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さいなら、旧校舎
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 1983(昭和58)年3月7日、「体育館を除く旧校舎すべての開催作業(〜8日)。全職員、生徒はその光景を眺めながら感無量の思い。美術部は第一グランドで名残りを惜しむ凧揚げ。8日の教務日誌は“校舎解体完了、瓦礫の山と化す”と記す」と沿革略年表にある。
 戦中戦後の風雪に耐えてきた40年の歴史ある校舎が解体された。
 青雲台の3万坪の校地に堂々たる新校舎が完成し移転したのは、戦時下の1943(昭和18)年のことだった。
 初代岡村校長と市の小南課長が全国有数の学校を視察し、「戦時下木造建設として新機軸多く、簡素質朴の中に通風採光防火等完璧を期して」作られた当時考えられる理想的な美しい校舎だった。
 (創設物語の岡村校長の「梅津翁に感謝、校舎新築竣る」参照)
 1958(昭和43)年5月16日、死者52人家屋全壊673棟の十勝沖地震でも函館大学は破壊されたが、木造の当校の本体の損傷は少なかったのの、集合煙突は完全に機能を停止し、すべて土管煙突に切り換えることになった。
 1974(昭和49)年、校舎改築期成会が発足。1978(昭和53)年第1期工事が着工され、その後8年に亘る工期を経ることになる。
 この年2月、新校舎5期分と食堂が完成し、全クラス新校舎に移転を完了する。そして、この日を迎える。 

*写真は昭和18年6月27日発行「函館市立中學校畫譜」より。昭和18年5月廿8日津輕要塞司令部檢閲濟」と印刷されている。                    
☆旧校舎について☆ 池田高峰
(1) 構想雄大の事
 全国的視野にたち、東京以北随一、将来高等教育機関への昇格発展をみこして建てられた校舎だけであって、その設計施行は雄大であった。広い教室を数多く配置し、自然科学系の研究室・教室を重視し、廊下の巾や高低にこまかい配慮をする等、一般的な常識をこえたすばらしい建築でした。当時の函館市民のプライドや意気ごみといったものを感じます。
(2) 樹木と一体の事
 旧校舎を語る時、まわりの樹木との関連が重要です。「木のないところに人は育たない」とする(岡村)校長の教育方針もあって、校地に多くの樹木が植えられました。その結果、緑にあふれた好ましい教育環境ができあがり、人間味ゆたかな人材を養成することが可能になりました。緑と一体の校舎、その精神はある意味において本校の伝統になりました。
(3) 屋根が弱点の事
 どんなに立派なものでも、どこかに弱点があります。旧校舎は昭和17年つまり太平洋戦争中の建築物であり、当時は資材不足の時代でした。戦時中の悪条件のもと、関係者はきわめて良心的に工事をすすめましたが、その努力にも限界があり、あとでいろいろと欠陥を生じました。
 その代表的なものが屋根でした。具体的にいうと雨もりでした。事務長さんや先生方が雨もり対策に相当なエネルギーをつかったように記憶している。屋根のすき間に石炭ストーブの火の粉が入り、ボヤ騒ぎをおこしたこともあり、旧校舎の泣きどころ、アキレス腱的なものでした。
(4) 旧校舎とのつながりの事
 新しい校舎が八分どおり出来あがり、旧校舎について思い出はしだいにうすれ、卒業生同窓諸氏の心の中にだけ残るものとなりつつありますが、本校の将来的発展を考える時、旧校舎において育まれた伝統的精神を再思三考する必要があります。伝統の継承発展つまり、ふるい時代のよいものを新しいいれものに入れる工夫が大事になります。形はなくなっても、決して失われないもの。私達は新しい校舎にそれをひきつぎたいと思います。
                                     1984年3月10日発行「ひんがし」第20号より
☆東高風土記☆ 生徒アンケートより抜粋
 一番最初に東高を見た時の印象は?との問いに一番多かった答えは、古いとかボロイとかで、まあこれは予想の通りの結果です。参考までに人数は、回収した175名中77名です。次に目立ったのはきたない(これは15名)とか、歴史の重みを感じるとか、趣があるとかいった類です。そうそう広いと思った人も多かったです。

・現校舎は国宝にすべきだ。燃えるまで新校舎建設反対!!
