更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2011年2月24日(木)
ヒーローの誕生

以前、『ダークナイト』と『コードギアス』(の結末)、それにシャマランの『アンブレイカブル』と松本大洋『ピンポン』がそれぞれ似ている、と指摘したことがある。

いずれも、ヒーローを生み出すため、正義を実現するために自身を悪に落とす男の物語である。

洋の東西を問わず存在するタイプの説話なのだろうが、何かアーキタイプがあるのではないかと考えていて、ひとつ思いついた。

これだ。


民話じゃなくて児童文学だったのか。しかも初版は1965年というから、思ったよりも新しい。
では西洋には何があるかと考えると、これがさっぱり思いつかない。

オチなし。

2011年2月21日(月)
『メトロポリス』

BSで鑑賞。手塚先生ではなくて、フリッツ・ラングの'26年作の方。モノクロフィルムに着色したリバイバル版はずっと昔に観た覚えがあるが、よりオリジナルに近い版を観るのは初めて。



人造人間「マリア」で有名な映画だがそれだけにとどまらず、このビジュアルイメージの氾濫のものすごさ。

 

 

未来都市のイメージなんてものは、この100年近く全然進歩してないことがよくわかる。鉄道も路面の車両も動いているが、あまつさえビルの谷間の人物もちゃんと歩いている。合成なのか?
ビルの合間を縫って飛ぶ飛行機がプロペラの複葉機だったりするのはご愛嬌だ。
この斬新すぎるビルのデザイン。『ブレードランナー』でさえ、本作の影響下から逃れられない(警察署のビルってこんなんだったよね)。

 

本作は、資本家と労働者の対立・革命・和解を描く作品である。ロシア革命と第1次世界大戦から10年足らずのこの時代、これはもっとも先鋭的なテーマだったはずであり、今も決して古びていない。
地下工場で事故が起き、労働者を飲み込む魔物の貌に変貌するイメージシーン。このシーン、本当に人間が吹き飛ばされて落っこちてるようにしか見えないんだが、どうやって撮影したのやら。

 

 

それはそうと今回観返して驚いたのが、本作の過剰にもほどがあるサービスぶりである。
登場する舞台が、高層都市、地下工場、カタコンベ、研究室、大聖堂、遊郭。
登場人物が、金持ちのボンボン、悪徳資本家、労働者、聖女と悪女(二役)、革命家、煽動者、マッドサイエンティスト、工場長、密偵、司教、人造人間。
扱われるモチーフが、貧富の差、機械と人間、搾取、過重労働、革命、和解、父と子、人体蘇生、貴種流離譚、とりかえばや物語、黙示録、予言、堕落、プロパガンダ、救世主。
中学生が考えたオレSF的要素、いやむしろ娯楽映画の要素を全部ぶち込んだような映画なのだ。なにしろサイレント映画なので演技にこそ時代を感じるが、すみからすみまでモダンである。

以下余談。愛する女性を甦らせようと人造人間マリアを創り出した科学者は、実験の失敗で右腕が義手である。なぜだろう、なんだか激しい既視感が。

  

作中に登場する遊郭の名。おお、はるかドイツにまで鳴り響くウタマロの偉業!


2011年2月15日(火)
『超時空世紀オーガス02』

なんか発作的に観返したくなったのだがレンタルに置いてないので、DVD-BOXを買った。1993年のOVAで、山文彦監督の数少ない監督作品のひとつ。

初見のときからずっと気になっていたのが、5話の左大臣アカマスの閲兵のシーン。このシーンでは、アカマスがまず敬礼した後、閲兵を受ける兵の方が答礼するという動作をするが、これはおかしい。敬礼とは必ず下級者から行うもののはずだ。

  

現に、同じ5話の前半では、アカマスに対して兵の方から敬礼している。

 

