更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2007年7月29日(日)
「Genius Party」

3連休で上京したときに観てきた。

STUDIO 4℃らしく凝った作品だが、特に印象に残ったのが下の3作。

福山庸治の「DOORBELL」
キャラの立体感の出し方がとても独特。上唇の下側に影をつけてみたり、アップのとき眼球の丸みを表現してみたり。作画監督・田中孝弘の持ち味なのか、福山監督のこだわりによるものかは分からないが、後者だとすると、マンガ家が3次元空間をどう捉えているのか窺えるような気がして興味深い。

湯浅政明「Happy Machine」
湯浅作品の激しいメタモルフォーゼと、そこにつきまとう死の匂いには再三言及してきたが、本作ではついにそれを突き抜けて、「生命の継承」というレベルに達した。フィルモグラフィーの中でも、重要な転機に位置づけられる作品だと思う。ラストシーンで不覚にも涙が。

渡辺信一郎「BABY BLUE」
前評判通り、新海誠みたいな映画。なのだが、あっちが臆面もなく私小説をやってしまうのに対し、こっちは警官とチェイスしたり暴走族に絡まれたり花火だったりと、あくまでエンタテイメントしてしまう。・・・せずにおくものか?いや、せずにはいられないと言うのが正しいだろう。それぞれに長所もあり欠点もあり。
ただ、その方法論が、精緻な美術であったりカッチリとしたレイアウトであったり、アニメ声でない役者の起用であったりと、よく似ているのが面白いところ。気恥ずかしいような青春ものをアニメで撮ろうとしたら、こうした方法論にならざるを得ないということなのかな。確かに、小池健のキャラと動きでこれはできないな。

2007年7月24日(火)
断絶のイメージ

久々の大ネタで、『「秒速5センチメートル」における断絶のイメージ』をアップ。

念のために言っておくが、こういう視点で見るとこう見える、ということであって、実際の監督の意図とは無関係なので、お間違えないように。

「時かけ」でも、似たようなことを構想中なので、乞うご期待。

2007年7月22日(日)
リアルモモカン

以前、「おおきく振りかぶって」の舞台である西浦高校にはモデルがあるという話を書いたが、今度はこんな記事が。

『23歳女性監督敗れる 高校野球神奈川大会
 “最激戦区”で知られる夏の高校野球神奈川県大会で、初の女性監督率いる県立吉田島農林高校(同県開成町)が18日、2回戦で敗退した。悔し涙を流す選手たちに伊沢里江監督(23)は「よく頑張った。胸を張って」と声を掛けていた。
 小学2年から6年までは地元の少年野球チームで、中学の3年間は野球部で、男子に交じってプレーした伊沢監督。高校では女子が公式戦に出場できない硬式野球部をあきらめ、ソフトボール部に入ったが、高校野球への思いは捨てきれなかったという。
 弟が同高野球部に入った2005年夏、前任の監督に頼まれ大学3年生でコーチを引き受けた。155センチと小柄ながら、野球に懸ける情熱と豊富な経験に裏打ちされた指導に「伊沢さんならついて行く」と選手たちから声が上がり、今年4月、監督に就任。昼間は生協の配送をしながら猛練習に明け暮れてきた。
 初采配(さいはい)を振るった12日の1回戦を勝利で飾り、選手たちからウイニングボールをプレゼントされた。
 「選手たちと一緒に夢を追いかける。最高です」。この日は惜敗したが、伊沢監督は日焼けした顔をほころばせた。

[ 共同通信社 2007年7月18日 22:25 ] 』

本当にこういう人いるんだ・・・と言うより、時期的に見てリアルワールドへのフィードバック、と見た方がよいかも。

追記:2ちゃんねるでは既にお祭り状態。写真まで、どこから見つけてくるのやら。

2007年7月22日(日)
氷川先生のアニメ講座第3期第2回

連休中全力で遊んだのがたたって、2日ほどダウンしておりました。

快気祝いに、先日のアニメ講座の概要をアップ。
ただ今回は、VTRを観ながらのトークが主であったのと、質疑応答が大変活発であったこともあって到底メモが追いつかず、濃すぎる内容をフォローし切れませんでした。

2007年7月17日(火)
守備効率

久々に、野球の話題。
守備力を計るのに、失策数ではなく守備効率を用いるという考え方が近年提案されている。
守備効率とは、インプレーの打球をどれだけアウトにしたか、という数値で、大きいほど守備がうまい、ということになる。これが、刺殺数・補殺数・インプレーの打球数が分からないと計算できない。
何とか、計算を簡略にできないか、しばらく前から考えていたのだが、思いついたので試しに計算してみた


