最近の読書から。
H.P.Willmottの‘PEARL HARBOR’という本を読んでいる。著者は海軍史の専門家で多数の著書がある(残念ながら邦訳はない)。
本書は、標題のとおり真珠湾攻撃について詳細に論じた本である。
真珠湾攻撃には、「第2撃論」という議論がつきまとう。南雲機動部隊は、真珠湾の米国太平洋艦隊に1撃与えただけで撤退してしまった。ここで反復攻撃を加え、真珠湾の燃料、弾薬、海軍工廠といった基地設備を徹底的に破壊しておけば、米軍の反攻はずっと遅れ、戦争そのものの帰趨を変えたかも知れないのに・・・・・・という主張が「第2撃論」である。従来この議論は、本来水雷戦が専門である南雲中将の航空指揮官としての資質、機動部隊の任務の把握、聯合艦隊司令長官山本五十六の意図、艦隊決戦主義を奉ずる日本海軍の戦略的思考、という文脈で語られ、失策として批判されることが多かった。
本書の最大の特徴は、この問題を「そもそも第2撃は物理的に可能だったのか?」という疑問に遡って定量的に検討している点である。
以下の記述は本書の内容に基づくが、私の英語力なので誤訳や誤解もあるかもしれない。その点お含み置き頂きたい。
先に結論を言ってしまうと、「第2撃が可能になるのは、4日後の12月11日(現地時間)」というのが本書の出した答えである。
なぜか。
まず、攻撃隊帰投後、燃料・弾薬の補給と必要な修理を施して、再出撃に要する時間はどれくらいだろうか。
本書はミッドウェイ海戦の記録などを参照して、2〜3時間とする。攻撃隊が帰投したのは1215だから、再出撃態勢が整うのはおよそ1500時。そこから出撃すれば、攻撃に4時間と見て帰投は1900時になってしまう。当時の日没は1712。無線封止している機動部隊に、夜間計器航法だけで帰投し着艦する困難は容易に想像できる。
したがって、当日の再出撃は不可能である。
次に、攻撃に使用できる航空機は何機だったのか?
保有350機のうち、29機を喪失し321機。111機が何らかの損傷を受け、うち修理して使用可能になるのが86機だった。したがって、直ちに使用可能なのは210機。しかし、艦隊の上空哨戒に残置しておく機体も必要だから、攻撃に指向できるのはもっと少なくなる。完全な奇襲だった第1次攻撃隊に比べて、強襲になった第2次攻撃隊は対空砲火による損失が多かった。次の攻撃ではさらに被害が増える可能性が高く、護衛戦闘機も十分につけてやらねばならない。要修理機は概ね1夜で作戦可能になると見込まれた。
では翌日には全力で攻撃ができたか、と言うと、そうもいかないのだ。
ここで、随伴駆逐艦の燃料の問題が出てくる。日本海軍は、日本近海で侵攻してくる敵艦隊を迎え撃つことを構想していたので、艦の航続距離が比較的短い。大型艦はともかく、小型の駆逐艦には真珠湾攻撃のような遠距離作戦では、燃料が大きな問題となる。現に機動部隊の各艦は、安全基準を超えて予備燃料を積み込み、航続距離を延長していた。そして記録によると、駆逐艦は、これら予備燃料を搭載していない。
翌8日早朝、攻撃隊を発進させたとする。しかし昼の帰投まで戦闘海域にとどまると、航続距離の短い駆逐艦は、タンカーとの会合点まで航行できないのだ。
つまり第2撃を行うには、タンカーとの会合点まで引き返し、駆逐艦に給油しつつ航空機の修理を行い、再度攻撃地点まで進出しなければならない。それには4日程度を要する−というのが、本書の出した結論である。
戦闘海域に長くとどまるほど、ハワイからの索敵で発見される可能性が増すこと、依然として米空母の所在が不明で、奇襲を受ける可能性を否定できなかったこと、機動部隊はハワイ作戦を南方進攻の支援と位置づけていたこと、そして何よりも機動部隊に出された命令は「米艦隊の撃滅」−「艦隊等の」ではなく−だったことを考えると、撤退は正しい判断だったのではあるまいか。
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