キング・コング 孤高の王の死

過去に3回ほど、映画を観て泣いたことがある。

1回目は、「父の祈りを」('93 英・米)。IRAの爆弾テロ犯の容疑をかけられ、無実の罪で投獄された父子の、再審を求める戦いを描いた作品である。父は、決して暴力に頼らずしかも信念を曲げず、静かな戦いを続ける。その姿は、獄中の囚人達の心をも動かしていく。父が獄中で無念の病死を遂げたとき、囚人達が送り火をするシーンがある。窓から、それぞれに火のついた紙片を投げるのである。刑務所の庭に、まるで雨のように炎が舞う。
このシーンで、初めて映画を観て(涙ぐむ、という程度じゃなく)涙が止まらない、という経験をした。

2回目は、「アイアン・ジャイアント」('99 米)。ヲタの皆さんには説明不要であろう。かの国で、こういうアニメを作られてしまったことに悔しい思いをしたものだ。また、ミュージカルでない長編アニメ、という意味でも画期的だったと思う。これは余談だが、年季の入ったオタクの間で、案外評が割れているのが意外だった。(眠田直氏とか山本弘氏とか。)

前置きが長くなったが、3回目が、この「キング・コング」だ。ご覧になった人は解ると思うが、これは怪獣映画であると同時に、美女と野獣の恋物語である。言っておくが、私は「タイタニック」くらいは鼻で笑える人間である。それが、なぜこの映画に魂を直撃されてしまったのか?

大恐慌下のニューヨーク。売れない舞台女優のアン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)と、山っ気の強い映画監督カール・デナム(ジャック・ブラック)が出会うシーンから物語は始まる。ここから髑髏島にたどり着くまでに、優に1時間。島には奇怪な廃墟があり、巨大な壁が築かれている。アンは不気味な原住民にさらわれ、コングの生け贄にされてしまう。この誘拐のシーン、船に忍び込んでくる原住民は写すが、実際に誘拐される瞬間は見せない、という演出が見事。分かり切っていることをわざわざ描写すると、勢いが死んでしまうことをよく知っているのだろう。しかしこのシーンの、絵に描いたような野蛮な土人(あ、一発変換できないや)の描写は、人権団体あたりから抗議がこなかったのか心配になる。この描写が、本作のなかで一番ハードル高かったんじゃないだろうか。

さて、生け贄のアンをさらったコングは、次第に彼女に魅了されていく。それが、単に金髪碧眼だからというのじゃなく、コングの前で芸をして懐柔しようとしたり、悪戯するコングを叱りつけたり、暴れるコングに対峙して一歩も引かなかったり、というアンの内面の強さのゆえだ、としたのが説得力あり。ティラノサウルスの群れに襲われたアンを守って、コングは死闘を演じる。この場面の格闘は、殺陣と呼ぶにふさわしい壮絶な出来。計算され尽くしたアクションである。これは思いつきだが、崖を落っこちながらの戦闘って、平成「ガメラ」の空中戦シーンに想を得ているのじゃないだろうか。あのピーター・ジャクソンが、「ガメラ」を観てないってことはないだろう。

ティラノサウルスを倒し、明らかに自分を守ってくれたのだ、ということに気づいたアン。今にも礼を言いそうなアンに、コングは照れたような表情を見せ、そっぽを向いてしまう。名演!そのまま立ち去ろうとするコングに追いすがると、しょうがねえな、という風情でアンをつまみ上げ、ひょいと肩に乗せる。あんた、男だぜ!

コングはそのまま、アンをねぐらに連れて帰る。
ここが、私の泣きポイントである。コングのねぐらは、島で一番高い山の上にある。その周りには、同族のものと思われる巨大な白骨が散乱している。おそらくは彼の家族であり、伴侶のものであったろう。彼は、滅び行く巨大類人猿の、たった一人の生き残りなのだ。

彼は座り込み、アンのことも忘れてしまったように、海に沈む夕陽を眺める。
3頭のティラノサウルスと同時に戦い、倒した彼は、間違いなくこの島最強の王である。しかし、何と孤独な王であることか。
彼は、どれだけの時間をたった一人で生きてきたのだろうか。
何度、たった一人で夕陽を眺めてきたのだろう。

