更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2010年9月27日(月)
『ルパン三世』の絵画表現

以前、アニメ作品中の絵画の表現について述べたことがあるが、そのとき思いついたのが『カリ城』と『複製人間』の絵画表現の違い。

画像を探すのがめんどくさくてサボっていたのだが、ようやく見つけてきた。

まず『カリ城』の絵画と言えば、これ。



不二子が伯爵の様子をのぞき見るのに使う絵だが、これは実在する作品で、『レオナルド・ロレダーノの肖像』という。作者はジョヴァンニ・ベルリーニ(またはベッリーニ。1430頃−1516年)。上の画像で目が妙なことになっているのは、不二子がのぞき穴に使っているせい。実物はリンク先を参照されたい。

一方『複製人間』で有名なのは、これだ。

 

デ・キリコの『街の憂愁と神秘』。デ・キリコ(1888−1978)は、後のシュールレアリスムに大きな影響を与えた画家。

作品のチョイス自体も面白いが、その扱い方にも注目。『カリ城』は美術は写実的だが、「絵画の目が動く」という表現を盛りこみ、いわば絵画のリアリティをアニメ側に引き寄せてしまう。

『複製人間』はその反対に、アニメキャラが絵画世界の側に入り込む。そこでは、アニメの虚構性がむき出しになっている。



上図は、ルパンが敵に追われて駆け抜けるダリの『記憶の固執』。ダリやエッシャーら、シュールレアリズム作品が多用されるのは、作り手が「アニメにおけるリアリズム」の問題に自覚的だった現れだろう。この点、漫画映画を自認する『カリ城』の、無造作な絵画の使い方に比べて興味深い。

2010年9月21日(火)
『インセプション』のルーカス君

mixiから転載。

微妙に旬を過ぎた話題で恐縮だが、『インセプション』のエンドクレジットを見ていたら懐かしい名前があった。

ルーカス・ハース。
『刑事ジョン・ブック 目撃者』('85)で、殺人を目撃してしまうアーミッシュの少年を演じたあの坊やだ。
こんなだったのが、



御年34才で、こんなお顔に。顔の輪郭って、こんなに変わるもんなのか。耳の形にしか面影がない・・・。



http://www.imdb.com/name/nm0001305/

Imdbを見てみても、『マーズ・アタック!』の出演が目立つくらいで、まあ見事なまでに元天才子役にありがちな芸歴。そんなルー君が演じたナッシュはどこに出ていたかというと、こいつだ。



レオ君をバスタブに蹴倒し、謙さんに拉致られ、仲間の秘密をゲロしたあげくに、怖いお兄さんに連れられて退場していった彼。総出演時間、推定6分くらい。
とはいえ、しぶとくあの業界で生き延びてきたのだから、慶賀すべきことではある。このままいけば、渋いバイプレイヤーとしての地位を確立できるかもしれないし。

ところでまったくの偶然ながら、ルーカスは『Leap of Faith』という映画に出ている。“leap of faith”というのは「生死をかけて飛びこめ」といったニュアンスの言葉で、『インセプション』でも重要なキーワードとして登場するのだ。

・・・って、町山センセが言ってた!

 → アメリカ映画特電第97回 「『インセプション』とリープ・オブ・フェイス」


2010年9月16日(木)
アニメキャラの鼻筋問題小まとめ

鼻筋問題というのは私が勝手に呼んでいるのだが、最近のアニメキャラは、正面顔だと鼻筋を描かないことが多い(「けいおん!」が典型)。

私はこの現象を、アニメスタイル的に言う「影に頼らず、より少ない線で立体感を獲得する」という90年代以降のデザインの文脈に沿った表現だと考えていたのだが、これだけでは「なぜその表現が許容されるのか」、さらに「なぜ好まれるのか」には答えたことにならない。

