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母校と同窓会と私
 クラスにいるより、新聞局部室にいる時間が多かった
         ―46年後の今も、部活続行中 ―

    
上田昌昭・青雲時報縮刷版刊行委員会事務局長(東高12回生、昭和37卒)
■ 高校の思い出と言えば、新聞局の部活だ

 「学校のクラスにいるよりも、(新聞局の)部室にいた時間が多かったですね。休憩時間や昼休みにも行きましたし、もちろん放課後になれば、ほとんど毎日皆で部室に顔を出していました」と思い出を語るのは、今年2009年3月に東高学校新聞の「続・青雲時報縮刷版」を発行する青雲時報縮刷刊行委員会事務局長(=左写真=)上田昌明さんだ。
 「部活をやったことは高校生活の中で非常に強い思い出に残っている。修学旅行やスキー遠足に行った記憶はあるけど、そんなインパクトが強く残っているわけじゃない。学校の勉強は全然記憶にないなあ」。
 上田さんの在校していた当時、1960(昭和35)年から1963(昭和38)頃、新聞局には15〜20名の部員がいたという。青雲時報も年3から4回発行していた。社会部、学芸部、運動部、文化部、生徒活動部などセクションを作って、取材に行って原稿を書いていたが、「ソフトボールをやったり、キャンプをやったり、遊んでばかりいた」と上田さんは述懐する。「ソフトボールを2チームでやれる位、メンバーがいたからね」。
 「印刷は第一印刷。十字街にあって、校正に行って間に合わなくなると、実際に活字を拾う作業までやったりしてましたよ。夜遅くなって、皆でソバ屋で食べた事も鮮明に覚えていますね」。
 「始業式を目指して新聞を作る。ホームルームの前にクラスに配ると、一瞬教室が静かになる。一生懸命に青雲時報を読んでいる。『読んでいるのだ』という感動を今も覚えています。放課後、ゴミ箱に新聞が捨てられてないか見に行きました。ちょっとがっかりしましたが、捨てられた新聞はありましたよ」。
 「当時、新聞部がはなやかな時代でした。今考えれば、新聞記者きどりのインタビューの仕方でやっていたなあという思いがします」

 ☆当時の青雲時報トップ頁の主な記事☆

  ・昭和35年4月12日発行第48号  「転機に立つクラブ活動、やめよう! 習慣的な活動、目的は人格完成」
                      「クラブの意義達成に、顧問の援助は必要」
  ・昭和35年6月30日発行第49号  「生徒会に赤信号、まだ揃わぬ執行委員会」
                      「政治に深い関心をもつ、新聞局アンケート 七割が新安保反対」
                      「デモ参加に“現実の壁”」「他校も盛んに研究、大人はデモに渋い顔」
  ・昭和35年10月25日発行第50号 「若く正しく生きよう、創立20周年記念式典行う」
                      「市営球場より広い、改装になった野球場」
  ・昭和36年2月25日発行第51号  「『クラブ全廃案』否決、従来の予算で活発化を」
                      「主張、右翼テロ事件に思う」
                      「きょう巣立ち」「北大は104名、就職は金融に集中」

■ 60年安保の思い出 (当HP、東高あの時あの頃安保の時代」参照)

 「(デモに)参加して来たんだ。お前なんで来ないんだよ」と、クラスメートと言い合った記憶があります。
 青雲時報でも取上げました。
 社会全体の雰囲気が、そういものを作ったのではないでしょうか。
 学校の休み時間なども話題になり話をしました。デモをしょうという話もありました。職員会議でも話題になっていたと記憶にあります。実際は、社会研究部のメンバーや生徒会の代議員など数名が参加していたようです。
 函館駅前の通りを大学生や高校生を含めた数百人がジクザクでデモをやっていたのを外から見たこともありました。
 反対だというのは分かります。でもなぜ高校生の立場で反対して、デモに参加しなければならないか、今でも不思議ですね」。
(右写真は、1957年函館市役所前でのメーデのデモ)