(思い出したらまた泣けてきたので、ちょっと休憩)

一緒に夕陽を眺めてくれる美女が現れたことに、彼の心が狂わされたのは無理からぬことである。

コングの掌のうえで眠りに就くアンだが、そこへ救いにやってくるのが、船旅の間に彼女と恋に落ちた劇作家のジャック・ドリスコル(エイドリアン・ブロディ)。アンを巡る三角関係の、もう一人の男(ただし人間)である。ドリスコルに起こされて、アンは我に返る。このときの彼女の心境は、こうである。
「彼といると刺激的で楽しいけど、安心して生活できないわ。おうちに帰らなくちゃ」(意訳)

アンを追って海岸までやってきたコングは、クロロフォルムで眠らされ、ニューヨークへ連れて行かれて・・・という後半は、もう説明不要だろう。

愛する美女を抱いて、彼はエンパイア・ステート・ビルの頂上を目指す。王にふさわしい、孤独の玉座へ。襲いくる戦闘機に、彼はアンを安全な場所に隠して、最後の戦いへ赴く。
そう言えば、コングの敵は常に複数でやってくる。先のティラノサウルスもそうだし、クライマックスの戦闘機もだ。そして、美女に籠絡された英雄達と同じく、死を遂げるのである。

リメイクというものは、当時はなかった技術が使えるから、アイデアをパクってとりあえず作ってみました、てなものになることが多い。だがこの作品には、間違いなくオリジナルへの本物の敬意と、魂と、志がある。

以下、余談をいくつか。
エイドリアン・ブロディは「戦場のピアニスト」('02 仏・独他)で有名な役者だが、ちょっとこの役には線が細すぎるのじゃないかと思っていた。2度目に観て気づいたのだが、髑髏島へ向かう船のなかで、船室が足りないので、捕獲した猛獣を入れておく檻の中で寝泊まりさせられるシーンがある。つまり、この時点での彼は飼い慣らされた存在だった。この映画は、彼がアンと出会い、コングと戦い、己の内なる獣性を取り戻していく物語でもあるのだ。

ドリスコルの書く芝居に、「言葉は無力だ」という意味の台詞が何度か出てくる。物言わぬコングがその表情、仕草、何よりもアクションで、アンの心をとらえたことを考えると、皮肉である。

山師の映画監督デナムを演じたジャック・ブラック。たまたま「興行師たちの映画史」(柳下毅一郎)を読んだ直後に観たので、非常に説得力ある人物像だった。楽観主義者で自己中心的で、拝金主義的で無謀で、そのくせ妙に純粋なところもある、という難しい役を魅力たっぷりに演じている。

先日ものの本で読んだのだが、いわゆる「人食い人種」というものは、一度も実在が確認されたことがないのだ、という。確かに学者がフィールドワークで調べてくるが、それは友好的な部族から「あの部族は人食いだ」という噂を聞いてくるにすぎず、「喰われそうになった」あるいは「自分が人食い人種だ」という証言は、ついぞないのだとか。

追記
映画の冒頭で、エンパイア・ステート・ビルの建設風景にオーバーラップして「Top of the World」の歌声が流れる。これが、ラストでコングの死体を見る男の、「なぜあんなところに登ったんだろう」という疑問の答えである。
そこが世界の頂点だから、コングは王だから、そこを目指さないわけにいかなかったのである。


僕は世界のてっぺんに座ってる
のんびりと気楽に
浮世の煩わしさから解き放たれて
鼻歌まじりに楽しく歌いながら
ハレルヤ! 最高の気分
大声でこう叫ぼう
“下にいる人 ご用心! 墜落するよ”

僕は世界のてっぺんに座ってる
のんびりと気楽に

大金なんか要らない
パンさえ買えれば
持ってる服は一着
それが僕の一張羅
札束をもらってもちっとも楽しくない
僕を幸せにするのはかわいい女のコ!

僕は世界のてっぺんに座ってる
のんびりと気楽に
浮世の煩わしさから解き放たれて
鼻歌まじりに楽しく歌いながら
ハレルヤ! 最高の気分
大声でこう叫ぼう
“下にいる人 ご用心! 墜落するよ”