更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2019年8月27日(火)
『月がきれい』4話

一昨年のスマッシュヒット。買ったきりだったBD-BOXを観ている。

改めて観たら、第4話「通り雨」がとても良かった。

交際の申込みを保留にしたまま訪れた修学旅行。
小太郎は、自由行動の日に茜と会おうと約束を取り付けるが、行き違いで待ち合わせ場所に現れない。

ようやく連絡が取れ、二人は雨の中、神社の境内で落ち合う。

茜は傘を差しているが、微妙な距離で立ち止まり、小太郎を入れてはやらない。さらには、横を向いてしまう。





連絡をくれないこと、待ち合わせに来ないこと、雨に降られたこと、あまつさえ千夏の携帯から電話をよこしたこと。

わだかまりや腹立たしさや寂しさを、整理がつかないままにぶつける茜。



カメラは一度足下を写し、茜はわずかにつま先を動かす。「全然話せないし」とのセリフがかぶって、



茜の表情のアップ。ここで、「もっと安曇くんと話したい」とOKの返事をする。
傘の柄の位置に注目。

  

傘が左肩に移っている。つまり、カメラが足下を写している間に傘を持ち替えたのである。



いつしか雨はやみ、日が差してくる。



傘の位置が、小太郎の側から反対側へ移動したことで、少しだけ二人の距離が縮まったことを表現している。
秀逸なのは、実際に傘を持ち替える動作を見せないことである。最低限の動作とセリフで揺れ動く心情を鮮やかに切り取ってみせる、繊細で慎ましやかな本作にふさわしい名シーンだと思う。

コンテ:浅井義之
演出:中田誠 。

2019年8月6日(火)
『天気の子』

とてもラジカルな、ありていに言って過激な映画である。
いや、いつものように、大変よくできた良い映画だ。
が、なんか釈然としないもやもやの残る作品でもある。

かつてセカイ系という言葉があった。すごく大雑把に言えば、人と世界を等価に扱って、「愛する人をとるか世界をとるか」という二択を迫る物語を指す。このタイプのお話は枚挙にいとまがないが、私の知る限り、明快に愛する人をとって世界を滅ぼす作品は、実はほとんどない。ふつうは、愛する人を救いつつ何となくうやむやに世界を救うというパターンに落ち着く。
新海監督の原点である『雲のむこう、約束の場所』がそうだし、私がかつてさんざん批判した『Fate』「Heaven's Feel」もそうである(今回の映画版はどうする気なのやら)。
もともとこの種の過酷な選択を迫る物語は、どっちかを選んだ時点でハッピーエンドは失われ、どちらを選んでも敗北することになる。この問いに対しては「選択しない」が正解であり、さらに言えば二者択一でない新たな解を探し出すことによって問いそのものを破壊するのが最善である。

前者が例えば『ヤマト2202』であり、後者は、少し古いが『スクラップド・プリンセス』が代表だろう。
ただそれぞれに難しさがあり、後者のパターンでは、「そんなチートな解があるなら、そもそも最初の問いってなんだったの?」と観客に思われかねない。

そこで本作である。本作は、完璧なまでに愛する人の方をとった。
おそらくこれはかなり珍しい例であり、過激な映画と言ったゆえんである(注)。そしてその決断が、社会的な制裁を受けない点がもやもやの原因となっている。
しかしそのことは、須賀を代表とする大人たちの、少年少女の決断に対する優しいまなざしとして描かれ、決して不快ではない。なお小栗旬がこういう年代のキャラを演じる年になったことに、いささかの感慨を覚える。
蛇足ながら、「個人か世界か」の二択に対して「世界を救うには個人は犠牲にすべきだ」と賢しらに言う人間が必ずいるが、こういう人は往々にして、「切り捨てられるのは自分かも知れない」ということに思い至らないものである。

私は常々、新海監督は理詰めで映画を作るタイプの作家だと言ってきたが、『君の名は。』の次にこういう作品を持ってくるあたりがやはり侮れない。パンフレットのインタビューによると、監督自身が「ある種の開き直り」と言っており、確信犯だ。

『君の名は。』に比べてしまうと、物足りない点はある。向こうは、なんと言ってもヒロインを救えるか、というタイムサスペンスと隕石の落下による一大カタストロフがクライマックスになっていた。また本作では、主人公の行動を阻止する対抗勢力が発砲事件を捜査する警察、というのも大変地味である。
それでも、花火の中を浮遊するカメラなどかつて見たことのない映像美は健在だし、水没した東京で生きる人々の、終末の明るい向こう側の景色は魅力的だ。

また、過去作から変化している点もある。一つは、「実体のある喪失」。新海監督は常に喪失の痛みを描いてきたが、よく見ると喪失に至るまでの人間関係が希薄であり、そのために「実体のない喪失感」といささか揶揄的に評されることもあった。その点、本作の帆高と陽菜の関係はずいぶんと突っ込んで描かれている。
もう一つは、年上趣味からの脱却である。新海作品は、たいがいヒロインの方が年上である。と言うか、年上でないとうまくいかない。『言の葉の庭』がそうだし、『君の名は。』は結果的にそうなった。しかるに、本作では陽菜の方が年下だと判明する。
新海監督が一番成長した部分なのではあるまいか。


