示した、集大成とも言うべき作品である。(注1)

「トップ」の敵の宇宙怪獣は、銀河系という生物の抗体のようなものであり、人類に絶対的な悪意を持つ敵として描かれるだけで、それ以上の言及はなかった。この時点では、単純明快な熱血痛快ロボットアニメを作るための単純化だったと想像される。
一方、「エヴァ」の敵は、使徒。正体、目的全て不明、ただ人類に仇なす敵だ。使徒と宇宙怪獣の類似というのは、指摘されたことがあるのだろうか。私は、寡聞にして目にした記憶がない。
これらの間に挟まる「ナディア」が、案外重要なのではないか。

「月刊岡田斗司夫」に掲載された岡田氏の日記で、面白い記述があった。
庵野監督や貞本義行、前田真宏らに、「ガーゴイルってどこが悪いの?」と聞かれたというのだ。
「(前略)
アニメの中のガーゴイルの振る舞いは、そういうスタッフの迷いが反映されてますますワケワカランになっていった。
・世界征服といいながら、征服して何がしたいのかよくわからない。
・苦心して設営した基地や育てた部下をすぐに見捨てる。
・幹部がお互いに顔を隠す理由がない。
(中略)
社会人になってしまうと、「極悪非道な悪の帝国」という設定がどんなに難しいか、思い知らされる。
ただ単に「残虐非道な組織」だけでは、見ている人は納得してくれない。どんな組織でも、その内部には明快な「正義の論理」がないと、あっというまに崩壊または弱体化してしまう(後略)」

使徒という設定は、以上のような「悪を描く難しさ」という問題に加え、「イデオン」のような過剰な相対主義を避けようとした結果導入されたのではないか、と想像してしまう。

「トップ2」は、もう一歩進んで、正体不明の敵に一定の解釈を与えた。トップレス能力を持つ少年少女。その力を持ったままに大きくなった子供達が、すなわち宇宙怪獣ではないか、という解釈である。
使徒の正体もまた、ヒトの姿を捨てた人類の別の可能性と語られる。これは明らかに、「トップ2」の源流にあたる考え方だ。
さらに、人類への試練、通過儀礼、人の手で創られた神様といったモチーフ、それに乳房にめり込む手といったイメージもまた、「エヴァ」を直接に連想させる。

「トップ2」最大の見所は、巨大質量兵器「地球」にある。その絵ヅラのインパクトも強烈だが、トップ世界では既に木星はなく、内惑星で最大の質量を持つのが地球であり、それを兵器として使うのは筋が通っている。ここで重要なのが、「地球」と「人類」という概念の、明快な分離である。この2つは混同しがちであるが、考えてみれば明らかに異なるものだ。私は、環境保護論者が唱える「Save the earth」という言葉が嫌いだ。環境が悪化したところで、「地球」は痛くもかゆくもない。救うべきは「人類」であるはずだ。このことを、極端な形でビジュアルにして見せたのがこのシーンである。
(注2)

だが、ダイバスターとなったノノは、突進する地球を止めようとする。
この行動が示すのは、「「地球」と「人類」をそんなにも明確に区分していいのか」「地球を犠牲にしてまで生き延びていいのか」というためらいである。
「トップ」6話でも、銀河系を破壊してまで生き延びるべきか、という問いがなされるが、カズミは「それは歴史が判断してくれる」と語り、いわば回答を留保してしまう。
この問いをさらに突き詰めたのが、「地球を犠牲にしてまで生き延びていいのか」である。「トップ2」は、それは許されない、と答を出す。
「母なる地球でさえも食い尽くし、宇宙へ広がっていく人類の浅ましさ・罪深さへの畏れ」という風に読み替えてみると、これは「王立」が追求したテーマとなる。

