更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2009年11月30日(月)
アニメギガ「神山健治」など

本業が一段落したので、レンタルでようやく「東のエデン」を観て、ついでにアニメギガの神山健治監督インタビューを見た。
その中で脚本には「構造」がなければならない、という話をしていた。神山監督によると、「脚本の構造」とは、「画面で語られている部分以外にも世界があることを感じさせる」ために必要な方法論だという。
この話は著書の「神山健治の映画は撮ったことがない」にも出てきて、「特定の登場人物と観客だけが共有した特定の秘密」と定義しているのだが、どうもピンとこなかった。正確に言うと、なぜそれを「構造」という言葉で表現しているのかがよく解らなかったのだが、この番組を見てようやく解った。

例に挙げていたのは「東のエデン」1話。記憶を失った滝沢が自分の(らしき)部屋に戻り、大量の武器と偽造パスポートを見て、自分はテロリストなのではないか?と疑いを抱く。この疑念は、観客にも共有される。しかし咲はそれを知らず、「自分の王子様かも」などと考えている。この登場人物同士の、ひいては登場人物と観客の持つ情報のギャップが、登場人物それぞれに物語があり、別々の時間が流れていることを感じさせる、ということらしい。そのことで観客は物語の先読みができるように感じ、興味を引っ張れるのだ、とのこと。

してみるとこれは、「構造」と呼ぶより「重層性」とでも呼んだ方がふさわしいように思う。

ヒチコックには、「作中人物が知らないことを観客が知っているとき、最高のサスペンスが生じる」という意味の発言があったと記憶するが、これは神山監督の言う「構造」をサスペンス描写に特化して使用していたということになろう。


話変わって、当サイトには「涼宮ハルヒ」で検索して来られる方が一定数いる。
生憎とここでは、2期シリーズの話は全然していない。理由は簡単で、地上波が入らないため観ていないからである。
そういうわけでレンタルで追いかけているが、目下「エンドレスエイト」Yまで来た。全部観たらまとめて書くけれど、とりあえず「京アニの『ハルヒ』解釈は1期シリーズのときからまったくブレていない」とは言えると思う。
なお「エンドレスエイト」Wがずばぬけて出来が良かったのでクレジットを見たら、絵コンテ・演出が高雄統子だった。
「CLANNAD」18話の演出を担当した人である。
この人は、遠からず監督を任されると思う。


ついでに、珍しく布教活動などしてみる。
アフタヌーンに不定期掲載された市川春子の作品をまとめた短編集「虫と歌」。



とりあえずアマゾンにリンクを張っておく。
初めてこの作者の名を知ったのは「星の恋人」。あまりの面白さに再三読み返した(雑誌は買わなかったが)。この絵柄、こういう描線でこんな話を描ける人というのは、あまり思いつかない。
ぜひお読み下さい。

2009年11月24日(火)
力を根拠づけるもの


力なき正義は無力なり。
正義なき力は暴力なり。

商売がら、自戒する言葉である。

劇場版「マクロスF」を観て、どうしても気になることがある。
SMSの描写だ。
民間軍事組織というものはすでに実在する。
軍事組織の業務外注は、事務仕事に始まって、訓練の一部を委託し、いまでは後方地域の警備業務を任せるまでになっている。すべて予算節減のためだ。

国防と治安維持は、国家のもっとも重要な任務の一つである。そしてその手段は、多かれ少なかれ暴力による。問題は、その暴力は何に根拠づけられているのか?暴力が国家そのものに向けられるのは、どうして防がれているのか?である(以前「ウォッチメン」について書いた話題)。
民主主義国家においては、前者は民意、後者はシビリアンコントロールの原則、という危なっかしいものに頼っている。そして警察や軍隊など、暴力装置の構成員は訓練で国家に対する忠誠心を叩き込まれる(ここで言う国家は、必ずしも時の政権という意味ではないが)。
それが何とか機能しているから、たとえば我が国はクーデターも起こらず、一応平和だ。ちなみに、最もシビリアンコントロールの行き届いた軍隊は旧ソ連軍だったと言われている。政治士官をはじめ共産党構成員が強固にタガをはめていたからだ。

この国のフィクションでは常に官より民が偉いということになっているが、民間企業は営利組織であり、利潤追求が最優先される。
そういう組織に国防や治安維持という、国家の最も重要な仕事を任せていいんだろうか?このことは、世界的に問題視されつつあるのだ。もちろん国家組織の奉ずる正義なんてものは、方便でありファンタジーに過ぎない。だがそれでも、それなしに暴力を発動してはならないのだ。

TV版「マクロスF」でも、SMSがフロンティアを離反する場面が後半のクライマックスになっていたが、こちらはまだ許せた。権力委譲が、大統領の暗殺という非合法手段で行われ、SMSだけがそれを知る立場にいるというシチュエーションだったからだ。
しかし劇場版は違う。一民間人に過ぎないシェリルが、私財を投じてSMSを雇い、ギャラクシー船団の救助に向かわせるというプロットだ。
今回は、たまたまそれが正しい行動だったかもしれない。しかしその正しさを保証するものは何もないのだ。民間人が金で国家規模の軍事力を動かせるという話を、美談として描いてしまうことに、私は激しい違和感を抱く。