■ 函館市役所の青雲同窓会

 毎年、函館市役所の函館東高出身者の「市役所青雲同窓会」総会が行われている。約270名の名簿があるという。
 「私も市役所に入ったので参加しています。青雲の絆というのが見受けられますね」。
 「ただ青雲同窓会本部の方はしばらくご無沙汰していました。昨年の青雲同窓会は『「続・青雲時報縮刷版』」刊行のことで出席して、挨拶したわけです」。
 「市役所職員は、昔は東高出身者が多かったのですが、今はラサール高校が多くなっています。大卒が多く、高卒はほとんど採ってませんね」。

 ☆「函館市役所青雲会」資料☆
   1.会の正式名称::  「函館市役所青雲会」
  2.会の正式参加数: 会員は、在職者のみで会員数は275名(H20.11.28現在)
         退職と同時に退会することになります。
  3.現在の市役所の職員数と東高卒業生の割合
    特に、調査したものがありませんので、把握していません。
    おそらく、庁内では一番多いと思います。
  4.現在はラサール高卒が多くなっている事実確認
     調査したものがありませんので、明確なことは、いえません。
                                  資料提供:鈴木  敏博(東高23回生、昭和48年卒)
                  

■ 再度、「続・青雲時報縮刷版」発刊に立ち上がる

 東高新聞局のOB会で作る「青友会」という組織があって、時折、同窓会を開いていた。そんな時、30代中心のOB15名が青雲時報100号記念を祝して「青雲時報縮刷版」を作ろうという話になった。
 
 ・昭和51年1月4日、 青友会の新年会で縮刷版刊行を決定、準備委発足
               刊行委員長:岩佐章夫(昭和36年卒)、事務局長:上田昌明(昭和37年卒)
 ・昭和51年1月24日、 歴代局長へDM
 ・昭和51年2月7日  規約案作成
 ・昭和51年2月22日 青友会走会にて刊行委会結成大会開く、カンパ募集。
      ・・・・・
 ・昭和52年3月10日 縮刷版刊行 (当ホームページ、東高あの時あの頃「100号記念青雲時報縮刷版発行」参照)
 
 それから31年後の昨年2008(平成20)年春、ほぼ同じメンバーが立ち上がり、101号から最後の青雲時報169号までの「続・青雲時報縮刷版を発刊すべき集まった。
 メンバーは、77歳の顧問、65歳が2人、64歳が5人、62歳が1人、61歳が1人、女性は58歳と大学4年生の2人という12人(=左写真=、ブログ「青雲時報縮刷版編集室」より引用)となった。
 「30年前は、募金を集め精力的にやったけれど、その気力、体力は今続かないね、という話がでました。それで同窓会に、活動の資金の一部を補助してもらえないか話を持っていきました。同窓会の会長の石井さんは、『逆にそれは同窓会の仕事だなあ。そういう形で(東高の歴史を)残せるのは、そういうものでしかないかもしれない。同窓会で作ってくれないかとお願いをするようなもの』という話となりました。我々には渡りに船で、そのノーハウをもってるのだから、やろうと立ち上がったのです」。
 2008(平成20)年8月14日の青雲同窓会の総会で、「続・青雲時報縮刷版」への補助金を出することが提案され、了承された。
 その後の経緯はブログ「青雲時報縮刷版編集室」を参照いただきたい。
 「山形にいる若い女性が編集室に手紙を送ってくれました。『大変でしょうね。でもどうせ楽しんでやっていることでしょう。うらやましいね』と。新聞局OBから多くのカンパがあって、表紙をカラーグラビア写真にすることにしました。高校時代に戻って昔話をしながら、また新聞を作っているのです」と事務局長はしみじみと語った。
                                        2009.1.31 東京都港区にて インタビュー・文責:管理人
*トップの上田事務局長の写真は、2009年1月31日の関東青雲同窓会新年会で「続・青雲時報縮刷版」を紹介中の一コマ。
*「続・青雲時報」については、当ホームページ「続・青雲時報縮刷版予約受付中」をご覧下さい。
・上田昌明事務局長との繋がり・・・プログ参照
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