・文化財保護法において守られるべきだ。新校舎なんていらん
・新校舎はいやだ、雨もりも寒いのもがまんするから壊さないでほしい。
・もどっていたときに現校舎がないと、他の学校に来たみたいだと思う。次に来る人にはいいかもしれないけどね。
・現校舎がなくなるのはさびしいが、体育館が新しくなってますます体育系クラプが発展することを期待している。
・決まったと聞いた時には、五体に快感が走り、目がしらが熱くなり、背筋がゾッとし、火をつけようかと思った。
・トイレをふやし、すきま風をなくし、石油ストーブにすれば、このままでいい。
・どんなに古くても、夏暖かく、冬寒い学校だっていいじゃない。それが東高らしくて、ずっと残してほしいな。
・ぼろくても、東高はこの校舎でなくちゃあかんのや。鉄筋コンクリート3階建、水洗トイレ付だなんて、それが東高かや!? なんだかんだ言ったってこのボロ校舎がなくなってたら・・・・さうざうし。

◎便所のお話
 (これがどういうわけか、とても多かったのです。3年生はトイレが好きなようで・・・なあ、毎日行くところですからあたりまえでしょうが・・)
 冬になると、用務員室以外の水道管は、凍結防止のため、水をださないようにします。そのおかげで、便所で用を足した後で手を洗うのに困る――で結局、外に出て雪で手を洗うか、遠い道のりを歩いて用務員室まで行くか・・・また・・手を洗わないか・・・おそらく、一生忘れないでしょう。冬の間手を洗わなかったことは  V年 没落貴族
◎教室のお話
 1年生の時、英語の授業中――天井のはりがこわれて、穴があいていたところから、ボトンと生まれて間もないネズミが落ちてきて、みんなで授業そっちのけで、ネズミをつかまえて、大騒ぎをした。
 天井から机の上へ何とウジ虫が降りてきた。自然に恵まれた校舎とつくづく感じた。
(こんな話を読んで、驚いたというか、東校の古さにあらためて関心したというか・・・。だってコンクリートの天井からネズミやウジ虫が降ってこないでしょう。
                                      1979年3月10日発行「ひんがし」第15号より
*右写真は1966(昭和41)年の卒業アルバムの校舎全面。
☆母校の教員を終えるにあたって☆ 星 滋子先生(東高11回生 旧姓太田さん)
 昭和61(1986)年のことであった。教務部長だったY先生が、昼休みにふらりと国語科準備室に見えた。カリキュラム改変などで激務のさなか、珍しいことである。市中2回生で大先輩の先生は、開校当時の思い出を懐かしそうに話して「それじゃあ」とソファから立ち上がって行った。それからわずか1週間後、先生は帰宅後に倒れ、そのまま天に召されてしまった。
 函館東高校の前身、函館市立中学校は昭和15(1940)年に開校した。軍国主義だった当時、日本が建国して以来紀元2600年になると称して、提灯行列を行なって祝った年だそうである。今の校地に移ったのが3年後で、初代校長岡村先生は、紀元2600年に開校したのだからこの地に2600本の樹木を植え、緑あふれる学園にしよう、と提唱して率先してみずから植樹に汗を流した。Y先生によれば、当時は心身を鍛えるため、市内一円からの通学はすべて徒歩によるという校則があり、生徒指導部の先生方は、朝、杉並町・柏木町の電停に張り込んで、市電で来る不心得者の指導に当った。その校則違反者を、放課後、校長が待っている。校長はすでに脚にゲートル(巻き脚絆。脛に巻いて動きやすくするもの)を巻いていて、「よく違反してくれた」と喜んで迎える。一緒に猫車(一般の運搬車)にスコップを積んで出発。近い場合は営林署、遠い時には亀尾の紅葉山あたりまで若木をもらいに行き、校地に運び、穴を掘り、一本ずつ植えていく。もちろん全校一斉の作業で植えたのもが大半だが、そうして育ったのがこれらの木々だよ、とY先生は目を細めて窓外に見やった。
