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函館東高部活動の歴史(文化部編)
「現在活動中の部は、応援団・外局・同好会を含め、所属する生徒も過半数をこえる。体操部やヨット部のように今もなくなった部もあるが、勉強に偏らず部活も重視する本校の伝統は、東高生の心の拠り所であろう」       平成4年発行の50年誌より
 「函館東高部活動、文武両道の校風」の続編として、文化部の紹介を試みようとしている。
 皆さんの部活の思い出を募集中。ブロク゜にその願いを綴った。
 
↑昭和56年1月11日東高凧クラブ干支凧勢ぞろい
□ 生物部 (写真は昭和31年の生物部)
●昭和25年〜45年
 昭和40年頃まで学校管理体制もそれ程きびしくなく、生徒も先生も割りに自由に且つ活発に活動していたように思う。新学期の進入部員歓迎には駒ケ岳、横津岳、大千軒岳等の登山とをかねて、動植物の採集、生態観測をおかない、最初の先輩達から指導(しごき)をうける。その後に各自又は半毎に研究テーマを決めて毎放課後、土・日曜日と殆ど毎日クラブの研究活動に熱中した。当時の生物部の顧問・日野昭夫先生の話によると「カラスの鳴かない日があっても生物実験室に部員の声のしない日はない」というぐらいで、少しの時間でもあれば必ず集まって来ては何かをやっていた、という。
 (当ホームページの「さいなら、旧校舎」に、上野輝三先生が「旧校舎について」と題し、先生が生物部の当時の部活動について生き生き記している)
●昭和46年〜平成4年
 この頃から生徒の安全管理、校舎の防火、防犯管理が厳しくなり、放課後や日曜日の活動も時間、場所などいろいろ制限されるようになってきた。又生徒自身も受験体制の中で思うような活動ができなくなり、部活内容も自然の中に出かけておこなう事より、実験室での飼育による観察が多くなってきた。
 昭和60年から61年にかけて環境庁からの依頼で「松倉川の生態系調査」を生物部員によって行われた。この調査をきっかけとして昭和61年の高文連理科研究発表大会で「松倉川における魚類相の月別変化」というテーマで研究を発表し奨励賞を受賞した。
                                「50年誌」抜粋
●平成5年度
 春、生物部は1年の予定をたて討論しあいます。夏は予算がないキャンプへ旅立ちます。お金がないので歩ける所はすべて歩いて行くので陸上部の練習よりキツイと確信しています。でも、自分たちで計画し、成功した時は大変満足します。楽しいキャンプを終えた秋は高文連へ向け準備してきた中途半端な研究をまとめ上げ発表に望みます。冬は飼育動物の命をつなぎとめるため全力を尽くします。
□ 美術部
 昭和15年本校設立と同時に美術部も誕生した。開校以来の伝統ある部として現在まで数多くの受賞をしている。
 昭和45年、高等学校文化連盟の発足で出品作品に賞を付けることになったが、毎年函館地区美術展で多数の受賞者をだしている。油絵ばかりではなく、デザイン作品も水準が高く昭和46年、国際メータリークラブ主催の第2回芸術的ポスター世界コンクールで、皆月勉(東21回、名古屋・デザイン工房)が特選となった。
 卒業後、彼のようにデザイナー・画家・彫刻家・造形作家・写真家になった部員も数多い。日本具象彫刻大賞を受賞した、小寺眞知子(東高16回生、旧姓茜久保)さんのようにイタリアなどで活躍している女性彫刻家もいる。(「彫刻家、小寺眞知子さんの世界」参照)右写真は小寺さんのベリー提督像、函館山の麓にある。
 美術顧問としては、昭和23年から34年9月まで指導をしてくださった長谷川晶先生(数学)は、昭和32年に全道展で受賞したほか、昭和33年にはカーネギー国際美術展でも受賞されるなど国際的にも評価された。(「関東せいうん会報3号」参照) 昭和30年4月から平成元年まで母校で34年間の長期間、梅谷利治先生が顧問をつとめた。(「創作凧士、梅谷利治先生の世界」参照)そして、元年から平成9年まで本庄隆志先生が指導し、全道でも屈指の美術部と称されている。平成9年、本庄先生の教え子である奥山悦子先生が顧問となったが・・・。
 ●平成17年度
