怪奇小説の世紀

西崎憲編 国書刊行会


このアンソロジーはもともと、西崎憲さんから持ち込まれた企画です 【右は内容見本】

お話があったのは、1991年の初夏のこと。そのころ 〈クライム・ブックス〉 というシリーズで、小酒井不木のエッセイ集を2冊編集中だったのですが、その解説をお願いしていた長山靖生さんの紹介で、西崎さんが会社にやってきたのです。お会いする前に、まず見本として、A・E・コッパードの短篇 「辛子の野原」 の訳稿を拝見しています。

 コッパードは、平井呈一も愛好していたマイナー作家で、怪奇小説アンソロジー 『こわい話気味の悪い話』 (牧神社/改題 『恐怖の愉しみ』 創元推理文庫) に収められた 「消えちゃった」 という不思議な味の短篇が強く印象に残っていました。しかし、拝見した 「辛子の野原」 は、いわゆる怪奇幻想小説というのとはちょっと違っていて、人生に疲れた三人の中年女が、森で薪を拾いながらあれこれと話をする、という内容で、特に事件が起きるわけではないのですが、淡々とした筆致で 「生の欠片」 を描き出し、そこから受ける感動は思いのほか深いものがありました。作品の選択といい、原作の微妙な陰影をとらえた滋味溢れる訳文といい、一読、これは只者ではない、と思ったわけです。

  で、当時、とげぬき地蔵で有名な豊島区巣鴨にあった国書刊行会の編集部に来ていただいて、100篇ほどの怪奇短篇がリストアップされた企画書を拝見することになりました。そこでいろいろ話を伺ってみると、西崎さんはもともと音楽畑の人で、作曲や編曲の仕事や、また自身も演奏家として活動していたのが、創元推理文庫 『怪奇小説傑作集』 や上記の 『こわい話気味の悪い話』 などで、英米怪奇小説の魅力に取り憑かれ、原書を渉猟するようになり、ついには独学で翻訳を始めてしまった、というのです。大学の英文科や翻訳学校出身の翻訳者が多勢を占めるようになった昨今では、異色の経歴です。しかし、本来、海外文学の紹介というのはそういうものであったはずですし、怪奇小説の分野では、戦後、平井呈一、紀田順一郎、荒俣宏といった先達たちが、自分の愛好する作家や作品の紹介に打ち込んできました。西崎さんもこうした怪奇小説翻訳家・アンソロジストの系譜を受け継ぐひとりであることは間違いありません。

 こちらも怪奇小説ファンということでは人後に落ちないつもりでいましたから、渡りに船とばかりに、打ち合わせを重ねながら、あらためて企画案を練り直し、結局、全3巻・34篇の構成で 『怪奇小説の世紀』 が実現することになりました。そのころ、ちょうど社内で企画が通りやすくなりはじめていた時期でもあり、その点でも良いタイミングだったと思います。刊行を開始したのが翌92年の12月ですから、準備に1年と少しかかったことになります。

基本方針はそれまで未紹介の作品を収録し、全篇新訳でいくこと。西崎さんが声をかけて集まった翻訳者陣には、現在、ホラー作家として活躍中の倉阪鬼一郎さん、後にロバート・エイクマンの作品集 『奥の部屋』 を訳出する今本渉さん、〈世界探偵小説全集〉で翻訳をお願いすることになる佐藤弓生さん、富塚由美さん、好野理恵さんらの名前があります。西崎さんをご紹介いただいた長山さんにも数篇、翻訳をお願いしています。

 正統的なゴースト・ストーリーから所謂 〈奇妙な味〉 系の作品、エイクマンのポストモダン的なストレンジ・ストーリーまで、怪奇小説の100年 (レ・ファニュの登場からウエイクフィールドの怪奇小説絶筆の辞まで) を彩ったヴァラエティあふれる作品を集めたアンソロジーですが、個人的に印象に残ったものをすこしだけあげておきましょう。
 
