WOWOWでアメリカのドラマ『ザ・パシフィック』を観ている。要するに『バンド・オブ・ブラザーズ』の太平洋戦争版。スタッフも同じ。
どうせヤンキーどもが、ガムかみながら火炎放射器で日本兵をゴキブリみたいに焼き殺し、ついでに自由と正義と民主主義について一席ぶつ話だろうと高をくくっていた。軟弱なアメ公をサムライサーベルでぶった斬るシーンだけを楽しみに観ていた(←間違った鑑賞態度)のだが、回を重ねるにつれて認識を改めた。
ペリリュー島の戦いを、前・中・後編の3回を費やして入念に描いていたからである。タラワでも硫黄島でもサイパン島でもなく、ペリリュー島の戦いをこれほど力を入れて描写したのはなぜか。
以下の記述は、児島襄『天皇の島』(講談社、1967年)を参考にしている。
ペリリュー島は、フィリピンの南東約1000キロに位置するパラオ諸島のひとつ。南北約8キロ、東西は最大で2キロ。
1944年9月から11月にかけて、日本陸軍と米海兵隊がこの島で激戦をくり広げた。
ペリリュー島の戦いは、わが国ではもちろん、米国でも知る人は少ない。ペリリュー戦は、フィリピン攻略作戦、サイパン島、硫黄島、沖縄戦などに比べれば規模も小さく、戦略的重要性も劣る。
だがなにより、ペリリュー戦に関する発言が少ないことが、知られていない原因である。太平洋戦争の玉砕戦では、多くは米軍側の記録や発言に頼らざるをえないが、ペリリュー戦に対する米国側の口は重い。戦記も少なく、戦史の記載も簡単である。その原因はひとことで言うと、米軍が最終的には島を占領したものの、実質的に負け戦にひとしい戦いだったからである。
ペリリュー島攻防戦は、太平洋戦争における最激戦のひとつであり、戦争の推移に深刻な影響を及ぼした戦闘でもあった。
太平洋戦争において、米国は終始日本の戦力を過大に評価し、そのためにソ連の参戦、原爆投下という“不要”な手段まで求めた、といわれる。だが、物理的戦力の過大評価をもたらした主因は、日本軍の変わらざる戦意であった。そして、こと米海兵隊に関する限り、日本軍の戦意に関して最も強い感銘を受けた戦いは、このペリリュー戦にほかならない。米公刊戦史はこう記す。
「敵は、抵抗力の最後の一オンスまでしぼり出し、征服者(米軍)に最大の損害を強要した。ペリリュー戦はそれまでのいかなる戦いとも質を異にし、そのごの硫黄島、沖縄戦の類型を示した」
日本陸軍は歩兵の突撃こそが勝利への道という思想のもとに、ガダルカナルやサイパンで、厳重に防御の固められた米軍陣地に突撃を繰り返しては消耗を早めるという失敗を犯してきた。ペリリュー守備隊を率いる第二連隊長中川州男大佐は、これらの戦訓から水際撃滅構想を改め、過早の出撃を禁じ、敵を内陸に引き込んでから頑強に構築した陣地に拠って戦う新戦法を採用した。米軍は、一つ一つ拠点をつぶして前進するたびに、出血を強要された。
ペリリュー守備隊に対して、天皇は11回にわたって御嘉賞の言葉を賜っている。これは、日本陸軍史上に類を見ない記録である。
ちょうど同時期、戦略的にははるかに重要なフィリピン攻防戦が始まっていたが、大本営はむしろペリリューの奮戦に注目し、「まだペリリューはがんばっているか」が朝の挨拶がわりになっていたという。そして、米第一海兵師団はこの一戦で再起不能に近い打撃を受け、ついにその後の太平洋戦線に主戦闘力として再登場することはなかった。いかに激しい戦いであったかは、米海兵隊が、ペリリュー島を<ヒロヒト(天皇)の島>と呼んで、いまなお恐怖と賛嘆の辞を捧げていることでもなっとくできる。
海兵隊は、9月15日の上陸から「3日、たぶん2日(three days,maybe two)」で全島を制圧できると考えていたが、ペリリュー守備隊の激しくも粘り強い抵抗の前に、完全占領までに3日どころか74日を要した。
『ザ・パシフィック』は、この壮絶な戦いを『プライベート・ライアン』以降おなじみになった徹底したリアリズムで描ききる。
日本兵の死体から金歯を抜き取る海兵隊員、といったおぞましい描写もいとわない。
勝者にとっても、あの戦争は地獄の日々だったのである。
本作は、元海兵隊員ロバート・レッキーの体験を原案としているが、レッキーはその著書の中でこう書いている。
「中川大佐は、第一海兵師団に死者1,252人、負傷者5,274人の損害、第八一師団に戦死208人、負傷1,185人という大損害を与え、日本軍が世界で最も手強い戦士である事実を証明した」
ロバート・レッキー『日本軍強し −アメリカ海兵隊奮戦記−』児島襄訳(恒文社、1961年)222ページ。
組織的戦闘が終わったあとも、生存者は島に駐留する米軍から武器や食糧を奪って潜伏を続けた。行動は次第に大胆になり、ときには飛行場で行われる米軍の映画鑑賞会に紛れ込み、ゆうゆうと鑑賞し終わったあとで輸送機内に忍びこんで食糧を失敬してきた、という。
彼らが説得に応じて投降したのは、終戦から実に1年半を経た昭和22年4月21日のことだった。
以下は、レッキーの著書の最後につづられた言葉。
「そして彼が天国にいったとき
聖パウロに向かって、彼はいう
“ただいま、海兵一名到着
地獄の勤務は終わりました”
この文句は、海兵たちの気にいっていた。彼らはこれを碑文のつもりで、ガダルカナルの食堂にもタラワの防波堤にも、ブーゲンビルの森の木立にも、ニューブリテンの地面にも、マキンにも、クェゼリン、エニウェトクにも書いてきた。サイパン、テニヤン、グアム、ペリリュー、硫黄島、そして沖縄でも、裏にこの文句を書いた鉄カブトがころがっていた。」
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