更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2019年10月31日(木)
『空の青さを知る人よ』など

○『空の青さを知る人よ』
初日に台風直撃という不運に見舞われたものの、これは観逃してはならない傑作。『心が叫びたがってるんだ。』を観たとき、これから長井龍雪は何を作ればいいんだろうと思ったものだ。あまりにも完璧な映画だったからだ。『とらドラ!』以来、長井は思春期の揺れ動く少年少女の心理を繊細に掬い上げてきた。『心が~』で、いい加減その手法もテーマも、極限に達してしまっていた。
『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』の失敗(と、言ってしまっていいと思う)を経て、なおさら長井の今後を心配していたのだが。

なるほど、こういう方向に来たのか。
本作の語り部は高校生のあおいだが、実際の主人公はあかねと慎之介の30代カップルである。
30代は無心に夢を追う時期を過ぎ、立場や収入が落ち着き、場合によっては責任を負って、自分の来し方行く末に思いを巡らし始める。端的に言って理想と現実の折り合いをつける年頃である。

夢を追って上京した慎之介の、「演歌歌手のバックバンド」という現実が絶妙だ。音楽で身を立てていると言えばそうだが、望んだとおりの姿とはとうてい言えない。決して落魄ではないが、故郷に錦を飾ったわけでもない、このうらぶれかた、やさぐれ具合がすごい説得力。

一方、あおいの世話にかこつけて田舎を出なかったあかね。山々に囲まれた盆地は、彼女を閉じ込める牢獄である(そういえば『惡の華』も、山を越えて逃げ出すことができないという話だった)。あかねはしばしば車の窓や柱や藤棚に囲まれた構図で描写され、その境遇を強調する。その極致が、地震で閉じ込められたトンネルであり、彼女を救出するのが、13年前から来た若きしんの、という構図になる。

ここで面白いのが、音楽の扱われ方。しんのがあかねを救うためお堂から出ようともがくと、ギターの弦がひとりでに振動を始める。そしてあおいの助力でお堂を脱出した瞬間、弦が弾ける。
音楽とは内心の押さえきれないパッションがあふれ出したものだから、普通は自由の象徴である。ましてロックンロールは、反逆と革命の音楽だ。『ボヘミアン・ラプソディ』は記憶に新しいし、『フリクリ』のハル子を思い出してもいいだろう。
ところがここでは、ギターの弦-正確には錆びた弦だが-が、牢獄の一部を構成している。ミュージシャンイコール成功者とは限らないというクールな視点と合わせて、ちょっと珍しい、成熟した思想である。
30代の男女を主役に据えたことといい、岡田麿里が『さよならの朝に約束の花をかざろう』で女性の一代記を描いたことが、想像以上に影響を及ぼしているのかも知れない。ともあれ、本作は間違いなく長井龍雪の新境地である。
上映館はすでに縮小気味。未見の方はお早めに。


○『バビロンまでは何光年?』
エロマンガ出身で、近年は一般誌で活躍する道満晴明の新作。もともとエロマンガだかなんだか分からない、独特すぎる作品を手がけていて、SFに親和性のある作風ではあったが、本作は消滅した地球の生き残りの主人公を含め、3人組が宇宙を旅するお話。断片的なエピソードの数々が伏線になり、最終的に壮大な物語となる見事な仕掛け。
しかもカバー下を見れば分かるとおり、これなんと藤子・F・不二雄の名作『モジャ公』のオマージュなのである!
よもやこんな場所にたどり着くとは。

