諸星大二郎と星野之宣

その1
伝奇・SF分野の巨匠・諸星大二郎。諸星の初期の短編に、「遠い国から」という作品がある。宇宙の旅行者である「私」が、旅先で目にする出来事を淡々とつづっていく作品だ。宇宙と言っても、「私」の姿はコートに手提げ鞄が一つで、まるきり普通なのがいかにも諸星らしい。初出は「別冊奇想天外」1978年12月号。この作品は、「コンプレックス・シティ」「夢みる機械」「夢の木の下で」3つの短編集に収録されている。ところが、この3つがすべてバージョンが違う。「ガラクタの町」のエピソードが、増えたり減ったりしているのである。こんな具合だ。

短編集 初版・出版社 エピソード
コンプレックス・シティ 1980年・双葉社 電信柱に一つだけついた電球を灯すため、手回し発電機を回し続ける男の話
夢みる機械 1993年・集英社 電信柱のエピソードなし
夢の木の下で 1998年・マガジンハウス 電信柱のエピソードの代わりに、ガラクタ市の風景の話

出版時期からすると、「コンプレックス・シティ」収録のものが一番原型に近いものと思われる。その後、2つの短編集に収録するに当たって、その時点でベストと思われるバージョンにしている、ということだろうか。
1994年から98年にかけて追伸、第三信及び第四信という具合に短編連作の形で続編を発表しており、「夢の木の下で」には、これらをまとめて収録している。おそらく、これが最終版だろう。しかし、この何ということもない短編にかけるこの情熱。作家とは、業が深いものだ。

その2
諸星の代表作の一つが、「マッドメン」だ。近代化に揺れるニューギニアのある部族の王を主人公に、人類発祥の謎にまで迫った壮大な作品である。今では信じられないが、少年チャンピオンに連載されていた。当時小学生だった私は、おどろおどろしい絵柄が怖くて、読めなかった記憶がある。
ところで、私の手元には秋田書店の愛蔵版と、中央公論社の大判があるのだが、このほかに、「カーゴ・カルト」の写真入り説明を収録した版が出ているはずなのだ。ご存じの方、どうかご教示ください。

その3
諸星大二郎と言えば、直ちに星野之宣が連想される。伝奇・SFマンガの分野に並び立つ両雄である。この両者で、ファッショナブルなのはどちらだろうか。いや、ご本人ではない。作中登場人物の話である。
いしかわじゅんの「漫画の時間」に、作中登場人物の服装に気をつけろ、という話が載っている。それを読んで以降、マンガを読むときちょっと念頭に置いているのだが、諸星と星野の場合、どうだろう。
太い線で黒みが多く、劇画的に荒いタッチの諸星と、流麗で洗練された線の星野。星野の方がおしゃれかと思いきや、これが意外なことに(失礼)諸星の方なのだ。
古代中国に材をとった作品の多い諸星だが、試しに「栞と紙魚子」シリーズや「暗黒神話」など、現代劇の人物の服装をよく見て欲しい。実によく研究して、流行やキャラの個性を表した服を着せていることがわかるはずである。特に「暗黒神話」は、当時の風俗の資料としても後世に残るのではあるまいか。「栞と紙魚子」シリーズも、現代の女子高生らしく見せるのに気を使っている。
一方星野の方は、いたってワンパターンである。現代劇の代表宗像教授は着たきり雀だし、男性はスーツか襟付きブラウス、さもなければTシャツにジーンズ。女性はせいぜいワンピースかそうでないか、ぐらいしかない。宇宙や古代、いわゆる異世界を舞台にした作品が多いのは、案外このせいかもしれない。
蛇足だが、星野作品の悪役は全員、登場の瞬間にわかる見事なまでの悪役面である。巨匠ならではの味わいと言って言えなくもない、かもしれない。

その4
諸星と星野の自選短編集が、集英社から同時期に発売された。作品は無論だが、装幀も美麗な、見事な出来である。唯一の欠点といえば、でかくて重くて、持って帰るのが大変なことくらいか。今では想像もつかないが、二人とも少年ジャンプの出身である。ジャンプがそれだけの度量と気概を持っていた古き良き時代、と言えるだろう。
諸星は中国古典から現代日本の土俗的恐怖、日常の奇妙な捻れを扱う一方、軽妙なコメディをもものして、独特な世界を構築してきた。4才年下の星野は星野で、古代世界からハードSFまで広い守備範囲を誇るが、悠々と我が道を行く諸星を、かなり意識している節が伺える。「2001夜物語」に「西遊妖猿伝」の弁士が登場したり、宗像教授の書棚に「妖怪ハンター」稗田礼二郎の著書が並んでいたり。「宗像教授」シリーズは、まさしく「妖怪ハンター」への真っ向勝負であるが、同じ題材を相手にしても解釈、料理の仕方がずいぶんと異なり、興味が尽きない。二人は以前にも、「海神記」と「ヤマタイカ」で日本人の起源というテーマに挑んだことがあるが、これまたキーワードは海と火山、と真っ二つに分かれた。
さて、読みごたえある両短編集からあえて一話だけ選ぶと、星野之宣「MIDWAY宇宙篇」から「セス・アイボリーの21日」を推したい。異常に時間の進み方が速い異星に不時着したセス・アイボリーは、3代にわたって自身のクローンを作り、記憶を移植して生還を図る。真の主人公は、「中継ぎ」に過ぎない2代目セスである。わずか10日間で子供をつくり、人生を終える。そのためだけの生を。後に残るのは、「自分自身」である「他者」。「何のために生まれてきたのか」と悲痛に叫ぶ彼女の声が胸に迫るのは、それが我々自身の問でもあるからだ。たった10数ページだが、「冷たい方程式」にも比肩し得る世界SF史上に残る傑作と呼びたい。


