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牛はもういない――函 館 東 高 乳 牛 飼 育 の 歴 史
1946(昭和20)年夏から1959(昭和34)秋
 函館東高の歴史は多くの市民の手によって作られてきた。また、乳牛によっても、そして牛とともに本校に来られた牧夫・大竹さんの力によっても、その歴史は陰ながら支えられてきたのである。
 普通高で牛を飼うことは珍しいことであった。大変な大仕事で諸経費もかかることになるにもかかわらず、岡村校長は生徒・先生の栄養補給のため「余程の決心で始めらしいものらしい」。その乳牛飼育の歴史をここに紹介する。 
 最後に牛舎誕生実現に貢献した知られざる寄附にまつわる話を付加えた。
1959(昭和34)年11月
 本校の名物であった乳牛3頭が昨年の11月に売られた。昭和21年に、当時の校長、岡村先生が生徒の健康増進のために、乳牛3頭を買い入れたのが始まりで、もう11年間本校とともに年々充実化されて、昨年度は校長先生はじめ、諸先生それに、60名あまりの利用者を持つほどになった。
 最初は一合2円50銭で先生だけに売っていたので経営不振を招いた事もあったが、昨年までに自転車置場の新設、グランドピアノ(半額)負担、バックネット(一部)と校内施設に、あてられていた。11年間、牛の世話をしてきた大竹さんの健康状態や牧草の不足などの理由から売られたわけであるが、本校の名物が一つ減ったのは残念な事である。
 利用者の一人、渡辺先生談「これまで我々を健康の面でも助けてくれた牛を手放すのは実に惜しい。11年間も飲み慣れた牛乳が飲めなくなると思うと残念な気がする」
 利用者の一生徒「夜遅く、牛乳を沸かして、飲んだ時のうまさは、市販の牛乳では、味わえないものもがある」 昭和35年2月25日「青雲時報」第47号
☆乳牛飼育のこと
  昭和21年の夏から昭和34年の秋にかけて、本校で乳牛が飼育されていた。卒業生諸君の多くが、校庭で草をたべている白黒まだらのホルスタイン種乳業について記憶されていることと思う。また、学校の保育室でその乳牛の乳を飲み、栄養補給をされた経験をおもちのはずである。・・・
 しばらくの間は、生物の本間孝先生や農業に経験深く興味をもつ生徒諸君などにより牛の世話がなされたが、本格的な飼育となれば片手間の仕事というわけにもいかなくなる。岡村校長はその道の専門家を牛と同様に十勝清水にもとめた。当時、清水で木材関係の仕事をやっておられた大竹勝氏に、清水農業会から函館行きの話がもちこまれ、大竹氏はそれを承諾され、昭和21年7月19日夫婦ともども来函された。名目上は夫婦とも学校用務員ということであったが、実際は乳牛の飼育にあたられることになった。・・
 同年9月にいたり本格的な牛舎工事が開始された。本校新築に際し修練道場を新設する計画があり、・・建設資金としてさきに寄付していただいた北千島水産会社からの10万円が浮いていた。その資金を真藤社長から了解の上、牛舎建設に転用した。・・・・・
 乳牛飼育の組織体制をみると、昭和21年度は校友会生活部の中に飼育部なるものが設けられ本間孝・中島茂男の両教諭が係となっており、昭和22年度は校友会福祉部の飼育係として沢田正教諭が担当されている。その後、事業の本格化にともない学校教育体制の整備につれ飼育業務は公務分掌の一部門として位置づけられていった。ひらたくいえば学校直轄の生産事業となった。飼育による保健厚生上のめざましい効果もさることながら、初代岡村校長の雄大な構想を継承された第三代校長盛山兵庫先生の、「牧園学舎」建設という教育的理念が、乳牛飼育の発展に大きく影響していたように思われる。・・・・
 昭和34年9月の職員会議において「・・残った牛3頭を売却」という最終決定となった。・・牛舎は青雲記念館新築工事に関連して取りこわされた。
                      「30年史」より抜粋
☆思い出を語る☆ 柴田勝家 
□ 乳牛飼育
 普通高校で、牛を飼うことは珍しいことであり、会合などで、その経営方法なども、よく聞かされたものである。
 第一、牧舎から、牧夫から、飼料など考えると、大変な大仕事になる。諸経費も非常にかかることになる。にも拘わらず、岡村先生は余程の決心で、始めたものらしい。
 21年6月29日、十勝清水農業会の世話で、先ず乳牛2頭買う。深沼某氏をつれてくる。
 続いて、牧夫として、大竹夫妻来任する。牛舎は産室までつくり、将来は、15頭位迄造って、牛乳は勿論バターやチーズ迄造って、生徒の栄養をよくするつもりであった。これがため、衛生上の設備については、雪印さんや保健所で調査もしてみた。しかし実際は殺菌室もなく終る。
□ 増産について
