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 函館市立高から函館東高へ
☆自治活動の萌芽☆
 1945(昭和20)年8月15日、日本のポツダム宣言受諾によって歴史上最大の犠牲を払った第2次世界大戦はその幕を閉じる。援農や工場への動員のため全道各地に四散していた生徒が、漸く帰校を終えたのは10月末のことであった。本校に於いても教職員組合が結成された。クラス役員や自治会役員も生徒自らの手で選出されるようになり、学校民主化の気運も高まった。昭和23年に入り、教育基本法に基づく六・三・三・四制の実施に伴い、本校の前身であった函館市立中学校は、市立高等学校として再発足する。教育内容も、生徒の自主性や個性の伸長の重視するものになり、自治会への参加も特別教育課程として、クラブ活動とともに教育の重要な分野をなすものとなった。
 本校生徒会の歴史は、民主化の流れの中で、この時期に確立された。第1期生徒自治会々長となった野本義秀君は、自治会活動を通じて民主主義の精神と態度を学びとる必要性を強調している。
                      青雲時報縮刷版 昭和24年4月〜25年3月解説より
☆函館公立3高――中部、西高、東高の誕生へ☆
 「進駐軍当局により占領政策がおしすすめられ、教育の部分的改革が各方面にわたり指示されたが、本格改革は日本国憲法・教育基本法・学校教育法の公布により開始された。昭和22年4月、まったく新しい教育理念のもとに新制の中学校が全国一律に設置され発足された。」
 「新教育の第二段階として昭和23年4月から全国的に新制高校がスタートを切ることになった。・・・・・函館市立中学校も、無事昭和23年4月1日から男子全日制普通課程の新制高等学校として開校のはこびとなった。(管理人注:函館市立高等学校が誕生)」
 その僅か2年後、1950(昭和25)年4月、男女共学の北海道函館東高等学校が誕生したのである。
 本校の校歌にある「流転の姿移り行き」のように、時代に揺り動かされながら、産声を上げた。
 「一方、男女共学については、各高ともに慎重論が有力であったが、これも結局は即時全面実施と決まった。かくて、(昭和25年)2月から具体的な準備作業が始まり、数多くの会合を重ねるなかで、函館地区公立3高校の通学区域の調整交渉が進んだ」。
 「なお、新しい校名も議論の対象となった。道立函館高から出された函館中央高校としたいという提案は他の2高の強い反対のためにとり下げられ『中部』となり、他の2高は、東部、西部とせずに『東』『西』の名称を採用することとなった。ここに、名実共に、北海道立函館高等学校から北海道函館中部高等学校へ、北海道道立函館女子高等学校から北海道西高等学校へ、そしてわが函館市立高等学校から北海道函館東高等学校への転換がおこなわれたのである。