 第1巻では、ノルウェイの国民作家ヨナス・リーが北の海の不思議と恐怖をえがいた 「岩のひきだし」 にすっかり感心してしまい、その後 〈魔法の本棚〉というシリーズで、海の妖怪や精霊、魔法つかいが登場するフォークロア的想像力にみちた 『漁師とドラウグ』 を出すことになります。巻末のエリザベス・ボウエン 「陽気なる魂」 は、とくに幽霊とか具体的な怪異が登場するわけではないのですが、ここに描かれた寂寥感、恐ろしいまでの孤独は読むものを圧倒します。

 第2巻では、むかしアフリカで殺したはずの男が訪ねてくるトマス・バークの 「がらんどうの男」。しかし、「豹男に甦らされたんだ」 と語るその男は、べつに復讐するでもなく、ただ主人公の店に居座ってしまう。なんとも不条理で不気味な味の短篇。「オッタモール氏の手」 の作者に、こんな作品があるとは知りませんでした。レ・ファニュ 「妖精にさらわれた子供」 はアイルランドの民話に取材した話ですが、さらわれた子供が一年ほどたったある夜、そっと家に入ってくるところは、『遠野物語』 にも似た戦慄をかきたてます。H・R・ウエイクフィールド 「チャレルの谷」 は非常に洗練された怪異譚で、第1巻にもブラックユーモアあふれる 「湿ったシーツ」 が採られていますが、英国怪奇小説の伝統を受け継ぐウエイクフィールドは西崎さんのお気に入りの作家。のちに倉阪鬼一郎・鈴木克昌・西崎憲という豪華メンバーによる作品集 『赤い館』 が実現しますが、この作家には、まだ多くの優れた作品が残っていますので、機会があればもう一、二冊の傑作集を編みたいところです。(後記:増補新編 『ゴースト・ハント』 [創元推理文庫] がその後実現しました)

 第3巻では、過去の名選手の幽霊が幻のフィールドに集まってくるダンセイニ卿の 「秋のクリケット」 や、「銀の仮面」 で有名なヒュー・ウォルポールの人狼物の傑作 「ターンヘルム」 などもありますが、なんといっても強烈なのは、ロバート・エイクマンの中篇 「列車」 でしょう。徒歩旅行の若い女性二人組が道に迷って、線路脇にたつ一軒家に案内を求める。姿をあらわした中年男に招かれるまま、二人は中に入って男と食事をともにし、一夜の宿をかりることになりますが、しだいに不可解な恐怖が二人を押し包みはじめます。恐怖の実体は明らかにされませんが、その息詰まるような存在感は圧倒的です。『奥の部屋』 には、翻訳権の関係で、その作風が頂点に達した最晩年の作品を収めることができませんでした。この作家も再挑戦してみたい作家のひとりです。

 全3巻の最後を飾るのは、北村薫さんが 『謎のギャラリー』 (新潮文庫) で絶賛したリドル・ストーリーの名品、W・W・ジェイコブズの 「失われた船」。町中の期待をうけて大洋へと出て行った船は、しかし、何年たっても帰っては来なかった。やがて、人々の記憶も薄れかけた頃、乗組員のひとりが、襤褸をまとい、やつれ果てた姿で帰ってくる……。名作 「猿の手」 の作者の奇妙な余韻を残す逸品です。

 〈探偵クラブ〉 や 〈世界探偵小説全集〉 がミステリ関係企画の基盤をつくってくれたのと同じように、〈怪奇小説の世紀〉 はその後の怪奇幻想文学系の企画の出発点になりました。また、この企画を通して始まったいろいろな人とのお付き合いが、新しい仕事にもつながっています。

 その後、西崎さんには、〈世界探偵小説全集〉でバークリー 『第二の銃声』 の翻訳をお願いし、『幻想文学大事典』 では日本版編集委員として、主に古典怪奇作家項目のチェックを担当していただいたりと、ずいぶんと長いお付き合いになりました。〈魔法の本棚〉 では、ついに本邦初のA・E・コッパード作品集 『郵便局と蛇』 を一緒につくることが出来ました。「辛子の野原」 も勿論、ここに収められています。

 〈怪奇小説の世紀〉 の刊行から、いつのまにか10年がたちました。そろそろ 〈新編 怪奇小説の世紀〉 を考えてみても好い時期に来ているのかもしれません。

(2002.8.4)

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