だからでもないが、今期の新作では『バビロン』が突出した面白さ。

2019年10月3日(木)
『HELLO WORLD』など
○ 『HELLO WORLD』
骨太な一大娯楽SF映画。ここは仮想世界なんだよ、というのが大したショックでもないというのが実に時代を感じさせてよろしい。仮想世界には仮想世界の生と幸福がある、という考え方は『ソードアート・オンライン』以来一貫している。
プライバシーの問題はどうなるのかとも思うが、パンフレットによると、将来的にプライバシーの概念は緩くなるという予測があるのだとか。
パンフレットの監督インタビューより。
伊藤:例えば、『マトリックス』(99)が公開された20年前なら「お前の生きるこの世界は仮想世界なんだ」と言われると、ものすごいショックがあったと思うんですよ。でも、2020年代に向けた今では、それほどショックを受けないんじゃないかと。「じゃあ、しょうがないか」と言って、その世界でつましく暮らす選択もあり得る。そういう主人公の方が今っぽいなと感じたし、俺もわりとそのタイプの人間なんです(笑)。『マトリックス』の現実世界のようなディストピアなら、あえてそんな世界に戻らなくてもいいでしょうと。仮想世界で毎日が楽しく暮らせるなら、それはそれで別に構わない。もっと言ってしまえば、我々が暮らす、今のこの世界が現実世界であると担保するものだって何もないわけです(笑)。

戦う名ヒロイン・アスナを生んだ伊藤監督にしては受け身のヒロイン。
と思ったら、大どんでん返しが。

-そうしたお話作りの中で、特に大事にしていたポイントはありますか?

助けられるヒロインをどう描くかにはかなり注意しました。助けられるヒロインというのは、どうしても受け身の存在になりがちなんですよ。でも、今の時代に一方的に助けられるだけの女性を描くのは現実的でないし、下手をすると批判にさらされかねない。なので、瑠璃というヒロインのキャラクター性が立っているがゆえに、そう見えてしまうという描き方にしなくてはなりませんでした。そこについてはいろいろと気を使いましたが、最後まで観ていただければ、実は彼女の方が強い存在だったことがわかります。

堀口悠紀子キャラの破壊力を改めて実感。何より、堀口キャラがドラマを演じるところ-葛藤したり決断したりする様子を初めて見た。クレジットに原画スタッフがあるところを見ると、手描きの絵が混在してるのか?

パンフレットの伊藤智彦(監督)×野崎まど(脚本)×武井克弘(プロデューサー)の鼎談より。

武井:僕の狙いとしては伊藤さんの代表作である『ソードアート・オンライン』(12)と『僕だけがいない街』(16)の2つを掛け合わせたような作品になれば、伊藤さんのフィルモグラフィー的にも意味のあるテーマになると思ったんです。
野崎:当時のメモにも「僕町・オンライン」と書いてあります(一同笑)。
(中略)
武井:あと、『電脳コイル』があって、やっぱり『ゼーガペイン』(06)がありますね。どちらも最高のアニメです。
伊藤:それは外してはいけないです。アニメ史的にも、今回の作品に取り組むにあたって『ゼーガペイン』はきちんと押さえておくべき作品の1つでした。
(中略)
武井:大体こういう“虚構と現実”をテーマにした作品では、最後は現実に戻って終わるんですね。そうせざるを得ないのもわかるんです。『レディ・プレイヤー1』(18)でもそうなっているんですけど。それまでフィクションに救われてきたキャラクターたちが手のひらを返して「やっぱり現実だよな」と(笑)。個人的にはそれは裏切りじゃないかと感じていて、とはいえ虚構に戻るというのも現実逃避に見えかねない。そこで「第三の道がないですかね」と相談したんです。完全な無茶ぶりですけど(笑)。そうしたら、虚構がある種のビッグバンを起こし、現実に成り代わってしまうというアイディアが出てきて「それだ!」と。
参照した映画として『バニラ・スカイ』(01)が挙がっているが、私はオリジナルである『オープン・ユア・アイズ』('97)の方が好きだな。

ところで、パンフレット掲載の渡邉大輔のコラムがおっそろしく空疎で陳腐でつまらない。こんなもんよりメイキングの記事でも載せてくれりゃいいのに。

最後にぜひ触れておきたいのが、併映された丸井グループのショートアニメ『そばへ』。わずか2分間の作品だが、キャラクターの芝居もカメラワークも気持ちよくて印象深かった。監督・石井俊匡の名を見てあっと思った。数年前、伊藤智彦監督の講演を聴いたことがあって、質疑応答で「最近気になる若手の演出家はいるか」と質問してみたことがある。今思えば、同業者の名前は出しにくいだろうに阿呆なことを訊いたものだと赤面してしまうが、そこで伊藤監督が挙げたのが石井監督の名前だったのだ。ちょうど『僕だけがいない街』の監督助手を務めたころだったが、「近いうちに監督になる」と断言されていた。
短編ながら、実現したわけだ。次はもっと本格的な作品にと期待が高まる。


