劇場公開時にスルーしていて、WOWOWで鑑賞。ネタバレあり。
裁判映画の最高傑作と呼び声の高い「十二人の怒れる男」('57)を、意外にも「黒い瞳」('87)のニキータ・ミハルコフがリメイクした映画。文芸派のイメージが強かったが、社会派に挑戦といったところか。
殺人事件の犯人として、少年が裁判にかけられている。陪審員12人は、一室に籠もって最後の討議にはいる。有罪は明らかに思えた。やる気のない陪審員たちは、さっさと有罪判決を出して帰りたがっている。だが、たった1人、無罪を主張する男がいた・・・・・・。
シドニー・ルメット監督のオリジナル版では、この男をヘンリー・フォンダが演じ、空気に流されず少数意見を主張する勇気を称える映画だった。
一方、このリメイク版でミハルコフ監督は、陪審員12人を現代ロシア社会の縮図と見た。だから、ユダヤ人がいて、カフカス人の外科医がいて、TV局の重役がいて、貧乏人もいる。
しかし、12人全員が自分のバックボーンをセリフで喋るのは、野暮ったいにも程がある。そのせいで、この映画は160分もある。オリジナルは95分のコンパクトな映画だったのに。
それにセンスのないバタバタした編集。こんなやり方で無理矢理盛り上げたサスペンスは持続しない。
てな訳で中盤は退屈な映画なのだが、ラストでどんでん返しがある。
議論の結果、少年は無罪となる。しかし、ここで本作独自の問いかけがなされる。
少年はチェチェン人の孤児で、ロシア軍人の継父に引き取られていた。その継父を殺した疑いで裁判にかけられていたのである。無罪判決が出ても、釈放された少年には家もなく、頼れる人もなく、蓄えも職もない。ロシア語も不自由だ。しかもある理由で、命を狙われる恐れがある。
釈放したら、生きていけないのではないか?
たとえ冤罪でも、刑務所に「保護」したほうが彼のためなのではないか?
彼を無罪にしたとしても、その後の人生に責任が持てないのなら、それはろくに議論もせずに彼を有罪にする無責任と何が違うのか?
ここで問われているのは、「法を厳格に執行したら、人を幸せにできるのか?」という、より根元的な問いである。
もちろん無法状態よりはマシだろう。被告の人生に陪審が関与するのは、明らかに越権でもある。
だがそれでも、この問いは重い。誰にも、答えは出ない。
このラストによって、この映画は今語られるべき映画になり得た。
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