 私達美術部は、現在部員11名で元気に活動中です。週に一度、クロッキーや合評会を開いてます。その他の活動としては、地区大会、高文連支部大会への出品、校内展、卒業展を行っています。主に2年生が迷惑を撒きちらしながら、いろいろがんばっています。
 そして先輩方、たくさんお世話になりました。様々面で支えになって下さいました。本当に有難うございます。3年間お疲れさまでした。 
  平成18年の大会結果:高文連道南支部美術展 最優秀賞 、・全道高等学校美術展出品・出場 優秀賞
  ・全道高等学校美術展 全道優秀賞
 ●平成18年 函館東高校美術部追い出し展
□ 茶道部
 昭和25年、男女共学の東高誕生ともに発足している古い部。旧校舎の裁縫室で、初代講師相場ウメさんの指導を受けたのが始まり。当時は男子部員も相当して、女子部員だけの現在とは大分様子が違っていた。
 ●平成10年
 夏涼しく冬暖かい茶道部では、週一回月曜日に部活をしています。お菓子は堅苦しいものではなく、チョコやおせんべいなどです。先生は作法やお手前を、優しく丁寧に教えてくれます。先輩、後輩教え合いながら明るく楽しい雰囲気です。東高唯一の伝統と日本文化に触れることが出来る貴重な部です。一週間に一回くらい正座をして、お茶を飲むのもいいのではないでしょうか。部員一同、新入部員をお待ちしております。

□ 書道部
 本校書道部は、昭和22年頃、2・3の生徒が中心となって設立を図り、林先生(数学担当)が顧問となって名実ともに書道部の基礎が確立した。部長は三上隆(春雲、元函館北高教諭)、他に部員として横山、鹿内、加須屋などが参加。活動は生徒が中心で、指導は先輩があたるといった具合である。その後顧問に故竹端勇明先生がつき、活動も活発になり、24年頃から市内高校書道部連合による「書初め展」を棒ニデパートで開催され、対外的発表の場を持てるようになり、部員にも創作意欲の高まりがみられ、活動にも熱が帯びてきた。
 初代部長であった三上春雲はその後、北海道学芸大学函館分校(現北海道教育大学函館分校)に進み、書道を専門に勉強し、昭和28年本校教諭として赴任された。当時の部員は、三上先生のもと実力を高め、同年秋に開催された函館書芸社主宰の学生公募展において本校から12、3名出品し最高賞をはじて各賞を独占し、圧倒的な実力を示した。また、市内に限らず、東京で開催される「日書展」においても出品者全員入賞という輝かしい成績を残している。    「50年誌」より抜粋
 ●平成17年度
 今年の書道部は、最初3人でしたが、一人増え1年生4人で活動しています。今年は、春季・春季大会に出場し、釧路で行われた全道大会に出場することができ、いろいろな人の書く姿勢や書き方を実際に自分たちの目で見ることができ、とても充実したものとなりました。
 今年の目標は、作品から受けるイメージをそのまま字に表わせるようになりたいと思っています。
                                 「ひんがし42号」より
□ 吹奏楽部
 「今まで物置のすみに忘れさられていたが、今度の統合(函館東高の誕生)により、2年生の発起により2年、1年生を主体としてメンバー15名によって結成された。指揮を3年生の川崎、毎日工作室によっておいて金属性の響きをこだましている」と「プランスバンド結成」という記事が昭和25年の青雲時報創刊号に紹介された。昭和18年、粂川秀夫氏の4,000円、渡邉熊四郎氏1,000円の多額の寄付の中から1,000円で購入した吹奏楽器は、なぜ物置に放置されたか定かではない。鬼畜米英と叫ばれた戦中の混乱期に、西洋音楽が禁止されたのかもしれない。
 昭和25年、田中正苗先生を顧問に迎え、寺中哲ニ氏(元北海道教育大学函館分校教授)らが中心となって創立。当時市内の高校では最初の吹奏楽部であった。翌年昭和26年、インドから「インディラ」という像が来た時に初行進、その年から青雲文化祭などの学校行事に参加するようになる。市内各校に吹奏楽部が出来始めたのもこの頃である。
 ●平成17年度
