更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2010年5月31日(月)
「王シフト」の真実

もう一つ野球の話題。

以前、こんな記事を書いた。

ここで李承Yを批判するのに、「広島の王シフトに対して王はいつも通りに引っ張ってホームランを放った」という逸話を紹介したのだが、この逸話は伝説に過ぎなかったらしい。

『(王は)V1の1965年8月、「王シフト」の広島から、誰もいないレフトへ3安打の流し打ち。2打点をあげています。前の2試合、広島に完封されて無安打に終わり、本拠地球場の後楽園で3連敗はできない責任感が流し打ちをさせたのでしょう。V3の1967年には、空いたサードの前へついにバントヒット。「カドが取れた」と王。この年、セーフティバントを7度も成功させ、そのうち4度は前の打席に一発を放っています。
世界の本塁打王にも、やはり臨機応変な柔らかさは十分にあったのです。
V9時代、王の内野安打の最多は広島戦でした。』

小野俊哉『全1192試合 V9巨人のデータ分析』(2009年、光文社)183頁。

定説を無批判に信じてはいけないと自戒していたつもりだったのだが、この有様。
深く反省しました。

2010年5月29日(土)
スワローズ大不振

久々に野球の話。

今年はあっという間にスワローズが脱落したので、この話題触れずに済まそうかと思ったが夕刊フジの記事があまりに酷かった。ネットニュースはすぐ消えちまうので、ここに全文転載しておく。『 』内引用。

『ヤクルト8連敗に借金18の最下位、弱くなったのは誰のせい?
2010/5/24 16:56 配信 夕刊フジ

 ヤクルトが弱くなったのは前任者のせい!? 8連敗中で借金18の最下位に沈むヤクルトは24日、野村克也監督時代の黄金期に打撃コーチとして支えた伊勢孝夫氏(65)が打撃アドバイザーに就任すると発表した。


 日本ハム戦(神宮)が中止となったこの日、伊勢氏は練習に参加。15年ぶりに復帰したヤクルトは、すっかりダメなチームに変貌していた。

 「野村さんがやっていたいいものを引き継いでやっているものと思っていたが、どうもそういうのはないみたいだ。どうして野村さんが辞めた後に、いいものを残さなかったのかな?」と伊勢氏はチームの内情を知り、唖然呆然。「若松まではやっていたが、古田ぐらいから薄れた。それが成績になって表れてる」と5年前から蓄積されたものが、現在の成績となっていると指摘した。

 若松勉元監督は野村野球を継承してIDミーティングを続け、球団史上初となる4年連続Aクラスという安定した成績を残したが、古田敦也前監督はID野球と称されることを嫌がり、細かいミーティングを廃止。巨人OBの高田監督で復活するはずもなく、いい伝統が途切れてしまった。

 伊勢氏は「テレビで観ていると、何をどう狙って打っているのか、伝わってこない。ただ凡打を重ねるだけで終わっている。少し勉強してもらおうかと思っている」とIDミーティングの復活を予告。「“打ちたい、勝ちたい”だけじゃ、打てないし、勝てない。ヤクルトの野球はこうやるというものを野村さんは残して、強力な巨人にも勝てた。(今は)それじゃ巨人には勝てない。そりゃ10回やれば1回ぐらい勝てるかもしれないけど」と巨人に歯が立たない高田監督にとっては、耳の痛い話が続いた。

 「普通にやればこんな(最下位の)チームじゃない。普通に戦える。勝負事はどこかで歯車が狂うとこうなる」(伊勢氏)と、もちろん今の成績は3年も率いている高田監督に原因がある。

 監督を辞めて4年も経って、こんなところで名前が飛び出すとは。古田前監督にとってはとんだ迷惑ともいえる、ヤクルトの低迷となってしまった。(塚沢健太郎)』


まず第一に、「どう狙って打っているのか伝わってこない」のは、あくまで伊勢氏がテレビで見ての印象に過ぎない。

そして第二に、古田監督時代のスワローズはよく打った。今の低迷の原因が打撃不振であることは明らかだ。5月28日現在で得点147、チーム打率.234は12球団最低。横浜の得点181点とさえ、37点も差がある。失点203、チーム防御率3.8はそれぞれリーグ2位と3位なのだが、1試合あたり得点が3.13点。失点は4.32点だから勝てるはずもない。

