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函 館 東 高 創 立 物 語
 子供の時分、親の歴史など考える人はあまりいないのではないだろうか。しかし、今は廃校になった母校を想うとその創立のいきさつを知りたくなるのではないだろうか。私達の母校は函館市立中学校から誕生した。支部であれ、同期会であれ、創立物語なくしてその沿革は語れない。

 初代校長岡村威儀先生の「梅津翁に感謝 校舎新築竣る」、現在の市立函館高等学校長森武先生の「北海道函館東高等学校創立物語」、それに関連して「『市立中學校新設ニ関スル調書』と梅津翁寄付額の65万円」、斉藤與一郎・元函館市長の談話を組み入れました。              2008.8.13
創立20周年記念「栞」を入手したので、岡村初代校長の手記「創立時の夢」 元函館市長斉藤与一郎氏の「此の感激」を追記しました。
                               2009.3.20
*タイトル以外の色文字に関連情報のリンクを張っています。クリックするとご覧いただけます。 
☆梅津翁に感謝、校舎新築竣る ― 初代校長・岡村威儀☆
■ 梅津翁の美学
 青雲台3万坪の理想的校地に堂々新校舎が出来上がるにつれて、梅津翁の美学が何もにも優り、筆舌につくし得ぬ崇高深遠なる意味のあるものたることが痛感せられ、唯感謝、是感謝の毎日を送迎している。豊太閤が黒田如水に世の中に多いものは何だろうと問うと人で御座りましょうと答えたので、しからば少ないものは問えばやはり人で御座りましょうと答えたという逸話が伝えられているが、現下最も必要な人材、将来有為の学徒を錬成する教育程重要な仕事がない時に、市民薰陶の殿堂を建てられた美学は燦然たる光彩を校舎のどの隅からも発している。
 労力難、資力難の時局下とは言え市建築課長以下係員の周到なる準備監督と請負者瀬崎組の犠牲的精神を発揮しての適切有効なる施行とにより、全く理想的な校舎が出来上ってここにも感謝で胸は溢れる。寄付が1年否半年遅れても非常に支障に逄着(注:ほうちゃく、当面解決を要する事に出くわすこと)したことを思えば、ほんとうによき時によく額を寄付して下されたものと、又しても有り難さに頭が下る。それにしてもこの輪奐(注:りんかん、建物が大きくて、りっばな意の漢語護的表現)の美、宏壮(注:こうそう、建物などがひろくてりっぱな様子)の粋を発揮し、木造建築として最新様式に成る新校舎をお目に掛け得ぬことは遺憾至極である。我等職員生徒一同益々時局を認識し、国家有為の材となり、校基を振作して絶大なる翁の育英精神に応えねばならぬ。
■ 建設様式 
 建設設計に先立って小南課長と学校長とが親しく先進各地の建設を視察し、長短を研究し全国有数の学校ならしめようと最初から技術者と学校側との緊密な連絡があったので、細部に至るまで誠に便利に出来ているのである。
 1..戦時下木造建築としての新機軸多く、簡素質朴の中に通風採光防火設備等完璧に期してある。
 2..生徒の心身錬成の中心を武道に置かんとする考より壮厳広濶な武徳殿式の柔剣道場を先づ理想的に建築したることと、科学技術尊重時代の新築なる故理数科方面の設備を充分に有すること、即理科実験室、講義室、準備室として7室、数学教室2室を有する、ことや更に生徒の就職等を慮り実務教育のため作業教室、実習質の完備せることなど断然他に比を見ない本校の特色といえる。
 3.函館の地の利よりも市勢発展上よりも高等専門学校を必要とするを以って、将来本校を直ちに昇校せしめるとしても、増築拡張等に支障なきよう融通性ある位置に建設とせること。
 4..内容設備の充実は年を追って出来るが、教室が少さかったりすると悔を後に残すこと多きを慮り、寄付額で建て得る最大限の大いなる建築をしてあるので、特別教室も多いがどの室も広さを充分にしてある。
 5.校地を整備し環境を美化して真に習額の殿堂なるよう細心なる校地計画の下に着々工を進めている、げに樹や草の繁らぬ所に人材の雲は湧かぬであろう。
■ 奨学会.
 新築記念事業として最も力を入れて行きたいものは奨学会である、学校教育が徹底すればそこから人材が出る訳であるが、英才を抱きながら学資なきためにあたら進学の望を絶つもの少しとしないので本校出身者に学資を貸与し、国家有為の材を育てんとするもので、これ程意義深き記念事業はあるまい、その上職員の研究補助や勤続教職員に対し特別謝恩を表するなどの事業をするので先生方は落着いて教育に従事され、子弟薫化上寄与する所は葢些少ではあるまい、各方面に育英財団もあるがまだまだ貧苦に埋もれる英才は多い、一中学校が奨学制度を持ってるは恐らく全国的に誇り得るだろうし、特にその経費が梅津翁の育英精神を募って父兄が自発的に組織せられた梅馥会から出るので愈々奨学会の精神的意義の大なるものかある学校の歴史の歩みと共に本学園より国家的人材の多数輩出することを期待して止まぬ。
                                   昭和18年6月10日「函館市立中學校通報」第10号より 
*写真は当時校舎を立てた職人達と思われる。左端に割烹着の女性3人も写っているが、白くなってしまっている。
 写真の裏には「??・・・司令部 檢閲濟 17.10.23 渡邉七司 千歳町.五のニ」というスタンプが押されている。
☆創立20周年を迎えて、創立の時の夢 初代校長 岡村威儀(=写真=)
 函館東高校創立20周年祝賀の盛典が、関係者各位の心をこめて、有意義且盛大に行われるにあたり、衷心より御祝い申し上げる共に、益々将来への発展を祈って止まぬ次第であります。
 論語の中で孔子が、「父母の年は知らねばならぬ。一つは以って喜び、他は以って悲しむ」と語っていますが、学校の創立年次も、古きを喜びとしたり、或いは母校の今日あるのをあれこれ思い出の種とし、出身者同志が心のふるさととしたりするものであります。それで東高設立当初の思い出を述べて置きたいと存じます。
 御存知の通り、函館東高校は、市民を育成するにはどうしても教育機関を必要とするとの熱望が結び、東北、北海道に特異な学校として、有為な人材の教育を見ざし、7年生高等学校を目標としました。先ず初めの中学校4年の間に、規模、設備、内容等を整備して行き、実力ある立派な教職員を充実し、学校のすべてが7年制高校にふさわしい様に育てたいという計画でした。これは斉藤市長、登坂市会議長など市当局の熱心なご意向だったので機会ある毎に激励されていました。
 然し時局は意外に発展し、生徒の教育は軍事教育一辺倒に向い、予科練や特幹にかりたてられ、食糧増産や援農に校門を捨てて立ち向うこことになりました。立派な学校に整備する事もできず、資材不足から最初の計画の鉄筋校舎は建たず、7年制高校は文部省の方針で新設中止となり、新しい学校であっても、教具教材等一切購入は不可能、配給はなし、大きな理想に燃えた吾々も、その計画を捨てざるを得ない事情でありました。
 