同じ問題が、「とある科学の超電磁砲」にも指摘できる。
長井龍雪監督に免じて、いや私に免じられても迷惑だろうが、観ていたけれどいい加減つらくなってきた(現在8話)。つくづく、超能力の存在が公認された世界を構築するのは難しい。

だいぶ前に、貴志祐介「新世界より」を読んだ。以下本作のネタバレあり。

「新世界より」の舞台は、超能力(作中では呪力)を持った人類の登場で、文明が滅んだ後の世界。超能力を私利私欲に用いる人間が続出し、治安が維持できなくなったからだ。そこでその世界では、強力な暗示により呪力を人間に対しては使えない、という設定になっている。このことがクライマックスで重要な伏線になる。ついでだが、高層ビル街が長い年月で融解してカルスト台地になっているという設定は斬新だった。
私の中では、この作品が超能力ものの一つのエポックになっている。
ちょうど「神狩り」が、「異質な知性とのコンタクトの可能性」に関するエポックになったように(おかげで、梅原克文「ソリトンの悪魔」は途中で放り出した)。

話が逸れたが、私には「超電磁砲」の設定は酷く幼稚に映る。学園都市の能力者は、年端もいかない子供たちで構成する「ジャッジメント」なる組織で治安を維持している。
で、その「ジャッジメント」の権力を根拠づけるものは何か?
もちろん、何もない。原作未読なので、先で説明されるのかもしれないが。

こんな話に目くじら立てるのも大人げないとは思うが、一つだけ言いたい。
「ジャッジメント(審判)」という名称について。
近代国家の法執行機関は、警察(police)・検察(prosecution)・裁判所(court)の3つに別れ、それぞれが捜査・起訴・審理の機能を持つ。
この3機能が一つに集中したら何が起きるか。
即決裁判、つまりは私刑(lynch)である。
作中で描かれる自警団的な行動を「judgement」と名づけるなど、無神経の極致だ。
その権限を象徴するのは、うっかりするとなくしてしまう腕章1本。冗談もほどほどにしてくれ。

ついでにもう一つ。
学園都市の景観を特徴づけるあの風力発電機なんだけどね。
どうやって動いてるのかなんてのは、どうでもいい。
ただ、危ないから街中に立てるのはやめよう。

http://www.youtube.com/watch?v=lvvRHhsQhi8

多分、疲労破壊でブレードが飛んだんだろうが、1本折れるとバランスが崩れて全部飛散するのですな。怖・・・・・・

2009年11月15日(日)
イクラ

最近、海燕さんの書評(エロゲ評?)サイト「Something Orange」のバックナンバーをまとめ読みしている。ようやく今年の1月まで追いついたのだが、1月3日の記事に『谷崎潤一郎「細雪」はやたらと脚注が多く、「イクラ」に注釈がついている』という話題があった。

ちょっと興味が湧いたので調べてみた。

平凡社大百科事典によると、イクラ(ikra)はロシア語で魚卵の意。サケ・マス類の卵の塩蔵品で卵粒が1粒ずつ分離しているものを言う。
さらにウィキペディアによれば、大正時代にロシアから日本に伝わった食品とのこと。
なるほど。昭和30年代にはまだ珍しい食品だった可能性が高い。

まずは研究の基本、フィールドワークだ。
茨城県ひたちなか市にお住まいの主婦K子さん(昭和12年生まれ、72歳)に電話インタビューを試みた。いやつまり実家の母に電話で聞いてみたんですがね。
母は島根の貧乏な山家育ちで、島根にいた当時はイクラなど見たことも聞いたこともなかった。昭和34年に就職して千葉に出てきてから、初めて目にしたという。まだ、寿司の上物という扱いだったそうだ。
ちなみに昭和35年の大卒新入社員の初任給は、約16,000円(『物価の文化史事典』展望社)。


ウィキの記事によれば、日本カーバイド工業が人造イクラの製造法を発明してから、急激に低価格化して普及が進んだらしい。
中学校の理科の実験室の設備でもできるもので、化学の実験によく行われる。ネット内にもいろんなページで製法が紹介されている。

http://capsule.eng.niigata-u.ac.jp/lecture/open01/index.html

ところで、この「日本カーバイド工業が人造イクラを発明した」というのは本当だろうか。ネット内にはそう書かれているが、出典が見当たらない。
日本カーバイド工業の公式HPにはこの話は載っていない。
社史はどうかと思ったが、出版されているのは1958年の『日本カーバイド工業二十年史』と1968年の同『三十年史』で、古すぎる。
こちらのページには特許番号も載っているが、

http://ameblo.jp/saglasie/entry-10364051854.html

特許庁のデータベースでは平成4年以前のものは検索できず、確認が取れない。

では学術論文ならどうだろうとデータベース検索してみたら、ありました。『化学と教育』第35巻第4号(1987年)にそのものずばり「人造イクラ」の記事が。筆者は日本カーバイド工業営業本部長の紙尾康作博士。これは間違いないだろう。記事の末尾にも特許番号が載っていて、昭54−110352となっている。

したがって、昭和54年前後から人造イクラが普及し始め、昭和50年以降の回転寿司の急速な全国展開と相まって低価格化が進んだと考えられる。

では実際、イクラの価格はどれくらいだったのか?

