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       懐しの木陰に
          ―初代校長岡村威儀先生の胸像除幕式
 岡村初代校長は「青雲台」「青雲の志」「青雲魂」といった本校建学の根本精神を作った一人である。
 「一生をここで終えようと思っていた」と本校に対して並々ならぬ気持ちをお持ちだったようだ。
 岡村先生が転出されることになった時、「体育館に集まった全校生徒が泣いたのです」「岡村先生も泣いていましたね」と思い出が語られる。昭和37年2月に逝去された先生を慕う教え子たちが中心となって募金活動をして、没後8ヶ月後に左写真(2008年8月撮影)の胸像を建立した。
  市立函館高になった今も、岡村先生は自ら陣頭指揮して植樹した木立の“懐しの木陰”で新しい「市民の学校」を見守っている。

          2008年8月撮影 管理人
初代校長岡本威儀先生
1897(明治30)年3月15日広島市生まれ〜1962(昭和37)年2月16日永眠。
1940(昭和15)年3月30日函館市立中学校長就任、1947(昭和22)年5月1日函館市立的場中学校に転出。
☆初代校長岡村威儀先生の胸像(レリーフ=武内収太氏作品)除幕式を夫人を迎えて挙行☆
 10月27日(土)午後1時より国語教官室前で、本校初代校長岡村威儀(たけのり)先生のレリーフ除幕が行われた。神戸より来られた奥様の手で幕が落とされた後、石黒校長先生、同窓会々長の式辞、市教育委、PTA会長、知人の方達によって玉串が奉納され式は終わった。
 高さ1.8m、横1.5mのコンクリート石にはめられた胸から上のレリーフは8月から市博物館長武内収太氏が2ヶ月かかって製作したものである。昭和15年、船見中仮校舎に於いて入学式が挙行された後、学校新校地として柳川町7番地に本校舎が設置されることになり、故岡村先生がその設計に当たられた。立派な学校環境の完成。理科室などすぐれた教育設備の充実や大学受験準備のできる学校としての構想はその当時、終戦の頃としては最高の水準をゆく学校であった。新しい学校が私達の母校に傾けられた愛情の深さは至るところに見られる。戦時中、朝の日課として、全校生徒のマラソンがあったが、自らその先頭に立って走ったり放課後ひそかに壊れた机の修理をするなど、厳しい人柄ではあったが細かいことによく気がつく先生で、当時の職員を世話をしたり面倒をみたりした。
  その不断の努力を我が母校に傾けられた先生が今年2月17日に永眠された。ここに先生の遺徳を慕い、末永く偉業を記念し、合わせて後輩への遺産としようと同窓会が5・6月頃から運動を始めレリーフ建立の運びとなった。この学舎のある限り、青雲の台に先生の人格、思想がいつまでも生きていくにちがいない。又創立当時岡村先生、職員生徒一緒になって、植えた木々は今立派になっている。その懐しの木陰に岡村先生の微笑もいつまでも続くのである。
                  昭和37年11月7日「青雲時報」第58号

                  (写真は「函館東高等学校 初代校長岡村威儀先生 除幕式記念写真
                   函館東高等学校 青雲同窓会 昭和37年10月27日」より)                 
☆「青雲の志」について☆ 函館東高学校長 福地順一先生
 岡村校長は「青年は青雲の志をもたなければならない。けっして市立中学は函館の第2中学校であってはならない。青雲の志をもって人より3倍努力し、自立的奮闘を期し、大成せよ。自ら彊(つと)め励んでやまない、これが青雲魂である」と激励している。
 後、岡村校長は建学の精神を強調して、「青雲の志」とし、その精神顕揚に全力を傾注していく。
 岡村校長がこの地を青雲台と命名し、校是、つまり本校の教育上の基本精神を「青雲の志」とした校長の考え方には、氏の生い立ち、生き方が深く影響を与えていると私は見ている。
 岡村校長はもともと広島県安芸郡大蒲刈島村(蒲刈町)の出身である。明治30年生まれの氏は、5歳で父を亡くし、母の故郷愛媛の今治で育った。
 長じて愛媛師範学校に学ぶ。家が貧しかった故に、官費で学べる師範学校を選んだのである。
 その後、広島高等学校師範学校に進み、そこを終えた氏は、大正14年に広島県呉高等学校女学校の教諭となる。しかし翌年の大正15年29歳の時、青雲の志をいだき、新婚早々の妻と一緒に中国大陸に渡っている。中国では当時日本の租界地であった大連の第2中学校の教諭をしていたが、向学の志やみがたく、4年後さらに広島文理科大学へと進んだ。そこに卒業と同時に今度は北海道に来たり、旭川師範学校教諭となる。それから旭川市立高等女学校の校長を経て、昭和15年に本校の初代校長として赴任してきたのである。43歳の時であった。