 私なども生徒出張の農村に慰問に出かける以外、家庭菜園を作るのに邪魔な樹木をもらいにいって、援農にいけない生徒の手で、学校の記念に植えて置こうと、励まし合って植樹に努力し、樹々の太り行く土地から人物の育ち行く学校が成長する筈だと、随分方々より樹木を頂きました。それ等に伴う思い出の種も多くございます。
 思うに創立としは日支事変であったのが、やがて大東亜戦争になり、敗戦まで行くとは予想だにせず、終戦後混沌たる中に、東高を育てる素志は思わぬ事情によって他に転じていまい、今もその悲しみが消えない次第であります。
 幸い市中も東高となり谷地、盛山ニ校長が夫々大切な時期を苦心経営して成果をあげられ、あくまで市立の名目をたてつつ、通学区域を定め、男女共学の新しい高校として益々発展しました。卒業生5,000、学校のいのちの若いのに比し驚くべき発展で、20周年記念を新しい出発点として更に特徴ある高校として、頭角をあらわされることを心より祈っております。
                           20周年記念誌「栞」より
プログ☆ 市民の学校
☆校 舎 試 案 図☆
☆北海道函館東高等学校  創 立 物 語☆
森武校長先生、2007.5.26管理人撮影

 平成17年6月27日は本校の66回目の開校記念日である。

 本校は函館市立中学校(旧制5年制)として、船見町の仮校舎(旧愛宕中学校)で昭和15年4月6日に第1回入学式を行い、昭和18年4月6日に現在地に移転。同じ年の6月27日に新校舎落成式を挙行した。その6月27日を開校記念日と定めて現在に至っている。(注:旧制中学校参照、いわば現在の中学校と高校を合わせた教育)

昭和15年は第2次世界大戦突入の年。そのような戦火真っ最中の中で本校が開校されたことは奇跡であるといってよい。昭和20年3月、第1回生と第2回生の卒業式が同時に挙行されたのはその典型的な例である。本来5年制の旧制中学の修業年限が戦時下の苦悩の中で4年に短縮されたからである。

