更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2011年8月25日(木)
アニメ映画を読む『ストレンヂア』

藤津亮太氏が講師を務める「アニメ映画を読む」を、毎月聴講している。

聴講した後もう1回観返してみたら、いくつか気がついたことがあったのでメモ。

1 第2幕(ドラマを「状況説明」「葛藤」「解決」の3部に分けた「葛藤」の部。本作の場合、22分から72分あたり)における、情報の整理の巧みさ
1つの状況で、登場人物のバックボーンと関係性の変化を効率よく表現している。そのため、上映時間以上に濃密さを感じる。
金髪碧眼の羅狼を見かけた町人が、見せ物にすれば儲かるなどと面白おかしくうわさ話をしながら通り過ぎる。それを背中で聞いている名無し。


後に名無しの素性が明らかになって、初めて効いてくる描写。

2 萩姫
私は、本作をまったく無駄のない完璧な映画だと思っているのだが、唯一突っ込まれがちなのがこの萩姫の存在。彼女はストーリーに寄与していない(ように見える)ので、坂本真綾を登場させることで声オタを釣る気だったんだ、などと言われてしまう。そういう要素もあるのは否定しないが、姫の存在は重郎太の行動を理解するのに重要である。いくら将監の腹心とはいえ、主殺しに協力するからにはそれなりの動機-姫をわがものにしたい-が必要であり、それに説得力を持たせるために、姫をも画面に映しておく段取りを踏んでいるのだ。
改めて観直してみると、思ったより登場シーン多かった。
まず、白鸞が鉄砲の試射をしているシーン。白鸞が明から鉄砲を持ち込んでおり、かつ自身も優れた射手であることを示しているのだが、それを試射している当人たちではなく、姫の口を借りて説明しているのが本作らしい。そして、この場面で姫の琴を見せている。



だから、後のシーンで琴の音を耳にした重郎太が姫が弾いているのだろうか、と口にする。将監の視線に注目。



将監はその内心を見透かして、自分を棚に上げて野心は身の丈にあったものにしておけ、と言う。

脚本では少しニュアンスが違っていて、重郎太は姫の入り婿になることを狙っている。この場合、将監と重郎太の関係も少し緊張感を孕んだものになる。もし重郎太が婿として首尾よく領主の後継者になれば、将監を飛び越えてナンバー2になってしまうからだ。身の丈云々のセリフは、脚本段階から同じであり、重郎太を牽制するものだったのだろう。
また、画コンテまでは姫の登場シーンがもうワンシーンあるのだが完成画面ではカットされ、逆に脚本にはなかった、将監が領主の救出に向かったと報告を受けるシーンが追加されている。

3 即物性
死体の山。『ストレンヂア』では、死と暴力が誰にも平等に降り注ぐ。この殺伐とした人間観、荒涼たる世界観こそB級アクションの神髄(だから、『カリ城』はちょっとのどかに過ぎて違う気がする)。私は『花咲くいろは』の暴力描写(1話のビンタシーンのこと)がもの凄く不快で観るのをやめてしまったのだが、これがつまり、B級アクション映画的バイオレンス描写を、キャラの心情にウェットに寄り添うタイプの作劇内に持ち込んでしまった結果だと思う。意図的にやっているなら大成功と言えるが、褒められたやり方とは思わない。

4 ルーツとおぼしき作品
イーストウッドの『荒野のストレンジャー』『ペイルライダー』の2作品を付け加えたい。いずれも、主人公に名前がなく、それゆえに神話的な趣を持つ。

5 刀の交換
クライマックスで、名無しと羅狼はそれぞれ相手の刀で斬りかかる。
「剣をとるものは自らの剣によって滅ぶ」含意に見えなくもない。

6 名無しは死んだのか
ラストシーンで、名無しが羽織っている赤いマントは羅狼たちの使っていたものだろう。赤は直接に血の色を連想させるし、斃した敵と近い場所にいるという意味にもとれる。