連休中に氷川先生のアニメ講座をまた聴講してきたのだが、その話はまた今度。
珍しい映像やらヤバげな話題やら、いつになく楽しい講義でありましたよ。

2007年7月12日(木)
「まなびストレート!」

スカパー!で再放送してたので、ひととおり観てみた。

いかに技巧を凝らそうと、内容の空疎さは覆えせないというか、戦略の失敗を戦術でカバーすることはできないというか。

第1。学校は楽しい場所だ。そうであるべきだ、という確信は、いったいどこから来るのだろう。
私が現役のときだって、嫌々通ってたけどな。社会が変われば、学校に求められる役割だって変わる。今の6・3・3制にしてからが、そろそろ妥当性が問われても不思議はない。
ついでに言えば、「学校の楽しさ」を謳う舞台が学園祭、というのに違和感がある。私も高3の夏を学園祭準備に費やしたクチだからその楽しさはよく分かるが、それを「学生の本分」と言ってしまったら、勘違いというものだろう。

第2。ユーフォーテーブルのスタンスについて、こちらのブログを偶然読んで大変参考になった。http://d.hatena.ne.jp/t-j/
学園祭前の高揚感、といえばすぐ連想する作品がある。「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」だ。
「ユーフォーテーブル的正しさ」にもとづいて萌えアニメを問い直した作品が、「メカと美少女アニメの元祖」と同じ題材を扱ったというのは、偶然にしてもできすぎである。(注)
そして問い直した結果、祭りは終わってしまった。「メカと美少女にかわる資源は見つからないまま(STUDIO VOICE 2004年7月号より)」。
これから一体、どうするんだろう。

注:「ビューティフル・ドリーマー」が原作ファンには不評だった、というのは知っているが、この際気にしないでください。

2007年7月9日(月)
アニメ夜話「時かけ」

録画しておいたのを、やっと観られた。

岡田斗司夫氏がゲストにまわって以来、ついてこれないゲストはほったらかし、という作風が定着して大変好ましい。(「ほしのこえ」の回なんかひどいものだった)

岡田氏から「待ち続ける和子と追いかける真琴の対比」の話、渡邊プロデューサーから「最後のタイムリープの特殊性(バク転がない・向き直る動作がある)」の話が出て、我が意を得たり

ただ、岡田氏がセカイ系の文脈でこの作品を捉えているのはどうなんだろう。私は、再三書いているとおり、セカイ系というのは実態のない言葉だと思っているが、「身の回りのミニマルな事象が世界の命運に直結している作品群」という定義に従えば、徹底してミニマルな事象「だけ」を描いているこの作品は、むしろセカイ系の対極に位置するんじゃないかと思うのだが。

原作者をゲストに呼んだのも、ちと疑問。実を言うと私は、筒井康隆が、本人も作品もあまり好きではない。それでも、登場した瞬間に場の空気をさらってしまう存在感は圧倒的。筒井の口から東浩紀の名前が出てきたのにはたまげた。アニメ版がタイムパラドックスの問題を無視している点だけは、お気に召さないらしい。「昔は、そういう点にうるさかった」とのことだが、そうした「こんなのもあり」を許さない態度こそ、SFが衰退していった原因じゃないのかね。


・過去の日記から、再読に耐えそうなものは、目次のページからジャンプできるようにしました。本当はサイト内検索もつけたいんだけど、カウンタがうまく表示されなくなったので挫折。

2007年7月8日(日)
「プレステージ」

最近、映画を観ていてちょっと退屈すると寝てしまうことがよくある。2時間を超える作品を、長いと感じる。面白いと思える作品が滅多にない。
映画というものに飽いてしまったのだろうか。これだけの情熱と時間を費やしてきたというのに。もし映画に興味を持てなくなったら、これからの人生をどう生きていけばいいんだろう。
大げさでなく、そんなことを時々思う。

それだけに、ごくたまに優れた作品に巡り会うと、ああ良かった、と幸せをかみしめることができる。
この「プレステージ」が、久々にそんな作品だった。
舞台は19世紀末のロンドン。2人のマジシャンが、瞬間移動トリックを巡って壮絶な対決を繰り広げる。彼らは、憎悪、嫉妬、功名心に駆られ、それぞれに半身を失い滅んでいく。手品映画と見せかけて、実はトンデモ科学映画というのがポイントで、この点になじめない人もいると思うが、私は全然オッケー。
客を驚かせるため、舞台の上にのみ実在する幻影に命を賭ける男たち。それは、映画そのものの姿でもある。誕生したばかりの映画は、見せ物小屋で上演される奇術の一つだった。客は、スクリーンの上で蠢く幻影に驚嘆した。いわばこの映画の作り手は、芸のためなら女房も泣かす、愛人は利用する、盗みも働くし友を裏切り人も殺す、という覚悟のほどを見せてくれた。当然のように、その果てに破滅が待っていたとしても。