建設中の旧東高の校舎 戦後の混乱期、昭和22年の学制改革にによって新制の中学校(現在と同じ中学校の形)が設立されたことにともない、昭和23年、旧制函館市立中学校は函館市立高等学校と改称された。続く昭和25年、函館市内の高校再編により現在の北海道函館東高等学校となったのである。つまり、「市中」「市高」「東高」と、極めて短期間に本校の校名は変化した。しかも、新学制によって住居による学区制が敷かれ、「市中」「市高」の同級生が「西高」「中部高」「東高」と別れて卒業時を迎えることになったのである。

 さて、我が函館東高校のことである。本校の現在の住所は函館市柳町11-5だが、この地が「青雲台」と命名されたのは昭和17年9月17日である。「高き理想に向かって邁進する市中生にふさわしかれ」と初代岡村威儀校長が名づけたといわれる。本校の不動の校風であり基本精神となった「青雲魂」「青雲の志」の語源はここに発する。

 時は昭和7年まで遡る。函館市の人口は既に21万人に達していたのに市内に旧制中学校はたった1校しかなかった。そこで道立第2中学校を設立してほしいとの声が強く挙がったが、道も財政難でその要望に応えることはできなかった。昭和11年、道立が無理なら市立でもという思いから「函館市立中学校の建設の誓願」を市長や議長に陳情したが、函館市も引き続く財政難の状態で実現は不可能であった。翌昭和12年「市立中学校設立期成同盟会」が結成され、続いて昭和13年、中学校設立に熱心であった斉藤与一郎氏が市長に当選した。斉藤市長は昭和14年市立中学校設立を決定し翌15年に船見町の仮校舎での開校の運びとなった。

解決の見込みのない難題だけが残った。どこに、どのように資金を調達して新校舎を建てるかということである。斉藤市長も初代岡村校長もこのことについては全く 「お手上げ」であった。

梅津福次郎さんの写真。函館市史から引用。 そんな折、実行寺住職望月徳英さんに実行寺筆頭総代梅津福治郎さんから「函館市民の皆さんが店の品を買ってくれなければ今日の梅津はない。皆さんのお陰だ。そこで何かご恩返しがしたい」というお話があった。望月さんにはその以前に聞いた初代岡村校長の「お手上げ」という言葉が耳に残っていた。そこで「学校がよいと思います。函館は男子の中学校が不足です。子供達は卒業すれば函館の中堅となって将来の函館を背負っていく人達です」と答えた。それに対し、梅津福治郎さんは「では考えておこう」と返事をした。望月さんは梅津さんの「考えておく」という答えは「了解した」と同じ意味だと受け取った。梅津さんは普段からできないことはできないとはっきり意志表示をする人であったからである。

 果たせるかな、間もなく梅津さんから「中学を寄付しようと思うが資金の手当てをしているよ」とのお話があった。

 昭和16年3月、公用で上京した斉藤市長は秘書課長を伴い、病気保養のため熱海に滞在していた梅津さんを見舞った。挨拶が終わると、梅津さんは「私は長年函館市のお陰で多少資産を作らせて貰いましたので何かご恩返しをしたい。何かさせていただけないでしょうか」と市長に申し出た。市長は早速「今函館市で一番困っているのは中学校問題です。その予算は65万円ですが」といった。梅津さんは「うーむ、私は精々1718万円を考えていました」といった。その時、傍らのタケコ夫人が「お父様、やはり中学校がよいでしょう」と助け舟をだしてくれた。当時の文部省から中学校としては広すぎると苦情をいわれたという約3万坪の土地は田辺顕夫さんから格安の値段で譲り受けた。梅津さんは、新校舎落成の前年、昭和17年6月23日、眠るがごとく逝去した。

