更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2012年7月31日(火)
『おおかみこどもの雨と雪』

この映画最大の功労者は大沢たかお。開始15分で退場してくれた点で。
冗談はさておき、前評判から観た人の評価まで、こぞって絶賛の嵐なので逆に心配していたのだが、良い映画だった。
最初に、宣伝に苦言を呈したい。予告で使用していた映像って、いいところ前半3分の1程度のものなのな。そのせいで誤解していたが、これは「子育て」の映画と言うよりも、「子別れ」そして「人生の選択」の映画である。

前半の展開は概ね事前情報どおり。
見せ方がうまいので観ている間は気にならないが、あれじゃ児童相談所が心配するのも当然。
「虐待やネグレクトを疑われても仕方ない状況ですよ!」まったくだ。
田舎に移り住んだら、児童相談所も子どもが少なくてヒマだから余計追及が厳しくなると思うな。木を隠すなら森の中、隠れ住むなら人の中。某T容疑者だって蒲田にいたじゃないか。もちろん、どこの社会に参画するかは花に選ぶ権利があるけれど、よりよそ者に厳しいのは果たしてどっちだか。
花は田舎で野良仕事に精を出すことでそちらの社会に迎えられるわけだが、本来「農業」と「人目につくこと」は関係がない。
この描写は、「雨と雪が人間ではないから人目を避けなければいけない」という問題から、巧妙に観客の目を逸らしてしまっている。
この、高度な演出技術で物語上の矛盾をごまかしてしまうのは『時かけ』以来の悪癖(と、言ってしまおう)である。『時かけ』の場合、「起きたことをなかったことにしてはならない」というテーゼを是としているのに、功介の死だけは「なかったこと」にしてそれを良しとしてしまっている。私とて、これに気がついたのはかなり後だ。作劇上しかたないとは言え、矛盾は矛盾である。この矛盾をごまかしているのが、例の「時間の止まった世界」という大技だ。
前半は結局のところ「都会では失われた人情が田舎にはまだ生きているので暮らしやすい」というおなじみの文脈に帰着してしまって、「性懲りもなくヒッピーコミューン幻想かよ」と必要以上に斜に構えて観ていたのだ。このあたりまでは。

これが、雨と雪が小学校に上がる後半から俄然面白くなる。
ぶっちゃけて言えばこの映画は、「親の思惑がどうあれ子どもはいずれ自分で生きる道を見出し、親から離れていく」という話だ。富野監督が-血縁に基づく家族という制度に絶望的な不信を表明する作品ばかり作ってきた富野監督が、この映画を褒めているのも解る気がする。

雨と雪はててなし子だが、花自身も母親がいない、という設定なのは興味深い。家族写真が、父親と2人で写っているのみ。
ガラス窓を流れる雨水や、川に落ちた雨を包む泡など、水の表現が素晴らしい。
決して華麗な技巧に走らないが、机を挟んで対立する雨と雪とか、揺れるカーテン越しに秘密を打ち明ける雪とか、静謐にして雄弁な映像言語にぞくぞくする。
ゴミ袋に詰め込まれ、収集車に放り込まれる狼をロングで捉える冷徹さ。その一方で、雨の中ひざまづく花に、誰かが見かねて傘を差し掛けてやる細やかさ。
細田映画で、殴れば拳が痛み、傷つけば血が流れるナマの暴力が描かれたのって初めてじゃなかろうか(『ワンピース』は未見)。
コンクリに飛び散る血の生々しさ。誰も言ってないみたいだから早い者勝ちで言っちゃうが、あれって間違いなく初潮のメタファーだよね(肝心なのは「第二次性徴を迎えた少女の手が血にまみれている」という画の持つ意味性であって、それが誰の血かはこの際重要ではない)。