*(注)岡村氏はその後、道庁の課長部長を歴任し、昭和23年12月に第2代の北海道教育長にと就任している。初代教育長はわずか10日ほどの在任であったので、同校長は道教育委の実質の初代教育長であり、言わば道教育の産みの親であり、育ての親でもあった。後、在任3年余にして、北海道を離れ、故郷広島に帰った。昭和16年神戸に没。67歳
                                          1995.3発行東高生徒会誌「ひんがし」より抜粋
岡村校長先生の建学の精神は、北海道函館東高等学校創立物語を参照ください。
☆青雲台の諸君に寄せる☆
 万物の生々の夏が訪れて新緑美しい青雲台の、わけても開校初期の生徒諸君と共に植えた2千本に余る樹木の伸長を想いつつ目に見える樹々の伸びゆくと同じに、目にばみえぬが更に著しい函市高の内的充実と校風の発展を祝している。全ての成長は美しい。流転する世の中に不動の学校精神が、力強い足取りで築かれていることを思うと何ともいえぬ喜びである。
 函市高の開放精神は高かった希望も大きかった。果しても今もその精神が脈打って、生徒諸君は学問への情熱と向上の一路をまい進しているであろう。意気を盛んにし、日本再建の理想に燃えつつ自己実現、人格完成という学徒の本分についての自己に徹し、勉強にスポーツにクラブ活動に、負けじ魂を発揮しているのであろう。
 機熟して「青雲時報」が発刊される由、すでに本道も多くの高校に学校新聞が発行されていて、学校の眼たり耳たり又口たるの役目を果している。青雲時報は学校の正しい姿をうつし、学校の方向を示標するものでなれればならぬ。新聞は編集者が作るのではなくて読者の諸君が作るのである。生徒諸君の公正妥当な世論が紙上に盛られ、一部の偏した意見に色づけられてはならぬ。みんなの生徒の読みたい記事に満たねばならぬ。はつらつとした精神の気がみなぎり、しかも品位のある、又興味深い記事の多いことが望まれる。道内で出ている高校新聞は概して味もそっけもないものが多い。どうか皆んなが青雲時報を愛し、皆んなが力を添えて函市高のものらしい特色のある学校新聞として豊かに育って行くことを衷心より念願し、その発刊に限りなく期待を寄せるものである。
 北海道教育長 岡村威儀 昭和24年6月13日「青雲時報」創刊号              
☆岡村教育長、「本校は私の故郷」と語る☆
 6月24日、岡村威儀道教育長(元本校初代校長)は本校に来校されたが、職員との懇談の後、次のような談話を寄せた。
 本校は私の故郷のようだ。在任当時の先生方や、周囲の樹木を見るにつけ、一生をここで終えようと思っていただけに感慨無量である。男女共学の実際を見てその順調さにうれしく思っている。大いに自重して健全な高校生のプライドをもって励んでほしい。
                                          昭和25年7月11日「青雲時報」創刊号より
☆岡村初代校長御逝去☆
 (昭和37年)2月16日本校初代校長岡村威儀先生は神戸の自宅にて逝去されました。
 先生は昭和15年旭川高等女学校長より当時函館市立中学校だった本校校長に任着され、昭和22年同市立的場中学校長に転任、その後道教育長、愛媛県の教員長をなされ、その関係から神戸に住まわれた由。
 なお、本校20周年に招待されていたが健康がすぐれず実現されなかった。
                                          昭和37年2月29日「青雲時報」第55号より
岡村校長の思い出☆ 
 敗戦昭和20年の12月、冬休みを前にして、千代岱旧陸軍兵舎に駐屯する進駐軍がアルバイターを募集するという。お金になるし、チョコレートや石けんにもありつける。私はF先生と二人で早速申し込んだ。どうして岡村さんの耳に入ったのか、次の日、二人は校長室に呼ばれた。事の真偽を確かめられた。「君達はそれでも日本人か。戦争に負けても魂まで失ってはいかん。君達の教え子が何と言うか」。私達は若かった。労働に貴賎はない。働かざる者食うべからず。給料が我々の生活を保証してくれているか。などと突っかかっていた。細かな応酬は忘れたが、「しない」というのを「せない」という特有の方言を混じえた口調が、今でも思い出される。結局、朝の早いのに閉口して、このアルバイトは行かず終いであった。
 昭和21年には、早くも各地で教職員団体結成のノロシが上がり、函館でも御多分にもれず、支部結成大会がK小学校体育館で開催された。血気旺んな小・中・高の教員代表が交々立ち上がて賛成演説を行った。趨勢は決まっていた。然し、その中で、ただ一人、決然立って反対したのが岡村校長であった。「今はそうい時ではない。子供達の教育に心血を注ぐべき時ではないか。もっと自重しよう」。
 酒脱な方で、道の教育長になられてからも、しばしば旧友知人を招いて、公宅で宴席を設けられた。宴たけなわになると得意の黒田節を唄いながら、隆々と槍をしごく所作を見せ、満場拍手の中、接待されいてた奥さんが口許の笑いを押さえながら席を外すのが常であった。
 道を去られてから、兵庫県、愛媛県で教育長をされたが、手遅れのガンで逝去された。
     (青雲1期会記念誌「松籟」昭和68・12・10による)
          「青雲はんらん会50周年誌」から