この点、結構いろいろ話題になっていた。

http://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51454863.html

http://d.hatena.ne.jp/takhino/20100321/1269182376

http://dochikushow.blog3.fc2.com/blog-entry-1490.html

提示されてる論点の中から、興味深いものをメモ。

 「幼児性(=低い鼻)の強調」
  『苺ましまろ』なんかはこれで説明できそうだ。あー、と言うか横顔でも鼻がない・・・

http://lunablog.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_3ef/LunaBlog/ss3-029f5.jpg

○ 「そもそも、鼻は重要なパーツでないから省略可能。目は心の窓、口は言葉を発する器官だが、鼻は情報発信ツールではない」
  これは説得力がある。


リンク先に90年代と00年代の美少女キャラの比較画像があるけど、デザイナーが総入れ替え状態。そりゃ絵柄も変わるわな。
流行が変わるから絵師が変わるのか、絵師が変わるから流行が変わるのかはニワトリと卵だが。
それにしても、後藤圭二が過去の人あつかいか・・・何もかもみな懐かしい・・・

2010年9月13日(月)
『ザ・パシフィック』

WOWOWでアメリカのドラマ『ザ・パシフィック』を観ている。要するに『バンド・オブ・ブラザーズ』の太平洋戦争版。スタッフも同じ。

どうせヤンキーどもが、ガムかみながら火炎放射器で日本兵をゴキブリみたいに焼き殺し、ついでに自由と正義と民主主義について一席ぶつ話だろうと高をくくっていた。軟弱なアメ公をサムライサーベルでぶった斬るシーンだけを楽しみに観ていた(←間違った鑑賞態度)のだが、回を重ねるにつれて認識を改めた。
ペリリュー島の戦いを、前・中・後編の3回を費やして入念に描いていたからである。タラワでも硫黄島でもサイパン島でもなく、ペリリュー島の戦いをこれほど力を入れて描写したのはなぜか。

以下の記述は、児島襄『天皇の島』(講談社、1967年)を参考にしている。
ペリリュー島は、フィリピンの南東約1000キロに位置するパラオ諸島のひとつ。南北約8キロ、東西は最大で2キロ。
1944年9月から11月にかけて、日本陸軍と米海兵隊がこの島で激戦をくり広げた。

ペリリュー島の戦いは、わが国ではもちろん、米国でも知る人は少ない。ペリリュー戦は、フィリピン攻略作戦、サイパン島、硫黄島、沖縄戦などに比べれば規模も小さく、戦略的重要性も劣る。
だがなにより、ペリリュー戦に関する発言が少ないことが、知られていない原因である。太平洋戦争の玉砕戦では、多くは米軍側の記録や発言に頼らざるをえないが、ペリリュー戦に対する米国側の口は重い。戦記も少なく、戦史の記載も簡単である。その原因はひとことで言うと、米軍が最終的には島を占領したものの、実質的に負け戦にひとしい戦いだったからである。

ペリリュー島攻防戦は、太平洋戦争における最激戦のひとつであり、戦争の推移に深刻な影響を及ぼした戦闘でもあった。
太平洋戦争において、米国は終始日本の戦力を過大に評価し、そのためにソ連の参戦、原爆投下という“不要”な手段まで求めた、といわれる。だが、物理的戦力の過大評価をもたらした主因は、日本軍の変わらざる戦意であった。そして、こと米海兵隊に関する限り、日本軍の戦意に関して最も強い感銘を受けた戦いは、このペリリュー戦にほかならない。米公刊戦史はこう記す。
「敵は、抵抗力の最後の一オンスまでしぼり出し、征服者(米軍)に最大の損害を強要した。ペリリュー戦はそれまでのいかなる戦いとも質を異にし、そのごの硫黄島、沖縄戦の類型を示した」