2011年8月23日(火)
アニメとミステリ

ここしばらく考えていたことがある。

それは、なぜアニメにはミステリというジャンルが存在しないのか?というものだ。コナン君があるじゃないかと言われればまあそうかも知れないが、私が言いたいのは実写映画における「ミステリ映画」に相当する作品-一時流行したアガサ・クリスティの映画化とか、『薔薇の名前』のような、いい大人の観賞に耐える作品である(あまりこの言葉使いたくはないが)。強いて言えば『PERFECT BLUE』くらいだろうか。
考えてみるに、ミステリ、特にトリックやアリバイ崩しやフーダニットなどの謎解きを旨とするミステリは、「常識的に考えてあり得ない謎」を提示する必要がある。そこには前提として強固な常識的日常的現実が存在しなければならない。アニメとは、そもそもが書き割りの背景の前でセル画のキャラクターが芝居らしきものをしている、という非日常的・非現実的極まりない表現だ。したがってミステリをやろうと思ったら、まず強固な現実感を構築するところから始めなければならない。『PERFECT BLUE』が採用したのが、正にそういう方法論だった。『PERFECT BLUE』が目指していたのはその現実が崩れていく恐怖だったから、必然的な手間だったわけだが。その辺にカメラを向けるだけでとりあえず現実を写し取れる(本当はそんな簡単なものではないだろうけど)実写に比べれば、アニメはクリアすべきハードルがひとつ多い。しかもこのハードルはものすごく高いのだ。

そこで改めて見直してみたいのが『あの花』である。この作品は、幽霊のめんまが成仏するために叶えねばならないお願いとは何か?が物語を貫く縦軸となっているが、一方で、めんまが死んだあの日、本当は何があったのか?を探っていく、という構造を横軸として持っている。この、謎を提示してはさまざまな証言や回想から答えを小出しにしていくという語り口は、非常にミステリ的だ。

本作も、実在する風景を精緻な背景美術で再現することで現実感を獲得している。この出来映えを見ていると、米澤穂信の青春ミステリなんかもこのスタッフならアニメ化できるんじゃないか、などと思える。

てなことを考えていたら、とてもミステリ的な作品がもう1本あることに気づいた。
中村健治監督の『化猫』『モノノ怪』だ。これらは薬売りと妖怪との戦いを描く作品だが、実際には、妖怪を生んだ人の因果と縁を解き明かし、「過去に本当は何があったのか」を暴いていく物語になっている。シリーズを重ねるにつれて、見せ場のはずのバトルシーンが短くなっていく(最終話の「化猫」に至っては一瞬しかない)ことから考えても、作者の興味は、妖怪を生んだ悲劇の謎解きと、悲劇を演じた人々にあることは明らかだ。
注目すべきは、本作は「写実性による現実感の獲得」-今敏作品や『あの花』のような-とは対極にある方法論でつくられている、という点だ。背景は書き割りそのもの(ただし描き込みが多くゴージャス)だし、キャラデザインは平面的でマンガチック。こういう方法論でミステリが語れるというのはひとつの発見かも知れない。

本作はその表現スタイルが話題になることが多いが、思った以上にアニメ表現の可能性を広げたのではなかろうか。

2011年8月22日(月)
『アイドルマスター』を面白くする方法

今期期待の星だったアニメ版『アイドルマスター』だが、控えめに言っても、えー、苦戦している。個人的には、高雄統子が京アニを離れてまで参加しているのにこれか、というのが残念でならない。

つまるところこの作品には、「何を目指していて」「何をやっているのか」が見えない。映像作品として成立させる戦略というものがないのだ。例えば、『輪るピングドラム』。あの作品は奇妙奇天烈ではあるが、「妹を救うために」「ピングドラムを手に入れる」という動機と行動が極めて明確でブレがない。訳のわからない話なのにあんなに面白いのは、ひとえにこれによる。余談ながら、『銀河鉄道の夜』をモチーフにしていることも考えると、「大切なものを救うためなら何をしても許されるのか」を問う物語になるのではないか、と私は思っている。
これに対して『アイドルマスター』は、一応トップアイドルを目指す話のはずだが、「どうなったらトップアイドルなのか?」「そこに至るために何をしなければならないのか?」が一向に示されない。この条件だって、視点を個々のアイドルに置くかプロデューサーサイドに置くかで変わってくるのに、はっきりしないままだ。