古田監督1年目の06年はリーグトップの669得点。犠打は99とトップの中日155と大差があるが、盗塁83はリーグトップ。
最下位に沈んだ07年も、得点596はリーグ3位。勝ち星が伸びなかったのは、打線がいくら打ってもそれ以上に失点するふがいない投手陣の責任である。何しろまともな先発はグライシンガーだけ、石井と五十嵐が故障、木田と高津は絶不調の惨状だったのだ。
監督の能力を定量的に評価する指標として、XR値というものがある。チームの打撃成績からどれだけ点が取れるかを予測し、実際の得点と比較するのである。実際の得点が予測値に近い、あるいは大きければ、監督の采配によってより効率よく点が取れた、と考えられる。計算式は非常に長いので、田端到『ワニとライオンの野球理論』(東邦出版、2006年)あたりを参照。
古田のXR値を調べてみると、06年は673.1点。実際の得点は669得点だから、99.4パーセント。
07年はXR値650.5に対し596得点で91.6パーセントと下降している。理由は何とも言えない。俊足だった岩村とリグスの離脱が影響しているのかもしれない。
一方高田監督の09年では、XR値594.3に対して548点、92.2パーセント(『プロ野球本当の実力がわかる本 セイバーメトリクスで見るプロ野球』(日刊スポーツ出版社、2009年)39頁)。
ちなみに優勝した01年の若松監督の数字は、672.9に対して645点で95.9パーセント。

これだけ見ても、「古田のせいで打てなくなった」など言いがかりもいいところだというのは解る。

勝負事は結果がすべてだから、「野村監督の業績」が高く評価されるのは解らないでもない。しかし一方で、野村の下で酷使のあげく潰された投手は岡林、伊藤智、山部、川崎と枚挙にいとまがない。国産のロングヒッターも育たなかった。広沢、池山は関根監督が育てた選手だし、稲葉が真価を発揮したのは若松監督時代になってからだ。90年代のスワローズで起きていたのは、野村が若くて優秀な投手を使い潰し、フロントがひっきりなしに補充するという事態だったのではないか。そしてそれら投手を戦力化していたのは他ならぬ古田だった。
野村ヤクルトが優勝したのは、いずれも古田がフル出場した年である。
あるいはリード面の貢献。
『古田のリードは、ここ一番での思い切った内角攻めに特徴がある。04年の巨人戦を題材に「走者得点圏の状況における球種比率」を捕手別にまとめた。
内角直球の比率が高い1位は谷繁(中日)の24%、2位は古田の22%。
外角直球の比率が高い1位は相川(横浜)の45%、低い1位は古田の32%。
こうして並べると、ピンチに内角直球を多用する捕手のチームは順位も上で、外角直球を多用する捕手のチームほど順位が低かったという、わかりやすい一致も浮かび上がる。古田や谷繁など、一流のキャッチャーはみな内角球の使い方が巧みだ。』
田端『ワニとライオンの野球理論』18-19頁。

この3年、巨人にまるで勝てない理由の一端が見えてくるようではないか。
野村監督には、捕手・古田がいた。そして古田監督は捕手・古田を得なかった。ヤクルトを去ったあとの野村が1度も優勝していないことを想起してもいい。

ついでだが、伝え聞く古田監督の「出塁率重視」や「2番に強打者」という方針を見るに、古田が指向していたのはいわゆるマネー・ボール流新思考派の野球だったのだと思う。

「マネー・ボール」vs「スモール・ボール」 お受験式解析。
新旧野球セオリーの対決。

V9時代以来、野球理論も常に進歩変転してきた。古田が新しい野球を花開かせるのを、見てみたかった。

今回の記事を書いたきっかけは、スワローズファンサイト「燕倶楽部」の掲示板があまりに見苦しかったからだ。今時夕刊フジの記事なんぞ真に受けるなよ、恥ずかしい。
それに、負けが込んでくると必ず「若手を起用しろ」と言い出す奴がいるんだが、2軍の成績を見た上で言ってるのかね?
確か岩村は2軍のホームラン王だった。使ってみたら化けるということがないとは言わないけど、2軍で通用しないような選手が1軍で使えるとは思えないんだが。

2010年5月20日(木)
R.エバートの3D映画評

ニューズウィーク英語版に、ロジャー・エバートが3D映画を批判する記事を書いていた。

オリジナル記事

と紹介しようと思ったら、すでに訳出してくれてる方がいるので便乗。

エバートと言えば、辛口にして的確な映画評で全映画人に恐れられる評論家である。さぞかし厳しいことを・・・と思いきや、案外常識的な主張をしている、というのは上のリンク先に同感。

