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青 雲 記 念 会 館 落 成
 1967(昭和42)年11月22日、青雲記念館が完成、落成式が行われた。同館は30周年記念事業として同窓会・PTAの援助によって作られたものである。その結果、函館東高が廃校になった今も、本校の基本精神である「青雲魂」の「青雲」の字が残った。下の写真は当時の完成写真。(市立函館高には、他に初代校長岡村威儀先生胸像の「青雲の志」、青雲10期の会の「北海道函館東高等学校10期の会」の記念板に本校に関連する名前が残されている)
 この場所に、開校当時「錬成館」が計画され、北島水産会社(真藤信太郎社長)の10万円の寄付により具体化したが、戦中の混乱で実現にいたらなかった。戦後、そのお金で牛舎が完成し、その牛達が生徒や先生方の栄養不足を補ってきた。(「牛はもういない」参照) 牛舎の跡地に青雲記念館が作られ、本校につながる青雲の名を留めることになった。
 「ちなみに青雲記念は東高からの寄贈ということで名前も残っています」と市立函館高第1回生からメールをもらった。
 当時の写真アルバムと「青雲時報」「ひんがし」から記念館の歴史を記すことする。
☆2008年8月の青雲記念館写真☆
☆できた! 青雲記念館 早かった完成 文化活動に利用☆
 10月31日に講堂、和室を備えた青雲記念館が本校の旧牛舎あとに創設された。同館は文化活動を目的として建設されたものである。総面積450平方メートル、その内和室は90平方メートル。収容人数750名、その内和室50名。総工費約1400万円の規模を持つ平屋建てのものである。同館和室では11月15日から、華道部茶道部で使用している。が、クラス会、吹奏楽部、文化祭、父兄会、レコードコンサートなどにも使用される予定である。講堂には、絵画、書道の展示ができる画廊もある。同館は3年後の30周年記念のために設立されたもので、同記念事業費や同窓会、PTAの援助による。係りの太平先生は「建築を早めた理由は、資材値上がりや生徒に早く使用させたいためである。また同館は生徒にために建築したので、どんどん利用してほしい」と語っておられた。来春同窓会によって池と木のある庭園(注:後のひんがしの杜)を同館周囲に設ける予定である。なお食堂は旧茶道部を改築することになっている。
                昭和43年12月13日発行「青雲時報」第76号より
☆17才・青年柔道家☆ ― 青雲記念館周辺の思い出 米谷隆先生(東高7回生)
 今年もひんがしの杜の葉の木は白い花をいっぱいにつけている。年々歳々のことで格別珍しいことでもなんでもない自然の姿ではないか、と言うかもしれない。この小公園に、ひんがしの杜という、なかなかよい響きと情緒をもつ名がつれられたのは私が東高を卒業して11年ほどあとのことで昭和43年のことである。生徒の頃は、この辺はまさに自然の姿そのものであって民家もなく、何かの折にこのあたりにさまよい出ては自然の香を満喫したもので、ちょろちょろと小川が流れ、近くに牛舎があり乳牛を飼育していたのである。そして保健室ではしぼりたての牛乳を幾らであったか忘れたが、とにかく安く売ったくれて何度か飲んだことを記憶している。保健室はその頃も今も同じところで、ただちがうのは、その頃は御年配のおば様がおいでになり、おっかないことは東高随一で、少しぐらいの傷や風邪で行こうものなら、この世に生きる価値のない人間のように一喝され、かなりの悪童もその一発でしゃきっとするほどであった。とは言ったも決して鬼婆ではなく人間性の豊かなものを持ち合わせている人のようであった。柔道部員であった私も幾度もお世話になったが、母性本能と、かみ合い易かったのかあまりいびられた記憶がないのは幸運であった。因縁から母校の教壇に立ってはや10年になろうとしている。着任後しばらくは道場で部員と一緒に練習で汗を流したが、生徒の頃と何ら変わっていない柔道場の様子が懐かしかった。ただその頃、道場のすぐ隣で女子の体育部であったか、ダンス部であったか記憶が定かでないが、練習が一緒になったりしたとき、17才の青年柔道家の心が得も言われぬ高ぶりと乱れを覚えた。その彼女も、はや40の中年のおばさんになったはずである。
             社会科 米谷隆先生 1979年3月10日発行生徒会誌「ひんがし」第15号より
*写真は青雲記念館の根堀
↓1987(昭和62)年3月10日発行「青雲時報」第124号より
☆青雲記念館改築☆ ↓1988(昭和63)年3月10発行「青雲時報」第126号より
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