ではどうするか。あくまで原作をなぞるか。あるいは日常系の文脈で事務所の毎日をゆるーく描いていくか。はたまたせっかく大人数登場しているのだから1話1人のお当番制で行くというのも一案だが、私は職業ものとしての設計を提案したい。つまりプロフェッショナルとしてのお仕事ものだ。

さて、職業ものとして外してはならないポイントは2つある。1つは、異業種の内幕描写である。と言って、何もアサヒ芸能的イエロージャーナリズムに堕す必要はない。契約とか人事制度とか労働時間とか給与体系とか権利の処理とか訴訟対応とか、いくらでも切り口はあるだろう。普段知られない職種の内情というものは、それだけで知的興味を呼ぶものだ。当然、それなりのリサーチが必要になるが。

もうひとつ、これはサラリーマンものの鉄則なのだが、仕事に落ち度があってはならない、という点である。仕事はできて当たり前、常にベストを尽くす。にもかかわらず不測の事態が起きてトラブルに直面するから、その解決のドラマを観客は応援したくなる。現『アイドルマスター』はこの点が駄目だ。作中で描かれるトラブルが、ただの無能にしか見えないのである。たとえば衣装を取り違えるとか。そんなのはチェックリストでもつくっておけば容易に回避できる問題だろう。それに各キャラのお約束的属性もやめた方がいい。雪歩の男性恐怖症なんてもはや社会人として失格のレベルで、見ていてただイラつく。

それでは『アイマス』でなくなるって?私は作品として成立するほうが重要だと思うが、では仕方ない。代案を提示しよう。
PVに徹してしまうのだ。毎回ダンスシーンは6分として、残り16分は止め絵。女の子たちの日常生活と、ソフトフォーカスな風景描写にポエミーなモノローグをかぶせるだけでオッケー。宇宙企画っぽく。これなら大した作画リソースも不要だ。
だめ?どうしてもストーリーが欲しい?
ならミュージカルにしよう。毎回最後はみんなで歌って踊って感動のフィナーレ!
ただひとつのハードルは、松尾衡を監督に引っ張ってこなくてはならないということだが。

2011年8月10日(水)
€最近注目しているアニメ演出家

最近注目している演出家を3人ほどメモ。

その1 内海紘子
京アニのホープ。注目したきっかけは『けいおん!!』の7話、澪のお茶会のエピソード。私の感覚だと『けいおん!』という作品は、良くも悪くもユルい作品だ。映画にはジャンルを問わず緊張というものが必要だと思っているので、『けいおん!』は1期2期とも、けなすこともないが見所も乏しい作品だと思っていた(一部でヒートアップしていた成長譚であるか否かという論点は心底どうでもいいが)。
しかし内海の手がけたこの7話は、テンポよく切れ味のある出来だった。私見だが高雄統子の跡を継ぐならこの人だと思っている。現在は『日常』で活躍中。

今さらだけど今回調べて初めて気づいたのだが、京アニは絵コンテ・演出を同じ人が手がけるのを社の方針としているらしい。別の演出家が手がけるのは、絵コンテを監督クラスの人が描く場合だけ。次々に若手演出家が育つのは、これが一因なのかも。


その2 川面真也
注目したきっかけは、『デュラララ !!』12話。これは以前記事にした。→「セルティの感情表現の豊穣さ
監督補を務めるのも納得の、演出技法の引き出しの多さ。
フィルモグラフィーからして、出身はビィートレインらしい。つまり真下耕一の門下。ちょっと考えただけでは、作風にはあまり共通点がない気がする。
『吟遊黙示録マイネリーベ』では監督補佐だが、実質的に監督を務めていたとか。
ピーエーワークスには川面恒介というアニメーターがいるが、ご兄弟?『true tears』9話に呼ばれているのはその縁かも、などと想像すると楽しい。他にも、『紅』に参加→ブレインズ・ベース人脈→『デュラララ!!』の抜擢、『とある~』シリーズに参加→J.C.STAFF人脈→『神様のメモ帳』参加(推測)と、順調にキャリアを積んでいて頼もしい。


