更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2020年10月9日(金)
『姉妹いじり』

表題は、1999から2000年にかけて発表されたアダルトアニメ。
美人姉妹が親の借金のカタに売られて、性奴隷として調教を受ける。その調教を請け負った調教師の男が、仕事に嫌気が差して引退を考えているというのが物語上のポイント。

本作は、一部でとみに有名である。なぜかと言うと、『エヴァ』に強く影響されているらしいからだ。
どのくらい似ているかというと、このくらい。

登場人物の顔を真正面から捉える大胆なカット。
 

家を追われて旅に出る姉妹の、長い長い横移動カット。この場面だけ画面が上下に狭まる。
 

 

たどり着いたのは団地の一室、というのがまたなんとも。


ドアが開くとその向こうは真っ赤に染まっていて(これ自体はイメージシーン)。
 



画面いっぱいに明朝体で示されるタイトル。黒字に赤という鮮烈さ。


モニター越しに組織から指示を受ける調教師。画面の中はもちろんおなじみのポーズ。残念なことにSOUND ONLYではない。
 



闇の中にスポットライトが当たると、新たな登場人物がいる。


これもおなじみ、様々な姿の自分に責められる自己嫌悪シーン。
 

 



調教師は姉を連れて逃げるが、結局は組織に粛清される。下がそのラストシーン。
「よお。遅かったじゃないか」
 

誤解してほしくないのだが、本作は紛れもなく見応え十分な傑作である。ネタとして消費されるのはあまりにも惜しい。
監督、脚本、絵コンテ、演出、アニメーションキャラクターデザイン、作画監督(脚本と作画監督は共同名義):米田光宏。

作画@wikiによると、シャフト出身で新房監督の薫陶を受けているそうな。なるほど、私の趣味に合うわけだ。

気がかりなのは、「一時期は奇抜なアダルトアニメを連発していたが、現在は地上波アニメがメインの仕事となっている」という記述。近年、アダルトアニメはほとんどがマンガかエロゲー原作で、商業ばかりか同人誌が原作ということも珍しくない。それもインモーション方式(マンガの絵を直接取り込んで動きをつけるやり方)が多い。1話30分というフォーマットも崩れ、15分程度が主流でストーリーなどなきに等しい。抜きゲーばかりになってしまった、と言えばいいだろうか。

エロと言えども奇天烈な企画が実現しなくなっていることと、米田の動向は無関係ではないように思う。
『タワー・オブ・エトルリア』など、米田が絵コンテ・演出を手がけた1話だけが突出して面白いことからしても、大変な実力者であることは間違いない。しばらく監督作がないようだし、腕を振るえる場があると良いのだが。

2020年8月31日(月)
animatorの意味

2016年の日記で、「米バラエティ誌が今注目すべき10人のアニメーターの一人に新海誠を選んだ」という件の記事を書いた
「英語においてanimatorという単語は、アニメ制作者全般を指すらしい」という趣旨で、最後にこんなことを付け加えた。

「アメリカでは商業映画としての手描きアニメはすでに絶滅しているので、原画も動画もなくなっているのだ!」

そうしたら、これを「手描きアニメがCGに取って代わったので、animatorという単語の意味が変化した」という風に解釈した方がいたようだ。

私としてはそこまで言うつもりはなかったのだが、誤解を招く書き方をした責任上調べてみた。国会図書館がようやく使用できるようになったので。

結論から言うと、CGの普及によってanimatorという単語の意味が変わったという事実はない

権威ある英英辞典Oxford Advanced learner's Dictionary of Current English で調べてみると、1995年の5th editionでも2010年の8th editionでも、animatorはa person who makes animated filmsと書かれている。
ちなみに1975年の3rd editionにはanimatorという単語自体が収録されていない。

もちろん実制作の現場やファンの間では、用語の変遷があるのだろうが、少なくとも一般向けの辞書に収録されるような次元では、animatorという単語の意味は昔から一緒である。

