BSで鑑賞。手塚先生ではなくて、フリッツ・ラングの'26年作の方。モノクロフィルムに着色したリバイバル版はずっと昔に観た覚えがあるが、よりオリジナルに近い版を観るのは初めて。

人造人間「マリア」で有名な映画だがそれだけにとどまらず、このビジュアルイメージの氾濫のものすごさ。


未来都市のイメージなんてものは、この100年近く全然進歩してないことがよくわかる。鉄道も路面の車両も動いているが、あまつさえビルの谷間の人物もちゃんと歩いている。合成なのか?
ビルの合間を縫って飛ぶ飛行機がプロペラの複葉機だったりするのはご愛嬌だ。
この斬新すぎるビルのデザイン。『ブレードランナー』でさえ、本作の影響下から逃れられない(警察署のビルってこんなんだったよね)。

本作は、資本家と労働者の対立・革命・和解を描く作品である。ロシア革命と第1次世界大戦から10年足らずのこの時代、これはもっとも先鋭的なテーマだったはずであり、今も決して古びていない。
地下工場で事故が起き、労働者を飲み込む魔物の貌に変貌するイメージシーン。このシーン、本当に人間が吹き飛ばされて落っこちてるようにしか見えないんだが、どうやって撮影したのやら。


それはそうと今回観返して驚いたのが、本作の過剰にもほどがあるサービスぶりである。
登場する舞台が、高層都市、地下工場、カタコンベ、研究室、大聖堂、遊郭。
登場人物が、金持ちのボンボン、悪徳資本家、労働者、聖女と悪女(二役)、革命家、煽動者、マッドサイエンティスト、工場長、密偵、司教、人造人間。
扱われるモチーフが、貧富の差、機械と人間、搾取、過重労働、革命、和解、父と子、人体蘇生、貴種流離譚、とりかえばや物語、黙示録、予言、堕落、プロパガンダ、救世主。
中学生が考えたオレSF的要素、いやむしろ娯楽映画の要素を全部ぶち込んだような映画なのだ。なにしろサイレント映画なので演技にこそ時代を感じるが、すみからすみまでモダンである。
以下余談。愛する女性を甦らせようと人造人間マリアを創り出した科学者は、実験の失敗で右腕が義手である。なぜだろう、なんだか激しい既視感が。

作中に登場する遊郭の名。おお、はるかドイツにまで鳴り響くウタマロの偉業!

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