更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2010年2月26日(金)
真珠湾第2撃論

最近の読書から。

H.P.Willmottの‘PEARL HARBOR’という本を読んでいる。著者は海軍史の専門家で多数の著書がある(残念ながら邦訳はない)。
本書は、標題のとおり真珠湾攻撃について詳細に論じた本である。
真珠湾攻撃には、「第2撃論」という議論がつきまとう。南雲機動部隊は、真珠湾の米国太平洋艦隊に1撃与えただけで撤退してしまった。ここで反復攻撃を加え、真珠湾の燃料、弾薬、海軍工廠といった基地設備を徹底的に破壊しておけば、米軍の反攻はずっと遅れ、戦争そのものの帰趨を変えたかも知れないのに・・・・・・という主張が「第2撃論」である。従来この議論は、本来水雷戦が専門である南雲中将の航空指揮官としての資質、機動部隊の任務の把握、聯合艦隊司令長官山本五十六の意図、艦隊決戦主義を奉ずる日本海軍の戦略的思考、という文脈で語られ、失策として批判されることが多かった。

本書の最大の特徴は、この問題を「そもそも第2撃は物理的に可能だったのか?」という疑問に遡って定量的に検討している点である。
以下の記述は本書の内容に基づくが、私の英語力なので誤訳や誤解もあるかもしれない。その点お含み置き頂きたい。

先に結論を言ってしまうと、「第2撃が可能になるのは、4日後の12月11日(現地時間)」というのが本書の出した答えである。
なぜか。
まず、攻撃隊帰投後、燃料・弾薬の補給と必要な修理を施して、再出撃に要する時間はどれくらいだろうか。
本書はミッドウェイ海戦の記録などを参照して、2〜3時間とする。攻撃隊が帰投したのは1215だから、再出撃態勢が整うのはおよそ1500時。そこから出撃すれば、攻撃に4時間と見て帰投は1900時になってしまう。当時の日没は1712。無線封止している機動部隊に、夜間計器航法だけで帰投し着艦する困難は容易に想像できる。
したがって、当日の再出撃は不可能である。

次に、攻撃に使用できる航空機は何機だったのか?
保有350機のうち、29機を喪失し321機。111機が何らかの損傷を受け、うち修理して使用可能になるのが86機だった。したがって、直ちに使用可能なのは210機。しかし、艦隊の上空哨戒に残置しておく機体も必要だから、攻撃に指向できるのはもっと少なくなる。完全な奇襲だった第1次攻撃隊に比べて、強襲になった第2次攻撃隊は対空砲火による損失が多かった。次の攻撃ではさらに被害が増える可能性が高く、護衛戦闘機も十分につけてやらねばならない。要修理機は概ね1夜で作戦可能になると見込まれた。

では翌日には全力で攻撃ができたか、と言うと、そうもいかないのだ。
ここで、随伴駆逐艦の燃料の問題が出てくる。日本海軍は、日本近海で侵攻してくる敵艦隊を迎え撃つことを構想していたので、艦の航続距離が比較的短い。大型艦はともかく、小型の駆逐艦には真珠湾攻撃のような遠距離作戦では、燃料が大きな問題となる。現に機動部隊の各艦は、安全基準を超えて予備燃料を積み込み、航続距離を延長していた。そして記録によると、駆逐艦は、これら予備燃料を搭載していない。
翌8日早朝、攻撃隊を発進させたとする。しかし昼の帰投まで戦闘海域にとどまると、航続距離の短い駆逐艦は、タンカーとの会合点まで航行できないのだ。

つまり第2撃を行うには、タンカーとの会合点まで引き返し、駆逐艦に給油しつつ航空機の修理を行い、再度攻撃地点まで進出しなければならない。それには4日程度を要する−というのが、本書の出した結論である。

戦闘海域に長くとどまるほど、ハワイからの索敵で発見される可能性が増すこと、依然として米空母の所在が不明で、奇襲を受ける可能性を否定できなかったこと、機動部隊はハワイ作戦を南方進攻の支援と位置づけていたこと、そして何よりも機動部隊に出された命令は「米艦隊の撃滅」−「艦隊等の」ではなく−だったことを考えると、撤退は正しい判断だったのではあるまいか。