監督はクリストファー・ノーラン。時間軸を複雑に前後させる構成は、下手くそがやると単にわけ分からなくなるのだが、堂に入った演出で最後までハイテンションで駆け抜ける。
アイデア勝負の一発芸だった「メメント」、至極真っ当なだけのサスペンスだった「インソムニア」、小遣い稼ぎの「バットマン・ビギンズ」を経て、ノーランはついに代表作を手にした。
撮影が素晴らしい。薄っぺらいデジタル着色を排して「フィルムの質感」に徹底してこだわり、なまめかしい光と闇を見せてくれる。撮影はウォーリー・フィスター。
役者では、ノンクレジットで驚きの出演ニコラ・テスラを演じるデビッド・ボウイがさすがの貫禄。ちなみに、テスラは実在の科学者だが、「銃夢」のSF小道具として登場する「スカラー電磁場」の提唱者である。
主人公の一人、「偉大なダントン」を演じるヒュー・ジャックマンは、「Xメン」のウルヴァリン役で有名だが、よく見るとジェレミー・アイアンズに似ている。そういえば、「偉大なダントン」の役に必要とされる、高貴さと同居するいかがわしさと狂気、といえばジェレミー・アイアンズの得意とする役柄である。

2007年7月2日(月)
300

ふと気がついたら、G.W以来映画館に行っていなかった。最後に観たのが「赤い文化住宅の初子」。これはやばいと思って、「300」を観てきた。1日なら1000円均一だし。

歴史的事実を無視しているとか考証が無茶苦茶といった野暮は言うまい。
この映画の主張はただ一つ、「自由と民主主義を守るため、神秘主義と圧政を奉ずる異教徒の異民族を滅ぼせ」である。私には、今のご時世にこんな映画をつくってしまうことは、悪趣味なジョークにしか思えない。フランク・ミラーの原作がどうなのかは知らない。だが、今の時代にこの映画を成立させるには、そんな政治性を込めるしかなかったということだ。何しろ、ペルシア軍は時代背景もへったくれもなく侵略してくるし、その描写はまるっきりフリークスだ。(ちなみにこの描写は、「パール・ハーバー」('01)の日本軍の描き方そっくりである。アメリカ人にとっての侵略というのは、こういうものなのだろう)
私がこの映画を観て連想したのは、ポール・バーホーベン監督の「スターシップ・トゥルーパーズ」('97)である。意思疎通の全く不可能な昆虫型宇宙人との戦争をエログロ満載で描いた映画だが、天才バーホーベンはこの映画を、軍事国家の戦意高揚プロバガンダ映画のパロディとしてつくった。その悪夢は、10年を経て現実のものになったのである。

その他、雑感いろいろ。
・ウィキペディアでにわか勉強したのだが、テルモピュライの戦いの意義は、間道を迂回したペルシア軍に側背を衝かれて包囲殲滅の危機にあったときに、主力が脱出する時間を稼ぐ後衛戦闘にあったらしい。(分からない方は「皇国の守護者」を読んでください)
映画の中でも、この場面が戦いの転機になっているが、間道の存在を知りながら手当をしないレオニダス王は、はっきりと無能である。
・300人の精鋭を引き連れていくのはいいが、糧食はどうする気だったんだろう。私の業界には、「アマは戦術を語り、プロは後方を語る」という言葉がある。後方とは、調達、補給、輸送などの要するに裏方だ。真に軍事力を支えるのは、個々の兵士の能力などではない。
・議会でペルシアに内通する裏切り者を刺殺したら、その懐からこぼれるペルシアの金貨。議会に来るのに、そんなもん持ち歩かないだろう。あまりにご都合主義的な段取り芝居に、ギャグかと思った。

評判のデジタル映像も新味は乏しい。スローモーションにしたって、我々は時間軸の操作をアニメで見慣れてるんだし。戦闘シーンは「ロード・オブ・ザ・リング」、矢の雨が降るシーンは「HERO」('02)のモロパク。ついでだが、監督のザック・スナイダーは前作の「ドーン・オブ・ザ・デッド」('04)で走るゾンビを登場させて話題になったが、私はこれは「バンパイアハンターD」('01)からのパクリだとにらんでいる。(すみません。1983年のイタリア製ゾンビ映画『ナイトメア・シティ』にすでに走るゾンビの前例があるそうです。つーか、『バタリアン』('85)にもあるんだってね)


そんなこんなが気になって、どうにも楽しめなかった。所詮、理数系かつ文化系で体育会を不倶戴天の敵と定める私には、縁のない映画だったようである。

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