2つほど私の雑感を付け加えると、まず当該のニューズウィークの表紙には、「Why Avatar is BAD for movies?」と大書されているが、これは看板に偽りありのアオリ文句で、本文ではそこまで言っていない。むしろ「アバター」の3D映像そのものは、例えば「アリス・イン・ワンダーランド」などのやっつけ仕事と一線を画するものとして、高く評価している。ただ、それが映画のよりよい未来につながるものとは考えていない、というほどの意味である。

もう一つ、リンク先で言う3番の趣旨。
3Dは映像全体にピントがあってしまうという点を問題視しているが、ここで“focus”と言っているのは、むしろ監督が観客に見せたいものに注意を喚起する、視線誘導機能のことを指しているのだと思う。もっともわかりやすい例が、ピン送りである。

ただこれも、要は「3D映像用の映画文法」というものが確立されていけば解消する問題なのかもしれない。

私自身は「アバター」も観ていないし3D映画に興味はないが、将来がどうなるか意見表明は控える。

2010年5月15日(土)
「東のエデン」 走り出す咲の物語

近年の宮崎アニメについて、佐藤健志がこんなことを書いていた。

『宮崎は、作品を支離滅裂にすることにより、「上の世代の勝手な行動のせいで、どんな迷惑や被害を受けようと、恨んだり反抗したりしてはいけない」というメッセージを盛りこんだことになる。これは理不尽なだけでなく、若い世代の活力を圧殺したがる点で、有害きわまるものといえよう。』
佐藤健志「『ハウルの動く城』が物語る戦後日本と『論理の死』」『正論』2005年3月号304ページ。

『「ハウルの動く城」は、「少女のふりをしたがる老婆が、インポの若者をたぶらかして、おのれの現実逃避願望を成就させる物語」に見えてくる。』
同306ページ。

私は「ハウル」以降の宮崎アニメを未見なので、この論評が妥当なものかどうかは知らない(注)。

ただこれを読んで直接連想するのが、「東のエデン」である。「東のエデン」は、「若者が上がりを決め込んだ年寄りの責任を問う」はなしだった。神山健治は、宮崎が放り出した問いに真摯に答えてみせたのである。なおかつ、それをただ糾弾するだけでなく、「ではどうすればいいか」建設的な方向へ向けようとしていた。

「東のエデン劇場版U Paradise Lost」でその試みが成功したかどうか、正直言って判断がつきかねている。少なくとも、「映画という表現様式」の中で成功したかどうかは微妙なところだ。TVシリーズのクライマックスがミサイルの迎撃というスペクタクルシーンだったことを考えれば、劇場版の「画としての」地味さは異彩を放つ。
しかし、TVシリーズの頭から観直してみて1つ気がついたことがある。

「劇場版T・U」は、TVシリーズの1・2話を反復しているのである。
TVシリーズ1話と「劇場版T The King of Eden」はアメリカが舞台で、咲と滝沢が出会う話であり、日本へ帰国するまでが描かれる。
同2話と「劇場版U」は、滝沢が自分が何をなすべきかを見出す話である。滝沢の行動原理は、どこまでもポジティブで健全で、記憶の有無に関係なくその本質は変化しない。極めてヒーローらしいヒーローだ。
むしろ大きく変化するのは咲の方である。それが視覚的に強く表現されているのが、「走る咲の姿」だ。
TVシリーズの1話で、全裸の滝沢にコートを譲った咲は、ポケットにパスポートを入れたままであることに気づいて、滝沢の後を追って走り出す。
同2話では、咲は走らない。このエピソードでは、「滝沢に置いていかれる咲」が2度描写される。
1度目は帰国した空港で。このときの滝沢は行き先がわからずに戻ってくる。
2度目は、豊洲に向かう水上バス乗り場だ。バスをただ見送るだけだった咲は、滝沢が手をさしのべることでようやくバスに乗る。

そこで、「劇場版U」である。物語のクライマックスは、滝沢が電子マネーを送金するシーンであるが、ドラマの頂点となるのは、咲が滝沢を追って走り出すシーンだ。TVシリーズ1話で走る咲は、滝沢ではなくパスポートを追いかけていたことを想起してほしい。
「東のエデン」とは、滝沢を見送るだけだった咲が、自分の脚で、自分の意思で、滝沢を追って走り出すまでの物語だったのである。