○ 『彼方のアストラ』
今期は、『彼方のアストラ』も大変良かった。『WHITE ALBUM2』から注目している安藤正臣監督。サスペンス(恋愛ドラマ含む)しか描けない人なので果たしてどうなるか不安があったのだが、終わってみれば、見事にジュブナイルSFサスペンス冒険サバイバルミステリ漂流記として大団円に導き、ついでにコメディ演出にも達者なところを見せて新境地を開いてくれた。
昨年の『ペンギン・ハイウェイ』といい、SFアニメの新しい潮流が感じられて嬉しい。

一方、『やがて君になる』で注目した加藤誠監督の『ロード・エルメロイ以下略』は期待はずれ。やっぱ原作に左右されるということか。ただ、グレイが自分のこと「拙」と呼ぶのは可愛くて良いですね。


○ 『天気の子』
例によって、パンフレットvol.2が出ていた。スタッフインタビューが充実しているのでおすすめ。興味深いのが、助監督・色彩設計の三木陽子氏の経歴。『雲のむこう、約束の場所』で撮影補佐として入り、『星を追う子ども』で色彩設計補佐、『言の葉の庭』『君の名は。』で色彩設計。そして『天気の子』で色彩設計に加えて助監督。撮影出身の演出家は聞いたことがあるが、色彩設計から演出へ、というルートはかなり珍しいのではないか。
というより、新海映画において色彩設計がいかに演出上重要かを物語っていると理解すべきか。
2019年8月27日(火)
『月がきれい』4話

一昨年のスマッシュヒット。買ったきりだったBD-BOXを観ている。

改めて観たら、第4話「通り雨」がとても良かった。

交際の申込みを保留にしたまま訪れた修学旅行。
小太郎は、自由行動の日に茜と会おうと約束を取り付けるが、行き違いで待ち合わせ場所に現れない。

ようやく連絡が取れ、二人は雨の中、神社の境内で落ち合う。

茜は傘を差しているが、微妙な距離で立ち止まり、小太郎を入れてはやらない。さらには、横を向いてしまう。





連絡をくれないこと、待ち合わせに来ないこと、雨に降られたこと、あまつさえ千夏の携帯から電話をよこしたこと。

わだかまりや腹立たしさや寂しさを、整理がつかないままにぶつける茜。



カメラは一度足下を写し、茜はわずかにつま先を動かす。「全然話せないし」とのセリフがかぶって、



茜の表情のアップ。ここで、「もっと安曇くんと話したい」とOKの返事をする。
傘の柄の位置に注目。

  

傘が左肩に移っている。つまり、カメラが足下を写している間に傘を持ち替えたのである。



いつしか雨はやみ、日が差してくる。



傘の位置が、小太郎の側から反対側へ移動したことで、少しだけ二人の距離が縮まったことを表現している。
秀逸なのは、実際に傘を持ち替える動作を見せないことである。最低限の動作とセリフで揺れ動く心情を鮮やかに切り取ってみせる、繊細で慎ましやかな本作にふさわしい名シーンだと思う。

コンテ:浅井義之
演出:中田誠 。

2019年8月6日(火)
『天気の子』

とてもラジカルな、ありていに言って過激な映画である。
いや、いつものように、大変よくできた良い映画だ。
が、なんか釈然としないもやもやの残る作品でもある。

かつてセカイ系という言葉があった。すごく大雑把に言えば、人と世界を等価に扱って、「愛する人をとるか世界をとるか」という二択を迫る物語を指す。このタイプのお話は枚挙にいとまがないが、私の知る限り、明快に愛する人をとって世界を滅ぼす作品は、実はほとんどない。ふつうは、愛する人を救いつつ何となくうやむやに世界を救うというパターンに落ち着く。
新海監督の原点である『雲のむこう、約束の場所』がそうだし、私がかつてさんざん批判した『Fate』「Heaven's Feel」もそうである(今回の映画版はどうする気なのやら)。
もともとこの種の過酷な選択を迫る物語は、どっちかを選んだ時点でハッピーエンドは失われ、どちらを選んでも敗北することになる。この問いに対しては「選択しない」が正解であり、さらに言えば二者択一でない新たな解を探し出すことによって問いそのものを破壊するのが最善である。