・木村 今、岡村先生のお話が出ましたからあれですけどね、先生がこの敷地を選ぶときにできね、市か誰かが七重浜の土地を斡旋したんですね。先生は「そんな草も生えない所で生徒が育つか」といってけられたいとう話を石塚先生からよく聞きました。岡村先生は、子供を育ている時にそれだけ遠大な考えをもっておられたのだと思います。
・石田 僕は岡村先生のお宅と家が近かったせいで、帰宅されてからの先生を割合知っているのですが、近所の人達、特に他校の先生方の力にもなっておられたようで、慕われてました。
・田辺 3年生の時、岡村先生が転出されることになるのですが、体育館に集まった全校生徒が泣いてたんですよ。
・三上 岡村先生も泣いていましたね。
・司会 共学になる前ですから全員男泣きということですね。
・木村 それからですね。これも聞いた話なんでが、2.1ストの時に岡村先生は「教員はストをやるぺきではない」と奮然と一人で反対された。
・日野 ほほう、それは初耳です。
・木村 後に道の教育長になられたのは、その点をGHQが評価されたのではないかという裏話もあります。
・司会 ともかく時流に屈しない反骨精神というか、教育に対して一つの信念を持っておられましたね。
                                         「30年史」より
☆植樹計画☆
 3万坪の敷地を学校にふさわしい品格と風致を持たせ、各種教養や鍛錬に便なるよう理想的なる校地計画を立て、数年計画で実現するよう目下委員に命じて設計さしめつつあるが、先づ校地北西方面に前東面と同じ防風林を作る積もりで主として杉、椴松苗2千本ばかり植樹した。将来校舎改築などの際に役立つよう経済価値ある樹種5千本位植えたいと思っている。
                                        
 「感謝・・・・・・杉苗800本 竹下巌氏、杉、椴タモ苗他600本 大塚一十氏、杉、椴、ナナカモド苗等600本 伊藤信義氏、右寄付贈リ受ク 衷心ヨリ感謝ノ意ヲ表ス」
                                         昭和17年5月26日以降「函館市立中学校報」より 
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