 吹奏楽部は、現在54人で活動しています。人数がとても多いので大変なこともありますが、みんなで一つの音楽を作り上げていく事は本当に楽しいです。他の部に比べ、1年を通し一番忙しい部活であります。一人一人が向上心を持ち毎日一生懸命に練習に励んでいます。来年のコンクールは、東高校として出場できる最後のコンクールです。全道大会出場・全道金賞を目標に、一日一日を無駄にせず、みんなで一つとなってがんばります。    
                                 「ひんがし42号」より
 (平成17年度、吹奏楽部 北海道吹奏楽部コンクール函館地区大会 高等学の部 A編成 金賞)
*写真は平成16年8月の吹奏楽部。校舎前で撮影。 
□ 郷土史研究部
 「本校の郷土史研究部は従来考古学部とよばれていたが、研究の視野をひろげ地域社会の歴史的発展の姿より対局的に把握するため、昭和36年度からその名称を郷土史研究部と改め発足した。
 函館という地は、ある意味において北海道の文化の発送地であり、市内及び近郊には極めて豊富な研究対象が存在している。加えて市立図書館には貴重な資料や遺跡等が多量に保管、展示されてまたそれ等機関の学術的かつ啓蒙的活動はめざましいものがある。
 二つの点からして本校の郷土史研究部はまことに恵まれた環境にあるといえる。しかしながら、この部の仕事は地味なものであり、またたゆまぬ努力を必要とする。研究の成果をあげようとしてあせったりしてはいけない。研究の成果というよりも、むしろ研究の過程が重要である。
 研究の経過をまずしっかり身につけなければいけない。そして部分的にとらわれることなく、つねに対局的見地から問題を解決し、学校のクラブ活動の目的をよく理解しながら研究を進める必要がある。
 さいわいにしてよい指導者、よい先輩はたくさんいる。これ等の人々の指導助言をかみしめ、一歩一歩と確実な足どりで前進したいものである。         
        昭和36年5月 「青雲台史 1」(B5ガリ版刷46頁)より
*写真は、郷土史研究部発行「青雲台史4」
 ●昭和58年度
 お祭りは好きですか? 今、この部では函館で行われている港まつりのような祭りからあまり知られていないものまでゼーンブ楽しく調べています。「郷土史」といっても名前から想像してしまう所とは大違いで、年々ジワジワとこじんまりしてゆく中でみんな(と言っても5人ですけど)楽しくがんばっています。ただ今、部員募集中です!
        「ひんがし20号」より
 ●「函館東高等学校の前進函館市立中学校に考古学部が設立され、1947〜48(昭和22〜23)年のモヨロ貝塚の発掘、1949(昭和24)年のサイベ沢の発掘などに活躍した。この函館東高等学校は1960年(昭和35)年から『CENOZOIC』(セノゾイックとは地質年代の新生代)を発行、1996(平成8)年まで同誌を『青雲台史』と変え継続して刊行した」 山岸良ニ著「古代史の謎はどこまで解けたか」の別表1.北海道に於ける戦後考古学発掘史より

□ 社会活動部
 社会活動部とは福祉に関するクラブである。クラブの名前からだけではその内容は理解できないであろう。
 社会活動部というのは他校にもあまり見られないクラブであると思うし、部員は福祉をとりあげることに誇りをもっている。社会活動部が本校のクラブとして正式に認められたのは昭和39年である。最初は同好会として34年に発足、35年には「児童愛護班」という形になり人数もふえて成長している。「恵まれない子供達に愛の手を!」をスローガンとして掲げて、人形劇、紙芝居、歌で、施設から施設へと慰問を続けた時代であった。                   「30年史」より
 ●平成6年度
 我社会活動部はギターを弾く人、剣道ができる人、歌のうまい人、ボケがかわいい人、生徒会に入ってる人など総数21名のボランティアの部活です。これまでにおしまコロニーなど施設の運動会や学園祭、学生募金、ボランティア交流会、研修会など様々な行事に参加してきました。校内では学校周辺のゴミ拾いや信太郎池の清掃、また何名かは手話講習会にも参加しています。話は変われますが社活の部員は“怪しい”と思っているあなた、それは大きなまちがいだ! 社活だってボーリングするしカラオケにいくし大森浜で啄木さまと青春したりもするのだ。(怪しい・・・)そんな個性豊かな21名のモットーは遊びと勉強とボランティアの両立。さぁ来年もガンバルゾ!!