日本陸軍は歩兵の突撃こそが勝利への道という思想のもとに、ガダルカナルやサイパンで、厳重に防御の固められた米軍陣地に突撃を繰り返しては消耗を早めるという失敗を犯してきた。ペリリュー守備隊を率いる第二連隊長中川州男大佐は、これらの戦訓から水際撃滅構想を改め、過早の出撃を禁じ、敵を内陸に引き込んでから頑強に構築した陣地に拠って戦う新戦法を採用した。米軍は、一つ一つ拠点をつぶして前進するたびに、出血を強要された。
ペリリュー守備隊に対して、天皇は11回にわたって御嘉賞の言葉を賜っている。これは、日本陸軍史上に類を見ない記録である。
ちょうど同時期、戦略的にははるかに重要なフィリピン攻防戦が始まっていたが、大本営はむしろペリリューの奮戦に注目し、「まだペリリューはがんばっているか」が朝の挨拶がわりになっていたという。そして、米第一海兵師団はこの一戦で再起不能に近い打撃を受け、ついにその後の太平洋戦線に主戦闘力として再登場することはなかった。いかに激しい戦いであったかは、米海兵隊が、ペリリュー島を<ヒロヒト(天皇)の島>と呼んで、いまなお恐怖と賛嘆の辞を捧げていることでもなっとくできる。
海兵隊は、9月15日の上陸から「3日、たぶん2日(three days,maybe two)」で全島を制圧できると考えていたが、ペリリュー守備隊の激しくも粘り強い抵抗の前に、完全占領までに3日どころか74日を要した。

『ザ・パシフィック』は、この壮絶な戦いを『プライベート・ライアン』以降おなじみになった徹底したリアリズムで描ききる。
日本兵の死体から金歯を抜き取る海兵隊員、といったおぞましい描写もいとわない。
勝者にとっても、あの戦争は地獄の日々だったのである。

本作は、元海兵隊員ロバート・レッキーの体験を原案としているが、レッキーはその著書の中でこう書いている。
「中川大佐は、第一海兵師団に死者1,252人、負傷者5,274人の損害、第八一師団に戦死208人、負傷1,185人という大損害を与え、日本軍が世界で最も手強い戦士である事実を証明した」
ロバート・レッキー『日本軍強し −アメリカ海兵隊奮戦記−』児島襄訳(恒文社、1961年)222ページ。

組織的戦闘が終わったあとも、生存者は島に駐留する米軍から武器や食糧を奪って潜伏を続けた。行動は次第に大胆になり、ときには飛行場で行われる米軍の映画鑑賞会に紛れ込み、ゆうゆうと鑑賞し終わったあとで輸送機内に忍びこんで食糧を失敬してきた、という。
彼らが説得に応じて投降したのは、終戦から実に1年半を経た昭和22年4月21日のことだった。



以下は、レッキーの著書の最後につづられた言葉。

「そして彼が天国にいったとき
聖パウロに向かって、彼はいう
“ただいま、海兵一名到着
地獄の勤務は終わりました”
この文句は、海兵たちの気にいっていた。彼らはこれを碑文のつもりで、ガダルカナルの食堂にもタラワの防波堤にも、ブーゲンビルの森の木立にも、ニューブリテンの地面にも、マキンにも、クェゼリン、エニウェトクにも書いてきた。サイパン、テニヤン、グアム、ペリリュー、硫黄島、そして沖縄でも、裏にこの文句を書いた鉄カブトがころがっていた。」

2010年9月8日(水)
続・属性と先行作品

まことにタイムリーなことに、藤津亮太氏の新刊のお試し版が公表されていた。

http://blog.livedoor.jp/personap21/otameshi.pdf

この冒頭の『シスプリ』論が、まさにこの問題の核心を突いている。
簡単に言うと、アニメ版『シスプリ』には「兄と妹」という根拠のない属性のみが存在しており、そのありようはポルノグラフィーに非常に近い、というもの。
言うまでもなくここでポルノグラフィーというのは、直接的な性描写の有無を意味しない。

なるほどポルノに向かって、軍事考証がどうのキャラの掘り下げがこうのと言ってみたって詮無い話である。ホプキンス大佐の浅薄きわまりないキャラ造形も、理由もなく女を軽蔑し陵辱する、ポルノグラフィーにおける男性の一類型と考えれば納得できる。
問題なのは、作者も消費者もそれがポルノであることに(おそらく)無自覚だという点だ。
ポルノにはポルノの存在意義があるから、ポルノであること自体は別にかまわないのだが、ありもしないドラマをあるように装うのはやめてほしい。