さらにもう一つ衝撃の事実。『現代用語の基礎知識』2019年版でも、アニメーターは「動画製作者」とある。なんのこたない、日英ともに原画だ動画だ仕上げだ撮影だとこだわっているのは、我々だけだということである。

2020年8月25日(火)
『Fate』完結

『劇場版Fate stay night Heaven's FeelⅢ spring song』(タイトル長ぇ!)
結末の答え合わせのつもりで、とりあえず観てきた。

感想は10数年前に書いたのと同じ。ただ例のシーンも、自分で選択肢を選ぶゲームと違って、流れの中で観られるアニメならわりと素直に観られた。
パンフレットを見ると、川澄綾子がインタビューでセイバーオルタを演じる辛さについてかなり突っ込んだ発言をしているのが興味深かった。それと、下屋則子のインタビューの歯切れの悪さも。これはキャラクターと物語を誰より熟知しているがゆえだろう。

ところで、昔、本作の感想を探しては読んでいた頃、最後の決戦の場が地下空洞というのが地味だ、という意見を眼にしたことがある。その点、映画では狭い閉鎖空間のバトルゆえに見せ方に工夫がこらされていて良かった。・・・と思ったら、やっぱりこのシーン三浦貴博の絵コンテだそうだ。この映画三作とも、見せ場は全部三浦絵コンテじゃないの?
それも物語の進行と直接関係ないシーンばかり。第一作のランサー対アサシン戦とか。
本筋と関係ないシーンにやたらとリソースを投入して見せ場にするのは、映画のあり方としてあまり健全ではない。
それは、この作品そのものへの感想とも重なる。

2020年8月20日(木)
『少女歌劇レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド』

この作品、私はTVシリーズを1回観ただけで舞台の方は知らない。以下の文章は、その上で映画を観てのものである。

TVシリーズを観たとき、その面白さとは別に、結末に何となく割り切れないものを感じていたのだが、映画で復習して理由が分かった気がする。
本作は、有り体に言えば「デスゲーム巻き込まれ型」の一種である。
普通この種の物語は、ゲームのルールを破壊してゲームの外へ脱出することで解決する(この辺受け売り)。主人公・華恋は、ひかりと2人でスターになるために物語の結末を変えてしまった。しかし本作の場合、ゲームのシナリオを改変しただけで、ゲームのルールは変わっていないことになる。これがすっきりしない原因の第一。

第二が、なぜ華恋にだけそれができたのかいまひとつ納得がいかないという点。華恋を衝き動かしている動機はひかりと2人でスターになりたいというものだった。しかし、何もかも切り捨てて、友と刃を交えてでも頂点に立ちたいという渇望に対して、いくら幼少期からの約束とはいえ、友情だけでは弱いのではないか。

そして第三。勝ち残れるのはたった一人というルールに対して、華恋とひかり2人がスターになれるという改変で対抗した場合、「3番手以下は切り捨てていいのか?」という倫理的な問題が生じるはずだ。

実は、この問題を愚直に突き詰めた作品がある。『カレイドスター』('03)である。本作は、舞台に立つために足を引っ張り合うことに嫌気が差した主人公が、「争いのないステージ」を実現するという結末になった。結果的に、倫理的にも論理的にも正しいが、物語としてはどうにもふやけた代物になってしまった(もっとも10数年前に1度観たきりなので、今観たらまた違う感想になるかもしれない)。

本作はその問いに答えようとはしていない。実質的な見せ場が決闘シーンである以上、本作にそれを求めても詮無いことではあるが。


表現的には、あくまでアニメで舞台を再現することにこだわっているのが面白かった。舞台上では、例えば火事だったら、背景画に赤い照明を当てたりスモークを炊いたりして火事が起きているように見立てる。しかし本作では、舞台上で起きていることを現実に起きていることのように描くのではなく(やろうと思えば可能なはずなのに)、本当に書き割りが出たりハリボテの怪物が出たりするのだ。リアリティのレベルが2周くらい回っていて斬新だった。