 湯の川奥に13町歩(約13ヘクタール)の農場開墾開始。大体大豆を蒔くつもりであったらしい。学校敷地よりも、2町歩も広い畑から大豆がとれたら、大変な収量になる。生徒、職員に対して良質の大豆蛋白の補給も出来る。又牛の濃厚飼料にもなる。然るに、昭和22年5月1日付で岡村校長先生が転出となり、一応事止みとなる。しかも普通学校で、乳牛を飼ったり又は増産のための農場開墾などは、常態ではない。非常時に於ける対処療法の一つであるから、御時世がよくなれ、常態に復すれば、自然解消になるのも不思議ではない。                                    「30年史」より
☆子牛3頭誕生 “なんて可愛イんでしょう”☆
 昭和20年、本校の前身市立中学校の校長であった岡村威儀氏が、この広い土地を有する本校に牛を飼ったらよかろうというので、当時の1万円也で名産地である十勝地方より、ホルスタインの牝を買入れ現在に至った。ごぞんじのようにこれは4頭にふえ、飼育部では毎日生徒に牛乳を補給に行って中々の力の入れようであった。所がこのうちの3頭がさる5、6日の両日にかけて写真に見られるような可愛らしい子を3頭産み落とし、その後も中々元気なようである。それに生まれた子牛はそろって牝ときているので係りでも大喜び。
 一頭の時価が3万円というから、これら3頭が1牛前?に乳が出るようになったらたいしたものになろう。
                                          昭和28年9月19日「青雲時報」第17号
☆東高今昔物語、絞り立ての牛乳、一合5円☆―岡村校長の英断
 昭和19年に、初代校長岡村威儀先生が戦争中の食料困難にみかね、また生徒の健康増進にもなるという利点も考慮して、帯広郊外の農家から乳牛2頭(親牛と子牛)を金1万円で買い入れた。この時、乳牛と一緒に大竹さんが牧夫として来られた。このようにして東高乳牛飼育史が始まった。その後、乳牛の飼育は大竹さんによって行われてきたが、大竹さんの健康上の都合や、事務員になったこと、またグランウンド整備で牧草不足になったことなどが原因となって、昭和34年11月に乳牛3頭が売られてしまった。その歴史は15年、飼育された乳牛の数は約20から30頭(年間最高6頭)に及び、飼育の面において成功したのは勿論のこと、その他色々な面で本校発展の上に貢献した。
 ■牛乳の値段は、最低1合1円から5円まで値上がりしたが、その値段は、当時の市販牛乳の3分の1から4分の1という安価なものだった。・・・・・・味の方は搾りたての牛乳を沸かして飲むという、市販牛乳では味わえない独特なものであり、新鮮で濃厚であるという点で、幾分市販牛乳と違っていた。味の良さの陰には一時は援農に行って来られ、牛の乳絞りの技術を身につけて来られた先生の鮮やかな腕前と、それを助ける生徒の苦労があった。生徒に色々な係りが設けてあり、一致団結してその割れ当てられた仕事に熱を入れて従事した。・・・・・
 大竹さんや先生の苦労の結晶は、昭和30年頃行われた家畜品評会に2回出品し、2回とも入賞した。中でも特筆すべきことは、わずか2回の出品で、入賞した牛7頭のうち、2頭が最優秀乳牛として表彰され、金メダルを獲得し、専門家を唖然とさせた。しかし牛は食べ物に恵まれていたとは、消していえなかった。亀田町の農家に大竹さんが牛の飼料を貰いに歩いたこともあった。主食は、本校の製粉所から来る粉のかすだった。
 ■牛舎は、寄付された木材と約10万円を費して建設され、何回か修理、改築された。また牛舎の一角には殺菌室があり、牛乳の殺菌方法は、雪印乳業の方にコーチしてもらい、市の保健所の許可を得た。同時に販売の許可を得た。
・・・・・・・・・
 ■牛乳を販売して得た利益は相当な金額に達し本校の施設増加に一役を買った。・・・・・
 ■しかし、初めの目的は、乳牛を飼って乳を搾り、牛乳として売って利益を得るのではなく、食料困難な時代の生徒に、無料で毎日2合ずつ飲ませることであったが、それではとても運営してゆけなくい思われたので実行に至らなかった。

                                         昭和38年12月18日「青雲時報」第62号より
写真説明:写真は第7号イースト号。手紙は牛舎取り壊しを知った岡村先生からのもの。
☆東高今昔物語 今はいない東高モウ君☆
 今は昔、東高に牛がいた。このモウ君(雌)たちは、初めは野球場の片すみにあった柵小屋に住まっていたが、昭和22年の春、牛舎に移された。この牛舎は、真藤慎太郎氏の寄付(10万円)により、21年に建てられたものであった。場所は、現在の青雲記念館の所である。そしてここには、数々のモウ君たちの生活史があった。
 このモウ君たちの由来は昭和21年に、初代岡村威儀先生が、戦後の食糧難のため教職員、生徒の栄養確保を考え、十勝から購入されたのがはじめてであった。
 初めは1〜2頭であったモウ君も、最盛期には7〜8頭にもなり、34年までの15年間で約20〜30頭のモウ君たちが飼育され、東高の名物となっていた。また、29年には、市内の家畜品評会で1位の他にも入選したものがあった。