 私は、東高在学中、やはりOBの先生から、開校当時盛んに言われたという「青雲魂」とか「三倍主義(三倍努力しよう。函中より開校が遅いのだから追いつくための分。向うも努力をしているのだからその分。さらに追い越して引き離すための分。合計3倍がんばろうというもの)」についてよく聞かされた。卒業して8年後に教員として母校に戻ったとき、ボロ校舎が懐かしく愛しくてならず壁・柱・窓の桟などを撫でさすりながら歩いたものである。が、Y先生の話を期して、今度は校庭の樹木一本一本も愛しくてならなくなった。
 語り部にならなければ、と思った。あの時、Y先生はご自分の死がつい1週間後とはつゆ知らず、ただふっと息抜きに後輩の私に語ったに過ぎなかったのだろう。だが先生のあまりの突然の死に、私はなにかしら運命の糸のようなものが感じられて、しきりに身が震えてならなかった。
 今の私はY先生の年齢を超えてしまった。学校を取り巻く環境も大きく変わった。また、学校自体が大きく変わろうと新しい風が吹いている。しかしどんなに変わろうとも、開校の精神が生き続けている限り、学校が無くなるということはあり得ない。校庭の木々が校舎を黙って見守っているように、私も、この愛してやまない函館東高校の発展を、今後は外から静かに見つめて続けたいと思う。
              2003.年3月1日発行「ひんがし」第39号より 
*写真は1973年当時の星先生。右写真は、1942(昭和17)年、新校地整備のための勤労奉仕の模様
☆旧校舎について☆ 上野輝三先生 (東高3回生)
 旧校舎につていの思い出といっても、ずいぶん古い話で、30数年前東高生として生活していた頃の話である。東高の校舎にはじめて入ったのは昭和25年の4月、1年生として入学した日である。戦後の混乱もようやく落着きはじめ経済もようやく安定しかけてきた頃だが現在の生活からみると何もかも貧しい時代である。破れた帽子をかぶり、汗にうす汚れたつめ襟の学生服を着て、高下駄をはいて通学した。勿論当時は娯楽とかレジャーなんていうものは無縁のものであったから学校生活そのものが青春時代の生活のすべてであったといってよい。そんな中特に思い出深いのが生物実験室である。3年間生物部に入り、空き時間、昼休み、放課後の殆んどは生物実験室で過ごした。18年後に生物の教師として東高に赴任した時、在学当時3年間生物部の顧問としてお世話になった日野先生をはじめ、当時の恩師が7、8人いらしゃっていて、急に自分が高校生時代に戻ったような気持ちにさせられた。日野先生と懐かしい昔の話をする時、きまって出てくるのが当時我々生物部員のやった数々のバンカラ行為である。当時、まだ青雲記念館もなく、あの辺に牛舎があり牛を何頭か飼育していて、その牛乳を安価で生徒に飲ませていた頃であるが、その牛舎に化学部から薬品を入手し、黒色火薬をつくってしかけ、爆発実験(先生はいたずらと見たのは当然)をやった。建物やなんかは破損はなかったがすごい轟音がし、皆びっくりしたらしい、特に牛舎の管理をしていた渡辺浩雄先生が「牛の乳がとまるぞ」と烈火のごとく怒り追いかけて来た。皆くもの子を散らすようにそれぞれの隠れ場所へ、私はせっぱつまって生物実験室のすみにある水道の止水栓のふたを取って床下へもぐり込んだ。暗さになれて周りを見渡すと床まで1m以上あり、腰を少し曲げると楽々歩きまわれる空間が広がっているではないか。それ以後床下が生物部の第2の部屋となったのである。
 それから今の学校生活から創造もつかないだろうが、当時の先生方も若く生徒と一緒に青春を謳歌していたし、今のように細い規則やしめつけもなく実にのびのびしていた。学校祭ともなれば我々文化部は年に一度のアピールとばかりずい分張り切ったものである。
