近年の宮崎アニメについて、佐藤健志がこんなことを書いていた。
『宮崎は、作品を支離滅裂にすることにより、「上の世代の勝手な行動のせいで、どんな迷惑や被害を受けようと、恨んだり反抗したりしてはいけない」というメッセージを盛りこんだことになる。これは理不尽なだけでなく、若い世代の活力を圧殺したがる点で、有害きわまるものといえよう。』
佐藤健志「『ハウルの動く城』が物語る戦後日本と『論理の死』」『正論』2005年3月号304ページ。
『「ハウルの動く城」は、「少女のふりをしたがる老婆が、インポの若者をたぶらかして、おのれの現実逃避願望を成就させる物語」に見えてくる。』
同306ページ。
私は「ハウル」以降の宮崎アニメを未見なので、この論評が妥当なものかどうかは知らない(注)。
ただこれを読んで直接連想するのが、「東のエデン」である。「東のエデン」は、「若者が上がりを決め込んだ年寄りの責任を問う」はなしだった。神山健治は、宮崎が放り出した問いに真摯に答えてみせたのである。なおかつ、それをただ糾弾するだけでなく、「ではどうすればいいか」建設的な方向へ向けようとしていた。
「東のエデン劇場版U Paradise Lost」でその試みが成功したかどうか、正直言って判断がつきかねている。少なくとも、「映画という表現様式」の中で成功したかどうかは微妙なところだ。TVシリーズのクライマックスがミサイルの迎撃というスペクタクルシーンだったことを考えれば、劇場版の「画としての」地味さは異彩を放つ。
しかし、TVシリーズの頭から観直してみて1つ気がついたことがある。
「劇場版T・U」は、TVシリーズの1・2話を反復しているのである。
TVシリーズ1話と「劇場版T The King of Eden」はアメリカが舞台で、咲と滝沢が出会う話であり、日本へ帰国するまでが描かれる。
同2話と「劇場版U」は、滝沢が自分が何をなすべきかを見出す話である。滝沢の行動原理は、どこまでもポジティブで健全で、記憶の有無に関係なくその本質は変化しない。極めてヒーローらしいヒーローだ。
むしろ大きく変化するのは咲の方である。それが視覚的に強く表現されているのが、「走る咲の姿」だ。
TVシリーズの1話で、全裸の滝沢にコートを譲った咲は、ポケットにパスポートを入れたままであることに気づいて、滝沢の後を追って走り出す。
同2話では、咲は走らない。このエピソードでは、「滝沢に置いていかれる咲」が2度描写される。
1度目は帰国した空港で。このときの滝沢は行き先がわからずに戻ってくる。
2度目は、豊洲に向かう水上バス乗り場だ。バスをただ見送るだけだった咲は、滝沢が手をさしのべることでようやくバスに乗る。
そこで、「劇場版U」である。物語のクライマックスは、滝沢が電子マネーを送金するシーンであるが、ドラマの頂点となるのは、咲が滝沢を追って走り出すシーンだ。TVシリーズ1話で走る咲は、滝沢ではなくパスポートを追いかけていたことを想起してほしい。
「東のエデン」とは、滝沢を見送るだけだった咲が、自分の脚で、自分の意思で、滝沢を追って走り出すまでの物語だったのである。
この走る咲の姿が、異様に気合いの入った作画で描写されているのはそういう理由である。ここを作画の見せ場と定め、技術を傾注したスタッフの判断は、映画として、アニメとして、大変に正しい。
注:近年の宮崎アニメが作劇として破綻しているというのは、しばしば指摘される。その点にまつわる言論として、「破綻を批判するよりも、なぜ破綻している作品に感動させられてしまうのか考察した方が有益」というものがある。私も同感なのだが、観たらきっと「力技で感動させられてしまう」のがなんかシャクに障るので観ないことにしているのだ。
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