注:バッドエンドの許されるホラー映画なら、こういう結末もあり得る。私も一つ実例を思いつくが、ネタバレ回避のためタイトルは伏せる。

’19.9.4追記
 せっかく伏せたのに、破壊屋さんがバラしちゃってるよ……。


ところで、例の事件について。
私は歴史学者なので、死は誰にでも理不尽に、唐突にやってくるということはよく知っているつもりでいた。しかしこれは、理不尽にもほどがある。
何でアニメ作ってるだけの人間が放火されて死ななきゃならんのか。

軽々しく言える言葉なんて私にはないが、とりあえず、京アニの義援金受付口座に一口入れてきた。

2019年7月3日(水)
『どろろ』完結

近年流行の、「昔の名作マンガを再アニメ化」の流れの中でも出色の出来であった。
まずキャラクターデザインが良い。手塚マンガを現代アニメの技法でリファインするとこうなる、という見本のようだ。手塚マンガおなじみのスターシステムを採らなかったのも正解だろう。どうがんばってもお茶の水博士の鼻はリアルにならない。
気に入ったのは、百鬼丸の腕の刀の表現。肘を曲げると茎(なかご)が外に出るというギミックに感心した。刀の固定と力のかかり具合に説得力を持たせる良いアイデアだ。

本作が現代の作品として成立し得たキモは、三つある。
人を人たらしめるのは何かという問いを中心においたこと、
ラスボスである醍醐景光を、単なる悪役にしなかったこと、
どろろの役割を明確にしたこと、
これである。

百鬼丸は鬼神に身体を奪われ、それを取り戻すために旅をし、戦う。それは人に戻るための戦いのはずである。ところが、戦いのさなか血にまみれ、多くの人を殺める百鬼丸は、身体を取り戻すにつれて逆に宿敵たる鬼神に似てしまう。五体満足であることは人の要件ではなく、身体を取り戻しただけでは百鬼丸の抱える欠落は埋まらない。すなわち、人に戻ろうとあがくほどに人から遠ざかる、というジレンマをいかに解消するかがドラマの主題となる。

そして百鬼丸の苦難の元凶である醍醐景光も、原作では権勢欲の権化であり、自身が天下を取るための生け贄として百鬼丸を差し出していたのが、自領の安寧と繁栄を願うよき領主として描かれた。だからこそ、百鬼丸の苦難はより痛切なものになる。
より多くを救うために一人を犠牲にできるか、とは古来繰り返し問われる問いである。我が子をその一人にできる景光は、ある意味信念の人ではある。だから、その景光と百鬼丸が対峙し、百鬼丸がどんな選択をするかが物語のクライマックスになる。百鬼丸は景光の信念と決断を動揺させ、勝利する。
古橋一浩監督はどちらかと言えば職人肌の監督で、あまり作家性を云々されることはないように思うが、フィルモグラフィーを見ると歴史大河ドラマをいくつも手がけている。『ガンダムUC』もその一つだ。景光のバランスのとれた描き方も、古橋監督のこうした作家性の表れと言えるのではないか。

ではどろろの役割は何か。原作のどろろは、実はほとんど何もしていない。私の実家には昔、ノベライズ版『どろろ』があり、これで本作に最初に触れた。ノベライズ版のどろろは最後まで少年のままである。ノベライズを手がけた辻真先の回想によると、女の子であるという設定は連載中には登場せず、単行本化する時に手塚センセイが付け加えた設定らしい。そのためか、原作のどろろはタイトルロールでありながら印象が薄い。旧作アニメ版が途中から『どろろと百鬼丸』に改題したのもうなずける。そもそも原作は手塚が折からの妖怪ブームにあやかろうとした企画であり、百鬼丸にしてからが、「108ヶ所身体を奪われれば(原作の設定)、いっぱいお化けが出せると思って」設定されたものだというのは有名な話だ。
本作では、序盤であっさりとどろろの性別を明かしてしまい、物語上の明確な役割を持たせた。すなわち、百鬼丸の伴侶であり、彼を人の世につなぎ止めるよすがである。

生みの母である縫の方と、育ての親である寿海も、原作に比べて存在感を増した。百鬼丸が寿海を「おっかちゃん」と呼ぶシーンは、本作の最も感動的な名場面である。最終的に、それぞれの贖罪が百鬼丸を救う。つまり二親が百鬼丸を救い、将来の伴侶に託し、かつ実の父に勝利するという構図になっている。その結果、本作は骨太な成長、子離れ、世代交代のドラマとなった。

ちなみに、縫の方の、男どもの罪業を背負って浄化させる聖女のような描き方は、『ガンダムUC』のマリーダを思わせる。古橋監督の作家性の一つかも知れない。

余談だが、私は20数年前の学生時代、旧アニメ版をACT SEIGEI THEATER(池袋にあった名画座)で観ている。二週連続のオールナイト上映でいずれも超満員だった。後半はいよいよ座席がなく、座布団を渡されてスクリーンの真ん前に座る羽目になった。そこで一晩中スクリーンを見上げて、例の主題歌を聴き続けたのであった。

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