 社活に幸いあれ――
                                 「ひんがし31号」より
□ 演劇部
 演劇部の創立は、昭和22.3年頃ということで永い伝統を受け継ぎ本校の文化クラブや市内の高校演劇会に於いてその中心的役割を果たしていた。創立当時部員も30人から、多い時には40人に達し、男子部員が中心をなして活動し、男女共学になってからはバランスがとれた。                          「30年史」より
 道南地区全体に目を向けて見ると、かつて演劇部の数は20校近くに及び、合同公演を行うなど活発さが見られた。しかし徐々に生徒の演劇離れが続き、地区全体としても、部の数・部員の数ともに減少と一致をたどり、平成3年現在では地区大会参加校は8校という状況である。テレビ文化、受験競争の激化が、若者の創作的行為に必要な意欲も時間も奪い取ってしまったのだろうか。昭和56年を最後に合同公演は行われていない。
                                「50年誌」より
 ●平成13年度(第51回全道高等学校演劇発表会=右写真はその時の紹介) 

  函館東高校(道南支部代表)
  上演作品: ただそれさえも平穏な日々
  作  者: 藤田 恭将 (生徒創作)
  上演時間:平成13年11月18日(日) 14:50〜16:10

  函館東高校演劇部は4年前に復活したばかりで、現在10名で活動しています。殆どが舞台経験なしと言う中での全道大会出場となり、喜びよりも驚きを感じています。今回の作品は部員の個性を活かしたとても面白い劇です。未熟な部分もありますが、私達の思いが伝わるようがんばりますのでどうぞよろしくお願いします。
 ●平成17年度
 こんにちはっ、演劇部です。今年度、ついにやってしまいました!! なんと4年ぶりにの全道大会出場!! 私達にとって初めての全道でした。やはり北海道は広く、実力の差を見せつけられました。でも! 色々な事が学べた大会でした。よっしゃ、来年を行ってやるゼ全道!! 待っているよ。
 三年生の先輩方、私たちはあの秋の奇跡を絶対に忘れません。来年は部員を増やして頑張っていきます!! 本校にお疲れ様でしたぁ!!
