更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2019年7月3日(水)
『どろろ』完結

近年流行の、「昔の名作マンガを再アニメ化」の流れの中でも出色の出来であった。
まずキャラクターデザインが良い。手塚マンガを現代アニメの技法でリファインするとこうなる、という見本のようだ。手塚マンガおなじみのスターシステムを採らなかったのも正解だろう。どうがんばってもお茶の水博士の鼻はリアルにならない。
気に入ったのは、百鬼丸の腕の刀の表現。肘を曲げると茎(なかご)が外に出るというギミックに感心した。刀の固定と力のかかり具合に説得力を持たせる良いアイデアだ。

本作が現代の作品として成立し得たキモは、三つある。
人を人たらしめるのは何かという問いを中心においたこと、
ラスボスである醍醐景光を、単なる悪役にしなかったこと、
どろろの役割を明確にしたこと、
これである。

百鬼丸は鬼神に身体を奪われ、それを取り戻すために旅をし、戦う。それは人に戻るための戦いのはずである。ところが、戦いのさなか血にまみれ、多くの人を殺める百鬼丸は、身体を取り戻すにつれて逆に宿敵たる鬼神に似てしまう。五体満足であることは人の要件ではなく、身体を取り戻しただけでは百鬼丸の抱える欠落は埋まらない。すなわち、人に戻ろうとあがくほどに人から遠ざかる、というジレンマをいかに解消するかがドラマの主題となる。

そして百鬼丸の苦難の元凶である醍醐景光も、原作では権勢欲の権化であり、自身が天下を取るための生け贄として百鬼丸を差し出していたのが、自領の安寧と繁栄を願うよき領主として描かれた。だからこそ、百鬼丸の苦難はより痛切なものになる。
より多くを救うために一人を犠牲にできるか、とは古来繰り返し問われる問いである。我が子をその一人にできる景光は、ある意味信念の人ではある。だから、その景光と百鬼丸が対峙し、百鬼丸がどんな選択をするかが物語のクライマックスになる。百鬼丸は景光の信念と決断を動揺させ、勝利する。
古橋一浩監督はどちらかと言えば職人肌の監督で、あまり作家性を云々されることはないように思うが、フィルモグラフィーを見ると歴史大河ドラマをいくつも手がけている。『ガンダムUC』もその一つだ。景光のバランスのとれた描き方も、古橋監督のこうした作家性の表れと言えるのではないか。

ではどろろの役割は何か。原作のどろろは、実はほとんど何もしていない。私の実家には昔、ノベライズ版『どろろ』があり、これで本作に最初に触れた。ノベライズ版のどろろは最後まで少年のままである。ノベライズを手がけた辻真先の回想によると、女の子であるという設定は連載中には登場せず、単行本化する時に手塚センセイが付け加えた設定らしい。そのためか、原作のどろろはタイトルロールでありながら印象が薄い。旧作アニメ版が途中から『どろろと百鬼丸』に改題したのもうなずける。そもそも原作は手塚が折からの妖怪ブームにあやかろうとした企画であり、百鬼丸にしてからが、「108ヶ所身体を奪われれば(原作の設定)、いっぱいお化けが出せると思って」設定されたものだというのは有名な話だ。
本作では、序盤であっさりとどろろの性別を明かしてしまい、物語上の明確な役割を持たせた。すなわち、百鬼丸の伴侶であり、彼を人の世につなぎ止めるよすがである。

生みの母である縫の方と、育ての親である寿海も、原作に比べて存在感を増した。百鬼丸が寿海を「おっかちゃん」と呼ぶシーンは、本作の最も感動的な名場面である。最終的に、それぞれの贖罪が百鬼丸を救う。つまり二親が百鬼丸を救い、将来の伴侶に託し、かつ実の父に勝利するという構図になっている。その結果、本作は骨太な成長、子離れ、世代交代のドラマとなった。

ちなみに、縫の方の、男どもの罪業を背負って浄化させる聖女のような描き方は、『ガンダムUC』のマリーダを思わせる。古橋監督の作家性の一つかも知れない。

余談だが、私は20数年前の学生時代、旧アニメ版をACT SEIGEI THEATER(池袋にあった名画座)で観ている。二週連続のオールナイト上映でいずれも超満員だった。後半はいよいよ座席がなく、座布団を渡されてスクリーンの真ん前に座る羽目になった。そこで一晩中スクリーンを見上げて、例の主題歌を聴き続けたのであった。

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