この走る咲の姿が、異様に気合いの入った作画で描写されているのはそういう理由である。ここを作画の見せ場と定め、技術を傾注したスタッフの判断は、映画として、アニメとして、大変に正しい。

注:近年の宮崎アニメが作劇として破綻しているというのは、しばしば指摘される。その点にまつわる言論として、「破綻を批判するよりも、なぜ破綻している作品に感動させられてしまうのか考察した方が有益」というものがある。私も同感なのだが、観たらきっと「力技で感動させられてしまう」のがなんかシャクに障るので観ないことにしているのだ。

2010年5月10日(月)
「紫色のクオリア」への不満

ラノベ強化月間で、世評の高いこれを読んでみた。

なるほど、うわさ通りにすさまじいまでの疾走感。
面白かった。
けど。


えー、今から書くのは、たぶんトンチンカンなことである。
少なくとも、本作の作者はそんなことを描きたかったんじゃない、そのくらいは私にだって解っている。だからこれは、『私の「紫色のクオリア」評』ではない。そのつもりでお読みいただきたい。

突然だが、アニメ版「超電磁砲」の話。
この作品、最初からどうもビミョーだと思っていたが、本格的に見限ったのがいつかは、はっきり指摘できる。10話の、佐天とレベルアッパーのエピソードである。
能力がないことにコンプレックスを覚える佐天は、ついレベルアッパーに頼ってしまう。そのことで他人に害を及ぼしてしまい落ち込む佐天に、親友の初春は言う。「能力がなくたって佐天さんは佐天さんです!」(記憶で書いているので正確にこうだったかどうかは自信ない。あくまで大意)

感動的なセリフなのだろうが、私はここでげんなりした。
「あ、ダメだ」と思ってしまった。

このセリフを、微弱とはいえ能力者の初春に言わせちゃダメでしょ。初春にこれを言われたら、佐天は余計惨めなはずだ。こんな底の浅い言葉で安易に救われていいはずがない。
佐天がいくら快活で素直でいい子であっても、である。いやむしろいい子だからこそ、人はダークサイドに落ちることがあるのだ。それを描くのがドラマってもんだろう。

誤解のないように言っておくが、私は別にダークサイドに落ちる話が楽しいと思っているのではない。最終的に救われれば嬉しい。ただ優れた物語というのは、もうちょっと自然な感情の流れと、起伏というものがあるべきなんじゃないの、と言いたいだけだ。
私の目には、彼女たちの友情とやらは、裏打ちのないひどく薄っぺらなものに見える。

「クオリア」にも同じ不満を持った。
マナブがゆかりに対して抱く友情の堅固さが物語を突き動かすわけだが、それが何に由来するのか、私にはどうにも理解できない。あれだけの体験をした人間が変わらずにいられるなんてことが、信じられないのだ。作中ではそのエクスキューズを「マナブは汎用型だから」の一言で済ましているが。

私のオールタイムベストの一つに、山田正紀の「氷河民族」がある。
本作の主人公は吸血人類の謎と失踪した親友を追ううちに、敵対する組織に捕まり拷問を受ける。以下はその場面。

『「君が、亜人類に関わるようになったのは、友情のためなのか」
とKは私に囁いた。ひっそりとした、それでいて、なにかしら背筋を凍らせるような声だった。
「どうなんだ?須藤という友人のためなのかね」
「それもある−」私はうなずいた。「もちろん、そればかりでもないだろうが・・・・・・」
「それでは、君が拷問を受けるはめになったのも、その友人のせいである、とは思わないか」
「・・・・・・思わないね。こいつは俺が自分で選んだことだ。誰のせいでもない」
「君は思い違いをしている。誠実な男ほど、そんな思い違いをするものだ・・・・・・」
Kは低く含み笑いをしながら、その右手首を私の眼の高さにあげた。彼の右手首には、引きつったような傷痕が交叉していた。息を呑む私に、
「拷問される人間は、必ず誰かを恨むようになるものだ。その恨みが、執拗で深いほど、彼は拷問によく耐え得る・・・・・・肉体的な苦痛は総てを凌駕する。君も拷問に耐えようと思うなら、その須藤という友人を恨むことだ。恨み続けることができたなら、もしかして、君は沈黙を保つことができるかもしれない。だが、拷問の後で、君は気づくだろう。もはや沈黙を続けなければならない理由など、なに一つ残されていないことに、ね・・・・・・。拷問を受けた人間は、拷問を受けたというそれだけで敗北することになるんだよ」
「あんたは誰なんだ?」
私は喘いだ。ふいに私に襲いかかってきた恐怖に、身体中をめぐっていた血の流れが停止して、しだいに冷えていくかのように思われた。
「あんたのような人が、なぜ、こんな仕事をしている?」
Kは私の問いに応えようとしなかった。急に私に興味をなくしたかのように顔をそむけて、連れていけ、と手ぶりで骸骨に命じただけだった。』
山田正紀「氷河民族」(角川文庫、1977年)185-186頁。