 学校祭の1週間前から毛布、ナベ、ハンゴウを生物実験室に持ち込み、徹夜で展示や公開実験の準備をした。夜食は予備実験の解剖材料(犬、兎、猫、子山羊等)野菜も学校の裏へ行けばいくらでも畑の中にある。ガス、水道も自由に使えるし、こんなすばらしい環境はめったにあるものではない。
 それにもう一つの思い出は深夜の校舎である。昼間大勢の生徒の居る時と違い異様な雰囲気である。準備が一段落すると先輩に云いつけられ、恐怖に顔ひきつり深夜の校舎内を探検させられた。勿論事前にたっぶり話を聞かされてである。学校にはどこの学校でも怪談の一つや二つ必ずあるものだが、東高校にもあった。まず階段教室(後に地学実験室に改修)の怪談、第二体育館から第一体育館へ行く廊下の壁の中にある秘密の通路と秘密の部屋(この話は体育のH先生がくわしい)、前庭の右端にある柳(葉が全部ねじれている)大木の怪、第一グランドの向う側にあるアカマツ林に出る幽霊の話(この林では過去何回か首つり自殺があった。)あげていくとまだまだあるが、どの話も真実みのある恐ろしい話で先輩や、時には先生からも聞かされた。
 今考えるとどれも子供どましの創り話かもしれないが、旧校舎を偲ばせる思い出である。
                                   1984年3月10日付「ひんがし」第20号より
*図2枚は昭和28年度の北海道函館東高等学校「學校要覽」より
☆わたしの東高八景☆ 対馬俊明先生 
1.旧校舎正面
 旧校舎の正面には車寄せが設けられ、その全面に植え込みと石組みのロータリーがあり、そこから左右に2階建ての教室棟が連なる全景は実に堂々としたものだった。
 私が就任した昭和40年にはすでに古色を帯びていたが、函中に対する市中として市民の期待を担って発足した当時の偉容は十分に残されていた。
 4月、初めて函館東高校を訪れた時、私は入口をまちがえて、営林局の脇にあった小道を通って第1グランドの土手の上から校舎と対面した。樹木に覆われて、両翼を広げるようにして立つ校舎の姿に私は見とれた。この学校なら自分を賭けてもいいいいと思った。
2.ヴェルサイユ階段
 旧校舎中央には、巾の広い階段があり、明かり窓のある踊り場から、左右に別れる階段を登った所には、梅津記念室という模様入りの壁紙が張られた大きな部屋があった。私が赴任したころの東高は、生徒も先生もその伝統と校風に高いプライドを抱いていて、新参の若年教師など相手にしてくれないようなところがあった。「伝統に支えられたわが校の校風」というのはよそ者にとっては謎めてい呪文のようなものであった。迷路の出発点は、このヴェルサイユ階段とあだなされた場所にあるらしく、私はしばしばこの階段をため息をつきながら登った。
3.旧体育館
 壮行式には、木の梁がむき出しの縦に長く薄暗い体育館が拍手と歓声で沸き返った。歓声の中に、「新海さぁん」「上田さぁん」と先輩の名前を呼ぶ声が混じる。袴に高下駄の応援団が巻き紙の檄文を読み上げる。体育館での行事で生徒が示す熱気は感動的なものだった。
 東高生え抜きの先生方のエリート意識には入り込めない私は、ひたすら生徒と一緒に文芸部で詩を書き、弓道部を再興し、生徒会を担当して、生徒の自治について議論をたたかわせた。学園紛争の最中の生徒総会では、どんな意見が飛び出すかわからない時代だった。服装の自由化が決議されたのもこの体育館だったし、若手の先生方と青春座を結成し、初めて“白鳥の湖”を踊ったのも体育館の小さなステージだった。座って見ている生徒たちに縞々バンツが見えて、皆、のけぞった。
4.校舎解体風景
 昭和53年に始まった校舎新築工事は、7年間続き、毎年どこかが壊されて、校舎が生まれ変わっていった。新しくでき上がっていく校舎はたしかに安全堅固なものだったが、旧校舎の迷路のような廊下に繋がれた大小不揃いの教室に比べると画一的で寒々と感じられた。豊かな時代が来ていた。生徒の気質も伝統も校風を論じるより、学校生活を各自が楽しむ姿勢に変わっていた。