これが意外と難しい。
『物価の明治・大正・昭和風俗史』(朝日文庫)、『物価の世相100年』(読売新聞社)には、いずれもイクラは載っていない。
『物価の文化史事典』には魚介類の値段が多数収録されているが、イクラはない。ちなみに収録されているのはまぐろ、ぶり、鯖、塩鮭、いわし、秋刀魚、あじ、かれい、いか、たこ、あさり、わかめ、生牡蠣、かつお節、のり、昆布、干しするめ、さつま揚げ、たらこ、昆布佃煮、煮干し、鮭缶。
また寿司の江戸前一人前が、昭和30年には140円、平成17年には並1230円である。

日本銀行統計局発行の『物価指数年報』も調べてみた。これは価格ではなく物価指数の動向を収録したものだが、これにも載っていない。
昭和35年の版で加工水産物として載っているのはするめ、こんぶ、煮干いわし、かつお節、塩さけ、焼きちくわ、フィッシュソーセージ、干のり、つくだ煮、寒天、冷凍まぐろ。

一方生鮮食品の項目に載っている魚介類は、(適当に読み飛ばしてください)まぐろ、めじ、きわだ、ぶり、まあじ、むろあじ、さわら、まいわし、かたくちいわし、うるめいわし、れんこたい、くろたい、こうじんめぬけ、よしきりさめ、あぶらさめ、さけ、ます、ひらめ、いぼたい、はも、とびうお、ぼら、はたはた、・・・・・・以下略で計76品目にも上る。なんですか、こうじんめぬけって。

これが昭和50年の版だとわずか30品目にまで減っていて、日本人の食生活の変化がうかがえる。

まあともかく、イクラは物価調査の対象になるような食品ではないということだけはわかった。
そういうわけで、実際にイクラの価格がいかほどだったのかは解明できずじまいである。ほかに考えられる方法としては当時の寿司屋のおしながき、水産加工業者の社史、または日記類の調査というところか。

ほんの一日二日でこれだけ調べがつくのだから、インターネットとはありがたいものだ。
だが同時に、ほんの50年前のことでも、いとも簡単に忘れられてしまうということは肝に銘じておきたい。


・・・・・・それにしても、うちは一応映画・アニメ評サイトのはずなんだが、なんでイクラの価格調査をしているんだろう。

2009年11月3日(火)
「12人の怒れる男」('07)

劇場公開時にスルーしていて、WOWOWで鑑賞。ネタバレあり。

裁判映画の最高傑作と呼び声の高い「十二人の怒れる男」('57)を、意外にも「黒い瞳」('87)のニキータ・ミハルコフがリメイクした映画。文芸派のイメージが強かったが、社会派に挑戦といったところか。

殺人事件の犯人として、少年が裁判にかけられている。陪審員12人は、一室に籠もって最後の討議にはいる。有罪は明らかに思えた。やる気のない陪審員たちは、さっさと有罪判決を出して帰りたがっている。だが、たった1人、無罪を主張する男がいた・・・・・・。

シドニー・ルメット監督のオリジナル版では、この男をヘンリー・フォンダが演じ、空気に流されず少数意見を主張する勇気を称える映画だった。
一方、このリメイク版でミハルコフ監督は、陪審員12人を現代ロシア社会の縮図と見た。だから、ユダヤ人がいて、カフカス人の外科医がいて、TV局の重役がいて、貧乏人もいる。
しかし、12人全員が自分のバックボーンをセリフで喋るのは、野暮ったいにも程がある。そのせいで、この映画は160分もある。オリジナルは95分のコンパクトな映画だったのに。
それにセンスのないバタバタした編集。こんなやり方で無理矢理盛り上げたサスペンスは持続しない。

てな訳で中盤は退屈な映画なのだが、ラストでどんでん返しがある。
議論の結果、少年は無罪となる。しかし、ここで本作独自の問いかけがなされる。
少年はチェチェン人の孤児で、ロシア軍人の継父に引き取られていた。その継父を殺した疑いで裁判にかけられていたのである。無罪判決が出ても、釈放された少年には家もなく、頼れる人もなく、蓄えも職もない。ロシア語も不自由だ。しかもある理由で、命を狙われる恐れがある。
釈放したら、生きていけないのではないか?
たとえ冤罪でも、刑務所に「保護」したほうが彼のためなのではないか?
彼を無罪にしたとしても、その後の人生に責任が持てないのなら、それはろくに議論もせずに彼を有罪にする無責任と何が違うのか?

ここで問われているのは、「法を厳格に執行したら、人を幸せにできるのか?」という、より根元的な問いである。

もちろん無法状態よりはマシだろう。被告の人生に陪審が関与するのは、明らかに越権でもある。
だがそれでも、この問いは重い。誰にも、答えは出ない。

このラストによって、この映画は今語られるべき映画になり得た。

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