前者が例えば『ヤマト2202』であり、後者は、少し古いが『スクラップド・プリンセス』が代表だろう。
ただそれぞれに難しさがあり、後者のパターンでは、「そんなチートな解があるなら、そもそも最初の問いってなんだったの?」と観客に思われかねない。

そこで本作である。本作は、完璧なまでに愛する人の方をとった。
おそらくこれはかなり珍しい例であり、過激な映画と言ったゆえんである(注)。そしてその決断が、社会的な制裁を受けない点がもやもやの原因となっている。
しかしそのことは、須賀を代表とする大人たちの、少年少女の決断に対する優しいまなざしとして描かれ、決して不快ではない。なお小栗旬がこういう年代のキャラを演じる年になったことに、いささかの感慨を覚える。
蛇足ながら、「個人か世界か」の二択に対して「世界を救うには個人は犠牲にすべきだ」と賢しらに言う人間が必ずいるが、こういう人は往々にして、「切り捨てられるのは自分かも知れない」ということに思い至らないものである。

私は常々、新海監督は理詰めで映画を作るタイプの作家だと言ってきたが、『君の名は。』の次にこういう作品を持ってくるあたりがやはり侮れない。パンフレットのインタビューによると、監督自身が「ある種の開き直り」と言っており、確信犯だ。

『君の名は。』に比べてしまうと、物足りない点はある。向こうは、なんと言ってもヒロインを救えるか、というタイムサスペンスと隕石の落下による一大カタストロフがクライマックスになっていた。また本作では、主人公の行動を阻止する対抗勢力が発砲事件を捜査する警察、というのも大変地味である。
それでも、花火の中を浮遊するカメラなどかつて見たことのない映像美は健在だし、水没した東京で生きる人々の、終末の明るい向こう側の景色は魅力的だ。

また、過去作から変化している点もある。一つは、「実体のある喪失」。新海監督は常に喪失の痛みを描いてきたが、よく見ると喪失に至るまでの人間関係が希薄であり、そのために「実体のない喪失感」といささか揶揄的に評されることもあった。その点、本作の帆高と陽菜の関係はずいぶんと突っ込んで描かれている。
もう一つは、年上趣味からの脱却である。新海作品は、たいがいヒロインの方が年上である。と言うか、年上でないとうまくいかない。『言の葉の庭』がそうだし、『君の名は。』は結果的にそうなった。しかるに、本作では陽菜の方が年下だと判明する。
新海監督が一番成長した部分なのではあるまいか。


注:バッドエンドの許されるホラー映画なら、こういう結末もあり得る。私も一つ実例を思いつくが、ネタバレ回避のためタイトルは伏せる。

’19.9.4追記
 せっかく伏せたのに、破壊屋さんがバラしちゃってるよ……。


ところで、例の事件について。
私は歴史学者なので、死は誰にでも理不尽に、唐突にやってくるということはよく知っているつもりでいた。しかしこれは、理不尽にもほどがある。
何でアニメ作ってるだけの人間が放火されて死ななきゃならんのか。

軽々しく言える言葉なんて私にはないが、とりあえず、京アニの義援金受付口座に一口入れてきた。

2019年7月3日(水)
『どろろ』完結

近年流行の、「昔の名作マンガを再アニメ化」の流れの中でも出色の出来であった。
まずキャラクターデザインが良い。手塚マンガを現代アニメの技法でリファインするとこうなる、という見本のようだ。手塚マンガおなじみのスターシステムを採らなかったのも正解だろう。どうがんばってもお茶の水博士の鼻はリアルにならない。
気に入ったのは、百鬼丸の腕の刀の表現。肘を曲げると茎(なかご)が外に出るというギミックに感心した。刀の固定と力のかかり具合に説得力を持たせる良いアイデアだ。