 このモウ君が飼われた目的は、牛乳を提供することにあったが、その牛乳は安いときには一杯1円で、最高に値上がりしても一杯5円であった。これは同時の市販牛乳の3分の1から4分の1で、この絞れたてで新鮮な栄養満点の牛乳は、たいへん安価な値段で教職員、生徒に売られていた。
 食糧難も時代とともに去り、学校の敷地も開拓されてくると、運動部などからその体の大きいことや糞などのため、多少邪魔者扱いにされ、また、経営も赤字がつづき苦しくなった。そのうえにこのモウ君たちの世話をしてきた人の都合などもあって、長年の労を惜しまれながら、ついに34年に家畜商の平田さんに売られて行ったのであった。
                                         昭和45年12月23日「青雲時報」第84号
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番外編☆寄附採納願始末記、今田正美((北洋漁業史研究家)☆ ― 牛舎誕生のもうひとつの知られざる寄附
 市に何かを寄附する場合、それが予め市から懇望されたときでも、いんぎてていねいに寄附採納願という手続をとって、それぞれの機関に諮ってから決定されるもののようである。と知って苦笑しながら書類を作ってのは、当時北千島水産株式会社の経理担当者であった。
 この会社は函館市に本店を置いて年々業績好調に過ごした5年を経、戦時態勢の国策に従い、他の北洋漁業同業者と合併することになった機会に、お世話になった函館市に、記念品を贈呈しようとなった。実は市の方から懇望があったのである。時の市長は登坂さんであり、会社側で努力したのは、今は故人となった元老の坂本作平さん(当時監査役)と市議であり会社の総務部長であった経塚弥三さんであった。
 市では梅津さんの篤志になった市中中学校、今の東高等学校に、錬成道場を欲しいから、その建設費5万円をと望んだのである。
 会社は社長真藤慎太郎氏が重役会に諮って、市の希望通り決定したところ、更に市から物価高騰して当初予算では不足するから、10万円にして欲しいとの話。
 こうなると会社の経理は財源のこともあり、変更増額にややこしくなるのだが、次の重役会に手続きして決議し、市の希望通り金10万円をうやうやしく差し上げたであった。
 これに対し、昭和18年8月1日付、市長から表彰状を頂いた。以上は寄附採納記である。
 次に始末記に入る。10年余経過後甥が東高等学校のお世話になったので、以前錬成道場を建てるため10万円。戦後の価値なら3千万円にも当る額を、学校に寄附したので、錬成道場が建っている筈だが、と質問したところ、梅津さんの寄附功績は知らされているが、北千島水産会社の寄附は知られていないという。
 その後、市教委のお一人に話す機会があったので、そのことに及んだら御存知がない。また尊敬する元老にも聞いてみたが、この方も初耳というので、誠に奇妙に思った。念のためと電話で校長先生に照会の結果やっと寄附の事実は記録されている。だが、戦時中のこととて、建設資材が入手出来ず、道場は止めて学校裏に牛舎を建て、乳牛を飼って乳を生徒に給食させているとの話。錬成道場変じて牛舎と化したわけと知った。
 寄附行為などした人は忘れてしまうのがいいので、いつまでも得々と覚えていたり、話したりするのはどうかとも思うが、故人の場合と法人の場合でまたちょっと事情がちがっている。寄附はし放しでは無責任であり、初期の目的に達したかどうか案じるのも、一つの愛だろう。
 寄附採納願の手続きをしたのも大小沢山あるであろう。大物?は忘れぬ様印象強くありたいもの。 
 金森さんの函館病院。相場さんの公会堂。小熊さんの商工会議所。石館さんの公民館。などから、梅津さんの市立中学校、という有難いのが古来沢山あった。
 市史を飾り功績を称えられている他にもいろいろあると思われる。これらを調べて記録し憶えて置くのも寄付者に対する礼儀と思うのである。
 せめて大正、昭和年代の分を調査し、函館寄付者番付を作り市民の謝意としたらどうだろうか。北千島水産の10万円など大したものでないが、知らない要人が多いので、出した側の職員として、受けた市民の一人として、何か割り切れぬ感がしたのでこの始末記となった。                
                    昭和34年2月1日発行 海峡第50号より(一部割愛)
*右写真は昭和17年11月20日付「錬成道場建設寄附願」の実際の原稿控。原本には「控」と記載されている。左は当時の原稿1頁目。合計12頁に亘り書かれており、添削されている。当校では65年間ずっと保存してきた事は、決して北千島水産会社のご恩を忘れまいとした証であろう。
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