この項を書く前に、試しに「ショーシャンクの空に 出エジプト記」で検索かけてみたら、2件ヒットしました。世の中、上には上がいる。だけどオレだって、自分で気がついたんだもんね!というわけで、恥も外聞もなくアップしました。


「ショーシャンクの空に」

刑務所ものの定石に沿いながら、人の自由と尊厳を描いた名作。だが、あくまでユーモアを忘れず、主人公も意外と悪党なのが偉いところ。ティム・ロビンス演じる銀行家の主人公は、浮気した妻を殺した、との無実の罪で投獄され、経理の手腕を買われて刑務所長の不正を手伝うようになる。しかし、聖書の中に隠した小型のハンマーを使って脱獄を果たすのだが、その聖書を刑務所長の隠し金庫に入れて行くのである。所長は聖書を開き、ハンマーの形にくりぬかれたページを見て真相を悟るのだが、そのページは、丁度「出エジプト記」なのだ。モーセに率いられたユダヤ人がエジプトを脱出する話で、紅海が割れるエピソードで有名だが、その英語タイトルは「EXODUS」。ずばり「脱出」である。しかも、そのページにわざわざしおりが挟んである。明らかに、所長がこのページを開くようにし向けたのだ。主人公の知性とユーモアがなおさら際立つ。

ところで、作中で主人公が、モーガン・フリーマン演じる調達屋にハーモニカを贈るエピソードがある。このハーモニカ、贈られたそのシーンに出てきた後は、結局最後まで一度も使用されず、彼がハーモニカを吹くことはない。せっかくの小道具なのにもったいない、と当初は思ったのだが、もう一度観て合点がいった。音楽は自由の象徴だからである。
放送室を占拠してアリア二重唱(アリアは普通、独唱を指し、合唱や重唱とは区別するとご教示頂きました)を流す、本作を象徴する有名なシーン。その後懲罰房から戻ってきた主人公は語る。
「人の心から音楽は奪えない」と。
調達屋はそれに「塀の中で希望は危険だ」、と反論する。調達屋は最後に仮釈放になるが、数十年ぶりに得た自由をもてあまし、精神的に追いつめられていく。つまり、塀の中にいようがいまいが、彼は自由ではなかった。だから、彼がハーモニカを吹くことはなかったのである。

彼は主人公の誘いにより、仮釈放の条件を破ってメキシコはジワタネホへ向かう。そのとき初めて、彼は主体的に生き始めた。
南に向かう旅の途上で、彼はきっと思う存分ハーモニカを吹いたに違いない。


以下は余談。実は初見では、この作品の印象はあまりよくなかった。というのも、本作の冒頭で、主人公が拳銃を捨ててしまい、見つかっていないという描写がある。最後に木の根本に隠してあったのがその拳銃で、やっぱり彼が真犯人だ、というオチではないかと思ってしまったのである。考えすぎはよくないというお話でした。

追記1
町山智宏氏の指摘で知ったことだが、本作の元ネタといわれるのが、ポール・ニューマン主演の「暴力脱獄」(’67、米)である。アクション映画みたいな邦題だが、全然そんな映画ではない。刑務所のなかを飄々と生き抜き、自由を求めて旅立っていく主人公の姿を描く。雨の中、両手を広げるシーンなんかまさにそのもの。この映画を観ると、原題「SHAWSHANK REDEMPTION(ショーシャンクの贖罪)」の意味がよくわかる。ただ、このキリストは蓄財の才もあったのである。

追記2
私はこの作品のDVDを、シアターシステムの能力チェックにも使っている。冒頭の刑務所の空撮シーンで、画面を横切る電線が見えるか、風にはためく旗の音がきちんと定位し、移動していくかがポイント。うちのシステムなら、旗の音ばかりか旗を留める金具が柱にぶつかる音まで聞こえる!