山監督はこういうディテールをおろそかにする演出家ではないはずなので気にかかっていたのだが、今回やっと納得がいった。

本作の舞台リヴリア王国の王室では、権力闘争の末に穏健派のアカマスが失脚し、強硬派のケラチ右大臣が摂政として実権を握った。しかし曲折あってアカマスは復権。
隣国ザーフレン王国の投入する巨大アーマー(本作での人型兵器の名称)に対して、リヴリア軍はアーマーに爆弾を背負わせて特攻させる。その非道な任務を与えられたのが、旧ケラチ派の将兵だった。
先の閲兵式は、その出撃前の風景である。アカマスは心ならずもその命令を発出し、兵を見送る。つまりあの奇妙な敬礼は、理不尽に死を命ぜられた兵の無言の抗議を意味する演出なのだろう。

本作の精緻に構築された異世界描写、王族の暗闘から庶民の哀歓まで、数々のサブストーリーが織りなす豊穣な物語性はもはや語りぐさ。1話に登場した強欲な金貸しが、エピローグで代議士に立候補しているなどというのはその代表例だが、2つほどいい場面を紹介。

2話から。マニング中尉(山寺宏一の芸歴の中でも屈指のハマリ役だと思う)がザーフレンの鉱山町に潜入するのに、ドレスの商人を装う。鉱夫にナイトドレスを売るのか、といぶかしむ警官にマニングは、あの町にはそういう女性もいるはず、と答える。その背後の列車内に、「そういう女性」らしき姿が。



5話で、自宅軟禁を解かれたアカマスとマニングが車中で会話するシーン。マニングの真意と正体がここで初めて明らかになるのだが、注目は前席の運転手。彼は以前からマニングの連絡係を務めていた腹心だが、飄々としたマニングと謹厳なアカマスのやりとりを背後に聞いて、無言で微笑む。おそらくおなじみの会話なのだろう。細部まで手を抜かないこういう芝居付けが、リアリティを与える。

 



わずか全6話、たったの3時間弱で、これだけ厚みのある描写ができる。ひいきの引き倒しで言ってしまうが、この20年、異世界ファンタジーで本作を超えたものはないのではあるまいか。

ふと思い立って調べてみると、山監督は1953年生まれ。世代で言うとこんな感じ
んで、上遠野浩平が1968年生まれ。高橋しんが67年、秋山瑞人が71年、新海誠が73年(何が言いたいかおわかりですね?)。
乱暴な議論を承知で言うと、この辺に世代的な断絶があるのかもしれない。とすると、74年生まれの山本寛が『フラクタル』をどのように描くか見所が増える(同世代の演出家として新海を意識しているフシがある)。


古いアニメを見るときの楽しみのひとつがスタッフロール。
1話から。



後の『なのは』監督が。



3話。え、誰・・・・・・?



2011年2月9日(水)
『閃光のナイトレイド』14話

DVD第7巻収録のTV未放送エピソード。
TVシリーズの後日談で、二.二六事件を題材にしている。夜の雪上を走る黒豹のイメージだけでも鳥肌が立つ。

ここで取り上げたいのは雪菜と葛が別れる墓地のシーン。ちょうど2人の間を遮る手前の墓石に注目。明治37年12月18日という日付が見える。



これは日露戦争のクライマックスのひとつ、旅順攻防戦が佳境に入ったときだ。おそらく、その戦死者の墓であろう。
司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いたように、日露戦争は日本近代史がもっとも輝かしい光芒を放った一瞬であり、また破滅への一里塚でもあった。このエピソードの舞台は昭和11年。日中戦争を翌年に控え、破局へ向けてひた走る日本と、その起点とも言える戦争での死者の姿をさりげなく画面内に提示する心配りが泣かせる。

ただ、国際色豊かな上海の生活を経験し、なおかつ特務機関の一員として国際政治の裏側をも覗いている葛が、二.二六事件の反乱将校に共感するものだろうか、という小さな疑問が残った。