                                「ひんがし42号」より
□ 漫画研究会同好会 平成6年度
 マンガ研究同好会は現在会員7名(?) 1年に1度青雲祭の時にしか公開活動していない。ひそかで、かつ有名な同好会である。お昼はうるさく、売店のおばちゃんに迷惑ばかりかけ、そのかわり放課後は静か。それなのに窓はあけっぱなしで夜警さんのお怒りを受ける毎日である。特長としてまず一つに会員は7名(?)いるくせに会長がいない。仮の会長が一人いるが、それはあくまでも仮。つまり実際には会以外に陰の権力者が存在し、その偉大な力に頭を上げる者はいないのだ。二つ目に、昼時にしか集まらない。また特殊な時間に人目をしのんで集まる時もある。さて、マン研の活動内容を会計の私が極秘にお教えしょう。実は・・・。ハッ影の権力者が私を見ている。おゆるし下さい!うぐっ・・・・。             
                                 「ひんがし31号」より
 ●平成17年度
 私ちは「漫画研究同好会」は、2005後年夏、全国規模の予選を勝ち抜き、高知県で行われた「まんが甲子園」に行ってきました。結果は決勝戦敗退でしたが、全校300校の参加の中で、ベトス15という結果を残すことができました。
 現在2ヶ月に1度のペースで「点検済」という部誌を発行しています。これからも活動の場を広げて、個々のスキルアップを目指して行きます。
                                「ひんがし42号」より
*平成17年度8月7日、高知市文化ブラザかるぽーとで「まんが甲子園」が開催された。写真はその時の同好会の作成現場。
第14回まんが甲子園の意気込みそのイメージ 

□ フォーク部 昭和47年 同好会発足
 みんさんもご存知のように『三つのかけら』が主体となってできたのがこのフォーク同好会で、6月1日に議会で承認された。放課後、耳をすましていると1階のV・Fからギターと歌声とのすばらしいメロディー(ハモニー)が聞こえて来る。会員も多数おり、また、どこからとなく歌声に引かれて数人がまぎれこみ一緒に歌を歌っているという。“三つのかけら”は現在、函館フォークソング愛好会に入っており、校内にもフォークを広めようとしている。今年の文化祭は楽しませてくれよう。とにかく興味のある人は、1階の青雲記念館に行って見よう。毎日楽しい歌声が聞こえてくるよ。            
                                昭和47年7月20日発行「青雲時報第89号」より
 ●平成17年度
 フォークと聞くと、何かおじさん臭い感じがしますが、実際は「軽音楽」です。先輩達も「軽音楽部」へ改名を試みましたが、諸都合で「フォーク部」のままです。活動は好きな日に佐々木先生の元に予約し、部室の鍵を借りて好きなだけ演奏する、とかなり縛りの無い部活です。学校祭期間となるとすごく賑わいます。
 学年なんて関係ない!必要なのは音楽に対する情熱だけ!フォーク部に入部して一緒にバンドを組んで学校祭ライブに出ましょう!    
               「ひんがし42号」より
右写真:「1980年の青雲祭の(フォーク部の)イベントです。サッカーグランドの端っこでやった、NHKFMの公開録音」。
写真・文提供:MAVERICKさん

□ ESS
 ESS(English Speaking Society)は、昭和38年4月、それまでの英研部を改名した部である。その前身の英研部は昭和28年に生徒議会で承認されているが、その源を調べると、函館東高誕生の年である昭和25年には、同好会としてスピーチ等を行っている。その中には、後に大学英語教育学会(JACET)会長を努められるなど日本の英語教育界を牽引しておられた田辺洋二早稲田大学名誉教授(東高1回生、平成16年逝去)がいた。当時、メンバーは輪読会を続けていたという。そのメンバーには長年母校で教鞭をとられていた俵浩治先生も含まれていた。(今なおTalk田辺英語教育学研究会が存在している)
 ●平成16年度
 現在ESS部は普段月、金曜の週2回活動しています。ただ11月の弁論大会の1ヶ月ほど前から毎日活動です。
 普段の活動ではディベートをしたり、週末の出来事についてお互いに話をしたり、町に出て外国人へインタビューなどもたまにします。そしてそれらは原則として英語で行います。英語に関心のある人はぜひ一度いらして下さい。
                                「ひんがし41号」より
□ 珠算部
 昭和28年ころ購買部の活動が本格化し、珠算がある程度出来る者が集まって練習を重ねて経営されていた。これが珠算部成立の発端である。同年、授業の選択科目として“商業科”が入り、併せて珠算部が創立された。そして珠算部の直接指導に当って頂いたのは函商定時制教諭佐藤一男先生であった。先生には昭和37年頃まで指導を頂いた。
                                「30年史」より