こやま基夫

絵のうまさとマンガのうまさとは、似ているようでちょっと違う。リアリズムという観点から絵のうまい作家といえば、代表は池上遼一だろう。だが、この人のマンガは必ずしもうまいとは言い難い(詳しくは、いしかわじゅん「漫画の時間」参照)。
マンガのうまさとは、画力以外にコマ運びであったり動きの表現であったり、セリフ廻しであったりと様々な要素を含んでいる。これらをひっくるめ、決して画力があるわけではないが、抜群にマンガがうまいのが、このこやま基夫である。こやまを初めてみたのは、サイバーコミックス誌上での「Gの影忍」シリーズだった。
え、「Gの影忍」をご存じない?
こういうマンガである。



ガンダムの忍者ものというキワモノ企画ながら、アクションもギャグも含めて、その面白さは際立っていた。次々に繰り出される宇宙忍法の妙な説得力が爆笑モンだったが、最終話「百騎夜行」のクライマックスの盛り上がりはすごかった。マイナーな作品なのに、単行本は2度も再版されており、今でも容易に入手できる。
この後、こやまはコミックNORAで「おざなりダンジョン」の連載を開始する。剣と魔法の異世界を舞台にしたこの作品で、こやまは緩急自在のアクション描写と魅力あるキャラクター、絶妙のセリフ廻しという持ち味を全開にした。少年誌向けの絵柄で、あくまで軽いコメディタッチでありながら「ちょっと大切なこと」を語るその作風はすがすがしい。なかでも印象深いのが、黒竜ロゴスを巡るエピソードである。新興種族・人類と、滅びゆく偉大なるもの・竜。それはやがて神と人との相克にまで至る。最終的に、本作は単行本にして17巻にもわたる長期連載を全うした。剣と魔法のファンタジー世界を舞台にした作品は今や珍しくもないが、本作はかなり初期の作品に当たるのではないか。このことはもっと評価していいと思う。ちなみに、続編の「なりゆきダンジョン」はいかなる事情か、ひどく急いだ展開で終わってしまい、残念だった。
こやまはこの後、ヤングキング、ウルトラジャンプを経てなんと少年チャンピオンに進出し、「おもかげ幻舞」を世に送っている。先が楽しみである。




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安田弘之

安田弘之は、恐ろしく絵のうまい作家である。初めて読んだのは、「紺野さんと遊ぼう」。一見ざっくりしたラフな線だが、不要な線がひとつとしてない。


この絵を見ても、濡れた髪の重さ、飛び散るしぶきが余すところなく表現されている。初期短編集の「冴木さんってば・・・」を読むと、当初は大友克洋の路線を目指していたことが解る。そこから、いらないものを次第に捨てていったのが今の画風なのだろう。


松本大洋とマイケル・N・シャマラン
(ネタバレあり。特にシャマラン映画はオチが命なので、ご注意を)

何を突飛なことを、と思われるだろうが、具体的に言うと、「ピンポン」と「アンブレイカブル」である。偶然だろうが、この両者は同じモチーフを持つ作品である。つまり、「ヒーローを産み出すために自らを悪に落とす男」の物語だ。
まず「アンブレイカブル」は、ブルース・ウィリスが「不死身のヒーローである自分を見出す」のが本筋だが、そのためにサミュエル・L・ジャクソンは自らを悪となさなければならなかった。
一方「ピンポン」の方は、天才児ペコと、努力型スマイルの物語である。スマイルの師匠、バタフライジョーの引退試合のエピソードがある。

「君なら勝てたかね?」
「フォアに深く打ってバックに切り返せば簡単に沈む相手です。」
「君なら打てたかね?」
「!?」
「旧友の傷に釘を突き立てるような球をね・・・。選手生命を奪う危険なコースにさ。」
「・・・・・・・」
「君なら打てたか?Mr.月本」

負傷した親友との試合で、その傷に釘を突き立てるような攻撃が、ついにできなかった。

クライマックスのペコとスマイルの試合で、スマイルはまさにそういう攻撃をしている。驚くべきことに、ここにはセリフもナレーションもない。
画の力でそれを解らせる気迫がこもっている。
ペコは、見事にそれをはね返す。「ヒーローを待っていた」スマイルは、自らを悪に落とすことで、ヒーロー・ペコを生むのである。