このあたりを観ていてふと連想したのが、塩田明彦監督の『害虫』('02)。中学生の過酷なサバイバル劇を描いた名作だが、そういやこれも宮崎あおい主演だった。と言うか、宮崎はこの作品で女優人生最高の演技を披露してしまって、これ以降は鳴かず飛ばずというのが私の印象。


アニマゲ丼に「桃の重要性」の話が。
http://www.asahi.com/showbiz/column/animagedon/TKY201207220086.html

 →6年前『時かけ』を観て書いた拙稿。今さらながら自分を誉めてやりたい!もっとも、「彼」が桃缶を持っていることに気づかなかったのであまりいばれないが。


昔読んだ熊谷達也の『漂泊の牙』に、ニホンオオカミの生存の可能性に関する研究の話が出てきた。それによると、現代日本の生物相と緑地面積からすれば、オオカミが種として存続可能な個体数を維持するだけの食糧が得られないので、生存の可能性はないそうだ。
今回思い出して、ちょっと学術論文データベースで調べてみたのだが、該当する研究は見つからなかった。これ自体創作だったんだろうか。この件はもう少し調べるつもり。


ところで今年上半期のアニメ映画、『ももへの手紙』『虹色ほたる』『グスコーブドリの伝記』そしてこの『おおかみこどもの雨と雪』には、ひとつ共通点がある。
携帯電話が出てこないことである。
まあ異世界が舞台の『グスコーブドリ』は当然としても、他の3作は現代劇だが携帯電話が出てこない。少なくとも、重要な役割を果たすことはない。『もも』は本当に出てこなかったかちょっと自信がないが、記憶に残るような使われ方はしていなかった。『おおかみこども』は意識して観ていたから断言できる。免許証の期限からして、2000年頃からの話のはずなのに。
もっとはっきりしているのが『虹色ほたる』だ。この作品に登場する携帯電話は、主人公の死んだ父のメッセージが録音されており、「乗り越えるべき過去」という扱いである。現にこの携帯電話は主人公が崖から転落したとき失われ、2度と登場しない。そして主人公が目覚めるのは、携帯のない24年前の世界である。

つまり、「携帯が目新しいアイテムでなくなったから登場しない」のではなく、積極的に物語から排除されているのだ。
私が考えているのは『ほしのこえ』('02)のことである。
2000年代のアニメのトップバッターを務めたこの作品は、携帯なしには成立し得ない物語だった。
それから10年、アニメ作家の意識には何があったのだろうか。
私がもっと節操のない性格だったら、ここで世相に絡めて一席ぶつところだがそういうことはやらない。
ただ記憶にとどめておく。


クライマックスで花が叫ぶ例のセリフについて。
実家に帰省すると、私の母は、私がいまの自宅に帰るときやたらと食い物を持たせたがる。いまだに私が食うや食わずで生活していると思っているらしい。
『おおかみこども』を観て帰宅したら、偶然にも母から手紙が届いていた(電子メールじゃなくて手紙ね)。
普段の私は、母に用事があっても電話で済ませるのだが、今回は手紙でも書いてみるとしよう。


いや、深い意味はありませんが。

2012年7月30日(月)
WBC

WBC出場問題について、スポーツライティング系のブログで一頭図抜けている念仏の鉄さんはどういう考えなのだろう、とずっと思っていたのだが、意見を表明されていた。
http://kenbtsu.way-nifty.com/blog/2012/07/wbc-21a9.html

なので、私も安心して発言する。
私も、WBCには出場してほしい。
分け前が足りないって、そんな大した問題なのか?
以前の報道で日本側とWBCI側双方の主張を読んだが、WBCIは「配分が不平等なのは事実だが、その分は貧しい国の招待費用や保険金、野球振興のための助成金として活用している(私腹を肥やしているのではない)」と言っている。これが事実であるならば、私はWBCI側の主張に理があると思う。
すると日本側の次の手としては、収支報告書の公開と、公正な第三者機関による監査を求めることになると思うのだが、報道を見てもググってみても、一向にそういう動きは見えてこない。