ちょっと調べてみた。
このエピソードで、葛と同期生とされる将校は、その丸眼鏡からして安藤輝三大尉がモデルと思われる。安藤大尉はどちらかというと穏健派で、最後まで自重すべきだと主張していたが、最終的には決起に同意し、その中心人物となった。部下将兵からは大変に慕われていた、という。
その安藤大尉も、実戦経験や国外勤務の経験はないようだ。他の主要将校の経歴を調べてみると、満州勤務の経験者が3人(1人は天津。英仏の租界があった)。満州事変での従軍経験者が4人。年齢的に無理はないが、欧米の外遊経験者はいないらしい。
一方、事件の関係者の1人に満井佐吉少佐という人物がいる。相沢三郎中佐(永田鉄山軍務局長斬殺事件の犯人)の特別弁護人を務め、二.二六事件に際しては決起部隊の行動を公認させようと奔走し、のち軍法会議で禁固刑を受けているのだが、この人昭和5年にドイツ駐在武官を務めているのだ。
海外経験が視野を広くするわけではない、といったところか。

現在の目で彼ら青年将校の思想・行動を見て驚くというか理解に苦しむのは、彼らには遵法精神というものがカケラも存在しない、という事実である。法律は守らなければならないという我々の常識と言えど、教育によって付与されるものであり、そういった機会が与えられないとこういう人間ができあがるという実例として、興味深くはある。

二.二六事件の首謀者たちについては、『戦前の少年犯罪』がニート犯罪という切り口で斬新かつ鋭い解釈を提示している。学術的当否はさておき、一読の価値有り。

参考資料
 林茂編『二.二六事件秘録』(一)(小学館、1971年)
 田々宮英太郎『二.二六叛乱』(雄山閣、1973年)
 松本清張・藤井康栄編『二.二六事件研究資料』T(文藝春秋、1976年)

2011年2月7日(月)
暴力装置の意見・補足

少し昨日の記事に加えて思いつきをメモ。

○ この記事を書いたきっかけは、スカパー!で『無責任艦長タイラー』を観たこと。これがまあ、想像以上に酷かった。
軍に入っておいて「やりたいことをして好きなように生きろ」はないだろ。ギャグとしてやってるのならともかく、本当に「いい話」として描いてるんだから呆れる。
軍人に与えられる圧倒的な力は、一朝ことあらば国のために―と言ってまずければ、公共の福祉利益(1晩置いたら、さすがに福祉は言い過ぎな気がしてきた)のために準備されたものだ。好き勝手に行使されたら、キ○ガイに刃物。いや兵器どころか、軍人の服も住居も食い扶持も、すべて税金でまかなわれたものである。私利私欲のために使われたらたまったものではない。
その好例が、『不法侵入』。現職の警官がストーカーと化す、という恐怖を描いたサスペンス映画。映画としては小ぎれいにまとまりすぎ、展開がすべて予想できてしまう凡作だが、公権力を私欲のために使うとどうなるかはとてもよくわかる。
そうでなくとも、「好きなように生きる」なんてセリフは、社会と無関係にどっかの山奥で自給自足している人間の言いぐさである。

○ 以前、近年のアニメやラノベは学校が舞台になることが多いのは、作り手も客も共通して知っている世界が学校しかないからではないか、と書いたことがある。そこで強大な権力を持った生徒会がよく出てくるのは、たぶん原因は同じである。つまり、暴力を独占しその正統性を保証する国家という組織に想像が及ばない、あるいは本当に知らないから、その分を生徒会に仮託してしまうのだ。

○ 『ダーティハリー2』では、警察内部で私刑を執行する組織がハリーの敵になるあたり、まだ第1作のテーマを引きずっている。

○ あまり詳しくないので本当に思いつきだが、アメコミヒーローの多くが力を行使するにあたって顔を隠すのは、その暴力の根拠が薄弱であること、公認されたものでないことを自覚しているからではあるまいか。近年のアメコミ実写映画化の中で、素顔をさらしているスーパーマンだけが、うまく現代性を獲得できずにいるのが示唆的であるように思う。