本作が現代の作品として成立し得たキモは、三つある。
人を人たらしめるのは何かという問いを中心においたこと、
ラスボスである醍醐景光を、単なる悪役にしなかったこと、
どろろの役割を明確にしたこと、
これである。

百鬼丸は鬼神に身体を奪われ、それを取り戻すために旅をし、戦う。それは人に戻るための戦いのはずである。ところが、戦いのさなか血にまみれ、多くの人を殺める百鬼丸は、身体を取り戻すにつれて逆に宿敵たる鬼神に似てしまう。五体満足であることは人の要件ではなく、身体を取り戻しただけでは百鬼丸の抱える欠落は埋まらない。すなわち、人に戻ろうとあがくほどに人から遠ざかる、というジレンマをいかに解消するかがドラマの主題となる。

そして百鬼丸の苦難の元凶である醍醐景光も、原作では権勢欲の権化であり、自身が天下を取るための生け贄として百鬼丸を差し出していたのが、自領の安寧と繁栄を願うよき領主として描かれた。だからこそ、百鬼丸の苦難はより痛切なものになる。
より多くを救うために一人を犠牲にできるか、とは古来繰り返し問われる問いである。我が子をその一人にできる景光は、ある意味信念の人ではある。だから、その景光と百鬼丸が対峙し、百鬼丸がどんな選択をするかが物語のクライマックスになる。百鬼丸は景光の信念と決断を動揺させ、勝利する。
古橋一浩監督はどちらかと言えば職人肌の監督で、あまり作家性を云々されることはないように思うが、フィルモグラフィーを見ると歴史大河ドラマをいくつも手がけている。『ガンダムUC』もその一つだ。景光のバランスのとれた描き方も、古橋監督のこうした作家性の表れと言えるのではないか。

ではどろろの役割は何か。原作のどろろは、実はほとんど何もしていない。私の実家には昔、ノベライズ版『どろろ』があり、これで本作に最初に触れた。ノベライズ版のどろろは最後まで少年のままである。ノベライズを手がけた辻真先の回想によると、女の子であるという設定は連載中には登場せず、単行本化する時に手塚センセイが付け加えた設定らしい。そのためか、原作のどろろはタイトルロールでありながら印象が薄い。旧作アニメ版が途中から『どろろと百鬼丸』に改題したのもうなずける。そもそも原作は手塚が折からの妖怪ブームにあやかろうとした企画であり、百鬼丸にしてからが、「108ヶ所身体を奪われれば(原作の設定)、いっぱいお化けが出せると思って」設定されたものだというのは有名な話だ。
本作では、序盤であっさりとどろろの性別を明かしてしまい、物語上の明確な役割を持たせた。すなわち、百鬼丸の伴侶であり、彼を人の世につなぎ止めるよすがである。

生みの母である縫の方と、育ての親である寿海も、原作に比べて存在感を増した。百鬼丸が寿海を「おっかちゃん」と呼ぶシーンは、本作の最も感動的な名場面である。最終的に、それぞれの贖罪が百鬼丸を救う。つまり二親が百鬼丸を救い、将来の伴侶に託し、かつ実の父に勝利するという構図になっている。その結果、本作は骨太な成長、子離れ、世代交代のドラマとなった。

ちなみに、縫の方の、男どもの罪業を背負って浄化させる聖女のような描き方は、『ガンダムUC』のマリーダを思わせる。古橋監督の作家性の一つかも知れない。

余談だが、私は20数年前の学生時代、旧アニメ版をACT SEIGEI THEATER(池袋にあった名画座)で観ている。二週連続のオールナイト上映でいずれも超満員だった。後半はいよいよ座席がなく、座布団を渡されてスクリーンの真ん前に座る羽目になった。そこで一晩中スクリーンを見上げて、例の主題歌を聴き続けたのであった。

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