次に、ノノとラルクの関係に着目してみよう。
ノノは、最初はただノリコに憧れ、ラルクを慕うごく普通の(ロボットだけど)少女として描かれる。
だが4話で明かされたその正体は、バスターマシン7号。このとき、ラルクとの立場は逆転する。
5話のラルクは、自信も誇りも能力も、全てを失った状態にある。だが、ノノの力でトップレス能力を取り戻し、味方を救ったのもつかの間、ヒロイズムに酔う彼女の前からノノは姿を消す。
そして6話で、ラルクはまず「星を動かすもの」として崇められ、地球を巡ってノノと争い、唐突にアガリを迎えて、トップレス能力を失う。だが、地球を守ろうと苦戦するダイバスターを見て、ラルクは自らの五体を頼りに走り出す
(注3)。ディスヌフの頭部操縦室へと。ディスヌフの脊椎通路を通る最中、衝撃で壁にぶつかり、歯が抜ける描写がある。ラルクの設定年齢からして、乳歯ということはないだろうが、「歯の抜け替わり」=「成長」を何となく連想させる。通路をふさぐ角は、ディスヌフが自らの手で抜き去る注4。このシーンは3話を思わせる。チコが主役の3話は、シリーズ中の位置づけが不明確に思っていたが、チコの心に感応して起動するキャトフヴァンディスの描写、さらに4話の「(ノノのような娘に)バスターマシンは力を貸すのかもしれないよ」というセリフに、見事に呼応した展開である。そして頭部操縦室に到着したラルクは、服を着替える。ラルクが裸身をさらすのは、これが初めてである(注5)。これもまた、新生という意味合いが強い。

バスターマシン19号の力を借りて、ラルクはノノを叱咤する。
「巨大さは強さじゃない!重要なのは努力と根性だ!」

実はシリーズを通して、ラルクはノノに対し「お姉様」らしく振る舞ったことがない。むしろノノの方が、ラルクの身の回りの世話を焼いているほどだ。ラルクは、才能だけを頼んで生きてきた。1話で、無人の戦闘に苦戦するディスヌフに対し、「阻止戦闘くらい1人でこなせ」と一人ごちたように。そしてノノの期待に対しては、「友達」として受け入れようとする(ダイバスターを前にして、なおもそうだった)。

しかし、トップレスを失い、ノノの危機を目前に、ラルクは「普通の少女」として戦いを選ぶ。その心に、バスターマシンは応える。
この時初めて、ラルクはノノの「お姉様」になった(注6)

整理すると、
「偉大な行いをした普通の少女」=ノリコ
に、憧れる「人に創られた神様」=ノノ
を、導く「かつて神の力(トップレス)を持っていた普通の少女」=ラルク
が、人として宇宙怪獣と戦う物語、という込み入った円環構造になっているのである。

1話冒頭のモノローグを、もう1度見てみよう。

「神様を見たことは、たぶんないと思う。
神様にも願い事があるとしたら、それは何に願えばいいんだろう。
願いを胸に、夜ごと星空を仰ぎ見ても、流れ星はいつ落ちてくるかわからない。
流れ星に願えばかなうって言うのは、それはつまり、かなわないってことでしょ。
でも、私の願いはきっと叶う。
だって私は、この流れ星を待っていたのだから。」

「神様の願い事」のくだりで、ノノはケロヨンに手を合わせている。
そして、ラルクの待っていた流れ星が今、地球へ向かう。



注1 「アップルシード」「フリクリ」「アベノ橋魔法商店街」「忘却の旋律」「この醜くも美しい世界」については聞かないでください。実際、「フリクリ」との共通点の少なさは、むしろ不思議なほどだ。
注2 ついでに言うと、「自然」「環境」「生命」という概念もまた、ごっちゃにされることが多い。
注3 6話のラルクの立場と心理の急転直下っぷりは、「カレイドスター」の後半30話分を30分でやっているようだ。
注4 これまた、自立起動は「エヴァ」の十八番。
注5 もちろん、最後だからサービス、サービスゥというのもあるんだろう。後姿で、下着を脱ぎながら前に屈むところはどきっとした。当然、ディテールを描き込んである訳じゃないけど。
注5’ 合体劇場版では、その少し前にシャワーシーンがある。少し意味性が薄れてしまった。
注5’’ 改めて観直したら、ちゃんとビデオ版にもシャワーシーンがありました。
注6 「トップ」5話のノリコとカズミの関係と対比してみると、面白い。


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