2010年2月25日(木)
雑兵たちの戦場

最近の読書から。

藤木久志『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日新聞出版、2005年)を読んだ。

戦国時代、雑兵にとっての戦場とは、略奪を行う場所、奴隷を捕まえる場所であり、生活手段の一つだったということを数々の記録から明らかにした研究書。
例えば上杉謙信は、何度も関東平野に侵攻しているが、その時期は秋から冬にかけてが多い。これは農閑期における農民の食い扶持を確保するためで、要するに当時の戦争とは公共事業のようなものだったのである。
もっとも興味深い指摘は、エピローグの鎖国政策に関するもの。鎖国政策は従来、徳川幕府の閉鎖性・後進性の表れとして批判されがちだった。
本書は、マニラ総督の報告などによると、当時の日本は、武器や食料以上に奴隷と傭兵の一大供給源と認識されていたと指摘する。オランダ・イギリスの商館が本国に報告した鎖国令の内容は、@人身売買の禁止、A武器輸出の禁止、B海賊の禁止だった。鎖国とは、まずもって奴隷・傭兵・武器の輸出を禁ずるものだったのである。
オランダのインド総督クーンは、「日本人傭兵の禁輸は、我等にとって不便をきたす」と本国へそれに代わる兵力の派遣を求めるとともに、日本の商館に以下のような指示を出した(本書279頁)。
@ 日本人傭兵なしでは東南アジアの戦争を戦えぬ。将軍から再び日本人連れ出しの特権を得るよう手を尽くせ。
A 軍需品を十分に供給できないと、戦況に深刻な影響を受ける。これ以上貿易を制約されないよう、誓願せよ。
B 海上のどの地点まで日本の権利と裁判権が及ぶのか明確にせよ。日本周辺でポルトガル・イスパニアの商船を捕獲することは我等の立場を危険に陥れるので、十分注意せよ。

当時の東アジアは、ポルトガル・スペインと新興の帝国主義国家オランダ・イギリスの対立が激化していた。鎖国政策は、日本がそうした国際紛争に巻き込まれることを防いだ(現にオランダ・イギリスはマニラ・ゴアの攻撃に日本軍の派遣を要求していた)。そしておそらく、ポルトガル・スペインとオランダ・イギリスの対立のエスカレーションに歯止めをかけるものでもあったのである。

2010年2月24日(水)
近現代史を学ぶ心構え

大学の政治外交史の講義で教わった心構え。
歴史に限らず応用の利く思考法だと思う。


近現代史を学ぶ心構え

1 学問研究を特定の政治目的に用いることは控える。
2 人間は天使でも悪魔でもない。聖人賢者もいれば悪党愚者もいる。
3 いかなる者も過ちを犯す。無謬の個人や集団などあり得ない。
4 ある局面においては被害者が、別の局面では加害者であることもある。
5 個人倫理と国家や国際社会の論理を混同してはならない。
6 現代の価値観で過去を断罪してはならない。
7 1つの集団(民族・国家・宗教・政党など)の価値観で他の集団の価値観を評価してはならない。
8 自分が責任をとることができない問題について安易に謝罪や弁護をしてはならない。
9 両極端の説があった場合、足して2で割ったものが真実とは限らない。
10 極端な事例を一般化してはならない。
11 価値相対主義に陥ってはならない。
12 それでも正しく教訓を学ぶ姿勢は大切である。


もう一つ、陰謀論に騙されないための注意

陰謀理論(conspiracy theory)に陥らないために

1 陰謀理論とは
(1) 疑似科学と社会科学の混交
(2) 苦痛・懐疑→願望・責任回避→思考停止

2 陰謀理論の特徴
(1) 科学的・体系的・実証的に見える(優生学・歴史理論・文書資料)
(2) 敵を特定している(ユダヤ人・ブルジョワ・軍国主義・共産主義)
(3) 特効薬的な解決策を提示している(ユダヤ人撲滅・暴力革命)

3 陰謀理論の事例
ユダヤの世界支配計画・フリーメイソンの世界支配、アングロ・サクソンの世界支配、日本のアジア・世界支配、日中戦争の中国共産党挑発説、真珠湾の罠理論、マルクス主義(?)、文明の衝突(?)

