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母校と同窓会と私

    20年間同窓会会長をして、苦労したことはなかった

          
中村隆俊・関東青雲同窓会名誉会長(市中2回生、昭和20年卒)
■同級生との再会

 「ひとりのお巡さんが俺の顔をじっと見て、帰った行った」。
 北大を卒業してから東京医大でインターをしていたが、昭和31年3月、兄が板橋に板橋中央病院を開業することで、兄弟3人が一緒になって病院を始めて数年たった頃だった。救急医療もやっていたので、交通事故などで東京都板橋区の志村警察署の人達がしばしば病院に来ていた。そんな警察官の一人だった。
 ある日、その警察官が「あんた俺を知らないか」と言う。「函館市中の同級生の山名だよ」「何かおかしいと思って、『山名、戦争で死んでたんじゃないか』ということから始まったんだよ」。
 これが関東青雲同窓会でいつも会を盛り上げてくれていた山名昭二(関東青雲同窓会相談役)との出会いだった。彼とはその後平成20年6月に亡くなるまで親交を深めることになる。
 
 昭和28年頃から東京で函館市中の同級生5人位が「こじんまり」と集まるようになっていた。同級生の中島喜一(「船見町校舎」参照)と山名のことを話して、「山名は戦死したよ」と話をしてした矢先のことだった。
 「中島君は(北海道檜山支庁北部の)今金町、ぼくは瀬棚町(現せたな町)の隣村同士の出身でね。中島君は早稲田を卒業してぶらぶらしていたから就職のを世話したり、嫁さんも自分の親戚の子にくっつけたという仲で、学生時代から死ぬまで家を行き来する間柄だった」。

■男子校、函館市中時代 〜男女7歳にして席を同じにすべからず〜

 船見町校舎時代に庁立高女(現函館西高)の前を函館市中生が通ることを禁止されていた。
 「当時、女性と話が出来ないものねえ」。
 お花とお茶を教えていたおばさんの家に一時下宿をしていた。「それで家に女の子が来るわけでね、俺の部屋が応接間の隣にあったから、中島なんかとどんな女の子だろうと鍵穴から覗いたという思い出がある」。
 「当時女性というのは母親か兄弟しか見ないからねえ。だから、男女同権の世の中になって良かったなあと思うね」。

■戦時下の市中時代

 「何せ戦争中だからね。皆戦争にあこがれていたし、どうせ行くなら特別幹部候補生にと意気込んだ」。

 いよいよ戦争末期、特別幹部候補生制度が昭和18年12月設立された。短期間で軍部教育で即戦力として活用できる中等学校生徒に、陸軍は目をつけた。通常兵役の2年後にはじめて上等兵になるが、幹部候補生は入隊と同時に一等兵、4ヶ月の教育終了時に上等兵となり、1年半で伍長に昇進する。

 「岡村校長(「懐かしの木陰に―岡村初代校長の胸像除幕式」参照)が山名を呼んで『お前、本当に(戦争に)行くのか、何人兄弟だ』と聞かれたらしいよ。山名は9人兄弟なんだね。それで『私は9人の8番目で、うちはだいじょうぶです』と言って、校長が『じや、よかろう』と言ったそうだ」。
 
 21年間母校で教鞭をとっていた同期生の梅谷利治先生も記している。「特別幹部候補生に合格、日の丸の旗に先生方の励ましの言葉を書いてもらっていた時、ここでは書けないからと担当の佐藤末松先生が自宅に招いてくださった。『お前ネ、特攻隊に志願する時は、最後にするんだョ』」
 また、同期の田中誠一・元関西地区青雲同窓会長も「軍人はいばっておりました。教練の教官でさえも、いばってました。幹部候補生になれないと軍隊では新兵が辛い。その判定を下すのが、教練の教官なのです。だからどんなに苛められても、蹴られても、じっと我慢したものです。俺の一声でお前などうにでもなる、という態度だったのです。私は、学校での教練の時間が一番嫌で、『加藤』は教練の教官で、私にとって苦手の先生でした。配属将校は校長の上といった感じでした」と会報「関東せいうん」に寄稿している。

 当時、学生達はあちこちに働きにだされ、勉強どころではなかった。
 「成績表(=左写真=)に『作業』という項目があって、俺は『秀』をもらているんだね。一生懸命働いていたのかねえ」
 「十勝や北檜山に援農に行ったね。その頃、農家のうちに二人ずつ泊まる。『あんちゃん方、いつまで寝ているんだ』と言われたことがあった。朝早く起きて乳絞りをした。『ただでやってもらっている訳じゃないから』とも言われたなあ。(自分達は)お金をもらってなかったが、10円とか20円とか学校に謝礼を支払っていたかもしれないけれど」(*注1)
 「函館ドックにもいった。中には悪いやつがいてこっそり自分の釜を作っていたやつもいたよ」
 「上磯のセメント工場にも出向いたね。イギリス人の捕虜がいて話が出来た。その捕虜のところに、日本の女学生が働きに来たら、女の子の顔を見て外人達が「ワァー」と喜んで手を振っていたなあ」(*注2)
 