その3 村山公輔
シャフト所属。近作では『電波女と青春男』のメインアニメーターが目立つが、実は注目したのは『彼女×彼女×彼女』の監督。実用度(笑)の高いエロアニメなんだけど、ちゃんと作品として面白い。特に3話では、売り物のはずのエロシーンを大胆に省略してしまったりしていて、物語への指向が感じられる(もちろん単なる尺の都合という可能性はあるけど・・・・・・あ、この場合なんか「尺」に余計な意味が)。キャリアを見る限りでは美少女要員として重宝されている感じだが、演出業にも期待したい。そこで気になるのは、新房昭之からの影響である。ご存じのとおりシャフトからは新房門下の演出家が多数輩出しているわけだが、この人もその一人になるのではないか。特に、新房監督は面白いエロを作れる作家だという点(一応定説ということで)、何らかの影響を受けているのではないかなどと妄想が膨らむ。


番外 大森貴弘
この人はもうベテランの域だから注目もへったくれもないが、多作で、作風が多彩で、かつ『地獄少女』『夏目友人帳』を長期シリーズに育てた功労者として、もっと評価されていい。大畑清隆を使いこなせるのも強みか。

2011年8月2日(火)
40畳のリビング

スカパー!HDを導入したので、スカパー!HD録画対応のBDレコーダ、シャープAQUOSブルーレイ BD-HDW70を買った。HDDレコーダを導入して約10年になるが、80ギガ→250→500と来てついに1テラの大台に到達。HD放送の録画を始めた頃から一貫してシャープ機なので、あまり迷わずに。今さら他社機に乗り換えると、機能やらリモコンやら覚えるのが面倒なので。んで、買ってから価格.comの掲示板を見てたらこんなスレッドが立っていた。

http://bbs.kakaku.com/bbs/K0000115887/Page=5/SortRule=1/ResView=all/#11942746

再生中にバーインジケータを表示する機能がないので、どの辺を再生しているか解らないという苦情。時間表示があるではないかという指摘に対しては、「40畳のリビングに設置して10メートル離れて見ているから数字が見えない。ちなみに視力はレーシックで矯正したので2.0」だと。

40畳のリビングってどんなお大尽だよ!というのがまず突っ込みどころなのだが、ふと考えた。40畳のリビングで視聴距離10メートルというのは物理的にあり得るか?

えー、畳1畳を1.8×1メートルと考えると、72平方メートル。7.2×10メートルだからあり得なくはない。

ではこの視聴距離で、画面はどのように見えるか?
スレ主が使用しているモニターのアクオス・クアトロンは、シャープのホームページによると最大モデルで65インチ。横幅は1572ミリメートル。

これを10メートル離れて見たとすると、タンジェントの逆関数で計算して、視野角は約9度ということになる。これがどのくらいかというと、伸ばした手の先に持った15センチメートルの定規くらい。あるいは、14インチ、4:3のテレビを1.8メートル離れて見るくらいである。

・・・・・・一体何のための大画面?
スレ主はシャープの技術陣が不親切だと言って責めているのだが、そりゃせっかくの大画面をこんな無意味な使い方するユーザーがいるとは思わないだろうさ。
ちなみに私は、8畳間に80インチスクリーンを張って約3メートルの距離で見ている。プロジェクタ(ソニーのVPL-VW80)の説明書には、80インチスクリーンに対して投射距離は2448~3723ミリ、と書いてある。250インチでようやく、7748~11724ミリとなる。
まあ他人様のライフスタイルだから勝手だが、とりあえずスレ主には、あと7メートルほど画面に近づくか、300インチのスクリーンを導入することをおすすめする。


ところで、BDレコーダを新調したら、地デジ放送も映るようになった。
いや説明しますと、私は借家住まいなのだが、TVアンテナは前の住人が自分でベランダに装着したもので、そのせいか写りが悪かったのだ。確実に入るのはフジだけで、TBSはまず無理。おかげで『けいおん!!』『まどマギ』は見損ねた。一度業者を呼んで正規のアンテナ工事の見積もりを取ってもらったら、屋根の上に改めてアンテナを立てなければならないので5万円かかると言われて、諦めた。BSとスカパー!は、別にパラボラを付けているので地上波はいいや、と思っていたのだ。

それが、BDレコーダを代えたら映るとは、ケガの功名。チューナーの性能だか相性だかに左右されるのか?そんなことあるかなあ。

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