ただひたすら不平等だ、もっとカネをよこせでは交渉が進まなくても当たり前だろう。

MLBは自分のことしか考えていないって?
当然だ。相手は「世界の野球をどうしたいのか」というビジョンを持ち、そのための戦略を立て、短期的な目標を追求している。

 グローバルシリーズの意味するもの1
 グローバルシリーズの意味するもの2

そういう恐ろしい相手に対して取れる対抗策が、「出ない」と言うだけ。ここには実現すべき理想も、現実の認識も、そのギャップを埋める方策も、何一つない。

この状況を表現する言葉はただ、「貧しい」の一語のみである。

やや牽強付会だが、70年前の敗戦からわが国は何も変わってこなかったということがよく解る。
世界と戦うという物語を失った野球は、半導体のように、携帯電話のように、液晶テレビのように、この平和なガラパゴス島の中で緩やかに滅びていくのだろう。お似合いの結末だ。

淋しいことではあるが、それが我々の選択なのだから。

2012年7月24日(火)
アニメ映画三題

『ベルセルク』『グスコーブドリ』『なのは』とハシゴしてきた。
仕方ないでしょ、地方在住者なんだから。

○『ベルセルク』
ホントに脚色が巧み。
崖から落ちたガッツとキャスカを探すのにグリフィス自身が来ていたり、キャスカの回想を夢の中の出来事にしたり(原作ではキャスカ自身がガッツに話して聞かせている)、王妃の暗殺騒ぎをばっさりカットしていたり、ゲノン総督とグリフィスの因縁を断片的なセリフのやりとりだけで表現していたり。
特に最後のは、グリフィスそっくりの小姓を登場させることで至短時間で最大の効果を上げている。
ドルドレイ城攻略の策謀など、原作より説得力があるほど。このキャラをこう使うか!とうならされた。
舞踏会の場面で泣き笑いの表情で踊るキャスカといい、安易なセリフやモノローグを排した、堂々たる映画ぶり。見事の一語。


○『グスコーブドリ』
てっきり「さらわれた妹を捜す冒険譚」になっているのかと思ったら、こういう話なのか(原作未読だがあらすじは知っている)。

ところで私は、一ついやーな想像をしてしまった。
作中で、ブドリの妹ネリはコトリ(子盗り、だという)なる謎の男にさらわれる。ということになっているが、どう見てもこれは餓死のアナロジーだ。
コトリを追ったブドリは森の中で倒れ、てぐす工場のエピソードを経て家に戻ってくる。引っかかったのはここ。

まずブドリの目線で室内の様子が映る。テーブルの上に、ネリの使っていたスプーン。ネリが座っていた椅子には、ネリの大事にしていたぬいぐるみがある。このぬいぐるみは、妹の身代わりとして以後ずっとブドリが持ち歩くことになるのだが、続いて、カメラは俯瞰で室内を映す。すると、テーブルを挟んでネリの反対側、ブドリの座っていた椅子にもぬいぐるみがあるのだ(私の記憶では、このときネリの椅子はカメラから切れている)。

これはどういうことか?
レイアウトのミスでないならば(劇場作品で、このスタッフでそんなことはないだろう)、その意味は一つしか考えられない。
イヤな想像とはこのことなのだが、この時点で、ブドリもすでに死んでいるのではないか?

作品中盤で、コトリはブドリを「境界を侵犯する者」として糾弾する。通常ならこれは「黄泉に踏み入って死んだネリを取り戻そうとする行為」を指していると解釈できる。だが、もしもそうでないとしたら話は逆で、「死んだことに気づかずに生者の世界に干渉しようとしているブドリ」を責めている、ということになる。
つまり、山を下りて以降のブドリの人生はすべて、死の間際に見た夢なのではないか。そう考えると、個々のエピソードの現実感のなさに納得がいくと思うのだ。