*注1 昭和19年9月3日「文部省総務部長 「工場、現場等学徒勤労動員の報酬取扱細目に関する件」
     「学校報国隊に於いては受入側より送付を受けたる学徒の報奨金中より授業料、その他教育上学徒より徴収すべき経費を控除しその残金に付左(下記)の標準により出動学徒に交付すること。
 中等学校学徒にして
  舎費食費食を支払ざるものに対しては  月25円
  舎費を支払うものに対しては        月10円
  食費のみを支払うものに対しては     月20円」
  当校に於いては「30史」に次のように記載されている。「生徒勤労に対し学徒勤労報奨金が支払われているが、その使途は昭和18年度収入3,294円8千(鉄カブト購入2600円)、昭和19年度収入73,293円8銭(授業料諸会費献金等にあて残は学徒預金)、昭和20年度収入は130,260円80銭(授業料諸会費等にあて残は学徒預金)であり、経済的にみると動員のほんどなかった1年生以外の生徒は、授業料などを動員による汗の結晶でおさめていたことになる」。
*注2 イギリス捕虜との話について当時英語は敵性語として学校では習わなかったはずという人もいるかもしれないが、函館市中では戦時中も英語の教育がなされていた。成績書に英語の科目もある。クラスも「ABCDであった」という。帰りの車の中で、「(秘書の)広瀬は英語がうまいので、俺も負けじと今も英語を勉強しているんだ」とNHKのラジオ英語会話のテキストを見せてくれた。

■岡村校長の思い出

 「瀬棚の出身だから、函館に来たということは今函館から東京に行く以上の出来事だったね、校長室に呼ばれて『函館に出てきて、どうだ』と聞かれたこともあった。いい先生だったよ」
 「戦争間際になって、生徒の心がすさんでしるしね。それをまとめるのは大変だったと思うよ。そのため一人一人と面接したのじゃないか。なんとなく主な生徒と会ってたんじゃないかね」。
 「青雲魂という言葉は当時あった、あった。岡村校長が言った言葉だよ」。
 「皇国2600年ということで、2600本の木を植えようとしたが、2000本位植えたじゃないかなあ。中には悪いやつがいて、いたずらに木を抜いたら校長は非常に怒ったね」。

■同窓会の思い出

 「あいつは死んだ、こいつは死んだ、と話をしてたね。ちょうど戦争の中だからね。相当戦死したね」

 市中1回生は昭和15年4学級218人入学。しかし卒業一覧によれば、125名しか卒業していない。市中は男子校5年制だったが、市中2回生は戦争のため1年繰り上げ4年で、昭和20年に市中1回生と一緒に卒業している。

 「知っている人の一人一人の繋がりで、だんだんと同窓会が大きくなっていったね。秘書にこれに手紙をだせ、これにもだせという風にね。それでないと分からないものね。俺が東京家政大学の客員教授をやっていたがね、、関東地区青雲同窓会の幹事長(平成2年から6年)をやった葛西真一君(東高6回生)の奥さんが東京家政大学を卒業してたので、そんな関係で夫婦ともに親しくなったね」

 『「昭和58年8月、市中・市高・東高とそれぞれに分かれて開催されていた関東地区同窓会を一本化しようという声が高まり、昭和58年8月新橋第一ホテルにおいてビアーパーティーを開催しましたのが産声でした』。会報「関東せいうん」創刊号より

 「そう、高木という同級生が第一ホテルにいてそこで一緒に始めたのだよ」
 「東高1回生の同窓会(昭和58年9月16日)に私も呼ばれたね、函館から同期の田中仁(昭和58年-平成3年青雲同窓会会長)も来たね」

 そして、昭和60年5月18日、合同の関東地区青雲同窓会設立総会が開催された。来年、25周年を迎える。

 「結局、ぼくが(会長に)祭り上げられて、それで(会は)始ったのだよ」。

 その後、平成16年まで20年間、関東地区青雲同窓会の会長を勤められた。

 「うちのかわいい秘書が3人いてね。同窓会につれて行くと喜ぶんだ。同窓生も若い子だから喜んで迎えてくれる。彼女達が一生懸命やってくれたので(同窓会がこれまで)発達したと思うね」
 「ちょっと私が病気をしてあともう今年で死ぬだろうという状態があった。それで(会長として)荷が重くなってね、山名君の働きかけもあって(平成17年に)田村君(関東青雲同窓会幹事長)の所に(同窓会事務所を)移してもらった」。
 「その後に元気になったら、彼女達から『会長が元気になったからもう1回(同窓会活動)をやりましょう』と言われたよ。彼女達はうちでまたやりたいという気持ちを持ったこともあったよ。だから、今も東高に呼ばれると喜んで行くよ」。

 「(同窓会活動で)苦労したことなど、ぜんぜんなかったね。皆が役員も一生懸命やってくれたし、うちの秘書も一生懸命協力してくれたしね」。 

                               2008.7.19 埼玉県にて インタビュー・文責 管理人
上から写真説明:平成20年7月19日会長室にて管理人撮影。校庭での軍事教練の写真。中村名誉会長の市中時代の成績表。昭和60年の函館東高関東地区青雲同窓会設立総会時の挨拶写真。
↓初代校長岡本先生の直筆メモ帳にはさまれていた当時の記録
☆中村隆俊医学博士のプロフィール☆

 昭和2年10月27日、北海道檜山支庁北部の瀬棚町(現、せたな町)に3男4女の次男として生まれる。昭和16年3月、函館市中生となり、1年繰り上げで昭和20年に卒業した。昭和25年北大医学部を卒業後、上京して東京医大でインターンとなる。写真はその時代に美空ひばりさんの家庭教師をしていた頃の写真。(ホームページ「関東青雲同窓会会報・関東せいうん」創刊号 7頁「幼きの美空ひばりと私」を参照)。
 現在、戸田中央総合病院理事長、戸田中央看護専門学校長 はこだて観光大使。80歳の今も現役で活躍されている。
 
↑王監督・長島元監督など名球会員と女子ソフトボール部員達と ↑北京オリンピック・ボートに出場の熊倉美咲選手と
☆参考資料☆
函館市立中の時代・・・・・当ホームページに、当時の教育状況を記している。
小年兵兄弟の無念 (6)   猪熊得郎・・・・特別幹部候補生の実体験が綴られている。
特別幹部候補生時代・・・・・・当時の特別幹部候補生の実体験
インタビューのきっかけ・・・・管理人のブログ
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