更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2021年4月4日(日)
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

緊急事態宣言解除まで我慢して観てきた。

やっぱり潜航していた。
すまん、言ってみたかっただけなんだ。

大団円、と言っていいだろう。『序』('07)の公開から数えて14年、とにもかくにも完結までこぎ着けた執念にまずは敬意を表したい。

○お話について
旧作と同じ筋立てでありながら、明朗な活劇に仕立てた手腕。一瞬たりとも弛みなく、150分の長さをまるで感じさせない。
一言で言えば、シンジ君がヒーローになる映画である。しかも今作のシンジは、戦わないままでヒーローになった。これは画期的なことである。
旧『エヴァ』のシンジは、戦いを忌避する少年だった。これは、戦うことを成長や自己実現とする旧来のアニメへのアンチテーゼだったであろうが、当然のように映画としてフラストレーションがたまる原因になっていた。シンジは父ゲンドウの策略で人類補完計画のトリガーとなってしまい、世界を滅ぼしかけるが辛くも踏みとどまる。旧『エヴァ』でも筋立てはほぼ同じなのだが、旧『エヴァ』のクライマックスにおけるシンジは、ひたすら自分の内面世界で自問自答を繰り返すだけだった。
それに対して今作では、明確に他者であるゲンドウと対話しようとする。それは迂遠な道であり、自ら操るエヴァ初号機でゲンドウの13号機と戦い倒す、という展開にすれば、はるかに簡単で、わかりやすく、カタルシスのある物語になったはずだ。しかし『シン・エヴァ』はその安易な道を選ばなかった。
暴力から対話へ。打倒から和解へ。
そこには人間への信頼、言葉への信頼が感じられる。『序』でも見られたが、市井の人々の生活を点描して、第三新東京市の外にある世界の広がりを感じさせるシーンはそのために必要だったものだろう。そして伝道者(evangelist)とは本来そういうものだったはずだ。
言葉でわだかまりを解きほぐし、アスカを救いカヲルを救うシンジの姿は、まさしく救世主のものだった。


○キャラ描写について
旧作のミサトは、シンジの母でもあり姉でもあり恋人でもあり、という多義的な役割を持たされ、いささかブレを感じるところもあったが、今作では年齢相応に母の役割に限定されてすっきりしている。リツコとの別れの場面は、淡々として事務的だからこそ情感こもる名シーン。

役割の変更は、アスカにも言える。アスカの役割は「初恋の人(それゆえに結ばれない)」に限定されることになった。アスカもレイと同様の作られた人間であるという設定になったのも、お話を整理する上では有効だったと思う。

ところで、「救うにせよ殺すにせよ自分で決めてほしかった」という気持ちはわからんではないが、14歳の子供に対して要求高すぎだろう。まして、そんな過酷な二者択一を迫るのは凡庸な大人のすることであり、ヒーローはその選択自体を打破する者である。
『破』のゲンドウのセリフにもあったが、「何を犠牲にしてでも欲しいものを手に入れるのが大人」という思想は、積極的に唾棄すべきものだ。逆に言えば、アスカもまたゲンドウの側に属する「平凡な大人」になってしまったからこそ、シンジとは結ばれなかったのだとも言える。私もアスカ派なので淋しくはあるが。


○雑感
実写場面が一切なくなっていたのも好印象。もう若い人には何のことやらわからんかも知れんが、旧作にはそういうシーンあったのよ。
生々しさを与えたいという目的(特に性描写)だったのだろうが、劇場内の観客を写したカットに虚構と現実の押しつけがましさを感じて、なんとも嫌な気分になったのをよく覚えている。その歪さ、気持ち悪さもエヴァらしさではあったが。

本編を観たその日の夜に、録画していた『プロフェッショナル 仕事の流儀』を観た。旧作に見られたようなむき出しの狂気は影を潜め円熟・洗練の境地と思ったのだが、狂気は、庵野監督の中により深く沈潜して、もはや第二の本性になってしまっているようだ。でもなければ、「想像できないものを創造する」などという言葉づらからして矛盾した行いをしようとはしないだろう。
旧作から25年。今なお『エヴァ』はオンリーワンとして屹立している。


○どうでもいい余談1
あのアンチLシステムって、どうみてもT○NGAだよ。

○どうでもいい余談2
ラストシーン、駅舎の階段を駆け上がるシンジ君があまりにガニマタで笑っちゃったのだが。あれもしかして、庵野監督のロトスコープでは?