 立会演説会で、ある生徒が、体育会の梁にぶら下がった電燈を指差して、「諸君、見上げてごらん、東高の伝統は君達の頭上にある」と言ったが、その伝統は校舎の解体を前に、風前の燈光であった。
 57年3月、ブルドーザーのアームの一撃ごとにもろく崩れていく旧校舎の風景を私は忘れない。最初の一撃の瞬間に数十羽の鳩がいっせいに校舎から飛び立った。まるで崇高ななにかの魂のように。
5.教室にて
 新校舎の教室棟の廊下からの光景を私はどうしても好きになれない。それはたとえばブロイヤーのゲージのようだ。一方、教室の窓からの眺望はすばらしい。校舎が北側に後退したためにこのようなロケーションが生まれたのだ。四季折々変化する遠景の緑と、未整地のまま残された芝生、その中央に偶然生き残って立つヤチダモの木。私は授業中にその光景に見とれた。そういう時にいつかノートに書きつけた詩がある。

  教室にて

    ひっそり静まった教室の中に
    君たちがノートを書き写す文字の向う
    そこだけ日の当ったやちだもの木の下で
    きらきら輝きながら飛び跳ねるものはなんだ
    特に小さい声を上げながら、雪虫のように群れ遊ぶものはなんだ

    未来は、わたしが告げるのろいのようでも
    君たちがその眉の間に止まらせている
    夢のようでもない
    ある日突然幕が上がる
    あがりっぱなしの舞台の上で
    君たちは思い出すのだ
    あのヤチダモの下で、飛び跳ねていた自分を
    どうしょうもなく日差しに向かって
    ふるえるように笑っていた自分を

    わたしは知っている
    しかしもう少し 君たちはじっとして
    その空白のノートを
    わたしの 砂の文字で埋めなさい

6.新体育館
 新校舎の中で一番すばらしいのは体育館だと思う。特にギャラリーからフロアを見下す光景が私は好きだ。対面式から、行燈制作、球技大会のバレーにいたるまで、生徒がそこで沸き返るように動いている姿を見るといつも胸がドギドキする。東高には若いエネルギーを集中させる場所がいくつもあるがそれを目の当りにできるのが体育館のギャラリーだ。
(東写真は新体育館、2007年3月2日の閉校式)
7.職員室にて
 昭和41年に1年生を担当して、8サイクル24年間担任を続けた。その後、一人でする仕事が多くなり職員室から窓を眺めながら過ごす日が続いた。生徒は、いっぱしの大人だった昔の高校生から、素直で聞き分けのいい生徒に変わり、共通一次試験の実施のころから学力、進路の重視の時代になっていた。机の上の仕事は成績の記録や、授業時間の配分だったが、生徒と直接接してしない時間を西側の窓から情景が慰めてくれた。
 四季が何度かそこでめぐった。
 年に一、ニ度夕日の逆光を浴びて窓全体が真っ赤に燃え立つことがある。寂しいが荘厳な瞬間だった。
8.校門のある場所
 59年に「ときわ通り」が拡幅される時、野球場のレスト側の銀杏の木が切られそうになり、先生方の反対でやっと移植され生き残った。
 平成4年から始まった「松見通り」の貫通工事でとうとう校地は二分されていまった。
 私は、着任の時に校門をくぐってこなかったこともあって、いつのころからか退職の日にはあの桜並木の下を通って校門のところで振り返り、すばらしい生徒と先生との出会いのあった校舎に最後の別れを告げたいと思うようになっていた。ところが校門は移動させられて、今はそこにない。
 私は願う、校地入口にある校門を通して校舎を遠望するというアングルは分断されて「私の東高八景」は七景にとどまる。
 私の思いは東高校を去りようがないのである。
                                  1998年3月1日発行「ひんがし」第34号より 
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