 高校再編成により小学区制となった。その学区は次のとおり。
 @市内は大汎電車路線(駅前〜湯川)より北の地域
 A市に隣接する地域は大汎湯川以北、下海岸の地域
 B松前町を中心に若干の町村
                                                    *「 」は、50周年誌より引用
新制高等学校の成立☆・・・函館市史デジタル版。当時のことが詳細に記載されている。
☆50誌沿革略年表より☆
1949.5.23
このころより高校統合問題しだいに深刻の度を加える。
朝会で生徒には自重を求め、学校・父兄・同窓の3者合同態勢をとる。25日緊急職員会議。26日第1回統合問題委員会。
職員・父兄・卒業生のいずれも異常な緊張感。
1950.2.15
男女共学全面実施について父兄世論調査(PTA会長)
1950.3.28
新1年生の学区決定会議。道立西400、道立女子高400、市立高400。(注:原文のまま)
☆旧制市立中学校☆
 丸太を積んだ大八車を曳いて山腹を行く、そこに検閲所がありこの建物が捕虜収容所になった。函館には300人ほどいたようだが交替で、ドックの力仕事をさせられていたらしい。この時若い兵隊は陽気に笑い、我々少年労働者を指して眺めていたが、手には大きなソーセージを持ち頬張っている男もいた。うまそうな物を食べているなあと思う。
 この年1945(昭和20)年4月15日登校すると、体育館、剣道場、柔道場のある一画に金網が巡らされて「立入禁止」となっている。数日後、裸同然の男たちが毛布一枚にくるまって、何やわからない言葉で喋り合っていた。この一画は特別作業隊の宿舎になった。
 学校が休みだった7月14日は空襲警報、そして港の空にはたくさんの米軍機が舞い、青函連絡船が全滅した。家の前の病院に次々とケガ人が運び込まれて来る。
 敗戦は8月15日に登校して知る。音が消えたような蒼い空の日だった。20日頃から援農に出た上級生がもどり始める。秋になると援農組と軍隊からの復学生も帰って来た。海軍兵学校、陸軍士官学校、幼年学校、予科練そして少年戦車学校や少年海兵団からも。
 翌年6月29日援農先だった十勝の清水農業会から乳牛2頭が送られて来た。何よりも生徒の健康を....という事で講堂を作る予算で牛舎を建築した。岡村威儀校長の英断である。
 以後生徒は毎日、1人1合を1円で飲む。第2回国民体育大会が1947年(昭和22)年11月石川県で開催され、函館市立中学校のラグビーチームが優勝候補の大坂四条畷中学校を12対0で破り優勝した。このチームは翌年1月の全国中等学校大会でも優勝した。それから3年、学生改革は新制高校の男女共学を実施し市立函館高女を廃校して4校を3校に集約する。これが現在の東、西、中部の3高校になった。
 東高校の前身、函館市立中学は公の予算をわずかにして、市民の力で完成された。1940(昭和15)年仮校舎で発足したが、翌年当時の斉藤与一郎市長は上京の機会に、熱海で静養中の梅津福次郎翁を見舞った。函館の話題の中で中学の話も出た。間もなく福津翁は市長を訪ね、建築費の全額65万円の寄附を申し出た。敷地の3万坪は田辺顕夫氏の好意で入手する。校舎を取り巻くグランドは3面、陸上競技、ラグビー、サッカーは共有だったが、野球部は専用のグランドを使っていた。
 校舎建築時、資材も欠乏入手不足で大変だったようだ。戦後弁当消失事件が起こる。長雨が続いた或る日、天井から2人の生徒が降って来た。東京の戦災で縁故疎開して来たがその家を出て学校で暮らしていたものである。天井板は、ポール紙製だった。

おのが名を
ほのかに呼び涙せし
十四の春にかへる術なし   啄木

文章は、五十嵐 英壽さん(東高第1回生)著写真集「函館臥牛山」より
 五十嵐さんは、東高第1回生。函館東高の初代新聞部長で、元神奈川新聞社川崎総局長。
 入学は函館市立中学校、途中で函館市立高となり、卒業時には、北海道函館東高等学校と変わり、東高初の卒業生となった。
 2005年11月23日、500部限定出版の写真集「函館臥牛山」(=写真=)を出版。 その中に、東高の前身旧制中学校のことが記載されている。。その本文を引用した。
 神奈川新聞を退職されても、写真家としてご活躍中だ。2007年1月23日、五十嵐英壽写真集「横浜港私誌」を出版している。
(尚、掲載について、五十嵐さんに了解をいただきましたこと、感謝いたします)

 写真の東高飼育牛第7イースト号、ラグビー全国優勝のメンバーの写真は、50周年記念式典のビデオテープからの引用。
 五十嵐さんの写真は、関東青雲同窓会の2006年新年会時の写真、撮影管理人。                                                    
番外編 ☆1949(昭和24)年11月 「教育会におけるレッドバージ、本校にも影響」 50年誌沿革略年表
 昭和24年11月18日、北海道教育委員会は、26名の教員にたいする辞職勧告を公表した。当時の北海道教育長は、本校初代校長・岡村威儀氏であった。函館市史デジタル版「北海道および函館の教員レッド・バージ(クリックして参照)」によれば、「とくに注目されるのは、函館での数の大きさである」という。函館の被勧告者7名のうち1名は退職、6名は休職となった。
 同年、本校の国語教諭・井上一先生が解雇されたという。(先生の奥様である「井上幸子先生」をクリックすると参照できる)
 詳細は当ホームページ「函館市立中教員第1号の井上一先生に辞職勧告?」をご覧ください。
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