2021年3月10日(水)
『ヒューマニエンス』とリップシンクロ

最近、NHK-BSで『ヒューマニエンス 46億年のたくらみ』を観ている。
「ヒューマニエンス」は「ヒューマン」と「サイエンス」の造語。「人間という不確かで不思議な存在とはいったい何なのか?その真の姿に迫っていくシリーズ」(公式サイトより)。
MCが織田裕二というので不安だったのだが(何しろ私はこの人、まともな映画に一本も出ていないという認識なので)、出しゃばらず偉ぶらず、自分の役割をわきまえた振る舞いには好感が持てる。

それはともかくとして、先日放送された「目 物も心も見抜くセンサー」が面白かった。

欧米とアジアでは、ケータイで使う顔文字が全然違っていて、欧米の顔文字はどんな表情でも目が変わらない

というのは、欧米人とアジア人とでは表情を読み取る顔の部位が違っていて、アジア人が相手の目を見て表情、感情を読み取るのに対して、欧米人は口元を見て読み取るのだそうで。
これは実験的にも裏付けられていて、アジア人の赤ん坊は話しかけられると相手の目を見るが、欧米人の赤ん坊は相手の口元を見るのだそうな。

これを聞いていろいろ合点がいった。日本でサングラスがあまり普及しない理由。欧米人がこのコロナ禍でもマスクを嫌がる理由。
日本のアニメキャラの目が大きい理由。
そして何より、ずっと、これが不思議でならなかったのだ。欧米のカートゥーンがなぜあんなにリップシンクロにこだわるのか。動いてさえいればいいじゃん、と思っていたのだが、彼らにとってはまさに死活問題だったわけだ。

2021年2月17日(水)
『スポーツ界 性的虐待の闇』

昨年末のことだが、毎週楽しみにしているBS世界のドキュメンタリーで、恐ろしい番組を観た。表題のとおり、スポーツ界における性的虐待を告発するもの。オランダ、ベルギーで4000人の元アスリートに聞き取り調査を行ったところ、14パーセント、18歳未満の選手の7人に1人が性暴力の被害を受けていた。国際大会に出場するレベルに限ると、3人に1人。ここで性暴力とは、国連子どもの権利条約の定義に従っており、レイプから意に沿わぬ写真撮影まで含めているものだが、それにしても恐るべき数字だ。

特に、同性愛傾向のある者が被害に遭いやすく、また民族的マイノリティに属する者も被害が多かった。2重3重の差別の構造に、吐き気がする。

ボルドー大学のスポーツ心理学者、グレッグ・デカンによると、「アスリートは、他者が自分の身体をいじめ抜くことを許容しやすくなる。勝利のためには他人に身体を委ねなければならないという心理に陥りがち」だという。納得のいく話である。

カリフォルニアでは、永年虐待を隠蔽してきたアメリカ水泳連盟を訴えるために、州法の改正が提議された。カリフォルニア州法では、未成年者の性的虐待を告発できるのは被害者が26歳まで、という制限があった。この年齢制限を40歳まで引き上げようという提議がなされたのだが、これに反対したのが、当の水泳連盟と、なんとカトリック教会だった。カトリックと言えば、映画『スポットライト 世紀のスクープ』で描かれたように、性的虐待の総本山である。その加害者が手を取って、これ以上賠償金を取られないよう組織防衛に走ったわけだ。反対活動をしたロビー会社は、水泳連盟から9万ドルの資金提供を受けていたという。結局、法改正は実現しなかった。
この世には、真の恥知らずというものが存在する。戦慄せざるを得ない。

2020年の段階で、アメリカ水泳連盟はFBIから2件の捜査、税務調査及び連邦議会からの調査を受けている。他に、体操、バレーボール、スケート、ウェイトリフティング、ボブスレー、テコンドーの各競技団体も調査を受けている。