追記3(’06.7.22)
@ 所長は、初登場から映画の前半では、背広の襟に十字架型のピンバッジを付けている。ところが、不正に着手し始めてからは、円形のピンバッジに変わっている。つまり、神の御心に外れたことをし始めたのを象徴しているのだろう。
A ティム・ロビンスは190cmを超す長身だが、、この作品では常にやや猫背である。これは、所長の背広を失敬するシチュエーションが不自然に見えないように、所長との体格差を意識させないための工夫ではないだろうか。
B アンディが入所したとき、所長に食事の時間を聞いてどつかれる囚人がいるが、エンドクレジットを見たら、「Hungry fish con」という役名になっていた。いくら何でもあんまりな扱いだと思う。

追記4(’13.6.11)
作品の中盤で、アンディは刑務所の放送設備を使ってオペラを流す。それを聴いたレッドは、言葉の意味は分からないがさぞかし美しい内容なんだろう、と感銘を受ける。
この曲の内容について、大変面白いご教示を頂いたので追記。

この曲は、『フィガロの結婚』の22番(楽譜によっては23番)、通称「手紙の二重唱」である。 
『フィガロの結婚』には、倦怠期の伯爵&夫人カップルと、その屋敷に住む召使いのカップル(フィガロ&スザンナ)が登場する。
日頃からスザンナを見初めて言い寄っていた伯爵は、最後の手段である初夜権を行使しようとし、それに気付いたフィガロがそれを阻止すべく奮闘する、というあらすじである。
その終盤、伯爵夫人はスザンナと共謀し、夫を懲らしめるためにスザンナに逢い引きの手紙を書かせる。
その場面で歌われるのが「手紙の二重唱」である。すなわち不倫を暴くために罠を仕掛ける歌なのだ。


IMDbで調べてみたところ、この選曲をしたのが誰なのかは不明のようである。
http://www.imdb.com/title/tt0111161/trivia?ref_=tt_trv_trv

従って作者本人の意図はともかく、とりあえず私の考えを@登場人物の心情、A作品のテーマに分けて述べてみる。

まず@登場人物の心情。
アンディはもともと地位も教養もある人物であり、当然歌詞の内容も知っていたと思われる。不倫にまつわるトラブルで収監されてしまった自分を自嘲する諧謔、といったところであろう。アンディは苦境にあってもユーモアと希望を決して忘れない人物として描かれており、この曲を皮肉混じりに楽しめる様子は彼にふさわしい。ちなみに先述のIMDbによると、所長の指示に逆らってボリュームを上げる芝居は、ティム・ロビンス自身のアイデアだという。
一方のレッドは、オペラの素養があるとは考えにくい(『巌窟王』を教育図書に、というギャグがあった)し、歌詞を知らないのは不思議ではない。それでも美しく聴こえたというのは、A作品のテーマに深く関わってくる。
あえて言葉にすれば、世界は残酷で滑稽だけれどそれでも美しく、人生は生きる価値がある、ということだ。

ただし、この作品において音楽とは希望の象徴であることを考えると、もう一歩踏み込んだ見方ができる。すなわち歌詞を知らずに曲のみを美しく感じるレッドは、その音楽=希望の表層しか見ていないことになる。だからレッドは希望を危険と断じ、自らハーモニカを吹こうとはしない。それに対してアンディは、美しさの背後にある悪意や不実をも知った上で、なお音楽を、希望を信じようとするのだ。それこそが、2人の対立の本質だったわけである。アンディとレッドが希望について議論するのは、まさにこの事件の直後、アンディが懲罰房から帰ってきたときだった。

蛇足ながら、IMDbはこの曲を「不倫を暴く(expose infidelity)ための歌」と説明している。試しに辞書を引いてみると、このinfidelityという単語は「不義、不貞」の他に「(特にキリスト教の信仰に対する)不信心」という意味もある。映画の原題が『The Shawshank Redemption(ショーシャンクの贖罪)』であることを考えると、また別の解釈が成り立ちそうに思えるが、ここまでにしておく。