 ●昭和47年 珠算部廃止
 5月18日(木)第2回定例議会において本校珠算部の廃止が承認された。生徒会長の説明によると“昨年より活動が停滞している。47年度で予算要求もないのでクラブ・同好会細則15条によって廃止する”ということである。
 ・32年全道2位、・・41年再設される。 ・45年 道南2位
                                昭和47年7月20日発行「青雲時報代89号」より
□ 将棋部
 将棋部は、昭和44年同好会として発足したが、昭和46年7月、生徒議会で正式に部に昇格した。これまで予算もなく、手作りの将棋版で活動してしたが、やっと予算がついて、やっと並の将棋盤と駒が揃った。当初は東高生に将棋を普及させようと校内将棋大会を開催したり、函館地区高校将棋選手権大会に参加したりしていた。その地区大会に初めて出場して、団体2位という成績を収め、以後函館地区では殆どといっていい程2位にくい込み、昭和49年には団体優勝したことすらあった。
                                「50年誌」より抜粋
 ●平成6年度
 将棋はコンピユーター頭脳を育てる、21世紀の知的レクレーションであります。将来は、ボケ防止にもなるというおまけつきで、奥が深い分それなりに楽しめます。大会は1学期に1回あるぐらいなので、かけもちをどんなにしても苦になりませんが、少数の部員は初段にも遠くおよばないひよっこばかりです。
 部員が少ないので入ってくれとは言いません。ヒマをもてあまし興味のあるかたは、遊びにきてください。特に公文式数学の工教材をクリアーした人は将棋をやりましょう。羽生になれるかもしれないぞ。
                                「ひんがし31号」より
□ 応援団部 昭和27年度 軌道に乗る応援団
 道南スポーツ界のトップを飾る高校駅伝競走が、去る11日に開かれたが、これを契機に各校が花火を散らす競技を展開させている。
 これとともに各校応援団も急に活気づき、高校生らしい情熱で互に応援の交換をしているが、本校応援団も昨年より勝るともおとらぬ熱で、団長に黒川鉄造を、その傘下に鈴木、釣屋、小林等が連綿と続き、本校応援団の充実さを物語っているが、これに更に力を入れさせた佳話がある。
 それ本校応援団のためにも亀田電停前の大坂屋呉服より、応援団旗布縦2尺(1尺=約30cm)、横3尺のもの25枚、縦2尺横7尺5寸ののぼり2枚が贈られ、更にこれの染代として黒川初五郎氏より5千円、黒川秀穂氏より2千円、旗竿は吉田町の(?)田金次郎氏より26本を寄贈され、関係者を多いに喜ばせた。
 このような好意に報いるためと黒川団長以下大変な張り切りようであるし、道南随一を誇るブラスバンド陣を背後に控えているので、今後は目も彩な応援団振りを見せてくれるだろう。 
                                昭和27年度6月1日「青雲時報第10号」より
 ●平成6年度
 我々応援団(=写真)の今年の活度は、応援内容の改良によって活発化し、壮行式では気合いの入ったエールを贈ることができた。応援団としての風格を保ち、心を込めた応援に努力した先輩の活躍は大きかった。
 今年は、活動の場がわずか2回の壮行式だけで出番が余り多くなかったが、部活動の皆さんに活躍してもらうためにも、一回一回気合を込めて頑張った。
 活動は、壮行式と硬式野球の全道大会以外はないが、出番になると一気に燃え上がり完全燃焼するのが応援団である。3年生が抜け、現在4人しか団員がいない。来年のために、やる時にはやる、という同士を求めている。
                                「ひんがし31号」より
□ 写真部
 本校におけ写真部の歴史は比較的新しく、昭和56年に、同好会として発足し、昭和59年には部に昇格した。しかし、それ以前にも本校においては、美術部の写真班があり、1970年代前半ころまで活動を行っていたようである。
 ●平成12年度
 みなさんは写真部にどんな印象を持っているでしょうか。印象づけるほど表舞台に出たわけでもないけれど。恐らく多くの人が持っている「写真なんてお手軽なもんだべさー」というフィーリングはちょっとピントがはずれていることは写真部の活動を見てもらえば一目瞭然である。部活動達の華やかさとは裏腹に作業は実にめんどくさい。とにかくめんどくさい。めんどくさいことが大好きな人に最適な部活でありますぞ。
 ●平成13年度
 写真部は、実はちょっとした歴史のある部です。というのは、一旦無くなった部を、今の3年生が復活させてくたれのです。そして、その先輩たちはみなさんいい方達ばかり。一緒に部活動できたことを、一同誇りに思っております。写真部の素敵なところは、自らの手で原液まで出来ちゃうところ。我々のモットーは(今決めたんですが)『いい写真を撮りまくること!』誰の心に響くようなモノができたらとても満足です。頑張るぞー!