番組はスポーツ界の闇と言っているが、一貫して文科系だった私に言わせれば、これこそスポーツの本質だ。スポーツそれ自体が暴力と差別を内包し、助長するのである。

ところで、『スポットライト』は、エンドクレジットで性的虐待が確認された国や町の名前を列挙していく。これがまた、一体いつ終わるのかと思うほど延々と、果てしなく続くのだ。ある意味、映画の中で一番恐ろしい見せ場である。注意して見ていたが、その中に日本国内の名はない。本当かいなと思っていたら、2019年になってようやく調査を開始したという報道が。

  聖職者の性的虐待、調査へ 日本カトリック司教協議会

この危機意識のなさにはもう言葉もない。

2021年2月16日(火)
『噂の二人』

映画観続けて30数年、私はいまだにウィリアム・ワイラーとロバート・ワイズの区別がつかないのだが、これは1961年のワイラー監督作品。

片田舎の私立女学校で、2人の女教師が同性愛者の噂を立てられて破滅していくというお話。女性の受難を描く作品は、男性が救う形になることが多い(ヒチコック映画とか)が、この映画は最後までヘビーでむしろ男は全く役に立たない。生徒たちが突然退学し始め、主人公がその理由、同性愛者の噂が流れていることを知るシーンを遠景・無音で撮ったり、名誉毀損の裁判のシーンをばっさりカットして結果だけ見せたり、映画ならではの省略話法が実に心地よい。落ち着いたカメラワークと編集で、いかようにも劇的に見せることができる好例。

噂の発生源となる子供の邪悪さも容赦ない描写。この性悪娘を演じたのはカレン・バルキンという子役で、これがデビュー作だが、ImDBによるとこの後わずか3作品で引退してしまったらしい。想像だが、本作のこの役があまりにも真に迫っていたためではないか。

うまく言えないのだが、男性が百合を見るのと、女性がBLを見るのとでは、同じようにファンタジーとして楽しんでいるとしても決して対等ではない。
百合を娯楽として消費する者は、ぜひ一度観ておくべき映画。




ついでながら、今WOWOWで連続ドラマ『ミセス・アメリカ~時代に挑んだ女たち~』を放映している。こちらは1970年代、男女平等憲法修正条項の批准を巡る推進派と反対派の抗争を描いたもの。

ポイントは、反対派の女性たちに焦点を当てているところ。男女平等となれば、女性も徴兵されるようになるのではないかという不安に妊娠中絶問題も絡み、反対する女性も決して少なくなかった。
その反対派のリーダーを演じているのがケイト・ブランシェットで、声を当てているのが田中敦子。『呪術廻戦』もそうだが、田中敦子の声でしゃべる敵には勝てる気がしない!


2021年1月19日(火)
映像的正しさということ

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のクライマックス、アムロがνガンダムでアクシズを押し出そうとするシーンは物理的におかしいという。



地球への落下を防ぐなら、逆に加速して高度を上げてやらなければならない。このシーンがこのような描写になっているのは、物理的正確さよりも映像的正しさを優先した結果である。
すなわち、巨大なアクシズが画面左から迫ってくるなら、それに対抗する力は右から左へ向かわなければならない。これが演出意図であることは、この直前、ロンド・ベルによる爆破でアクシズの後ろ半分が減速されてしまい、地球の重力で落下するという物理的に正確なやり取りがあることから解る。

以上は、人から聞いた話である(私自身は、物理的誤りを気にしたことはなかった)。本題はここからなのだが、これを聞いて、突然腑に落ちたことがある。
『幻魔大戦』のワンシーンだ。東丈が学生服を着るシーンなのだが、ボタンを下から上へ向けて留めるのである。







初めて観てから30数年、ずっと気になっていたのだが、服のボタンて、普通は上から下へ留めますよね。
しかし『逆襲のシャア』の描写を踏まえて考えると、『幻魔大戦』のこのシーンは、突如目覚めた超能力に翻弄され、心の奥深くに閉じこもってしまった丈が、ルナの尽力によって再起するシーンである。

つまり気分がアガるシーンなので、下から上へ向かう動きでなければならなかったのである。
書きながらたった今気が付いたが、背景の色が青から赤へ変わるのも、同じ効果を狙ってのことだろう。

30年越しの謎が解けて、こちらも良い気分だ。
コロナ禍の続く重苦しい新年ですが、今年が良い年になりますように。

追伸
今年最初に観た映画は『劇場版 生徒会役員共2』。基本ですね。

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