パンフレットの古川知宏監督・黒澤雅之(編集) 対談インタビューから、古川監督の演出技法の面白い点。強調は引用者による。

-「再生賛美曲」の歌詞もラストで呟いていますね。
古川 そこは「ここで必ず主題歌の歌詞を言う」と決めて編集していました。結果、歌詞が来た段階で黒澤さんに「すみません、5秒伸ばしてください」と言うことになって。
黒澤 たしかに伸びましたね。
古川 これって完全な後出しジャンケンです。絶対に勝つという。だから、個人的には後出しジャンケンをするということに関して勇気をもとうと思っています。なるべくしてはいけないことではあるのですが、フィルムをよくするために「申し訳ない!」と言いながらもそれを要求するのが僕の仕事だと思っているので。
黒澤 私は後出しジャンケンとは思っていなくて、ライブ感があるということですよね。本当に「スタァライト」の編集というのは飽きないなと思います。

-「スタァライト」の編集は、どういったところが独特なのでしょうか?
黒澤「スタァライト」の作品ということよりも、古川監督のスタイルという方が正しいと思うんですけど、普通は30分のTVシリーズを作ろうと思ったら、たとえば編集前の状態が3分オーバーしていますとなったら、基本的に縮めながら編集していくんですよ。ところが古川さんはいったん尺のことは忘れて、多いなら多いなりに作品のベストな状態を1回作って、そこから放送尺に落とし込んでいくというスタイルをとるんです。7話もたしか編集前の状態が6分くらいオーバーしていて、アニメだと6分オーバーはちょっとあり得ない。当然、どう短くしていこうかという話を普通はするんですけど、古川さんは伸ばし始めましたからね(笑)。最終的に7分半くらいのオーバーになったのかな?そこからループを1回削るとかして、うまいこと放送時間に収めていったんですけど、そういう作り方をするのは古川さん以外には私はちょっと経験がないですね。


2020年7月5日(日)
2度目で気づいたこと
最近BDで観直して気づいたこと。
その1
『天気の子』で、陽菜が天から地上に帰ってきたとき、チョーカーが外れている



このチョーカーは母の形見であり、



ずっと肌身離さず身に着けていたものだが、それはいわば陽菜を縛る枷でもあった。だから、旧世代から受け継いだ責任なんか負わなくてもいいんだ、という結論に至ると外れているのである。
確認したら、絵コンテの段階でそうなっていた。



相変わらず新海監督は理詰めの人だ。


その2
『空の青さを知る人よ』のラスト近く。
あかねを無事救い出した後、しんのと慎之介の3人で車で帰るといい、と言うあおいに対して、しんのが「ありがとな。目玉スター」と声をかける。

それに対してあおいが顔を上げると、肝心の眼のほくろが画面から切れてしまうのである。

 

あおいにとって、このほくろはベースを弾き続ける理由、しんのを慕い続ける理由、大げさに言えば彼女の拠って立つ土台、生きるよすがだった。



だが曲折を経てあかねと慎之介の思いを知り、少しだけ-あまりこの言葉使いたくないが-成長したあおいは、もうほくろに頼らなくてもやっていける。
それがこのカットの意味するものである。

なお、あかねはしばしば何かに周囲を取り囲まれた構図で描かれる。下図は車のドアだが、ご丁寧なことに、このドアはあおいが開けっ放しにしたものである。



音楽堂の裏手で慎之介と語るシーンもまたがんじがらめという感じなのだが、



よく見ると後方にドアがあることに気づく。



気の持ちよう、視点の置き方によって道は開けるという暗示であろう。

こうしてみると、昨年公開されたこの2本はいずれも、若者は己を縛る地縁血縁とどう向き合うか、という話だったとまとめられそうだ。それぞれが出した答えの差異に思いを巡らすのも一興だろう。

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