【参考文献】 「30年史」「50年史」「新函館物語(石垣福雄著)」「新編函館町物語(元木省吾著)」

平成17年6月20日      文責 森   武

↑ 北海道函館東高等学校のホームページから森校長先生の了解の上引用させていただきました。
☆「市立中學校新設ニ関スル調書」と梅津翁寄付額の65万円☆
 左の写真は、1924(昭和13)年から1925年頃に作られた「市立中學校新設ニ関スル調書」である。
 1.中学校新設標準
  (1)毎年5学年 合計25学級を収容し得る規模とす
  (2)校地2万坪
 2.建設費 60万円
 1.創設当初 5ヵ年の授業料収入(月額4円50銭とす)(65万円は14,444人分)
  (1)給与 25,954円 (65万円は職員給与年総額の:2.5年分)
    1.教職員
     学校長 一人年棒  2,500円 (65万円は26年分)
     教員一人月平均    120円 (65万円は45年分の給料)
     委託職員人一人月   80円 (65万円は67年分の給料)  
感激の一夜 かくて本校は建つ☆
斉藤與一郎・元函館市長 1873年~1961年 (斉藤氏については「本校を築いた3人の列伝」参照)
 独学で医術開業免状をとり、ドイツに留学、専門の細菌学を修め、函館区医として半生を伝染病防疫に当たり、初の地元選出市長として自治振興に尽くした。
 設立余話かね。私がまだ市長にならん前から市立中学校をぜひ建て欲しいという市民の声は大変なものであったのです、当時中学校というのは函中(注:北海道庁立函館中学校で、今の中部高)のみでしたから函中に余った子供たちは行先がなかった、それでとにかくつくってしまえというので、旧市立女校のボロ校舎で開校したが、それで新校舎建設の段になって行きづまってしまった。
 その時はもう私が市長になっており、たまたま熱海に静養していた梅津福次郎さんを3月8日機会があったのでお見舞いした時に、梅津さんが「斉藤さん実は私は老先も大してないので何か市のために寄贈しておきたいと思っておりますが......」というお話を出されたので早速「それでは中学校を願いたいのですが」と持ち出した。しかし、総額65万円というのを聞いて少しびっくりされた様で、「実は水戸(管理人注:1858年、梅津翁は梅津友三郎の次男として常陸国(ひたちのくに・茨城県)久慈郡太田村下井戸(現・太田町)に生れている)に修練場を寄付して大変喜ばれているから、当市にも道場ようなものをと思っていたところです」といわれたが、私は何百人もの生徒たちの中から一人でも二人でも役立つ人物が出た場合、それは国家への一番の奉公である旨を述べ市としてはあくまでも中学校が欲しいと伝えたが、その時はそのままになっていた。それ依然に御夫人と二人で梅津実業校でもたてようかと話し合わせたことがあったそうでその時も、同席した御夫人がいろいろと私に肩をもたれて「お父さんぜひ中学校になさいよ」と口ぞえをして下さった。
 それから1ヶ月たった4月の8日早朝私が風邪気味で寝込んでいると梅津さんから、「体具合はどうですか、今日は役所へ出るのですか」と電話が来たのでもう大分良くなりましたから出勤致します旨を伝えると「それなら今日ぜひ立ち寄ってくれ」とのことなので行ってみると「斉藤さんの中学校を寄付することにしました、65万円を全部お出し致します」と話され御子息の為八郎さんを呼び「斉藤さんが心配だろうから金額と年月日を書け」と命じ、為五郎さんが書き終えると「斉藤さんもこれで安心したべ」と函館弁で話されました。
 敷地の方はあちこち物色している時に、当時函館タイムスの記者をしておられた常野雲弥という方が現在の土地を田中さんが売りたい意図であるとの情報を知らせて下さったので早速訪れて当初2万坪購入の計画であったが、いっそのこと全部の3万坪を買おうと、いうことになり2万円で契約しました。田中さんはずいぶん好意をもって下さって、営林区へもう1坪5円位(管理人注:単純に計算すると15万円)で約束していたそうであったが、中学校のためならば、といってこちらにゆずって下さったのです、まあそのようないきさつですよ。
                                  昭和25年10月15日「青雲時報」第5号より
☆此の感激 元函館市長 斉藤与一郎  
 80年の予の生涯の中、実に感激にひたりこと2回、即ち一は外遊の際、恩人渡辺熊四郎さんから得た一言、他は梅津福次郎翁が函館中学寄付の申出をさせられた時である。甲は私の仕事であるが他は公の事で、函館全市民に関係し、且つ多数の青年学徒の前途に関するものであるから、殊更感激の涙嵭沱として落ちるを禁じえなかったのである。しかも一挙に65万円をだして欣然として、之で多くの子弟を得たと微笑を浮かべられた彼の御顔今尚予の眼底にありありと印象其影を印するものである。昭和16年3月8日天気極めて晴朗にして一天の雲なく、一重桜は既に散り八重桜が今を盛りと咲き乱れ、熱海の海岸雲一つなし我が函館市立中学の門出は、実に円満無げである。余は常に此当時をしのびつつ極めて満足しているのである。事玆に至りしは梅津翁の人格高潔によってであるが、傍に在りし令室の助言、令息の理解ある結果で玆に至りしものという可く、即ち家庭の円満なる当に春風駘蕩和気あいあいの結果とと見る可く、翁の成功も即ち家庭円満なる当に一致の賜物であるという可し。大いなる成功の影にかくれたる多くの力こそ翁をして一層の光輝あらしめたりという可し。                                               20周年記念誌「栞」より          
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