2011年2月6日(日)
暴力装置の意見

以前にも書いたことがあるが、私は『とある科学の超電磁砲』が嫌いだ。「趣味に合わない」、ではない。はっきりと嫌いなのだ。

なお原作未読で『禁書目録』は未見。以下の論考は、アニメ版『超電磁砲』を観た上でのものである。

先日話題になった暴力装置という言葉は、警察や軍隊など国家の保有する武装集団を指す。もともとは特に悪い意味ではない。マックス・ウェーバーは、国家が暴力を独占していることが近代国家の条件だと説いた(ウェーバー「職業としての政治」『政治論集2』中村貞二ほか訳、(みすず書房、1982年)555-561頁。ただしウェーバー自身は、「暴力装置」という言葉を使ってはいないようだ。飛ばし読みしたので見落としたか、あるいは訳によるのかもしれない)。
それは当然のことで、国家以外に武力を保有し、好きに行使する集団がいたら治安は守れない。
公的に存在を認められた暴力装置には、規範というものが必要である。つまり、どんな条件のとき、どんな資格を持った人間が、どの程度の暴力を行使できるのかがあらかじめ定められていなければならない。そして、その規範から逸脱した者は処罰を受ける。
かつ、その規範は国民の代表である文民が合法的に定めたものでなければならない。

自衛隊の場合、自衛隊法がその規範となる。国の独立を脅かす急迫不正の侵害があり、他に代替手段がないと認められるときに限り、必要最低限の武力を行使できると定められている。だから、隊員が勝手に武器を持ちだして射撃したりすれば、罪に問われる。念のため補足するが、自衛隊法は自衛隊が決めた内部規則ではなく、国会で審議を受け可決された立派な法律のひとつである(昭和29年法165号)。

『超電磁砲』の舞台・学園都市では、年端もいかない子供たちで構成する「ジャッジメント」なる組織で治安を維持している。私の感覚ではこの設定自体が噴飯ものだが、まあそれはいい。
問題は、主人公の美琴だ。
美琴はジャッジメントではない。黒子の友人、というに過ぎない。
なのにしばしば事件に首を突っ込み、その力を―はっきり言うが、暴力を行使する。そしてそのことは何ら咎められない。

私には、これが酷く気持ちが悪い。

必殺仕事人のように、表の法で裁けぬ悪を、己の正義に基づいて始末する、というならいいのだ。仕事人の行使する暴力は、少なくとも公認されたものではない。例えば『ダーティハリー』は、このあたりに自覚的な映画である。既存の法の枠組みでは、凶悪犯スコルピオの犯行を食い止めることができない。だからハリーは、最後に丸腰のスコルピオを射殺したあと、バッジを投げ捨てる。自分自身が法から逸脱してしまったことを知っていたからだ(ついでに言うと、シリーズを重ねるにつれてこの点は曖昧になっていく)。

近代国家において、公権力に服さぬ暴力など存在を許されるはずがない。許されてはいけないのだ。00年代最高の映画『ダークナイト』が斬り込んだのが、まさにこの問題だった。バットマンの行使する暴力は、例え正義のためにふるわれるものであっても、公認されたものではない。その一点において、バットマンとジョーカーは何ら変わるところがない。だから『ダークナイト』はあのような結末を迎えたのである。

美琴には、その暴力を律する規範が存在しない。そしてそのことに誰も疑問を持たない。考えてみれば、この不快感は『メガゾーン23 part2』に感じるものに似ている。
言い換えると、学園都市は力があれば何でも許される無法地帯なのだ。そしてその醜悪さを糊塗しているキーワードが、友情である。
その結果、『超電磁砲』はもうひとつの欠陥を抱えることになった。友情を致命的に損なうような、深刻な対立や葛藤を描くわけにいかなくなったのである。必然的に、そこで展開されるドラマ(らしきもの)はどうしようもなく薄っぺらなものにならざるを得なかった。以前、佐天の描写を批判したことがあるが、あれはこの作品構造から導かれる必然だったのだ。

なにもゆるい萌えアニメがいかんとは言わない。『けいおん!』や『ひだまりスケッチ』など、身の丈にあったことをやっている作品なら腹も立たない。だが、大事なことを取りこぼしたままドラマらしいことを装っている作品には、どうにも我慢ならない。

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