                                「ひんがし37号、38号」より            
□ 新聞局、昭和26年「新聞局と改称、局の新編成る」
 昨年、各クラブと共に発足した新聞部はその後4号発刊まで運営して来たが刊を重ねるにつれて部の特異性と予算の関係が種種問題にされていたが、先日開かれた定例議会に新聞部を新聞局とし生徒会直属とすることが提出された。この問題は2号発行当時から一部で相当協力な声がでいたたものであるがその早期出現をみなかったわけであるが、その結果多数の賛成を以って可決された。また局長は一般公募制で局長は生徒会議会の指名にもとづき3Gの渡辺到金が任命された。
                  昭和26年7月8日発行「青雲時報第5号」より
 ●平成17年度
 約2年間「青雲時報」作成に携わって、校内外に関わらず、たくさんの人に出会い、色々な部を聞くことができました。このような新聞局の活動は、ただ何気なく毎日をすごしているよりも、はるかに貴重な経験ができて、自分の中で大きな糧となりました。色々大変な時期もありましたが、本当に多くのことを新聞作成から学ばせてもらいました。2年間ありがとうございました。
                               「ひんがし42号」より 
参考:創刊100号記念、「青雲時報縮刷版」発行(当ホームページ)、プログ、青雲時報縮刷編集室 (写真は同ブロク゜から引用)
□ 放送局
 東高放送局(THK)は、昭和26年に放送施設が整備された時から始まる。しかし最初は技術・企画には生徒を用いず、アナウンサーのみ生徒を募集した。その結果33名が応募し、その名から4名が選伐された。この時からNHKの研究指定校として委嘱され、昭和31年には研究発表された。
 昭和56年、校舎改築によって放送室は現校舎に移転した。放送室は明るくひろくなり、調整卓が新しくなった。視聴覚設備が一機に充実した。ビデオ機材が備えられ、各教室にテレビ及び放送装置などが設置されている。
 これまでの日常活動は昼休みと放課後の呼出し放送、昼の音楽放送、各種行事のセッティングと司会アナウンス、学校行事の音の記録であった。それに映像の記録が加わることになったのである。これに伴い、コンテスト参加も、これまではアナウンス・朗読・ラジオ番組部門だけであったが新たにテレビ番組部門参加への道が開けたのであった。生徒はこれを契機に研究発表部門も手がけ始め、これがコンテストで昭和57年から設けられたNHK総合優勝を獲得することにもつながっていくことになる。
                                「50年誌」より
  ●平成17年度
 こんにちは。放送局です。私たちは今、2年生5人、2年生2人の7人で楽しく活動しています!! 昔は汚かった局室も、今ではこんなにキレイに!・・・なったはず。 そして!!私たちのモットーは「心を一つにドキドキ+Make Up」です。私たちの作品が、見ている人をドキドキさせられたらなぁと思って頑張ってます。 少しでも放送に興味のある人!! ぜひぜひ放送室に来てください!! まってまぁす。                 「ひんがし42号」より
 当ホームペジには、東高放送局製作のラジオドキュメントが収録されている。
*平成13年度第48回NHK杯高校放送コンテストラジオドキュメント部門全国大会出場作品
 『東高応援歌よ、永遠に!』(6分59秒)
*平成18年度第53回NHK杯高校放送コンテストラジオドキュメント部門全道大会出場作品
 『思い出のよすがに』(6分53秒)
写真は放送局顧問の坂井淳先生が作成されたCD(関東青雲同窓会HPラジオドキュメント参照)
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