あ、そうか。
軍服、女、ポルノとくれば。
『ストライクウィッチーズ』『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』の本質は、これだ

あー、よくわかった。すっきりした。

2010年9月6日(月)
属性と先行作品


何度も引用させて頂いているOTAPHYSICAさんの記事から、組織依存系属性の論理」。

簡単にまとめると、オタク向けの作品において、医者とか教師とか軍人とかの組織に依存するキャラ属性は、現実のそれではなく過去の先行作品のそれに依存する、というもの。オタ向け作品における社会組織の描写が珍妙なものになりがちなのはそのせいであり、それを批判しても仕方ないのではないか、という趣旨。

いつもながら鋭い指摘で、私もおおむね同感である。
『ストライクウィッチーズ』とか『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』を批判している立場上あえて反論するならば、

1 「Aはおかしいが、BもCもDもおかしいのだから問題ない」という論法になりかねない
2 いくら「かわいいは正義」でも、限度ってものがあるんじゃないの

てなところだろうか。

先日も書いたが、私が『ストライクウィッチーズ』を気に入らないのは、あの作品世界には、同胞を殺され、祖国を追われた痛みや悲しみというものがまったく欠落しているからだ(あれで描写しているつもりだなんて主張に、私は与しない)。
『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』の場合、−まあツッコミどころはありすぎて書ききれないくらいだが、私が一番しらけたのはホプキンス大佐の描写である。大佐は停戦命令に反抗して勝手に戦争を続けようとする、「楽園の平和を乱す蛇」の役回りなわけだが、「人類の進歩のためには戦争して切磋琢磨すべきだ」とか何とか、どうにもキ印の、安っぽい、陳腐な、くだらない性格設定にされてしまっている。例えばの話だが、大佐の反乱の動機を「死んだ将兵に顔向けできない」とか「失った領土を取り戻したい」といった共感できなくもないものにしていれば、作品全体の印象がよほど違ったものになったろうと思う。
「楽園の日々」を描きたい、見ていたいという気持ちはわからないでもない。だが、楽園の外には過酷な現実が広がっていることを予感させない表現は、決して大人の鑑賞(ヤな言葉だが)に耐えるものにはならないだろう。

まあ何にせよ、こうした批判があまり建設的なものではないというのはOTAPHYSICAさんの指摘どおりだ。
建設的な議論を生む論点として思いつくのは、

1 属性が先行作品に依存していながら、「許せる作品」と「許せない作品」があるのはどうしてか
2 過去の先行作品は、何を参照していたのか。そこから何が、なぜ、継承されあるいは継承されなかったのか

あたりだ。
2について、特に軍隊描写に関して指摘しておきたいのは、「アニメ作者には従軍経験者がいない」という事実である。以前アニメ関係者の生年一覧を作ったので参照して頂きたいが、最長老格の大塚康生、小林七郎、辻真先でも終戦時に14、5才。1925年生まれの故・もりやすじがかろうじて徴兵されたかどうか、というところだろう。ちなみに宮崎駿、富野由悠季は'41年生まれで終戦時4才。
これに対して実写映画は、従軍した人物が珍しくない。本多猪四郎監督は実際に出征して中国で終戦を迎えているし、山中貞雄監督に至っては戦没している。スタッフまで含めて考えれば、相当な人数が軍隊経験があるはずだ。あまり表現物に作者の実体験を見て取るのは好きではないのだが、やはり現実を知っているか否かの差はあるだろう。
そう考えると、アニメが学園を舞台にすることが多いのは不思議でも何でもない。単に、スタッフみんなが知っている世界と言えば、それしかないからだ。
日本のアニメの影響を受けている文化圏で、かつ徴兵制を敷いている国で軍隊アニメができたらどんな描写になるのか、想像してみるとちょっと面白い。

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