4 陰謀理論にだまされないために
(1) 単純明快なものは疑うこと
(2) 統計資料に幻惑されないこと
(3) 基礎知識の獲得と強靱な思考力の涵養に努めること


ただまあ、自然科学の場合「より単純に説明できる理論の方が真実に近い」という大原則がある。歴史を含めた社会科学にはこれが当てはまらないこともあるわけで、「そもそも社会科学は本当に科学なのか?」というおなじみの疑問に立ち返ることになるだろう。

2010年2月22日(月)
「涼宮ハルヒの消失」

観てきたので、実に久しぶりにハルヒネタ。

「消失」に至る過程としての2期シリーズの構成、または「エンドレスエイト」の果たした役割について。

2010年2月17日(水)
「RED GARDEN」を観直す

松尾衡監督の2006年作品「RED GARDEN」を観直したところ、こんなに描写の細やかな作品だったのか、と改めて感心した。

例えば5話で、主人公の1人レイチェルの母親がアルコール依存症らしいことが示されるシーン。



朝食をとりにキッチンに入ったレイチェルが、ゴミ箱に捨てられた酒瓶を見つける。
母親は、リビングで編み物をしている。家族全員の手袋を編むのだと言うが、手の震えのせいでまともに形になっていない。レイチェルはそれ以上何も言えず、学校に行く。
1人になった母親が、編み物の手を止めてキッチンに入ると、



その酒瓶に、花が挿してある。
おそらく、レイチェルは母親の病気を疎ましく思っている。しかしこのときの彼女は、体の変調に1晩苦しんだ後だ。作中ではレモンをかじると症状が緩和するという設定になっているが、薬物の禁断症状のような描き方である。
だから、この朝のレイチェルは母の苦しみを理解できる。そのあらわれがこの花である。

そして次の6話では、



母親はその花をテーブルに飾っている。彼女はそれを見るたび、娘の気持ちを思うだろう。
この機微は、セリフでは一切説明されない。


8話で、主人公ケイトが校内を歩くシーン。ケイトは、「グレイス」と呼ばれる風紀委員の一員である。
ケイトが通りかかると、

 

女生徒が、マニキュアを塗った指先をさりげなく隠す。見つかると反則切符を切られるからだ。


「紅」と続けて観ていたら、映像作家・松尾衡の好むモチーフが一つ見えた気がする。
それは、「人形のように生きることへの忌避」である。

「紅」の主人公・紫の母である蒼樹は「人形を抱いて」死んだ。そして紫は、女性からあらゆる人間性を剥奪する「奥ノ院」の因習と戦うことを選ぶ。('10.4.29追記 父・蓮丈の差配で「紫だけ」が「奥の院」から脱出する原作と比べると、違いが際だつ)

この「RED GARDEN」では、ケイトら「アニムス」の主である少女たちの描写がそうだ。





彼女たちは学校の地下で、動くこともままならず数百年もただ生き続けてきた。
そしてケイトらに、戦いを終わらせて自分たちを死なせてくれと訴える。

すると、松尾の出世作である「ローゼンメイデン」についても少し違った角度から考えられる。人形でありながら動き、考え、話し、飲み食いをし、喜怒哀楽を持つドールは、作者の忌避する「死んだような生」ともっとも遠くにある。ドールのうちもっとも複雑な内面を持つ水銀燈に思い入れが強いというのも、納得がいく。
ミュージカルへのこだわりもそうだ。歌い、踊ることは生命の祝祭感あふれる営みだから。

「夜桜四重奏」は私は途中で観るのをやめてしまったのだが、作中にこういう好きなモチーフを見出せなかったんじゃないかな、などと考えてみた。

2010年2月7日(日)
エロアニメのオリジナル事情


しばらく前から気になっていたこの問題について、
簡単な調査結果を報告。

日本に4,5人くらいは興味持つ人がいるんじゃないかと。

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