○『なのは』
精神的に長い『グスコーブドリ』と物理的に長い『なのは』。
オタ連中のおしゃべりを聞きたくないので、今回、終映直後に耳栓を装着するという荒技に出たら思ったより有効だった。
え、作品の出来ですか?
よろしいんじゃないでしょうか。私は、『なのは』は無印が別格で、後は公式二次創作だと思ってるので。

2012年7月17日(火)
夏アニメ雑感

ちょっと本業が忙しくてサボっていたが、少しだけ更新。

『ソードアート・オンライン』
『オカ学』の伊藤智彦監督待望の新作と言うだけあって、期待に違わぬ出来。2話でいきなりこんなに盛り上がっちゃっていいのか?

○『夏雪ランデブー』
これまた待望の松尾衡監督の新作。2話にして傑作認定!
というのも、以前も言ったが、松尾監督作品には「人形のような生への忌避感」という共通のモチーフがしばしば見られる。
他人と触れあえず、影響を与えたり与えられたりしない人生は生きていると言えるのか?というものだ。
これがない松尾作品はつまらない。その点、本作はばっちりだ。
ただまあ、いつ歌ったり踊ったりし始めるかと思うと、ちょっぴり不安。

○ 『だから僕は、Hができない』
バカすぎるにもほどがあるタイトルのせいでまるでノーマークだったが、高橋丈夫・荒川稔久コンビだったのか。こんなしょうもない設定なのにちゃんと見られるものになるのがさすが。

○ 『超訳百人一首 うた恋い。』
『貧乏神が!』
『じょしらく』
この辺はもう安パイ。カサヰケンイチ監督の器用さにはつくづく感心する。
アニメイズム枠は水島精二→水島努ときたか。すると次は・・・・・・水嶋ヒロとか?

○ 『TARITARI』
P.A.WORKSはもう、アクション・ホラー系のスタジオとして特化するか、本腰入れてまともな演出家を育てるかしたがいいんじゃないかな。
実は私も合唱経験者なんですがね。こりゃひどすぎる。
音楽系サークルはみなそうだと思うのだが、一に練習二に練習、三四に合宿五に特訓というくらい月月火水木金金な世界なのよ。合唱というのは、何人いようが全体としての曲の出来映えは「一番下手な奴」のレベルに合ってしまうという恐ろしい音楽である。だから、各パートを引っ張るエース級の存在は不可欠だが、同時に全体の底上げが欠かせない。
ステージ上で失敗しないように練習を積むのだし、緊張して失敗する程度の練度の奴をステージに上げるのがまずおかしい。ソロパートを任されたわけでもなかろうに。むしろ管理部門(この場合パートリーダー)の判断が問われるところだ。

あれは、「甲子園出場がかかった試合の9回裏にサヨナラエラー」というプレーに近い。2度とレギュラーにしてもらえなくても、そりゃ文句言えないでしょ。
練習したのに失敗したと言うんなら、才能ないんだから諦めろ。「楽しく歌いたいだけなら、カラオケでも行ってな!」
『花咲くいろは』もそうだったが、特殊な業界を舞台にするならちゃんとリサーチしようとか思わないもんかね。
ついでだが、今どき帰国子女(これも問題ある表現だが)をギャグにするなんざ正気を疑う。ただでさえカルチャーギャップを笑うのは差別につながりやすいのに。そのデンで行けば、『つり球』のターバンとカレーでインド人てのも今どきどうなんだろうと思ったが。

○ 『ココロコネクト』
今季最大の大穴がこれ。忙しくて全然事前チェックしてなかったのだが、川面真也監督じゃないか!
この人、『デュラララ!!』の監督補だった頃から注目してたんですよ。いずれ監督を任されると踏んでいたが、思ったより早かった。
1話の冒頭、アクションつなぎでポンポンとつないでいく数秒を観ているだけでワクワクする。
しかもエンディングを手がけているのが長井龍雪!
何これ、オレへのご褒美!?

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