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母校と同窓会と私 3

   東高は、野呂幸司を創った学校だ
 
                         野呂幸司・青雲同窓会札幌支部顧問
                              (東高8回生、昭和33年卒) 
■ 東高は、野呂幸司を創った学校だ

 野呂さんにとって母校とはなんですか?

 「東高は、野呂幸司を創った学校」と言い切る。「俺が一番影響を受けたのは、両親。両親の他に、今こういう(生きる)エネルギーを与えてくれたのは、やっばり東高、東高山岳部さあ。その先輩や後輩だ」。

 小、中、高、大学を通ってなぜ東なのでしょうか?

 「大学なんか、この人という先輩が一人もいなかった。(北海道学芸大学函館分校・現北海道教育大学函館分校の)山岳部は函館東高山岳部の延長だった」。




■東高山岳部と部活の思い出 ― 東高のクラブ活動は自主独立だった

 山との出会いは、食料難で山に山菜を取りにいくことだった。「たまたま先輩がクラブに勧誘してきて、窓からザイルをたらしてアップダウンしているのを見ていいなあと思って山岳部に入ったんだ」(山岳部の歴史:「市立函館高等学校山岳部」参照)
 「北大の山岳部にあこがれて、北大山岳部の部報を集めては部室に集まって皆で勉強会をやったよ」。
 「山岳部には大先輩が一杯いたよ。顧問の先生が指導することはあまりなかった。先輩と後輩がいっしょになって部活をしていた。顧問の先生は素人だから(登山中)危なくて見ていられない位だったよ」。
 「ぼくはラクビーもサッカー部にも入ったけれど、先生はほとんど(クラブに)出てこなかった。当時、サッカー部は全国大会で3位に入ったけれど、(指導するような)先生は一人もいなかったね。それが東高の特徴だった。東高の一番いいことは、やっぱり“自主独立”なんだ。一人一人が自主独立し、その中で自分を見つけてゆく、作ってゆく。それが青雲魂なのだ」。

 【山岳部】
 昭和31年 大学パーティーが未だ完全縦走に成功していなかった知床半島の南部連山の縦走を完成、この時も毎日新聞がスポンサーとなった。30年と31年を第2期黄金時代と呼ぶ。
 昭和32年から34年 32年に北日高、33年に中部日高、34年には南日高と、3年間で日高山脈全山の縦走を達成した。これも函館地区山岳部としては一番乗りであった。
 34年遠征隊員は以下の11名である。(顧問ー倉田・岩井教諭、OBー松田隆生・野呂幸司、部員ー佐田彬・米谷征勝・中川昭三・大木理夫・川村潔・鈴木邦夫・酒谷豪。)
 【サッカー部】
 昭和31年 第11回国体出場、全国第3位獲得
 第11回兵庫県国体のサッカー競技は、西宮を中心として10月28日から11月1日迄に行なわれた。監督として斎藤幹雄先生、コーチとして本校サッカー部の恩人とも言うべき、高師康氏が同行したが、出場選手は次の通りである。
 GK 中町 FB 高橋・鈴木 HB 堀・薄田・山本 FW 広瀬・松葉・中沢・飯坂・中村
 補欠は4名共レギュラーとの力の差がありすぎ交代出場迄の力を有していなかった為1回戦から3位決定戦迄の5試合は全部同じメンバーで押し通した。
 豪雨の中、芝生に水がたまっているグランドというのは、選手には全く経験がない上、しかも負傷を押して出場している者が半数を越えているという悪条件であった。後半雨が小降りになると七分通り押しまくったが、連取したコーナー・キックも点につなぐ事が出来ず涙をのんだ。
 【昭和33年卒業生】
 男 236、女166の合計402人。この年、浪人を含む国公立進学者161名人の内、北海道教育大学函館分校82名、北海道大学24人他118人が道内の大学に入学した。私立は120名。(「東高は本州の大学にほとんどいかなかった」と野呂氏)

                                        図・文ともに北海道函館東高等学校「30年史」より引用

 *サッカー部の監督斎藤幹雄先生は、昭和31年に行燈行列を立ち上げた一人。(「東高の顔、行燈行列」参照)
 *初代山岳部顧問・長谷川昌先生(昭和23年〜34年数学担当、現代美術家)は、会報「関東せいうん」3号に紹介されている。

■青雲魂とは――不可能を可能にすること、夢を現実にすることだ

 「“不可能を可能にすること。夢を現実にすること”――それが青雲魂なんだ。文章にはないけれど、僕が東に学んだこと、感じたことはそのことなんだ。今、青雲魂と言っているけれど、本当の青雲魂を理解していないよ」。
 「東高は自由でのびのびやっている。けれど、自由イコールだたらめではない。小さなことはどんどん目をつぶっていいよ。しかしここ一番の所は大きな規制がある。本当の自由というのは厳しい制約の中の自由で、一番大切なことをきちんとわきまえた上で自由を満喫するのだ」。

■同窓会とは

 「同窓会とは俺の心のふるさとだよ。だから幹事長から始めて同窓会を19年もやっているし、札幌支部の事務局も(自分の会社に)置いているんだ」。

 野呂さんは元青雲同窓会札幌支部長で、現在、顧問をされている。
 札幌支部の第1回総会は昭和57(1982)年に三越で160人の参加を得て開催した。今年9月に27回目の総会を実施する。(詳細は第27回青雲同窓会札幌支部総会・懇親会“アカシアのつどい”開催のご案内参照)

 「(人間誰しも)今いやな気持ちがあると思うよ。同窓会に参加するとすばらしい先輩や後輩がいる。その中で今の現実を乗り越える知恵と元気をもらって帰る。それが同窓会の最高の姿なのさ」。
                                 2008.8.14 函館市青雲同窓会会場にて 写真・取材・文責 管理人
☆野呂幸司さんのプロフィール☆
 昭和13年12月29日、南樺太知取町(現ロシア、サハリン州マカロフ)に3男3女の次男として生まれる。小学校2年の時、函館に引き揚げてきた。昭和33年函館東高を卒業後、学芸大学函館分校に入学。同大学の山岳部長となる。山岳部長時代の話は当ホームページ「野呂幸司氏と凍(しば)れるいのち」を参照。 現在、70歳。株式会社ディール企画代表取締役。
 その波乱に飛んだ人生について興味ある方は、川嶋康雄著『凍るいのち』をご覧下さい。 
ブログ☆・・・インタビューの背景
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