これはSFであると同時に、友情と忠誠−口はばったいが、「尊厳」を問う物語である。これが小説というものだろう。


「人間が無機物に見える」という話は、手塚治虫「火の鳥 復活編」にもある。本作の主人公は、事故で損傷した脳を機械で代替した結果、人間が無機物に、逆にロボットが人間に見えてしまうのだ。彼はその「美少女に見えてしまうロボット」に恋い焦がれ、「無機物に見える普通の人間」を人間として見ない。その努力さえしない。
私には、「クオリア」のゆかりとマナブより、この方が自然に見える(望ましいと言ってるんじゃないよ、念のため)。なるほど、ある人間が世界をどう見ているか、「本当に理解し合う」ことはできないかもしれない。その意味で、ゆかりと他の人間に本質的な違いはないというのは正しい。しかし本質が同じであっても、その結果発生する現象の差異を無視していいということにはならないだろう。特に人間が日常を生きていく上では、現象の差異はそれなりに重要なはずだ。もちろん差異を強調しすぎるのは問題だが、差異を無視しすぎるのもそれと同じくらい危険だ。要はバランスなのだ。普通、人間は言語や文化が違ったとしても「赤」は「赤」として認識する。それこそ、作者の言葉を借りれば「共通のクオリア」というものがあるからではないか?



最後に、「感覚と認識とコミュニケーション」の問題について示唆的な作品を2つ紹介。

映画「Hear and Now」。

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20080520

65才まで耳が聞こえなかった老夫婦が、人工蝸牛の移植手術を受けて聴覚を取り戻すドキュメンタリー。残念ながらポッドキャストはリンク切れ。
この映画の主眼は、初めて音を聞いて困惑する夫婦の姿にある(らしい。日本未公開で私も未見)。何しろ生まれてこの方脳の聴覚野を使っていないので、聴覚信号が入ってきてもそれを処理し、認識し、言語で表現することができないのである。だから例えば、音を「赤い」などと表現してしまう。
これは聞いた話で真偽は定かでないが、ほんまものの音痴は、音の高低が解らないという。聴き取れないのではなく、そもそも「音が高い低いという概念」が理解できないのだ。


もう一つ、会田雄次「アーロン収容所」。
敗戦後ビルマで抑留され、英軍の監督下で強制労働に従事した著者の体験記。以下は、著者が英軍の女性兵舎の掃除を命じられたときのことである。

『その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら「ライフ」か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終わると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた。
(中略)
彼女たちからすれば、植民地人や有色人種はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。どうしてもそうとしか思えない。』
会田雄次「アーロン収容所」(中公文庫、1963年)48-50頁。

2010年5月2日(日)
「砂の上の植物群」とチョココロネ

表題は、吉行淳之介の同名小説を原作とした中平康監督の映画。

ジャンルとしてはまあエロチック・サスペンスだろうか。'64年という時代としてはかなり大胆な性描写を取り入れ、唇やくるぶしのアップ、みたいなフェチい表現満載。

が、ポイントはそこではない。
この映画、作中でチョココロネが出てくるのだ(重要な小道具とかいうんじゃなくて、本当に出てくるだけ)。昭和30年代には普通にあったんだなあ、という感慨もわくが、注目はその食べ方。

しっぽをちぎってチョコをつけて食べるという、みゆきさん方式なのだ。



この食べ方が由緒あるものであることが証明されたとともに、あらためて、みゆきさんの正しさも証明された!


阿呆なネタですみませんが、当サイトも4年目に入りました。今後ともごひいきに。

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